ルカによる福音書8・1~15
関口 康
今日からまた、ルカによる福音書の学びを再開いたします。
今日開いていただきました個所の最初の段落には、イエスさまの伝道活動の様子が記されております。
「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」
ここで分かることが、いくつかあります。
第一は、イエスさまの伝道活動は、お一人ではなく、いつも仲間たちとご一緒であった、ということです。
「十二人」とは、イエスさまが弟子たちの中から特別に十二人をお選びになり、「使徒」と名付けられた、あの人々のことです(ルカ6・12〜16)。この十二人は――残念ながら、というべきでしょうか――全員男性でした。
しかし、イエスさまの伝道仲間は男性だけではありませんでした。女性もたくさんいました。
これが、ここで分かる第二のことです。つまり、イエスさまの伝道仲間には、男性だけではなく、女性もたくさんいた、ということです。
女性たちのうち、三人の名前が紹介されています。マグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナです。
このうちのマグダラのマリアと、二番目に紹介されているヨハナは、このように二人が並べられて紹介される個所が、ルカによる福音書の中にもう一個所あります。
それは、ルカによる福音書24・10です。イエスさまが、死人の中からよみがえられた。墓の中にはもうおられない、と知らせる二人の天使の声を聞いた何人かの婦人たちの中に、この二人がいました。
つまり、復活されたイエス・キリストの証人として、この二人の名前が紹介されているのです。
そして、もう一つ。ここで分かることの第三は、イエスさまの伝道旅行に同行した女性たちの働きを紹介する言葉として、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」というこの点が挙げられている、ということです。
ここで「奉仕」と訳されている言葉は、わたしたちの教会に「執事」という働きを負ってくださっている方々がおられますが、「執事」と「奉仕」とは同じ意味の言葉です。
教会活動の中で、主として経済的・実務的な側面を取り扱っていただく職務です。
実際問題として、もし教会から執事の働きが失われるなら、教会は、一歩たりとも前進できません。その重要な教会の執事的働きを、女性たちが担っていました。
もちろん、男性の執事もおられます。しかし、――ここでも再び、残念ながら、というべきでしょうか――聖書の時代には、使徒や長老として女性が選ばれることはありませんでした。
その分、執事の働きを女性が担う、という分業がなされていた、と考えることができます。
さて、その次の段落には、イエスさまが実際に語られた説教が、再び記されています。
再び、と申しましたのは、つい先ごろ、わたしたちは、このルカによる福音書6・20以下に記されている、イエスさまの説教(地上の説教!)を学んだばかりだからです。
「大勢の群集が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」
これが、実際に多くの人々の前で、イエスさまの口から語られた説教の内容であった、ということです。表舞台で、会衆の前で、大きな声で語られた部分は、8節までです。
9節以下は、楽屋で、弟子たちの前だけで、小さな声で語られた部分です。要するに、いわゆる「楽屋話」(がくやばなし)です。
「大勢の群集」とは、要するに不特定多数の人々です。
その人々の前では、あるところまで語る。しかも「たとえ」を用いて語る。しかし、それ以上は語らない。それ以上のことについては、特定の少数の人々の前でだけ語る。
このような言葉の使い分けを、イエスさまともあろう方がなさったのだ、ということです。
ただ、しかし、そのことにはもちろん、明らかに何かの理由があった、と考えるべきであろうと思われます。
その理由について、イエスさま御自身は、次のように説明しておられます。
「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためである。』」
イエスさまの弟子たちには「たとえ」の解説をしてくださる。しかし、それ以外の人々には、「たとえ」のまま、つまり、解説を加えずに語る。
その理由は、彼らが見ても見えず、聞いても理解できないようになるためである、と言われています。
要するに、イエスさまは、ある人々にとっては聞いても理解できない言葉を、わざと語っているのだ、ということになります。何となく、ひどいことを言われている気がしてきます。
しかし、イエスさまがこのようにされたことには理由があります。考えられることは、次のような理由です。
それは、このときすでに、イエスさまの身に危険が及んでいたのではないか、ということです。
イエスさまの言葉尻をとらえて、何とかしてイエスさまを捕まえ、殺そうとする人々が混ざり始めている、ということに、イエスさま御自身が、気づいておられたのではないでしょうか。
そのような人々に言葉尻をつかまえられないようにするために、イエスさまは「たとえ」をお用いになったのです。
また、今申し上げましたことのいわば裏側にある、と言いうる事柄として、イエスさまのお語りになる御言葉には、いわば常に、ある人々の急所を刺し貫くような非常に鋭い刀が隠されている、ということも、否定しえない事実として挙げておく必要があるでしょう。
イエスさまの言葉は、何も切ることができない鈍刀(なまくらがたな)ではありません。
それどころか、イエスさまの言葉は、常に、かならず、わたしたちの生命にかかわる重大な決断を迫るものです。
「聞く耳のある人」には、それが分かるのです! ああ、切られた、と感じます。
しかし、問題はその先です。
「よくも切りやがったな」と、わたしを切ったイエスさまを、憎み、恨むのか。
それとも、わたしに真実の言葉を語ってくださったイエスさまを愛し、イエスさまの前で悔い改め、イエスさまに従って生きていくことを決心するのか。
わたしたちは、舞台裏の楽屋でイエスさま御自身が語られた「たとえ」の解説を知っております。
「『このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結んだ人たちである。』」
この解説で明らかにされていることは、イエスさまが「たとえ」を用いて語られた説教の主旨は何なのか、ということです。
要するに、たとえ全く同一の神の御言葉が語られたとしても、その御言葉を聞く人々の態度や状況などによって、受けとられ方において全く違ってしまうということがありうるのだ、ということです。
道端のものとは、悪魔の誘惑が多いところで、神の御言葉を聞いた人のことである、ということです。
石地のものとは、聞いた御言葉の根が生えないので、しばらくは信じても試練に耐えられない、ということです。
茨とは、イエスさまによりますと、人生の思い煩いや富や快楽のことです。そういうものが、聞いた御言葉の種が実を結ぶに至るまで成長していくのを、妨害するのだ、ということです。
良い土地に落ちた種は、すくすくと順調に成長する。
ですから、これは、なるほど、聞き方によっては、裁きの言葉として受けとられかねません。
「わたしは良い土地である」と胸を張って、自信をもって語ることができる人は、今も昔も、それほど多くいるとは思えないからです。
むしろ、わたしたちの多くがすぐに考えてしまうことは、「わたしは道端です」、「わたしは石地です」、「わたしは茨にふさがれた地です」ということのほうでしょう。
そして、このように聞いてしまいますと、なるほど、たしかに、「ああ、わたしはイエスさまに裁かれた」と感じるのです。
しかし、それで終わりでしょうか。問題は、その先にあるのです。はたして、わたしの人生は、いつまでも、道端のままなのか、石地のままなのか、茨にふさがれたままなのか、です。
そうではない、と信じたいところです。イエスさまは、わたしたちを裁くために、この御言葉を語っておられるのではない、と信じたいところです。
いずれにせよ、語られているのは、神の御言葉です。それを受け入れることができない人々の事情を、イエスさまは、よくご存知です。いろいろな障害がある、ということを、よくご存じです。
だからこそ、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」にわたしたち自身がならせていただけるように、イエスさまにお願いすることが大切です。
「聞く耳のある者」にならせていただきたいのです。
(2005年5月22日、松戸小金原教会主日礼拝)