ルカによる福音書8・26〜39
関口 康
今日の個所に紹介されている出来事は、マタイによる福音書8・28〜34、そしてマルコによる福音書5・1〜20にも紹介されています。
ただし、マタイは、悪霊にとりつかれていた人は、二人いた、としています。それ以外の点は、だいたい同じです。この点だけ注意しておきたいと思います。
「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。」
「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」とあります。カファルナウムの港から舟に乗ってガリラヤ湖をわたった向こう岸、舟から上がったところの町です。
今はフェリーが動いています。フェリーを降りたら、港の近くにピーターズフィッシュ(ペトロの魚)と呼ばれる魚の料理を食べさせてくれる食堂がありました。
そのように、今では観光地になっています。
バスガイドが、「この場所で、イエスさまが悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出され、その悪霊が豚の群れに取りつき、その豚の群れが湖になだれ落ちていったのです」と、一つのなだらかな丘を指差して、見せてくれました。
そのように、今では、まるでごく普通の昔話のように、一つの語り種になっているのが今日の出来事です。
「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」
この男性を、変わった人だ、とか、かわいそうな人だ、というふうに見ることが妥当かどうか、そのような見方が正しいかどうかは、微妙です。
過去の彼の身に何があったのかというようなことは、何も知らされていません。
ただ、ほかの人々から見て、普通でないと感じられる格好をし、また普通の人なら住みたいとは思わないような場所に住んでいたことだけは、たしかです。
たとえば、今の日本の国の中で、この人と同じような格好をし、また同じような場所に住んでいる人がいたら、おそらく、ただちに警察の人が飛んで行って、事情を聞くなり、保護するなり、何らかの処置をするでしょう。
この人が、そのような何か特殊な事情を持った人である、と見られても仕方のないような格好、また生活をしていた、ということは、否定できません。
しかし、この人は、イエスさまを見ると、大声で何かを言いはじめた、ということが、次に記されています。
「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。」
このような展開は、イエスさまならば当たり前だ、と考えることができるでしょうか。
たとえば、わたしたちならば、です。
この人のような、なんとなく近づきがたいところをもった人物に初めて出会い、その姿や様子を目の当たりにしたときに、どのような態度をとるでしょうか。
どうしても、つい、距離をとってしまうのではないでしょうか。
おそらくどうしても、まず最初に少し様子を見るだろうと思います。すぐに近づき、すぐに声をかけ、その人とかかわりを持とうとはしないのではないかと思います。
おそらく、わたしもそうです。牧師のくせに何だ、と思われるかもしれません。しかし、そうしてしまうであろうことを否定できません。
初対面の人、しかも、ある種の特殊性というものを持っていると感じられる人に対して、何のためらいもなく、即座にかかわることは、難しいことです。
ところが、イエスさまは、違いました。
実際、すぐに、この人から、「かまわないでくれ!(余計なお世話だ!)」という反応が返ってきました。
しかし、イエスさまは、そのような反応は、いわば全くお構いなしに、彼のふところの奥深くに入り込んで行かれたのです。「汚れた霊に男から出るように命じられた」のです。
「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、『名は何というか』とお尋ねになると、『レギオン』と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。」
イエスさまは、その人の名前をお尋ねになりました。「名は何というか」。
あなたの名前は何ですか。それは、一人の人との人格的な関係を始める、はじめの一歩です。
わたしたちの存在に、名前が付けられています。
名前を呼ばれるときに、それはわたしである、と気づく。
名前を尋ねられるときに、わたしの存在に関心を持っている人がいる、ということに気づく。
それが、わたしたちの名前の持つ役割、あるいは意義です。
通常、わたしたちの名前は、親たちが決めるものです。生みの親であるか、育ての親であるかはともかく、です。親の子に対する思いなども、名前にこめられています。
イエスさまは、その人の名前をお尋ねになることによって、その人との人格的かかわりを始めようとされました。
ここに、イエスさまの、人々に対する、基本的な姿勢がある、と言えます。
誰に対しても、です。
「かまわないでくれ、余計なお世話はごめんです。かかわらないでほしい」と言い出すことが分かっているような相手であっても、です。
これで分かることは、イエスさまは、この人のことを「恐ろしい人である」というふうには全く考えておられなかったに違いない、ということです。
「人を恐れる」という言葉には、いろんな意味が含まれていると思われます。
最も悪い意味は、誰かある人自身を悪魔であると見ること、あるいは悪魔的であると見ることです。
そのような見方は、本当に間違っているものです。そのように見てしまいますと、その相手とのかかわりを、完全に断ち切り、遠ざけてしまうことになるのです。
「そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。」
ここに書かれていることは、わたしたちにとって躓きに満ちたものである、ということは、ほとんど確実です。
悪霊がその人から出て行ったとか、その悪霊が豚に取りついたとか、その豚が死んだらその人が正気に戻ったとか、このようなことを、そのまま受け入れなさい、と言われると、多くの人々が困ってしまうでしょう。
わたしは、ここに書かれていることを読んで、現代のような医学も何もない時代の話という面があると考えることは、ある程度、許されるであろうと考えております。
この記事は、歴史的・時代的な制約を持っている、ということが認められて然るべきです。
しかしながら、次の二つのことは、しっかりと受けとめられなければなりません。
第一は、今日の個所の最後に語られているイエスさまの御言葉の中に出てくる点です。
「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。この人の身に起こった出来事は「神がなさったこと」である、というこの点が、重要です。
悪霊が豚に取りついて云々、という一つ一つの描写の是非はともかく、その一切を「神がなさったこと」として受けとめることができれば、わたしたちとしては十分である、と思われるのです。
そしてまた第二に重要な点は、この人、つまり「悪霊に取りつかれている」と自他共に認めてきたこの一人の人が、イエスさまのみわざによって、正気に戻ったこと、自分自身を取り戻すことができたというこのこと、この結果そのものです。
途中のプロセスがどうであるかはともかく、です。
イエスさまも、これは「神がなさったこと」であるというこのこと、また結果そのものを重視されました。
イエスさまは、町の人々から出て行ってくれと言われたとき、あまり食い下がりませんでした。
イエスさまご自身は、その人から悪霊が出て、それが豚たちに取りついて、その豚たちが死んだら、この人が正気に戻ったのだ。
だから、わたしがしたことは、この人を助けるためだったのだとか、
だから、自分のしたことに間違いはないのだとか、
非難を受ける筋合いはないのだとか、
そういうことは何もお語りになりませんでした。
それどころか、町の人々に対しては、ほとんど何も言わず、再び舟に乗り、ガリラヤ湖をわたって、カファルナウムへとお帰りになりました。
これは神がなさったことである、ということ。また起こった出来事そのもの、この一人の人が、自分自身を取り戻すことができた、というこの出来事そのものに満足されました。それでご自分の役割は終わったとして、その町を立ち去られたのです。
「そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」
この人は、自分の家に帰ることができたでしょうか。家族は、彼の帰りを待っていたでしょうか。そのようなことは、何も分かりません。
しかし、自分自身を取り戻し、自分の家に帰ること、自分の本来の姿に立ち返ること、これができるときに、ひとは「救い」の喜びを、静かに味わうのです。「救い」とは、特殊な出来事ではありません。
そのための道、この人がこの人らしさを取り戻す道を、イエスさまは、開き示してくださったのです。
安心して、わが家に帰ることができる。
そのことこそが、“驚くべき救いの出来事”なのです。
(2005年6月5日、松戸小金原教会主日礼拝)