2005年5月29日日曜日

突風を静める

ルカによる福音書8・16~25


関口 康


今日は、三つの段落を読みました。無理にこじつけるつもりはありません。ただ、ごく素直に読んでみて、これら三つの段落には、共通しているテーマがある、と思いました。


キーワードは「神の言葉」です。一言で言えば、神の言葉、すなわち、神の御子イエス・キリストがお語りになる御言葉を聴くわたしたち人間の態度は、どうあるべきか、ということです。


「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」


「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」とあります。何を「どう聞くべきか」なのかと言いますと、ですから、これが「神の御言葉を」です。神の御言葉の聴き方に注意しなさい、ということです。


おそらくこれは、先週学びました、イエスさまの種蒔きのたとえ話から直接続いている話です。


イエスさまは、不特定多数の人々にはたとえ話で語られる一方で、弟子たちにはそのたとえ話の解説までお語りになりました。


多くの人々の前でたとえ話が語られている時点では、まだ隠されている部分が残されている。しかし、たとえ話に隠されている部分は、解説されることによってあらわにされる。


これでお分かりでしょう。たしかにイエスさまは、多くの人々の前でたとえ話を語られました。しかし、それで終わりにされたいのではありません。


たとえ話には、ある明確な“目的”ないし“目標”があるのです。たとえ話そのものは、その目的に到達するための単なる“手段”にすぎないのです。


「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の上に置いたりする人はいない」のです!


「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」のです!


イエスさまは、多くの人々がたとえ話の解説まで聴くことができる者、つまり、イエスさまの弟子に加わってもらいたいのです!


イエスさまのたとえ話の目的は、弟子仲間に「入って来る人」、加わる人を得ることです!


イエスさまともあろうお方が、多くの人には意味不明のたとえ話だけを語り、それで事足れりとする、というような乱暴なやり方で、終わられるはずがありません。


その言葉を聴いて、「それってどういう意味?」と質問してくる人々を、イエスさまは、待っておられるのです。


教会の伝道活動についても、同じようなことが言えます。


松戸小金原教会には、岩崎昭長老が運営してくださっているホームページがあります。現在までのアクセス数、なんと三万回を越えています。三万枚のチラシを配るに匹敵する、いやそれ以上の役割を、教会のホームページが担っています。


わたしも現在、純粋に教会の伝道活動の一環のつもりで、毎週の説教を、インターネットのホームページやメールを使って、不特定多数の人々に公開しております。


しかし、です。これはおそらく岩崎長老ご自身も納得してくださることだと思いますが、わたし自身は、ホームページのような方法で広く伝えることができる事柄は、本当にごくわずかなことである、と考えております。


心配してくださる方は、「説教の内容を全部公開してしまったら、わざわざ礼拝に集まる人が少なくなるのではないか」と言われます。


しかし、その点は、全く心配ご無用です。


今ここではっきり申し上げることができることは、書かれた文字や文章が伝えることのできるのは、わたしたちの教会活動全体の中では、ほんのごくわずかな要素にすぎないからです。


もちろん、教会の牧師も、教会自身も、イエスさま御自身ではありません。単純に比較することはできません。


しかし、牧師の説教の中にも、教会活動全体の中にも、直接会うことなしには、物理的距離において近づいていなければ、決して伝えることができない要素が、かならずあるのです。


手紙を書くことが、まさにそうです。ラブレターでも何でもいいです。「愛しています」と書いて送ったら、それで終わり、ということは、ありえません。


かならず次のアクションが必要です。実際に会うこと、そして、互いに愛し合うことが必要です。


イエスさまの弟子になることができた人には、イエスさまのお語りになる神の御言葉の真意が分かるのです。弟子になるまでは、その真意は、隠れたまま、秘められたままです。


ひとりで聖書を読んでも、ちっとも分からない、と言われます。無理もないことです。なぜなら、聖書は、イエス・キリストの体としての教会の中で読まれることによって、初めて理解できる言葉だからです。


聖書に記されているのは、教会の現実、そして信仰共同体としてのイスラエルの現実だからです。


教会の現実を共に体験しうる仲間に加わらなければ、聖書の御言葉は、単なる抽象的な宗教知識に留まるでしょう。


「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群集のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった。するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった。」


ここに登場するのは、イエスさまの母と兄弟たちです。


イエスさまの母の名前は、マリアです。兄弟たちの名前は、ルカによる福音書には紹介されていません。


マタイによる福音書13・55とマルコによる福音書6・3には紹介されています。「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」です。また、複数の「姉妹たち」もいた、と書かれています。


父ヨセフが登場していないのは、なぜか、と問われることがあります。これについては、以前に一度お話ししましたように、父ヨセフは早く亡くなったのではないか、と考える人々がいます。もちろん、はっきりしたことは分かりません。


それはともかく、イエスさまの母と兄弟たちが、イエスさまのところに来たが、群集がいたので、近づくことができませんでした。


それで、彼らは、何とかしてイエスさまに近づくために、ある人にお願いして、イエスさまのほうから家族のところに近づいてくるようにと、伝えてもらった、というわけです。


家族なのですから、ある意味で、当然のことを言ったつもりだったのでしょう。


ところが、イエスさまは、そのような家族の要望を、事実上拒否されました。そして「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお語りになりました。


冷たいなあ、と感じる人が出てきても無理のない言葉でしょう。しかし、わたしたちは、このイエスさまの御言葉の真意を、よく考えてみる必要があると思います。


これも前に一度用いたことのあるたとえなのですが、たとえば、行列ができるほど有名な医者のことを、思い描いてみていただきたいのです。


多くの人々が、自分の順番を今か今かと待っている。そこに、その医者の家族が来て、わたしたちのことを先に診なさい、と言い出すとしたら、どうでしょうか。


あなたがたのことは後回しである、と言わなければならない場面も、現実にはあるのではないでしょうか。


またもう一つ、問題にされるべきことがあります。それは、そのときイエスさまがしておられたことは、「神の御言葉を語る」というお仕事であった、ということです。


逆の方向から、つまり、イエスさまの母や兄弟たちの立場から、考えてみると、どうでしょうか。


たとえば、わたしたちの子どもたちが、日曜学校の生徒が、将来、日本キリスト改革派教会の牧師になって、松戸小金原教会の礼拝で説教している。


それをわたしたちは、どれくらい“真面目に”聴くことができるでしょうか。“神の御言葉として”聴けるでしょうか。いろいろと難しい問題が生じるように思うのです。


しかし、です。もしそれが「神の言葉」として聴かれないならば、「説教」には何の意味もないのです。


この場面でイエスさまが母や兄弟たちを事実上拒絶されたことの意味は、このあたりにあると思われます。


わたしたちにとって「母や兄弟たち」は、たしかに、最優先されるべき人々です。


だからこそ、「神の言葉を聞いて行う人たち」こそが「わたしの母であり、わたしの兄弟」である、とイエスさまはお語りになったのです。


イエスさまのお気持ちを察する必要がある、と思います。


「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った。」


なんとも興味深い話です。嵐の真っ只中にもかかわらず、イエスさまが、ぐっすり眠りこんでおられた、というのです。


強靭な神経の持ち主、とでも言うべきでしょうか。あるいは、堂々たる姿、でしょうか。


しかし、弟子たちのほうは、今にも死ぬのではないかと、悲鳴を上げていました。


そして、イエスさまをゆすって、起こします。「先生、先生、おぼれそうです」と。


弟子たちの悲鳴も聞こえなかったかのようにぐっすり眠っておられたイエスさまのほうも、悪かったと言えば悪かった・・・かもしれません。


しかし、考えてみれば、舟をこぐ仕事、そして、舟に乗っている人々を目的地まで安全に送り届ける仕事は、イエスさま御自身の仕事ではなく、弟子たちの仕事でした。


ご承知のとおり、イエスさまの弟子たちの中には、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネもいたのです。


彼らは、イエスさまをゆすって起こして、そのイエスさまに、何をお願いしようとしたのでしょうか。


そのとき、彼らのなすべきことは何だったのでしょうか。慌てふためき、動転し、混乱し、大騒ぎすることだったのでしょうか。


それとも、心を落ち着けること、冷静になること、自分たちが置かれている状況を冷静に見分けること、そして、正しい舵取りをすることではなかったでしょうか。


しかし、実際の彼らは、そうではありませんでした。死の恐怖に怯え、ギブアップするのみ。


眠っておられたのに弟子たちに起こされたイエスさまは、少し怒っておられるようです。風と荒波とをお叱りになりました。その途端、嵐は静まり、凪になりました。


そして、イエスさまは、弟子たちに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われました。


このときのイエスさまも、少し怒っておられるようです。弟子たちが、イエスさまに叱られているようです。いえ、たしかに、叱っておられるのです!


イエスさまの御言葉は、湖の上で現実に起こっている「風と荒波」に向かって語られた言葉であることを疑う必要は、少しもありません。


しかし、その同じ御言葉は、弟子たちの耳にも、かならず聴こえたでしょう。


なぜなら、「聞く耳」が付いているのは弟子たちですから!


風と荒波に「聞く耳」は付いていませんから!


弟子たちの心の中で荒れ狂っていた「風と波」にも、いえ、まさにその「風と波」にこそ、「黙れ、静まれ」とお叱りになるイエスさまの御言葉が届いたに違いありません。


これは、おそらく何ごとにも当てはまることです。


自分のなすべきことをなしうるようになるために、わたしたちは、しっかり気を落ち着けて、正気になる必要があります。


気が動転しているときこそ、イエスさまの御言葉に耳を傾けることが大切です。


その意味で、彼らが、眠っておられたイエスさまをゆすって、目を覚ましていただいたのは、正解だったのです。


(2005年5月29日、松戸小金原教会主日礼拝)