ルカによる福音書9・46~62
今日は四つの段落を続けて読みました。明らかに共通しているテーマがあります。
それは「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってイエスの弟子になるとは、何を意味するのか」というテーマです。
しかし、このテーマは9章の初めから一貫しているものである、と理解することができます。
9章の初めには、十二使徒の派遣という出来事が記されていました。イエスさまが十二人を呼び集められて、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」をお授けになりました。そして、次のように言われました。
「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」(ルカ9・3〜5)
ここで「旅」とは、明らかに「伝道の旅」です。弟子たちは、なぜ、伝道の旅に「何も持って行ってはならない」のでしょうか。
考えられる答えは、イエスの弟子である者は、旅先でとどまることが許された家から、すべてのものを得なさい、ということです。
伝道も一つの仕事です。伝道は彼らの職業です。これが否定されるべきではありません。
しかしまた、だからこそ、イエスさまの弟子たちに託された仕事の責任は重い、ということでもあります。
これは、今日「牧師」と呼ばれている者たちだけに限られる話ではありません。教会の存在全体にかかわることです。
そしてルカは、9章の初めからずっと、「イエスの弟子になるとは、何を意味するか」というテーマについて書いています。
イエスさまは、弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。
イエスさまの弟子である者は、自分を捨てなくてはなりません。しかし、その意味は、自分の主体性や個性を塗りつぶさなくてはならない、ということではありません。
主体性や個性は、むしろ百パーセント確保されるべきです。しかし、その上で言わなければならないことは、わたしの生きる目的は、わたしのためではない、ということです。
イエスさまの弟子たちは、自己目的的に生きるべきではなく、「イエス・キリストのために」生きるべきであり、そしてイエスさまの御心に従って、「隣人を愛するために」生きるべきである、ということです。
山の上でイエスさまが栄光に輝くお姿に変貌されたとき、モーセとエリヤが現れました。ペトロが仮小屋を三つ建てましょうと提案しましたところ、イエスさま以外の二人の姿が見えなくなり、そして雲の中から声が聞こえてきました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。
イエスさまの弟子である者は、イエスさまの御声だけに、忠実に聞き従わなければならない、ということです。
悪霊にとりつかれた男の子の病気を、弟子たちはいやすことができませんでした。そのことを、イエスさまはたいへん不満に思われ、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と、お叱りになりました。
イエスさまの弟子である者は、イエスさまから託された仕事を、忠実に果たさなくてはならない、ということです。
ところが、です。イエスさまの弟子である者は、時に、よからぬことを考えはじめることがありえます。イエスさまの御声に聞き従うのではなく、別の声に従って動きはじめることがありえます。
その結果、イエスさまから託された仕事を、忠実に果たすことができないということが、起こりうるのです。
「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。』」
「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」と、彼らはなぜ、このようなことに関心を持ちはじめたのでしょうか。
弟子たち側の言い分として考えられるのは、現実の教会は、あからさまに言って、人間の・人間による・人間のための人間的な集まりである、ということでしょう。
その中に、立場の違いや秩序や政治がある、ということは、当然のことであり、避けがたい、ということでしょう。
しかし、イエスさまは、彼らの議論をお嫌いになりました。痛烈な皮肉もあると思われます。
一人の子供を立たせて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」、また「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われました。
そんな議論をしているあなたがた大人よりも、この子供のほうが偉い、と言われたのです。
そのことと共に、ここでイエスさまが問題にされていることとしてもう一つ思い当たることは、彼らの視線、あるいは、彼らの関心の向かうところは、どこなのか、という問題です。
教会に限らず、どこでも当てはまるであろうことは、自分自身や他人の順位というようなことばかりが気になる人は、結局、いつも自分のことにしか関心がない人だ、と言われても仕方がない、ということです。
イエスさまの弟子たちが持つべき関心は、自分自身のことであってはならないでしょう。
わたしたちが持つべき関心は、神の救いと具体的な助けを必要としている、わたしたちの隣人でなければなりません。そして、その中でも、とくに、最も小さな人々、最も弱い人々でなければなりません。
「自分を捨てる」とは、自分のことばかり気にするのではなく、目を外に向けることなのです。
「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。『やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。』」
この話の意図も、先ほどの話と、基本的構造において同じである、と言えます。
イエスさまの弟子の一人ヨハネが、イエスさまのお名前を利用して、イエスさまの弟子たちと同じような仕事を行っているが、弟子の仲間に加わらないのを不愉快に思い、その人の仕事をやめさせました。しかし、イエスさまは、そのヨハネを、おとがめになった、という話です。
これは微妙な要素を含んでいる話である、と感じます。しかし、イエスさまの意図は、はっきりしています。ここでも問題は、弟子たちの視線、ないし関心の向かうべきところは、どこであるべきか、ということです。
「微妙な要素を含んでいる」と申しました理由は、そもそも、教会の伝道の目的の中に「イエスさまの弟子仲間を集めること」は、含まれているはずだ、ということです。
たとえば、教会にたくさん人が集まるようになることは、そもそも、教会が地上に存在する目的にかかわることです。
教会の存在理由は、「洗礼を授けること」です。そして、それはただちに、イエスさまの弟子を集めることを意味します。他のどの団体も、ひとに「洗礼を授けること」はできません。他のどの団体も、「ひとをキリスト者にすること」ができないのです。
しかし、です。ここに、さらなる問題が生じます。
わたしたちは、教会に集められました。はい、それでは、その次に、わたしたちは、何をするのでしょうか。わたしたちは、ただ集まるだけでよいのでしょうか。
とにかく集まること、集めること自体が、教会の存在理由でしょうか。そうである、とも言えます。しかし、それだけではない、とも言わなければなりません。
少なくとも、もう一つの目的があります。それは、教会に集められたイエスさまの弟子たち自身の手によって、救いのわざが行われることです。
そして、ここから先は、かなり危険な要素が入り込んでくるように思われるのですが、それでも、イエスさまのご意思に従うならば、次のように語らなければなりません。
「イエスさまの弟子たちを集めること」と「弟子たちの手によって神の救いのみわざが行われること」。その二つのうち、教会の存在理由という観点から見て、どちらがより重要であるか、と問うてみるならば、その答えは、どうやら、後者である、ということです。
たしかに言いうることは、重要なことは、だれがそれをするかではなく、それが現実に行われること、つまり、人が現実に救われることが重要である、ということです。
その場合に、です。
イエスさまの弟子でない人々が、イエスさまの弟子たちがしていることの真似事をしてみたときに、イエスさまの弟子と同じようなこと、あるいは彼ら以上のことができてしまった(?)場合は、それをやめさせる必要はないと、イエスさまは教えておられるのです。
厳しい言い方かもしれませんが、ヨハネのような考えは、悪い意味での“縄張り争い”や“自意識過剰”に通じることです。イエスさまは、そのような考え方をお嫌いになったのです。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」
この段落の意図も、基本的に同じと言えます。多くの説明は不要でしょう。
たしかにイエスさまは、「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」と言われました。
しかし、だからと言って、イエスさまは、「その町を焼き滅ぼしてよい」とまでは言われませんでした。それは一種の暴力ですから。
イエスさまの御心は、敵を愛することです。そして、神の救いがこの地上に実現することです。暴力によって滅ぼしてしまっては、身も蓋もありません。
「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』という人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」
この段落に語られていることもまた、イエスさまの弟子である者たちに求められていることは何かということです。具体的には、「自分を捨てること」の意味は何かです。
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人に対してイエスさまは、「人の子には枕する所もない」とお答えになりました。それでもよいのか、という問いかけでしょう。
たしかに、伝道は、彼らの仕事であり、職業です。しかし、その目的は、自分の生活の糧や、自分が安心して眠ることができる場所を確保するためだけ、というようなことでは、ありえません。
もしそのように考えている人がいるならば、それは違いますと、イエスさまは、はっきりとおっしゃるのです。教会の存在と伝道は自己目的的であってはならない、ということの具体例であると言えるでしょう。
「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」という人には、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とお答えになりました。
「まず家族にいとまごいに行かせてください」という人には、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とお答えになりました。
どのように解釈してよいか、かなり迷う言葉です。わたしたちにとって、家族は、最も大切なものです。他の何かと天秤にかけられるようなものでは、ありえません。
ところが、です。現実の場面においては、イエスさまのおっしゃることの意味が、よく分かることがあります。
わたしたちが「家族」というものに悪い意味で束縛されてしまうときには、伝道することも、信仰をもつことさえも、困難になる、ということがありえます。
冷たい言い方に響いてしまうかもしれませんが、それがわれわれの現実です。これは、わたし説教者が言っていることではなくて、イエスさまがおっしゃっていることであると、どうかお考えいただきたく願います。
わたしたちは「出家」という言葉を使いません。
しかし、イエスさまは、弟子であるすべての者たちに、「家を出ること」を求めておられるのです。
(2005年7月17日、松戸小金原教会主日礼拝)