ルカによる福音書7・11〜35
関口 康
今日はかなり長くお読みしました。これだけの長さを読まなければ今日の個所の真意を読み取ることは難しい、と思ったからです。
今日の最初の段落に紹介されているのは、救い主イエス・キリストがナインという町で一人の若者をよみがえらせた、という出来事です。
「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群集も一緒だった。」
「弟子たちや大勢の群集も一緒であった」とあります。この出来事には多くの証人がいたのです。
具体的にそれはどのような出来事であったかについては、ここに書いてあることをそのまま受け入れるほかはありません。
「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」
「その母親はやもめであった」とあります。彼女の夫は、妻との間に一人息子を設けた後、亡くなってしまいました。ところが、その男の子も亡くなりました。その日は、その大切な一人息子の葬儀が行われていたのです。
「主はこの母親を見て」とあります。ここでふと気づかされるのは、イエスさまの視線が真っ先に向けられた先はどこか、ということです。
イエスさまの視線は、この母親へと、真っ先に向けられました。とても悲しい出来事が起こったとき、その悲しみの状況の中で最も悲しんでいるであろう人へと向けられました。
それは、イエスさまだけが特別に持っておられる力とは言えないかもしれません。人の悲しみを見抜く力です。たとえそこにたくさんの人がいても、その中で最も悲しんでいる人は誰かを見分ける力です。
そして、「憐れに思い」とあります。悲しんでいる人の心に深く共感し、またその悲しみを自分のことのように悲しむ力です。一般的には共感能力などと呼ばれます。
イエスさまは、その母親に「もう泣かなくてもよい」と言われました。もちろん、これは慰めの言葉として語られています。
しかし、イエスさまは、ただ単に、慰めの言葉をお語りになっただけではありません。“お慰みを述べられた”だけではありません。
すぐさま、そのご自身が語られた言葉の根拠となる、救いのみわざを行われました。
「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」
イエスさまは、死んだ人をよみがえらせる、というみわざを行われました。大切な人を失った誰もが考えるであろう「もう一度会いたい。会って、もう一度話がしたい」という願いをかなえてくださいました。
にわかには信じがたい、と感じる人は多いでしょう。こんなことがあってたまるか、と考える人がいても、無理もないことです。
しかし、ルカは先手を打っていました。すでに「弟子たちや大勢の群集も一緒だった」と書いていました。この出来事には多くの証人がいるということが、はっきりと示されていました。
疑う気持ちや信じられない気持ちは、わたしにも、よく分かります。しかし、この出来事は、彼らのその目が見たとおりの事実である、と言わなければなりません。
「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」
今日の大きな問題は、じつは、ここから始まります。
「イエスについてのこの話」とは、ナインという町で、イエスさまが死人をよみがえらせるというみわざを行われた、という話です。この話が、「ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」のです。
人から人へ口づてに語り継がれ、広まっていく話のことを、わたしたちは、伝言(でんごん)と呼んだり、噂話(うわさばなし)と呼んだりします。
ただし、とくに噂話のほうには、少し悪い意味合いが含まれる場合が多いことは事実でしょう。
伝言ゲームという子どもの遊びがあります。あのゲームの面白さは、伝言という手段によって一つの情報が、いかに正確に伝わるかではありません。いかに間違って伝わるかが面白いのです。いかに尾ひれがついているかが、面白いのです。
ですから、それはもちろん、恐ろしいことでもあります。いつの間にか、ありもしないことを言いふらされている、という場合があるのです。今日お読みしました7・33以下に記されているイエスさまご自身の御言は、そのことを明らかにしています。
「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」
要するに、他人は、言いたいことを言う、という戒めです。あることも、ないことも、です。歴史上のイエスさまは実際に「大食漢で大酒飲みだ」と悪口を言われていたというのです。
じつは、今日の個所にやや隠されてはいますが真の主題であると思われるのは、この点です。この主題を見抜けるようにすることが、今日聖書を長く読んだ理由です。
まとめて言えば、人が立てる噂話の問題です。その影響力の問題です。
イエスさまがナインで死人をよみがえらせた、という話は、一つの噂話として広まり、それがヨハネのところにも伝えられました。
このヨハネとは、このルカによる福音書には、すでに何度も登場している、あのヨハネです。イエスさまの母マリアの親戚であるエリサベトとザカリアの子である、あのヨハネ。イエスさまに洗礼を授けた、あのヨハネ。洗礼者ヨハネです。
このヨハネは、みんなの前で、次のように語っておりました。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼を授ける」(ルカ3・16)。
ヨハネが語っているこの言葉の意図は、要するに、ヨハネ自身はイスラエルが待ち望む救い主メシアではない、ということです。
来るべきメシアは、このわたし自身ではない。わたしよりも優れた方がメシアとして来られるのだ、ということです。ヨハネ自身も救い主を待ち望む一人である、ということです。
そして、ヨハネは、来るべきメシアの到来を前にして、すべての人が自分の罪を悔い改めて、洗礼を受け、身と心を清めて、救い主をお迎えすべきであるということを教えてきたのです。
そのヨハネのもとに、一つの知らせが届きました。なんと恐るべきことに、死人をよみがえらせる力なるものを持った人が、ナインの町に現れたらしい。もしかしたら、その方こそ来るべきお方なのではないかという、まさにそのような一つの噂話が届いたのです。
「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』二人はイエスのもとに来て言った。『わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」とお尋ねするようにとのことです。』」
イエスさまについての噂話を耳にしたヨハネは、その方こそが「来るべき方」であるのかどうかを知りたいと願いました。
それでヨハネがとった行動は、なんと大胆なことに、そのことを直接イエスさま自身に質問してみる、ということでした。
ただし、ヨハネ自身ではなく、ヨハネの二人の弟子をイエスさまのところに遣わす、という方法をとりました。
ところが、このときヨハネが二人の弟子たちに託した質問には、やや余計とも思われる点もあったと言えそうです。「それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。
ヨハネがイエスさまに向かって投げかけた質問は、「来るべき方は、あなたですね。ようこそ、お待ちしておりました。よくぞお出でくださいました。心から歓迎いたします」というようなものではなかった、ということです。
死人をよみがえらせる、というわざが現実に行われ、そのことがたくさんの証人たちの前で行われた、という話を聞いてもなお、です。
「あなたですか。それとも、別の方ですか」と、問いを投げかけたのです。
もちろん、これはおそらく、ヨハネというこの人の思慮深さ、あるいは用心深さというべきものを表わしている点であると思われます。
人づての噂話を簡単に鵜呑みにしない、ということです。他人の語る言葉を簡単に信用しない、ということです。疑う心、批判する心が、全く無いとしたら、むしろ心配です。
だまされやすさと信仰は、ベツモノです。批判的に物事を見ることを理性的と呼ぶことができるとすれば、わたしたちの信仰は、きわめて理性的なものです。
この点で、ヨハネの投げかけた質問の内容は、間違っているとは言えないでしょう。
しかし、間違っているとは言えませんが、やや余計なことを言っている、とは言えると思います。
イエスさまご自身に対して、そのような聞き方があるでしょうか。口の聞き方が悪いとか、古い身分制度的なことを申し上げたいわけではありません。ただ、ヨハネの質問には、全く問題がなかった、とも言い切れないでしょう。ヨハネが聞いていることは、明らかに、少し余計です。
なぜ“余計”かです。ルカは、次のように書いています。
「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」
お分かりでしょうか。イエスさまは、ヨハネから質問を託された彼の二人の弟子たちへの答えとして、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と言われました。
そんなに疑うならば、です。
人から聞いた話だけでは、とてもじゃないが信じられない、と思うならば、です。
どうか今、このわたしが、あなたがたの目の前でなしている、このみわざを見なさい。また、このわたしの言葉を聞きなさい。そして、あなたがたが実際に見たこと、聞いたことを、そのままヨハネに伝えなさい。
このように、イエスさまは、言われたのです。
疑う気持ちを持つこと自体は、大切であり、必要でもある、ということは、先ほど申し上げたとおりです。このことをイエスさまご自身が否定しておられるわけでもありません。
しかし、おそらくイエスさまは、このとき、いくらか“残念な”気持ちを持っておられたような気がしてなりません。
そのとき、イエスさまは、「病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」のです。
あるいは、ナインの町でも、最愛の一人息子を失って悲しんでいる母親を慰めるために、みわざを行われたのです。
やることをやっておられるのです。さぼっておられるわけではないのです。
うそをついておられるわけでも、ひとを騙しておられるわけでもありません。人からの名誉や賞賛がほしかったわけでもありません。そんなことには、全く興味がありません。
イエスさまは、今、現実に苦しんでいる人を、ただ、助けたいだけなのです。
また、イエスさまは、人を助けることができる知恵と力を持っておられるのです。
そして、イエスさまは、今ここで、多くの人々の中で最も大きな苦しみを負っている人を見抜き、その人のところへと一目散に駆けつけてくださるのです。
ヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか。ほかの方を待つべきでしょうか」と聞く前に、イエスさまのお姿を、直接見るべきだったのです。
(2005年5月1日、松戸小金原教会主日礼拝)