2005年5月16日月曜日

聖霊の力を受けて

2005年度松戸小金原教会ペンテコステ礼拝


使徒言行録2・37~47


関口 康


本日はペンテコステ礼拝です。わたしたちは今、本当に喜んでおります。先ほど、小川千里兄・孝子姉ご夫妻が、揃って洗礼を受けてくださいました。


小川千里さんは、昭和8年生まれで、わたしの父、また、本教会の佐藤栄一長老や小田雅也長老とも同い年の方です。孝子さんの年齢は、伏せておきます。


わたしは、今から約10年前に、妻の母が洗礼を受けてくれたときには、60才からでも新しい人生を始めることができるのだ、などと、その年齢の方々には、なんだか失礼なことを考えておりました。


しかし、70才からでも新しい人生を始めることができるのだ、ということを今日わたしは深く確信し、神さまに感謝しております。


洗礼を受ける年齢は、決定的な問題ではありません。信仰生活の長さも、究極的な問題ではありません。


また、次の言葉を語りますと嫌な顔をされる場合があるのですが、信仰生活の歴史の長さと信仰の深さは必ずしも比例するものではない、ということも、この機会ですから、言わせていただきます。


また、どの教会の・どの牧師から洗礼を受けた、というようなことも、決定的な問題ではありません。


ある人に洗礼を授けるという光栄に与ることができた教会とその牧師は、その人がのちのち、あの教会で・あの牧師から洗礼を受けたことを「恥ずかしいことだ」と思うことにならないように、せいぜい努力し、精進すべきです。


むしろ、問題は、洗礼を受けることです。何才からでも、いつからでも、救い主イエス・キリストを信じ、教会で洗礼を受け、新しい人生を始めることが、大切なのです。


今日はペンテコステ礼拝です。先ほどお読みしました聖書の個所に記されているのは、今から約二千年前に行われたペンテコステ礼拝での出来事です。


「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」


「五旬祭の日」、これがペンテコステのことです。ユダヤ教の過越祭から数えて五〇日目を意味します。イエス・キリストが、十字架にかけられる前の夜、過越祭の食事としての最後の晩餐を行われてから五〇日目、ということにもなります。


この五旬祭の日まで、イエスさまを信じる人々の数は、百二十人ほどになっていたようです。その数字の根拠は、1・15にあります。


じつを言いますと、一時期、イエスさまが御言葉をお語りになる集会には、男性だけで五千人、女性や子供を合わせるとおそらく一万人以上も集まったりしていたのです。


ところが、みんな、散らされていきました。イエスさまが十字架にかけられて苦しんでいるときに、恐ろしくなって逃げていったのです。


ですから、百二十人という数字は、みんな散らされていった後に残されたほんのわずか一握りの人々の数である、と考えることができそうです。


しかし、その人々でさえ、胸を張って、イエスさまと共に生きていく決意や覚悟があると、言い切れる状態にはなかったと思われます。なお非常に強い迫害の恐怖や緊張感があったに違いないのです。


ところが、その弟子たちに、です。聖霊の力が降り注がれる、という出来事が起こりました。それが、二千年前のペンテコステ礼拝の中で起こったことです。


「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。このとき起こったことは何かということを説明するのは難しいと感じます。書いてあるとおり、としか言いようがありません。


ただ、ここには、聖霊の姿が「炎のような舌」と描かれています。これがおそらく重要なポイントです。


炎のような舌が、一人一人の上にとどまる。こういう出来事が起こったのです。


舌は、もちろん、わたしたちの口の中にあるこれです。食べること、飲むこと、なめることなどに使います。しかし、言葉を語ることにも使います。舌は言葉を語るためにあるのです!


そうです、神の言葉を宣べ伝えること、信仰の証しを公に告白すること、そして、人と人との間の会話とコミュニケーションを成り立たせること、言葉をもって互いに交わること、そのために舌があるのです!


聖霊の舌をいただくまでは、イエスさまの弟子たちは、舌を抜かれた状態にあったのでしょうか。「そうだ」とも言えますし、「そうでない」とも言えそうです。


そのときの弟子たちは、迫害の恐怖に怯え、あるいは、さまざまな個人的な事情から、イエス・キリストに対する信仰を公に言い表すことができずにいたのだ、と考えることができるかもしれません。


しかし、全く何も語ることができずにいた、というわけでもなかったでしょう。小さな声で、ごく近くにいる仲間たちだけに聞こえる声で、ひそひそと語り合っていた、という感じではなかったでしょうか。


だからこそ、聖霊の舌は「炎のような」と形容されているのではないでしょうか。熱く語る舌、情熱に満たされて語る舌、このような舌が、イエスさまの弟子たちに与えられたのです。


しかし、ここで、どうか、皆さんには、聖書の御言を注意深く読んでいただきたい、と願っております。


ここに書かれていることは「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」です。「話しだした」のは、その主語は、あくまでも「一同」です。イエスさまの弟子たちです。


「聖霊が語らせるままに」とあります。これは「聖霊が操るままに」というふうに読めてしまうかもしれませんが、それは非常に危険な読み方です。


ここに描かれているのは、本人の意志に反して聖霊が勝手に話しだした、というような話ではありません。あくまでも彼ら自身が話しだしたのです。このことが重要です。


さて、この二千年前のペンテコステ礼拝で、説教を担当したのは、使徒ペトロでした。「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」(2・14)と書かれているとおりです。


この説教の内容について、今日は、詳しくお話しする時間がありません。ぜひ今日それぞれお家に帰られてからじっくりお読みいただきたいと思います。


ある意味で、たいへん厳しいと感じられる説教であると言えます。


まず最初に語られていることは、イエス・キリストというお方が、父なる神から遣われてきた、ということです。


そのキリストが、多くの人々の前で、救いのみわざを行ってくださった。そのことは、あなたがた自身が、よく知っていることである、ということです。


ところが、そのキリストを、あなたがたは、十字架につけて殺してしまった。キリストを否定し、殺したのは、あなたがた自身である、と続きます。


しかし、そのキリストが、死人の中から、よみがえってくださった。父なる神が、その御子イエスを、主とし、メシアとしてくださった。わたしたち、キリストの弟子たちは、キリストの復活の証人である。


そして、そのキリストは、今や、父なる神の右に上げられ、父から受けとった聖霊を、注いでくださった。


このような説教でした。


そして、先ほどお読みいたしました個所に記されているのは、このペトロの説教を直接耳にした人々の反応と、それに対するペトロの答えです。


「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』」


あなたがたがイエス・キリストを十字架につけて殺したのだ。この言葉は、強い審きの言葉です。本当に厳しい言葉だと思います。


しかし、そこにいた人々は、不思議なくらいに、謙虚に、また静かに、ペトロの説教を受けとめることができました。


その気持ちの現れとしての「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」です。


悪い意味で開き直った、「今さら、どうすりゃいいんだ。やってしまったことは取り返しがつかないじゃないか」というような、投げやりな言葉ではありません。


「イエス・キリストを否定し、十字架につけてしまったわたしたちの、なすべきことを教えてください」という意味です。


それに対するペトロの答えが、「悔い改めなさい。洗礼を受けなさい。罪を赦していただきなさい」です。


「そうすれば」、あなたがたも、このわたし、わたしたちと同じように、です。


「賜物としての聖霊を受けます」です。


このわたしが、今、あなたがたに、神の御言を宣べ伝えている、この燃える炎のような聖霊の舌を、あるいは、聖霊のすべての賜物を、あなたがたも、受けとるのだ、ということです。


ここで興味深いことは、このことを、他ならぬ使徒ペトロが語っていることです。


ペトロとは、どういう人だったかを思い出していただきたいのです。


ペトロは有名な人です。何で有名かと言いますと、いちばん最初にイエスさまの弟子になったことでも有名ですし、元気があって熱心な人ということでも有名です。


しかし、このペトロは、イエスさまが十字架にかけられたときに逃げてしまった人としても有名です。鶏が鳴く前に、三度もイエスさまを「知らない」と語ったことでも有名なのです。


そのことは、ペトロ自身が、いちばんよく知っていたことです。


ですから、ここでぜひ注目していただきたいのは、この説教を語っているのは、まさにそういう人である、という点です。


「あなたがたがキリストを十字架につけて殺したのだ」と語るペトロの言葉の「あなたがた」には、ペトロ自身も当然含まれているのです。自分のことを棚に上げて言っているわけではないのです。この点が重要です。


だからこそ、です。「罪を赦していただきなさい」と語るペトロの言葉には、誰よりも先に自分自身が罪を赦していただいた感謝と喜びと悔い改めの思いが込められているのです。


このわたしをも、イエスさまを捨てて逃げたこのわたしでさえ赦してくださった、救い主イエスさまに、あなたがたも、罪を赦していただきなさい、と語っているのです。


「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」


ペトロの説教が終わった後、三千人ほどの人々が、洗礼を受けました。救い主イエス・キリストを信じて生きる約束を、多くの人々がしました。


この日をわたしたちは、歴史的キリスト教会の創立記念日としてお祝いしてきました。これが今日わたしたちが行っているペンテコステ礼拝の意義です。


「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」


ここには、歴史的キリスト教会の最初のメンバーたちの姿が描かれています。「民衆全体から好意を寄せられた」と書かれています。


彼らの姿のどの部分が、そういうものだったのでしょうか。


繰り返し出てくる言葉は、「一つ」ということです。


「信者たちは皆一つになって」、「毎日心を一つにして」、「喜びと真心をもって一緒に」、そして「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とあります。


悪い意味でバラバラ、チグハグ、ドタバタの教会は、人々に不信感を与えます。「教会のくせに」とか、余計なことも言われてしまいます。


イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりにおいて、喜んで一致している教会は、豊かな祝福を受けるのです。


「この教会の仲間に加わりたい」という志を抱く人々が、起こされるのです。


(2005年5月15日、松戸小金原教会主日礼拝)