2005年5月19日木曜日

「キリスト教の立場から」―「小金原憲法九条の会」第二回例会での発言―

このたび小金原に新しく誕生されました「憲法九条の会」で貴重な発言の機会を与えていただけるというお知らせをいただきましたとき、たいへん光栄に思いました。御厚意をいただきました皆様に心より感謝申し上げます。

しかし、どのようなことを語りうるか、皆様の御期待に副いうるかという点につきましては非常に大きな不安を持っておりますことを正直に白状しておきます。御期待に副えなかった場合はどうかお許しください。

私は昨年(2004年)の四月、松戸市小金原七丁目の「松戸小金原教会」の牧師として、他県から引っ越してきたばかりです。栗ヶ沢小学校に通う二児(小五男、小二女)の父でもあります。それ以前は高知県、福岡県、山梨県などで、やはり牧師をしておりました。出身地は岡山県岡山市です。牧師の子弟ではなく一信徒の家庭で生まれた者です。しかし、高校、大学を卒業してすぐにこの仕事に就きましたので会社勤めなどの体験はありません。

このような経歴の持ち主に対してはしばしば「世間知らずである」という目を向けられたり、そのように面と向かって言われたりすることがあります。なるほど、ある意味そうだと言えばそうなのかもしれません。最も苦手なことはお金の勘定です。

しかし、そのように見られたり言われたりすることには非常に強い抵抗感を覚えます。「そうではない!」と自己主張したくなります。「教会」といえども、間違いなく「人間の集まり」だからです。「教会」は世間の中に立っています。「世のため・人のために」教会は存在しています。それどころか「教会」は、良くも悪しくも、とにかく一つの「世間」そのものです。牧師は教会の中で十分な意味での「世間」を学ぶことができるのです。

たとえば、私が牧師として松戸に来るまでに携わってきた仕事には、家庭内争議の仲裁や離婚のお世話までありました。あるいはまた、牧師の通常の活動である「伝道」(わたしたちは「布教」という表現は用いません)や教育、結婚式やお葬式、病院や施設への慰問なども、わたしたちの場合、その場限りで終わることはほとんどありません。一人一人との間に長い期間を通して苦労して築き上げられていく信頼関係があるからこそ成り立つことです。

いろんな家庭に招かれて一緒に食事をする機会も多くあります。牧師の仕事は幸か不幸か「他人のプライバシーに首をつっこむ」仕事でもあります。いずれにせよわたしたちは浮世離れした場所へと逃避したり隠れたりということは一切していません。そうしたいという気持ちも全くありません。

どうか皆様のお仲間に加えていただき、お役に立てることが少しでもあるようでしたら何でもお申し付けいただきたいとひたすら願うばかりです。本日私がここで発言させていただくことについては、教会役員会の許可を得ておりますし、教会のみんなにも知らせております。もちろん喜んで送り出してくださいました。牧師の働きが「世のため・人のために」役立つことを、教会のみんなは喜んでくれるのです。

さて、しかし、本日私は、教会の宣伝をするためにここに参加させていただいたわけではありません。

今やわたしたちの国の中で、グラグラ揺れているどころか、実体としては全く骨抜きにされ、有名無実化されてしまったと言わざるをえない「日本国憲法第九条」とその平和主義を何とかして守りぬくために、私のような小さき者にできることがあるならば何でもさせていただきたいという一心で、参加させていただきました。

「 日本国憲法第九条

① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。                              」

なんと高貴な、そして、なんと美しい思想でしょうか!

平和の喜びを享受することこそが、全人類・全世界の希望であり究極目標であるということに、多くの異論があるのでしょうか。

その目標になんとかして到達しようと真に願う者たちにとって、「戦争」と「武力」は、国際紛争を解決する手段にはならず、かえって未解決の要素を増幅させ、世界を混沌に陥れる手段にこそなるのだということを、わたしたちは、60年前の事例を持ち出すまでもなく、ここ数年間に起こったさまざまな出来事を通して、身に沁みて確信していることではないでしょうか。

「今こそ戦争を始めるべきだ」と考えている人がこの国の中に何人いるのでしょうか。そのようなことは誰も望んでいないのではないでしょうか。ところが、今やわが国はこの「戦争」と「武力」を再び手にし、わがものとして自由に行使できるように道を整えようとしています。「戦争」と「武力」を「永久に放棄する」という約束を放棄し、破棄しようとしています。「誰も望まない戦争」を誰が始めようとしているのでしょうか。

私が日本国憲法第九条の平和主義を固く守るべきだと信じる第一の理由は、ここにあります。つまり多くの人々の願いは「戦争をしないこと」なのであって、わたしたちの思いはこの第九条に書かれているとおりの言葉で説明されるのがふさわしいということです。

教会で子どもたちにいつも教えているのは「約束は守ろうね」ということです。聖書は、約束を守ることができないことを指して「罪」と呼ぶのです。無意味で・無価値で・有害無益な約束ならば固く守る必要はないかもしれません。そのようなものに縛られるべきではないと言わなければならない場合もあります。

しかし、もう戦争はしません、もう武力を手にしませんという、これほど尊い約束を、なぜ破ろうとしているのでしょうか。全く理解に苦しみます。

またもう少し別の観点から申しますと、私が日本国憲法第九条の平和主義を固く守るべきだと信じているもう一つの理由として、この場においてはごく個人的な意見になるかもしれませんが、これがやはり、わたしたち教会の者たちにとっては、イエス・キリストと新約聖書の教えに一致している、ということにおいて重大な事柄として受けとめるべきであるということです。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5・9)

「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイによる福音書5・39)

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書5・44)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」(ローマの信徒への手紙12・18~19)

「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマの信徒への手紙12・21)

新約聖書には他にもたくさんの平和に関する教えがあります。聖書において「平和」とは個人的な意味での「心の平安と喜び」と社会的な意味での「戦争のない状態」との両方がいわば同時に実現していることを示しています。

それでは、歴史の中の教会はいわゆる絶対平和主義の立場をとってきましたか、あるいはまた、完璧な意味での非暴力主義の立場をとってきましたかと問われるなら、必ずしもそうとは言い切れませんとお答えしなければなりません。

歴史の中ではむしろ教会こそが、キリスト教こそが戦争の当事者であり続けてきたのではないかと非難されることが多くあります。本当にそのとおりであると、恥じ入るばかりです。

日本の教会も、60年前の第二次世界大戦の際に軍部の指令に屈し、自ら信じる神にささげる礼拝の中で同時に「宮城遥拝」を行うことによって国民の戦意を奮い立たせることに加担しました。そのことを、わたしたちは深く反省しています。二度とそのようなことが起こらないよう不断の注意を払っています。

松戸小金原教会が所属する「日本キリスト改革派教会」は通常年一回開く大会(教派の最高決議機関)で靖国神社問題や日本国憲法の平和主義の堅持についてのステートメントを採択し、教会自身のある意味での「政治的態度決定」をしております。

もちろん、「教会」自体は「政党」ではありませんので、国会等の議席を獲得するための選挙運動などはしておりませんし、すべきでもないと考えております。

しかし、ドイツやオランダなどにある「キリスト教民主党」のような公党が今の日本には存在しない以上、思想的に近い立場の政党や市民運動を応援することが、教会として、またキリスト者としての政治的責任を果たして行く道であると信じております。

「小金原憲法九条の会」がこれからもますます発展していきますよう期待しております。

(2005年5月19日、小金原憲法九条の会第二回例会、於小金原市民センター)