2005年8月1日月曜日

いつも喜んでいなさい

テサロニケの信徒への手紙一5・16~22

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスに置いて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

今日わたしたちは、Hさんの前夜式を執り行うために、ここに集まっております。

ご本人とおくさまの御意向で、ここには、ごく親しいご友人がたと、松戸小金原教会の者たちだけがおります。それでも、このように盛大な葬送の儀となりました。ご参列くださいました皆さまに、心より感謝申し上げます。

林さんの在りし日をしのびつつ、静かなひとときを過ごしたいと思います。

先ほどお読みしましたテサロニケの信徒への手紙一5・16~22は、今から約二千年前に活躍した、いにしえのキリスト教伝道者、使徒パウロが書き残した言葉です。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。

このみことばは、たいへん有名です。教会生活が長い方ならば、どなたでもよく知っていますし、わたしの愛唱聖句であると決めておられ、記憶しておられる方も多いものです。

しかしまた、このみことばは、たしかにそういうものではありますけれども、つまり、とても有名で、また多くの人々によく知られており、記憶されている、そういう御言葉ではありますけれども、そのことと同時に、次のような面を持っている御言葉でもあります。

それはどういう面かといいますと、このみことばは、わたしたちにとっては、厳しいと感じられ、またつらいと感じられるものでもある、という面です。

その理由は、はっきりしていると思います。

わたしたちは、「いつも喜んで」などいないからです。

「絶えず祈って」などいないからです。

「どんなことにも感謝」などしていないからです。

そのため、このみことばは、そのようなわたしたちの欠点や短所をズバリと指摘する、そのような、厳しくて、つらい言葉でもある、ということです。

わたしたちの現実は、まさに正反対ではないでしょうか。

「いつも怒っている」

「しょっちゅう祈りを忘れる」

「年がら年中、不平不満をつぶやいている」

この事情は、クリスチャンである者たちであっても、それほど変わりはしません。大差はないと思います。

それでも、です。クリスチャンである者たち、すなわち、キリスト教信仰というものを受け入れて生きている者たちは、この件に関して少しくらいはマシなところもあるかな、と思えるところもある、と言いうる点を、ひとつだけ申し上げさせていただきます。

それはどの点かといいますと、クリスチャンは、まさにこの「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という聖書の御言葉といつも向き合いながら生きている、という点です。この御言葉を思い出すたびに、「あ、いけない」と反省し、喜ぶ努力をはじめようとするのが、クリスチャンです。

実際、わたしたちは、聖書のみことばに接するたびに、自分の顔やかたちが、今、どのようなものであるか、ということに、ハッと気づかされます。

気づいたほうがよいと思います。なぜなら、だれだって、友達がほしいでしょう。また夫や妻、親や子供や兄弟がいる人は、できるものなら、そういう人々と仲良くしていたいと思うでしょう。だれだって、ひとりで居ることは、さびしいものです。

そういうときに、です。あの人はいつも怒っているし、喜びも感謝もない。神に対しても人に対しても、不平や不満をつぶやいている。そういう人には近づきたくないと、だれでも感じるはずです。自分自身のこととして考えてみれば、分かっていただけるはずです。

ですから、やはり、わたしたちが、自分の顔やかたちが、今どのようなものであるかに気づくことは非常に大切なことです。そのときクリスチャンである者は、聖書のみことばに接するたびに、自分の姿に気づかされるのです。

今日は、Hさんの在りし日をしのぶために、わたしたちは、集まっています。

わたしと林さんとのお付き合いは、決して長いとはいえない、全くそうではない、ごく短いものでした。しかし、林さんがどう思われたかは分かりませんが、わたしは、本当に素晴らしい、深いお付き合いをさせていただいたと感じております。感謝しております。

今年の6月19日(日)には、入院されていた国立がんセンター東病院の一室で、Hさんの洗礼式を執行することができました。もちろん、Hさんご本人の願い出によります。幼い頃には教会に通っていたのだ、と言われました。しかし、戦争のどさくさの中で、洗礼を受けるきっかけを失ってしまった。だから今、洗礼を受けたいのだ、と。

Hさんが洗礼を受けたいという願いを持っておられる、というお話を、わたしは最初、この教会の中では最も親しい関係にある長谷川和子さんを通して、伺いました。

そこでわたしは、林さんの気持ちを確かめるために、Hさんの病室に参りましたところ、最初じっと黙っておられ、それから少し頭を下げ、ひょいっと、頭を前に出されました。そして「お願いします」と言われました。両眼を失明されている林さんは、そのときすぐに洗礼式が始まると思われたようです。

「いや、そうではなくて・・・」と、そこから少し説明をさせていただきました。洗礼を受けるには、少しの準備が必要である。本来ならば、きちんと教会に通っていただいて勉強会を開くことになっております、と申し上げました。「それは、そうですね」とすぐに理解し、納得してくださいました。しかし、林さんの場合には、特別に、ごく短い期間で準備させていただきました。

そして、先ほど申し上げましたように、6月19日(日)に洗礼式を行いました。Hさんがクリスチャンになられました。わたしもうれしかったです。感謝しました。感動しました。

Hさんはとても明るい方でした。洗礼を受けられる前のHさんのことを存じ上げませんので、比較して申し上げるわけではありません。しかし、洗礼を受けられ、クリスチャンになられたことを、林さんは、とても喜んでくださっていたと、信じております。

病院では、いろんなお話をさせていただきました。話題が豊富でした。プロ野球の話、お好きだった旅行や山登りの話、政治や経済の話など、いろいろでした。

またHさんは、とても優しい方でした。いつも、いろいろと配慮してくださるのです。先週の土曜日、いちばん最後にお話しくださったことは、「この部屋の温度は何度ですか」ということと、「牧師さんは夏休みにどこに行かれますか」ということでした。

緩和ケア病棟におられましたので、痛みはないのです。痛みがないということが、これほどまでに人の心を落ち着かせ、平安にするのかと思わされました。わたしも、もし自分が同じ病気にかかったら、この緩和ケアというのをしてもらいたいと、本当に思いました。

ベッドの上ですが、起き上がって、自由に何でも食べることができますし、話すことができます。トイレに行ったり、顔を洗ったりすることも、直前まで御自分でしておられました。

しかし恐ろしい面もある、と言わなくてはなりません。それは、ただひとつ、終わりが突然訪れる、ということです。この点は、緩和ケアというものの運命であると思います。

先週の木曜日、ということは、まだたったの四日前です。とてもお元気だったそうです。ところが、その翌日から突然、がくっと力が抜けた感じになられました。

土曜日の午後、病室に伺いました。わたしたちの質問に「イエス」ならば首を縦にふられ、「ノー」ならば右手を横にふられました。帰り際に「そろそろ帰ります」と言いましたら、手を伸ばして握手を求められましたので、させていただきましたところ、まだ力がありました。最後の力だったようです。

Hさんの笑顔が、忘れられません。わたしたちは今、Hさんの生涯が祝福に満ちたものであったことを喜び、感謝しつつ祈るべきです。そう言うと、Hさんには「いや、わたしも、いろいろと苦労しましたよ」と言われると思いますが。

もちろん、そうなのです。

祝福に満ちた人生には、苦労があるのです!

すべてを忍び、すべてを受け入れ、すべてを感謝し、すべてを喜ぶことができる人は、かならずや、いろんな苦労を体験しておられるのです。

一人の立派な人生の先輩を天に見送ることができた幸いを、感謝したいと思います。

(2005年8月1日、葬儀説教、於 松戸小金原教会)