2005年7月24日日曜日

神の国の進展と拡大

ルカによる福音書10・1~16


今日の個所に描かれているのは、わたしたちの救い主イエス・キリストの宣教活動によって地上に打ち立てられていく「神の国」の進展と拡大の様子は、どのようなものであったか、ということです。


「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」


この個所を読みますと、ルカによる福音書の最初から順々に学んでこられました皆さまには、すぐにピンと来るものがあるでしょう。


これまでに、これとよく似たことが書いてあったはずだ、ということです。もちろん、それは、9章のはじめです。


「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた」(9・1〜3)。


たしかに、よく似ています。イエスさまによる弟子の派遣という点で、全く同じことがなされています。


しかし、違っているところもあると感じます。違っている第一点は人数です。前者は十二人、後者は七十二人です。


最初に行われたのは、十二使徒自身が悪霊追放という救いのわざを行うための権能委託と派遣です。


そして今日の個所で行われているのは、十二使徒とは別に、七十二人の弟子たちを特別にお選びになることです。


違っている第二点は、イエスさまが、十二人には「権能をお授け」になりましたが、七十二人については「任命された」ということです。


人数が違っている理由として考えられるのは、最も単純に言うなら、イエス・キリストの弟子仲間全体の人数が増えてきた、ということです。


当時のイエスさまの弟子仲間全体の数が「12+72=84人」しかいなかったわけではありません。もっとたくさんいました。少なく見積もっても、一万人以上はいたと考えられます。


しかしイエスさまは、多くの弟子たちの中から、「12+72=84人」を特別な弟子としてお選びになったわけです。


彼らが特別な弟子として選ばれた目的は、最も大きく分けて二つあります。


第一の目的は、少なくとも当時一万人以上はいたと思われる、イエス・キリストの弟子仲間全体を世話し、配慮することです。言ってみれば、内向きの働きです。それを、わたしたちは、一応、「牧会」という言葉で呼ぶことができるでしょう。


しかし、目的はそれだけではありません。少なくとも第二の目的があります。それはいわば外向きの働きです。


イエスさまの弟子仲間をまとめながら、外に向かって、つまり、いまだイエスさまの弟子仲間に加わっていない人々に向かって福音を宣べ伝えることです。


そのようにして、今よりさらにもっと多くの仲間を、イエスさまの弟子仲間に加えていくための働きです。つまり、それは要するに「伝道」です。


ですから、考えられることは、「牧会」と「伝道」を効果的に行っていくために、イエスさまは、多くの弟子たちの中から、特別な弟子をお選びになった、ということです。


そのような働きに就くべき人の数が増えてきた、ということは、弟子仲間の規模が拡大したので、そのお世話係の数も増やすべきだ、ということも、理由としては十分です。


たとえば、わたしたち日本キリスト改革派教会は、現在、まさに約一万人の教会です。牧師の数は約百三十人。じつは、これだけでは、まだ足りていません。実際に牧師不在の教会が、いくつかあります。牧会のわざに携わる人の数が、もっと増やされる必要があります。


しかし、です。先ほど申し上げましたとおり、イエスさまが特別な弟子をお選びになった目的は、内向きのお世話係が少ない、ということだけではなかった、というべきです。


そこには必ず外向きの理由がなければなりません。さらに多くの人々を、イエスさまの弟子仲間に加えていくために、「伝道者」の数が増やされなければならないのです。


しかし、十二人の場合と七十二人の場合とで違っていることの第二の点、つまり、前者は「権能を授けられた」が、後者は「任命された」ということが、ここにかかわってくると思われます。


七十二人の弟子たちは、先に選ばれた十二人の弟子たちのように「使徒」と呼ばれるものではありませんでした。おそらく彼らは、使徒たちを助け、かつ、いわば使徒に準ずる働きをなす人々であった、と考えられます。


ただし、なぜ「72」という数字なのか、という点については、一つの説明の仕方があります。それを手短にご紹介いたします。


そのヒントは、創世記10章にあります。そこに出てくる、箱舟物語で有名なノアの子孫の数が、ちょうど70人います。これが70の民族の先祖となったのです。


それが、さらに、イエスさまの時代に広く用いられていたギリシア語訳(七十人訳)の旧約聖書では、ノアの子孫が72人であったように書いてあるのです。


つまり、72という数字は、イエスさまの時代のユダヤ人たちにとっては、全世界の民族の数字を意味していた、というわけです。


すなわち、十二使徒はイスラエル十二部族の数に相当し、七十人ないし七十二人は世界の民族の数に相当する、というわけです。


そこからまた、イスラエルの人々にとって、七十という数字が、いろんな場面で役割を果たしはじめます。


とくに、イエスさまの時代に実在したイスラエルの最高法院(サンヘドリン)の議員の数は、七十人に議長(大祭司)を加えた七十一人だった、と言われています。


イスラエルの最高権威者集団であり、最高議決機関としての「最高法院」は、そのようなものとしてまさにイスラエル国家全体を支配していました。


その最高法院こそが、イエスさまを十字架につけるための不当な裁判をも行ったのです。つまり、イエスさまにとっていわば直接「敵」となった人々の数が、七十一人であった、ということです(ただし、イエスさまが彼らを「敵」としたわけではなく、彼らがイエスさまを「敵」としたのですが。)


イエスさまも「神の国」の建設のために、七十二人の弟子をお選びになりました。これが暗示していることは、イエスさまの宣教活動は、文字どおりの「国づくり」を意味していた、ということです。


ただし、それは、イスラエルの国家体制を打ち倒して、別の新しい国家を生み出す、という意味ではありません。もっと暗示的な意味です。


イエス・キリストが地上に打ち立てられる「神の国」は、まさに一つの霊的イスラエルなのです。


「そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。』」


ここでイエスさまが「収穫」という言葉で語っておられる事柄は明らかに、福音の宣教ないし伝道との関連で理解されるべきことです。


つまり、「収穫」の意味は、神の御子イエス・キリストへの信仰を告白し、キリストの体なる教会の一員になる人々を集めることです。


つまり、そのように、イエスさまを信じて、イエスさまの弟子になりたいと願っている人々が、ここでの「収穫」の意味です。


その「収穫」は「多い」とイエスさまは語っておられます。しかし、「働き手が少ない」のだ、と。


おそらく、わたしたちの周りにも、必ずや、そういう人々がいるはずです。


教会にはまだ一度も来たことがない。礼拝に出席したこともない。イエス・キリストへの信仰を告白したこともない。


しかし、そういう人々の中にも、心の中で、教会というところに、じつは関心がある。礼拝にも、じつは行ってみたい。信仰というものを、持てるものなら、持ってみたい、と考えている人々がいる。


そのような人々のことも、「収穫は多い」というこのイエスさまの御言葉の中に、間違いなく、含まれています。


ところが、その人々に実際に接し、可能なかぎり語り合い、教会と礼拝と信仰についてのお勧めをする、そのような役割を果たす人の数が少ない、と言っておられるのです。


しかしまた、実際には、そのような役割を果たす人々について、イエスさまは、「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とも語っておられます。


なるほど、たしかに、実際の伝道には、危険がいっぱいです。


文字どおり「噛み付いてくる」人々が必ずいます。「この世の中で何が嫌いかと言ってキリスト教ほど嫌いなものはない」と言って怒られることがあります。たじたじすることが何度もあります。


また、わたしたちが純粋で熱心であればあるほど、そういうわたしたちの姿を冷ややかに見て、笑う人々がいます。


しかし、そのことを、イエスさま御自身が、よく分かっておられます。イエスさまこそが、わたしたちの最も良き理解者であられる、ということが、わたしたちにとっての慰めです。


別にわたしたちは、何一つ、ここで悪いことをしているわけではないのですから、堂々としておればよいのです。


そして喜びと確信をもって、多くの人々に「教会に来てください。イエスさまを信じてください」とお勧めできるようになりたいものです。


イエスさまが、わたしたちの伝道を助けてくださっています。また、伝道に伴う苦労を理解してくださっています。それでよいではありませんか。


ただし、「わたしはまだ、『収穫のための働き手』と呼ばれるには、ふさわしくない」と感じている方々は、皆さんの中にもおられるはずです。


そのことも、イエスさまは、よく分かっておられます。


だからこそ、特別な弟子をお選びになり、良い意味での「専門家」を、公的かつ正式に「任命」されたのです。


イエスさまは、七十二人の弟子たちに、次のようにお命じになりました。


「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、「この家に平和があるように」と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。」


これも、十二使徒の派遣の際にイエスさまがお語りになった御言葉と、よく似ています。


しかも、今回は、「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」というようなことを、ずいぶんはっきりと、また少しも遠慮なく、語っておられます。


イエスさまが言わんとしておられることは、良い意味での “プロ意識”を持ちなさい、ということでしょう。


そのことを、あなたがたは、少しも恥じるべきではないし、また、だからこそ、あなたがたは、伝道のために全生活をかけなさいと、イエスさまは彼らに命じておられるのです。


(2005年7月24日、松戸小金原教会主日礼拝)