2005年5月9日月曜日

安心して行きなさい

ルカによる福音書7・36~50


関口 康


今日の個所の主な登場人物は、イエスさまの他に、二人います。


一人は、「あるファリサイ派の人」(36節)と紹介されています。しかし、すぐ後に名前が出てきます。「シモン」(40節)です。男の人の名前です。シモンという名のファリサイ派の男性です。


もう一人は、女性です。「この町に一人の罪深い女がいた」(37節)と書かれています。


最初に登場するのは、男性のほうです。この人は、イエスさまに、自分の家で一緒に食事をしてください、と招待しました。


そうしますと、その場に突如として割り込んできた人がいました。それが、もう一人の登場人物である、女性でした。


「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」


この女性の登場の仕方は、まさに文字どおり“乱入”という言葉が当てはまるものです。落ち着いた場の雰囲気や、なごやかな団らんなどは、すべてぶち壊してしまわれるようなやり方である、と言わざるをえません。


現実の体験として想像してみていただけば、きっとお分かりいただけるはずです。


食事中に、そっと背後から近づいてこられ、足に触られる。それだけで、誰でもたぶん飛び上がると思います。


しかも、その女性は泣いている。その涙で足が濡れるほど泣いている。泣いている理由は、よく分からない。


その次は、その足を髪の毛でなでられる。そして、接吻される。普通の人なら、悲鳴を上げると思います。


そして、香油を塗られる。その匂いは部屋中に充満して、落ち着いて食事などしている場合ではなくなるはずです。


ところが、です。この突然起こった騒動の中で、もう一人の登場人物であるファリサイ派のシモンは、「腹を立てた」とは書かれておりません。


そうではなくて、ちょっと不思議な、というほどでもないかもしれませんが、「この場面で、どうしてそこに?」と感じなくもないところに、関心を持ちました。


「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」


シモンの関心を、わたしなりの言葉で表現してみますと、こうなります。


このわたしの目の前にいるイエスという人が、今のこの騒ぎを起こしている女性の正体ないし本性を、ズバリ見抜くことができるかどうか。それで、この人が真の宗教家としての資質を持っているどうかが分かる。


このあたりのことだと考えていただくと、きっとご理解いただけるのではないかと思います。


人の正体ないし本性をズバリと見抜く力。こういうものが、たしかに、宗教家には求められているかもしれません。


ただ、今日の個所の問題を、ひょっとしたらなんとなく複雑で面倒なものにしているかもしれないことがあるような気がします。


それは、ちょっと言いにくいことですが、この女性がまさに女性であった、ということにあるのではないかと感じます。


あまり生々しい話は、控えます。ただ、どの時代にも・どの社会にも、「自称宗教家」のような人々が異性との「不適切な」関係を持つという問題を起こすことがあります。最近も、大きな事件がありました。


今日の個所に出てくるこの女性の場合は、どうだったでしょうか。


もちろんあくまでも、周りの人の目から見て、という話ではありますが、まさに周りの人の目から見て、この女性がイエスさまに近づいてきたことには何かとてもいかがわしい目的があるのではないか、と見えたに違いないのです。


この女性は、その町の人々から、またファリサイ派シモンから、「罪深い女」という目で見られていた人です。そのような人が、です。明らかに何か「不適切な」目的で、イエスさまに近づいてきている、というふうに、人々の目には映っていたに違いないのです。


そのファリサイ派シモンが、です。


この女性、つまり、少なくとも周囲の人々から「罪深い女なのに」と思われているこの女性に対して、です。


このイエスという一人の宗教家は、はたしてこの女性の本性を、どのように見抜くのだろうかということに、関心を抱いたのだ、というふうに理解することができると思われるのです。


もう少しだけはっきり言いますと、そのように突如として現われ、文字通り“自分の体をすり寄せてくる”、「罪深い女」と見られている一人の女性の前で、このイエスさまが、どのような言葉を語り、どのような態度をとるのかという点に、シモンは関心を持ったのです。


このようにシモンが考えることは、ある意味で無理もないことです。


ところが、イエスさまは、シモンに対して、次のような話をお始めになりました。


「そこで、イエスがその人に向かって、『シモン、あなたに言いたいことがある』と言われると、シモンは、『先生、おっしゃってください』と言った。イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』シモンは、『帳消しにしてもらった額が多い方だと思います』と答えた。イエスは、『そのとおりだ』と言われた。」


イエスさまのたとえ話の意図は、非常に明白です。説明を加える余地などは、どこにもありません。それほどに分かりやすい話です。


イエスさまというお方は、こむずかしい哲学的な話などは、ほとんど全くされたことがありません。


むしろ、“こういう”話です。金貸しだとか、借金だとか、帳消しだとか。


身近といえば身近です。下世話といえば下世話。文字通りの“世間話”のような調子の話です。


しかも、このたとえ話に登場する金貸しは、実際にはなかなかお目にかかれないような優しい人です。


ある人が二人の人にお金を貸したところ、どちらにも返すお金がなかったので、両方の借金とも帳消しにしてあげたという話です。


ありがたいといえばありがたい。お人よしといえば、これ以上のお人よしは、探しても見つからないほどです。


このたとえ話の結論として引き出されている、帳消しにしてもらった額が多い方の人が、その金貸しをより多く愛するであろう、というこの点は、ファリサイ派のシモンでも納得できることでした。そりゃ、そうでしょうと、わたしも思います。


しかし、ここで興味深いことは、イエスさまというお方がこのたとえ話の中でたとえているのは、明らかに、御自分のことである、という点です。


イエスさまは、言うならば、ご自分のことを金融業者にたとえておられるのです。驚くべきことだと思います。
 
「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」


シモンのほうは、何となくですが、“とばっちり”を受けているような気がしなくもありません。


イエスさまを自分の家の食事に招待して、それなりに楽しくやっていたところに、突然この女性が現われて、すべてを台無しにされてしまう。


その上、イエスさまには、この女性と比較されて、「あなたは足を洗う水もくれなかった」とか、「接吻の挨拶もしなかった」とか、「頭にオリーブ油を塗ってくれなかった」とか、非難めいたことを言われてしまう。


しかし、シモンには、どうか、ここは少し我慢して、聞いてほしいところです。


別に何も、イエスさまは、シモンのほうを、あえてけなしたいわけではないのです。


イエスさまは、この女性を、ただ、かばっておられるだけです。


この女性のしたことを、そして、この女性自身を、励ましておられるだけなのです。


イエスさまが本当におっしゃりたいことは、まさに次の一点でしょう。


「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。』そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた。」


「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。逆に言えば、「赦されることの多い者は、愛することも多い」ということです。イエスさまがおっしゃりたいのは、そのことです。


1デナリオンは、労働者の一日分の賃金に相当するそうです。500デナリオンはいくらでしょうか。50デナリオンはいくらでしょうか。


ごく単純に、たとえば500万円と50万円という数字で考えてみると、どうでしょうか(多いでしょうか)。


あるいは、もっと単純に、一年分の生活費と一か月分の生活費というふうに考えてみると、どうでしょうか。


どちらを赦してもらうほうが、ありがたいでしょうか。生活上の救いになるでしょうか。


借金の返済の問題は、当事者たちにとっては、少しも大げさではなく、文字通り、人生の問題であり、生活の問題であり、生きる望みの問題です。


ただし、誤解がありませぬように。罪の問題と借金の問題は、もちろん、イコールではありません。借金そのものが罪だと言いたいわけではありません。


しかし、このたとえ話は、よく分かる話だと思います。実感できる。しみじみと、心に伝わってくる話です。


罪の赦しとは、借金を帳消しにしてもらえるのと同じことである、ということです。心の重荷が取り去られるのです。


だからこそ、です。


「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」


「あなたの信仰」とは、この女性がしたように、人の迷惑をあまり気にせず、なんとかしてイエスさまに近づき、愛を示し、依り頼むことでしょう。


その女性に、イエスさまは、慰めの言葉を語り、生きる希望を与えてくださったのです。


(2005年5月8日、松戸小金原教会主日礼拝)