2017年11月21日火曜日

上総大原教会クリスマス礼拝ご案内

今年のクリスマス礼拝は日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696)で説教させていただきます。2017年12月24日(日)午前10時30分から12時迄。遠方の方も初めての方も大勢でおいでください。サーファーの方はウェットスーツ持参でどうぞ。心から歓迎いたします。

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*PDF版はここをクリックしてください。掲示・配布・拡散のご協力をお願いします。

2017年11月20日月曜日

オランダ改革派神学への手引き

ヘルマン・バーフィンク著『改革派教義学』全4巻(オランダ語版)

「オランダ改革派教会」の狭義の「教義学者」の中で著書の日本語版がある人として、アブラハム・カイパー、ヘルマン・バーフィンク、クラース・スキルダー、アーノルト・ファン・ルーラー、ヘンドリクス・ベルコフの5人を挙げることができる。ただし、他国に移住したオランダ人神学者は、もっといる。

しかし、日本語版はいまだにないが重要な「オランダ改革派教会」の狭義の「教義学者」は、他にも多くいる。挙げていけばきりがないが、オランダ国内で「大」神学者と呼ばれているウプケ・ノールトマンス、コルネーリス・ハイコ・ミスコッテの2人と、ヘリット・ベルカウワーの存在を無視すべきでない。

「オランダ改革派教会の」と書いたが、すべて「当時の」という連体修飾語を語頭に加える必要がある。スキルダー以外の7人の「当時の」所属教団は、現時点では存在しない。彼らの教団は、2004年の合同によって生まれた「オランダプロテスタント教会」(Protestantse Kerk in Nederland)へと合流した。

しかもノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラー、ベルコフの4人と、カイパー、バーフィンク、ベルカウワーの3人と、スキルダーは、最終的な所属教団が異なる。最初の4人はNederlandse Hervormde Kerk(略称NHK)に所属し、次の3人はGereformeerde Kerken in Nederlands(略称GKN)に所属した。

細かく言えば、カイパーとバーフィンクは元NHK教師(牧師)だったが、カイパーがGKNを創設し、バーフィンクもGKNに参加したので、NHKからGKNが分離した形だ。スキルダーの最終的な所属教団はGereformeerde Kerken in Nederlands Vrijgemaakt(略称GKNV)である。スキルダーは元GKN教師(牧師)だった。

そのスキルダーが創設した教団がGKNVなので、GKNからGKNVが分離した形だ。GKNVは「オランダ改革派教会解放派」などと訳される。NHKもGKNも、英訳するとどちらもDutch Reformed Churchになるし、日本語訳するとどちらも「オランダ改革派教会」になる。このあたりはとてもややこしいので、注意が必要だ。

教団成立史の観点からみれば、NHKからGKNが分離し、GKNからGKNVが分離したので、NHKが最も古く、次に古いのがGKNで、最も新しいのがGKNVである。しかし神学思想史の観点からみれば、GKNのほうがNHKよりも古いものへと戻ろうとした。教団成立史上の「新しさ」と神学思想史上の「新しさ」は一致しない。

GKNの「三大」神学者は、カイパー、バーフィンク、ベルカウワーでいまだに通用すると思われる。NHKの「三大」神学者は、ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラーである。私の主観的な判断ではなく、典拠がある。NHKの「三大」神学者について語られるとき、ヘンドリクス・ベルコフは含まれない。

なぜベルコフが「三大」神学者に含まれないかについて正確な事情は分からないが、独創性において秀でた「三大」神学者に対して、ベルコフは教義学の教科書を書くことに秀でていたからではないか。スキルダーが創設したGKNVは2004年に創設された「オランダプロテスタント教会」(PKN)に合流しなかった。

さて、ここから先は私見である。ノールトマンス、ミスコッテ、ファン・ルーラー、ヘンドリクス・ベルコフ(以上NHK)、カイパー、バーフィンク、ベルカウワー(以上GKN)の著書は、「今日における改革派神学」を本質的に解明するための少なくとも「必携」の書であり、可能であれば「必読」の書である。

カール・バルトとの関係をいえば、カイパーもバーフィンクも、バルトを知らないもっと上の世代である。ノールトマンス、ミスコッテ、ベルカウワー、ファン・ルーラー、ベルコフはバルトを知っている。明確にバルト主義者になったのはミスコッテであり、バルトにかなり近づいたのはベルカウワーである。

2017年11月15日水曜日

ユルゲン・モルトマンに影響を与えた20世紀の神学者:バルト、ボンヘッファー、ファン・ルーラー


Googleブックスで面白そうな本を見つけたので、無料で立ち読み。全部は読めないので、そのうち紙の本を購入したい。以下はモルトマンを描いている箇所のひとつ。

(試訳)

ユルゲン・モルトマンは1926年4月8日、ドイツのハンブルク近郊で生まれた。ヒトラーの戦争の不本意な徴集兵になり、戦争捕虜としてスコットランドに上陸し、そこで詩編を読んでキリスト教徒になった。そして神学を学び、最後はテュービンゲン大学の組織神学教授になった。 彼はカール・バルト、ディートリヒ・ボンヘッファー、アーノルト・ファン・ルーラーの影響を強く受けた。後年、ファン・ルーラーの宣教の神学が「バルトの後に神学なし(=バルトが神学を完成した)」という思い込みから私を解放してくれたと記した。初期バルト神学は神のラディカルな超越性を強調した。しかしモルトマンは、安息日、神のシェキナ(内住)、メシアの道、アドベント(キリストの到来)などのカテゴリーを用いて、神の存在を(人類の)歴史の中で確かめることを目指す。モルトマンの対話相手の中に、新マルクス主義者のエルンスト・ブロッホの哲学や数名のユダヤ教学者が含まれる。

(原文)

Moltmann was born on 8 April 1926 near Hamburg in Germany. He became an unwilling conscript in Hitler's war effort and landed up as a prisoner of war in Scotland where he became a Christian through reading the book of Psalms. He then studied theology and eventually became professor of systematic theology in Tübingen. He was deeply influenced by Karl Barth, Dietrich Bonhoeffer and Arnold van Ruler, whose positions have been discussed earlier in this volume. The latter's theology of the apostolate, he later commented, liberated him from the presumption that there could be no theology after Barth. While Barth's early theology emphasises the radical transcendence of God, Moltmann seeks to affirm God's presence in (human) history in terms of categories such as the Sabbath, God's Shekinah, the Messianic Way and the notion of adventus (the coming of Christ). Moltmann's conversation partners also include the neo-Marxist philosophy of Ernst Bloch and several Jewish scholars.

(Cf. Ernst M. Conradie (Ed.), Creation and Salvation: A Companion on Recent Theological Movements (Studies in Religion and the Environment / Studien Zur Religion Und Umwelt) p.136)

「亡命者の宗教改革」とカルヴァンの予定論の関係

日本語版(左)とオランダ語版(右)

オーバーマン『二つの宗教改革』第10章「カルヴァンの遺産」を毎日読んでいる。他の章も目を通したが、私の問いにあまりにも的確に答えてくれるのは第10章だ。オーバーマンほどの人が、神の選びについてのカルヴァンの教え(二重予定論)を、明確な論拠を挙げて擁護してくれていることが何より心強い。

第10章「カルヴァンの遺産」においてオーバーマンが強調しているのは、カルヴァンの宗教改革を決定づけもしかつ限界づけてもいる要因は、それが「亡命者の宗教改革の幕開け」だったという点である。そのことが神の選びについてのカルヴァンの教えと密接に関連していると、オーバーマンが主張している。

カルヴァンの宗教改革が「亡命者の宗教改革」であったことと神の選びについての彼の教えの関係をオーバーマンがどのように描いているかについては、自分の目で確かめてほしい。「神の摂理以外に我らの逃げ場なし」(Nous n'avons autre refuge qu'à sa providence)というカルヴァンの心の叫びが鍵だ。

2017年11月12日日曜日

キリストと共に生きる(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)

ヨハネによる福音書6章54~56節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

おはようございます。ご無沙汰して申し訳ございません。皆さんにお会いする機会はもうないかと思いましたが、新たにチャンスを与えられました。ありがとうございます。最後に千葉若葉キリスト教会に参りましたのは8月13日日曜日ですので、2か月半ぶりです。今日もどうかよろしくお願いいたします。

先ほど朗読していただきましたのはイエスさまのみことばです。このようなことをイエスさまがおっしゃったと、ヨハネが記しています。

すぐあとに「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と記されています。そして「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と記されています。

はっきり言えば、気味が悪い話だったのです。「わたしの肉を食べなさい、わたしの血を飲みなさい」と言われたイエスさまの言葉を文字どおりに受けとめたのです。それでとても耐えがたい言葉だと思えたので、イエスさまについていくのをやめたのです。

ただ、その「弟子たちの多く」の中に十二人の弟子が含まれていなかったことは、67節に書かれていることで分かります。「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた」(67節)。イエスさまから離れて行った弟子たちの中に十二人の弟子たち(十二使徒)は含まれていなかったということです。

しかし問題はイエスさまの言葉を聴いて離れて行った弟子たちのことです。その人々はイエスさまがおっしゃったことをまっすぐ受けとめたのです。まさに文字通り受けとめたのです。だからこそ、ついていけなくなったのです。

しかしもしそうだとすると、イエスさまから離れて行った人々が悪いと言えるでしょうか。その人々はイエスさまのみ言葉の真意を理解する力が足りなかった愚かな人々だった、というようなことが言えるでしょうか。

あるいはそれに対して、イエスさまから離れて行かなかった十二人の弟子たちはとても賢い人々であり、イエスさまの言葉を文字通り受けとめることをせず、いつも言葉の裏側を考えながら聴く人々だったので、イエスさまから離れなかった、というようなことが言えるでしょうか。

そして、もし仮に私がいま申し上げたようなことが言えるとして、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐ受けとめた人々は、その結果としてイエスさまから離れて行ったので間違っている。逆に、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐに受けとめないで常に言葉の裏側を読みながら聴いていた人々は、その結果としてイエスさまから離れなかったので正しい、というようなことが言えるでしょうか。

そういうふうに言ってしまうことに、私にはとても抵抗があります。わたしたちはいつも人の言葉の裏を考えなければならないのでしょうか。そういう人の話の聴き方自体に問題がないでしょうか。

なんとなく心が歪んでいる、ひねくれている人にならなければ、イエスさまの弟子になることができないのでしょうか。まっすぐ聞いてはいけないような話をしたイエスさまに責任はないでしょうか。人をつまずかせるようなことを言ったイエスさまが悪いと反発するのは、間違っているでしょうか。

しかし、そういうふうにまたはっきり言ってしまうのは、イエスさまから離れていった人々の言い分に加担することを意味します。加担するのは私は構わないと思います。しかし、そこで私はもう一方のイエスさまの側のことも考えます。

イエスさまは失言なさったのでしょうか。口を滑らして、人前で言うべきでないことをうっかり言ってしまわれたのでしょうか。それで弟子たちの多くが離れて行ってしまったので、大慌てで取り消そうとしても後の祭り、というようなことだったでしょうか。

それもおかしな気がします。それは違うと私は思います。イエスさまは明らかに、意図的にこのことをおっしゃっています。私がここで申し上げたいのは、イエスさまの言葉を文字通りまっすぐに受けとめたからこそつまずいたその人々のほうが悪いと私は思わない、ということです。

そういう話の聴き方を常に求められても困ると思う人々は多いでしょう。「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」という言葉を聞いた人々は、具体的に何を想像すればよいのでしょうか。聞いたとおりのことしかイメージできない人がいてもおかしくありません。

それではだれが悪いのでしょうか。最も正しいのはだれでしょうか。私なりの答えを申しますと、だれも悪くありません。イエスさまは失言なさったのではありません。イエスさまから離れていった弟子たちは、イエスさまの言葉を文字通りに受けとめたこと自体を責められるべきではありません。イエスさまから離れなかった十二人の弟子たちだけが特別に賢かったわけでもありません。

どちらが悪い、だれが悪いと犯人捜しをしたがるのは、わたしたちの悪いくせです。しかしそのようなことをついしてしまうことがあります。その理由も分かります。人がつまずく、離れていくという言葉を聴けば、わたしたちの胸が痛みます。それはわたしたちの眼前の教会の現実を考えざるをえないからです。どうすれば人が増えるか、どうすれば人が減らないかと、そればかりを考えてしまいます。原因究明を考えます。そしてつい、犯人捜しをしてしまいます。

私も教会の牧師でしたから、おそらく私の言葉につまずいて教会に来なくなったに違いない方々がおられたことを記憶していますし、自覚しています。別の教会に通っておられるのであれば安心ですが、そうでないなら私は一生謝り続けなくてはなりません。ただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。

しかし、ここで私が申し上げたいのは、教会に通う人々はイエスさまの弟子なのだということです。その中にいる人々が、もしイエスさまご自身の言葉を聴いてつまずいたということであれば、わたしたちにはどうしようもないと言わざるをえないのです。

わたしたちがイエスさまの言葉を勝手にオブラートに包んで飲み込みやすくしてみたところで、お腹の中に入れば効き目は同じです。体質に合わない人にとっては、副作用ばかり強くて、かえって体を壊してしまうことがありえます。

今私が申し上げているのは、冷たく突き放す意味で言っているのではありません。むしろ尊重する意味で申し上げています。そして、そんなのは逃げの一手だと思われることを覚悟して申し上げますが、イエスさまの言葉においても聖書全体の言葉においても理解できない、分からない、納得がいかない、つまずくと感じる箇所はたくさんあります。

多くの牧師たちが参考にしているような信頼されている学問的な聖書注解書を実際に読んでみれば分かることですが、この箇所は理解できない、よく分からない、納得いかない、つまずくと、その著者である聖書学者自身が書いています。聖書は分からないことだらけです。そういう本だと思いながら読む必要があります。

しかし、今日皆さんにお話ししようと思って準備してきたことの一番大切なことを、私はまだ言っていません。それをこれから申し上げます。

私が今日最も大事なこととして申し上げたいのは、イエスさまが弟子たちに「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」とおっしゃった言葉は他の言葉で言い換えることができないということです。

そうとしか言いようがないことなので、たとえそれで多くの弟子たちがつまずき、イエスさまから離れていく原因になったとしても、それでイエスさまが責められる理由にはならない、ということです。

つい最近、大きく報道された猟奇的な事件があったばかりですので、そういうのと混同されるのは避けなければなりません。しかし、いま申し上げているのも、人の話の聴き方の問題です。

「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」と言われて「はいそうですか、分かりました」と、言われたとおりに行動を起こすような猟奇的な人はそうそういないし、いたら困ります。そのようなことは通常ありません。しかし、イエスさまとしては、そうとしか言いようがない、他の言葉で言い換えることができない、そのような思いでこのことをおっしゃったのだと考えることができると思うのです。

「私は思います」と説教で言いますと、厳しく批判されることがあります。「牧師の意見など聞いていない。我々は神の言葉を求めているだけだ」と猛烈に反発されることがあるのですが、そういうのも人の話の聴き方の問題です。はっきり言えることについては、はっきり言う。はっきり言えないことについては、はっきり言わない。断言できないことは断言しない。それもわたしたちが聖書を読むときに大事なことです。

別の言葉で言い換えることができない言葉は、聖書の中にたくさん出てきます。たとえば「神さま」は他のどの言葉で言い換えることができるでしょうか。「救い」という言葉はどうでしょうか。「罪」という言葉はどうでしょうか。

「聖書は現代人にはよく分からない書物なのだから現代人の言葉に置き換えることによって分かりやすくすべきである」という議論がなされることがあります。しかし、そう言われてもどうしようもない、他の言葉で置き換えようのない言葉が、聖書の中には満ち満ちています。

「わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい」とイエスさまが弟子たちにおっしゃったことは、実はおそらく文字通りの意味しかありません。イエスさまは本当に、本気でそう思われたので、そうおっしゃったのです。

そういうふうに言いますと、みなさんは驚かれるでしょうか。しかし、全く同じではないかもしれませんが、ここでイエスさまがおっしゃっているのと似ていることをわたしたち自身が考えたり言ったりすることはありうると、私は思うのです。それとも、こんなことはたったの一度もお考えになったことも言ったこともないでしょうか。

たとえばわたしたちは「あなたにわたしのすべてをあげる」とだれかに言ったことはないでしょうか。私はたぶん言ったことがあります。妻に。あるいは子どもたちに。みなさんはないでしょうか。そういうことを、いまだかつて一度も考えたことがないでしょうか。

そんなはずはないと思うのです。口にしたことがなくても、考えたことくらいはあると思うのです。それとも、あなたのものはわたしのもの。世界のすべてはわたしのもの。わたしのものはわたしのもの、でしょうか。それはあまりにも個人主義的すぎないでしょうか。利己的すぎないでしょうか。

イエスさまは弟子たちに、本当にご自分の肉を食べ、血を飲んでもらいたかったのだと思います。このたびこの箇所を改めて読み直してみて、そう思いました。

そして、これはイエスさまが弟子たちに、そしてわたしたちに示してくださった愛の究極表現であると思いました。その意味を言うとしたら、「あなたにわたしのすべてをあげる」ということだと思います。

自分の分をしっかりとキープして「残ったかすをあなたにあげる」とイエスさまは言っておられません。「あなたはあなたで生きてください、わたしはわたしで生きていきます」とも言っておられません。

今日の箇所の言葉は、私が言っていることではなくイエスさまがおっしゃったことですので、私が勝手にオブラートに包むことはできません。しかし、どうかみなさんはつまずかないでいただきたいと願っています。

イエス・キリストと共に生きるとはそのようなことです。キリスト者であるというだけで、世間の中で誤解されたり、教会の中ですら難しい要素があります。しかし責任はすべてイエスさまがとってくださいます。

(2017年11月12日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

2017年10月17日火曜日

岡山市内にも大空襲があった

岡山市内にも大空襲があった。私の母方の祖父は山陽新聞の記者だった。私が生まれる前に亡くなったので会ったことはないが、祖母が持っていた戦時中の報道写真を見せてもらったことがある。岡山の今の繁栄は戦後復興の証しだ。今の平和憲法を破棄したい人は岡山にいないと私は信じる。選挙結果を待つ。


2017年10月16日月曜日

どうすれば人を好きになれるか(関西学院大学)

理工学部チャペルアワー(2017年10月16日、関西学院大学三田キャンパス)

ローマの信徒への手紙7章19~20節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」

関西学院大学のみなさん、はじめまして。関口康と申します。今日はよろしくお願いいたします。

私は千葉県に住んでいます。昨日電車で三田(さんだ)まで来ました。しかし、私は生まれも育ちも岡山です。岡山朝日高校の卒業生です。みなさんの中に岡山の方はおられませんか。

岡山の高校生にとって関西学院大学は憧れ中の憧れの大学です。その関西学院大学でこのようにしてお話しさせていただく機会を与えられましたことは、私にとっては光栄の極みです。ありがとうございます。

私が今日選ばせていただいたテーマは「どうすれば人を好きになれるか」というものです。しかしこれからお話しするのは、大学生のみなさんへの恋愛指南のような話ではありません。私はそういう話ができるタイプの人間ではありません。

そうではなく、聖書やキリスト教についてのよくある誤解に関することです。しかも、どちらかといえば真面目な人や熱心な人が抱きやすい誤解です。しかもそれは、聖書の中途半端な読み方に起因する誤解です。

それは何かといえば、学校であれ教会であれ、聖書とキリスト教を学びはじめ、その学びが次第に面白くなり、聖書に出てくる神さまのことが好きになってきた人々の中に、極度の「人間嫌い」になる人々が出てくる、という問題です。

もともと人間嫌いだった人が宗教にハマり、現実逃避に走るようになったという図式に当てはまる場合がないとは言えません。しかし、その順序だけでなく、もともとは人間愛に満ち満ちていたような人が、聖書を読みはじめ、聖書に出てくる神さまを知るようになると、だんだん人間嫌いになっていくという順序の場合もあります。

その人々が口を開いて「人間」もしくは「人間的」という言葉を発すると、それは常にネガティヴな意味です。「あの人は人間だ」という言葉がなぜか常に悪い意味です。「あの人は人間的な人だ」と言えば、その相手に対する最大限の侮辱の言葉です。

しかし、考えてみればおかしな話です。人間とは人間であると言っているだけです。人間と人間を等号で結んでいるだけです。ただの同語反復です。それがなぜかいつも悪い意味なのです。

その原因は比較的単純です。「あの人は人間だ」とか「あの人は人間的な人だ」という言葉を常にネガティヴな意味でしか言わなくなる人々は、人間を神と比較しているのです。その人々は神と人間を対比し、両者を対立関係でとらえています。だから「人間」は常に悪い意味になります。

神は完璧で偉大な存在である。その神と比べると人間は不完全で失敗だらけ。ひどく愚かで罪を犯す。そんな人間を愛することなど私には不可能である。存在の価値すらないゴミのような存在であるとしか認識できない。もはや憎しみと軽蔑しか感じない。このようなことを真顔で言い出す人々がいます。

私は、それはとてもまずいことだと思っています。そもそも神と人間と比較すること自体が問題です。次元の違う存在同士をどうすれば比較できるのでしょうか。

しかし他方で、これは一筋縄で片づけることができるような単純な問題ではないとも考えています。なぜでしょうか。「それでは人間は全面的に肯定できる存在なのか」という深刻な問いが必ず残り続けることになるだろうと思えてならないからです。

自然という自然をめちゃくちゃに破壊してきたのは人間です。人が2人いればすぐにケンカになる。3人いれば収拾がつかなくなる。常に争い合い、憎しみ合い、傷つけ合うのが人間です。こんな存在を無条件に全面的に肯定することができるでしょうか。そんなことをしてよいでしょうか。それもそれでまずいことのような気がしてなりません。

しかし、その場合の問題は、人間を相対化する方法は何かということです。神を信じない人は神の存在を前提にして考えることはできませんので、神以外の何ものか、しかも人間よりも大きな存在と人間を比較して、人間を相対化するしかないと思われます。

たとえば宇宙や地球と人間を比較すれば、人間がいかに小さく無力で無能であるかを少しくらいは思い知ることができるかもしれません。

しかしそれだけでは生ぬるいのではないでしょうか。その話には深みが全くありません。その方法では人間の罪の問題を指摘することができません。人間はもっと責められる必要があるのではないでしょうか。

先ほど朗読していただいたのは、使徒パウロのローマの信徒への手紙7章19節と20節の言葉です。ここに書かれていることを一言で言えば、人間とはいかに矛盾し、内面的に葛藤する存在であるかということを、ある意味でパウロ自身の告白として、しかしまたすべての人間の普遍的な現実として、嘆き悲しんでいる言葉です。

「わたしは望んでいる善を行わず、望まない悪を行っている」(19節)と書かれています。善いことをしたいという願いはある。悪いことをしたくないという願いもある。しかしその願いに反して自分は悪いことをしてしまう。自分の意志を自分でコントロールできない状態です。

それでパウロはとんでもないことを言います。「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(20節)。

こんな言い訳が通用するでしょうか。「私がしたのではなく、私にとりついたバルタン星人がしたことです。だから私は悪くありません。信じてください」と言っているようなものです。こんな話をだれが信じてくれるでしょうか。

しかし、こうとでも言わないかぎり到底説明できないほどまでに人間とは激しく矛盾に満ちた存在であるということについては、全く理解できない話ではありません。この箇所に描かれているのは、自分の罪の問題を抱えて葛藤し、苦しむ人間の姿です。

さて、そろそろ結論を急ぎます。今日のテーマである「どうすれば人を好きになれるのか」という問いの答えです。二つの可能性を申し上げておきます。ただし、あくまでも「論理的な」可能性です。考え方の筋道としてありうるというだけです。

第一の可能性は、聖書を読むのをやめることです。そうすれば極度の人間嫌いに陥らなくて済むかもしれません。私は牧師ですのでこういうことを言ったということだけで問題になるかもしれませんが、ひとつの可能性として否定することはできません。

聖書を読むのをやめるとは、人間以上の存在としての神を知ることをやめることです。神や宗教のようなことを考える思考回路を完全に取り外してしまうことです。そうすれば、神と比較して人間をおとしめるようなことを考えなくて済むようになるでしょう。

そしてそうなれば、人間を上の方から抑えつけて批判し非難する存在はもはやどこにもいません。人間はすべてのプレッシャーから解放され、世界最強のルールとなります。誰も人間を裁くことはできません。まさに人間最強説です。

しかし、もう一つの可能性があります。それは、もっと深く聖書を読むことです。聖書の真意を理解することです。そうすれば、人を好きになれるかもしれません。

「聖書を読むと人間嫌いになる」というのは、実は聖書の誤解であり、中途半端な聖書の読み方です。

たしかに聖書は人間の罪深さ、愚かさ、惨めさを容赦なく描いています。人間がいかに激しい自己矛盾を抱えて悶々と葛藤し続ける存在であるかを聖書は知っています。読めば読むほど自分が人間であることが嫌になるようなことが聖書に書かれているのは事実です。しかし聖書に書かれているのはそれだけではありません。

小さく愚かで惨めなわたしたち人間を、神はイエス・キリストにおいて無条件に愛してくださり、受け容れてくださっているということを、聖書は確かに記しています。今日の聖書の箇所の続きにパウロが書いているのも、そのようなことです。

聖書をもっと深く読めば分かるのは、そういう神がおられるということです。神が人間を愛してくださっている。そしてわたしたち人間は神に愛されている存在であるということです。

もし神が人間を愛してくださっているなら、そんな人間を私も好きになってみようかと、もしそのように考えることができるようになれば、今よりもっと人を好きになることができるようになるかもしれません。

(2017年10月16日、関西学院大学理工学部チャペルトーク)

トーク序盤
トーク中盤
トーク終盤
掲示板
宗教主事室
ランバス先生
ランバス礼拝堂
雨天でした

関西学院大学理工学部チャペルアワー 報告

関西学院大学理工学部チャペルアワー(2017年10月16日)

本日(2017年10月16日月曜日)関西学院大学理工学部チャペルアワーでチャペルトークをさせていだだきました。好意的なレスポンスを複数いただきました。ありがとうございました!

2017年10月13日金曜日

関西学院大学理工学部チャペルアワー 予告

関西学院大学理工学部(兵庫県三田市)

来週月曜日(2017年10月16日)関西学院大学理工学部(兵庫県三田市)のチャペルアワー(礼拝)で「どうすれば人を好きになれるか」というテーマでチャペルトーク(説教)をさせていただきます。理工学部の皆さまよろしくお願いいたします。

2017年10月11日水曜日

講演「イエス・キリストを模範とすること」

国際基督教大学高等学校キリスト教講演会(2017年10月11日)

講演会の様子が「ICU高校 スクール・ナウ!」に画像付きで紹介されています!

ICU高校 スクール・ナウ!(画像をクリックするとサイトが表示されます)

関口 康(日本基督教団牧師)

はじめに


国際基督教大学(ICU)高等学校のみなさま、はじめまして。関口康です。職業は牧師です。今日は3年生向けのキリスト教講演会の講師としてお招きいただき、ありがとうございます。

キリスト教講演会です。私は牧師です。本来でしたら聖書を開いて説教すべきかもしれません。しかしこれは講演会です。これからお話しするのも「説教」ではありません。そうではなく、これからお話しするのは「お説教」です。

宗教主任の岡田朋記先生からご依頼をいただいたときに言われたのは、大学受験を控えた3年生の励ましになるようなお話をしてくださいということでした。

私自身は受験勉強を真面目にしなかった人間ですので偉そうなことは言えません。しかし、自分の子どもたちの高校受験や大学受験をサポートした経験はあります。とても口うるさい父親で、子どもたちからすっかり嫌われています。

私は教会では「説教」をしますが、家では「お説教」をします。これからお話しするのも「お説教」です。「うるさいなあ」と思いながら聴いていただけますと幸いです。 

Ⅰ 人助けのスキルを身につけること


私が卒業した大学は、すぐそこの東京神学大学です。「三鷹市大沢3丁目」までICUと同じ住所です。岡山の高校を卒業してストレートで入学しました。そして大学院までの6年間、大学の敷地内の学生寮に住んでいました。大学に入学したのが1984年4月、大学院を修了したのが1990年3月です。

東京神学大学に在学していたとき、ICU高校には大変お世話になりました。実は食堂をしょっちゅう使わせていただきました。東京神学大学には食堂がないのです。昼食も夕食も外で食べるのです。それでICUやICU高校の食堂を、私だけでなく東京神学大学の人はみんな使わせていただいています。最近のことは知りませんが、おそらく状況は変わっていないと思います。

ですから、この学校の食堂にちょっとダサメの服のお兄さんお姉さんおじさんおばさんがいたら、東京神学大学の学生かもしれません。ぜひ声をかけてあげてください。必ず喜んでくれます。聖書の話とか詳しく教えてくれるかもしれません。

もうひとつ忘れられない思い出があります。それは悲しい話です。みなさんの中にいつも利用している方がおられると思いますが、本校の北門を出て東京神学大学の前を通る道の突き当りのバス通りに「西野」というバス停があります。私が大学院生だったときなので1988年か1989年ですが、西野のバス停の前で本校の女子生徒が交通事故に遭いました。そのとき私もそこにいたのです。

私もバスに乗ろうと思って道路の向こう側に渡ろうとしていたとき、「どんっ!」という大きな音がしたので、音の方向を見ると女子生徒が倒れていました。私もびっくりして思わず駆け寄りましたが、どうしてあげることもできませんでした。自分の無能さを思い知りました。

ただ、加害者が逃げそうだったので、私が大きな声で「逃げるな!」と怒鳴った記憶があります。そして、携帯電話を誰も持っていなかった頃ですので、交差点の斜め向かいの酒屋の前の公衆電話の近くにいた人に大きな声で「早く警察に電話してください!」とお願いしました。

そしてごめんなさい、女の子でしたが手を握らせていただいて、「大丈夫だから、大丈夫だから」と声をかけさせていただきました。その方は苦しそうな小さな声で「ありがとうございます」と言ってくださいました。するとまもなく警察と救急車が来てくれました。その後もその方がどうなったかを心配していましたが、何か月か後に「無事です、元気です」と風の便りに聞き、ほっとしました。

ですから今日の最初にお話ししようと思ったのは、くれぐれも交通事故には気を付けてくださいということです。今日私も電車とバスで来ました。西野のバス停で下りました。ここに来るたびにその日のことを思い出します。

そしてこのようなことをお話しする理由は、みなさんの教訓にしていただきたいからです。自分の目の前に、たとえ見ず知らずの人であっても、事故に遭い、命の危険がある人がいるとき、みなさんはどうしますか、何ができますか。そのことを考えていただきたいのです。

先月終わったフジテレビの月9ドラマをご覧になりましたか。「コードブルー」。私は夢中で観ました。あのドラマの若い医師たちのように事故現場でいきなり頭にドリルで穴をあけて脳の外にたまっている血を外に出すとか、胸やお腹をメスで切って自分の手を突っ込んで心臓マッサージを始めるとか、そんなことができる人はそうそういません。

もし皆さんの中にそういうお医者さんをめざしている方がおられるなら心から応援します。しかし、私が皆さんにお願いしたいのは、もっとずっと手前のことです。自分の目の前に命の危険がある人がいる、助けを求めている人がいる、そのときみなさんはどうしますか。忙しいから無視する、自分の都合を優先する、ということでいいでしょうか。それを考えていただきたいのです。

そして、そういう人を助けることができるスキルをみなさんに身につけていただきたいと願っています。

Ⅱ 人間にもっと関心を持つこと


今申し上げたことをもう少し抽象的な別の言い方で言い直しますと、それは次のようなことです。皆さんは人間に関心がありますか。今日の私の第二のお願いは「人間にもっと関心をもってほしい」ということです。

そんなことを言われなくても、家族や学校の友達や先生たちには関心があると言いたい人は多いと思います。それと、急に遠く離れてテレビやネットの俳優さんや声優さんや歌い手さん、また政治家や有名人にも関心があると思います。問題は近い人と遠い人のあいだの中間にいる人たちです。距離的にも心理的にも近い人たちと、逆に非常に遠い人たちのあいだの中間にいる人たちのことです。

はっきりいえば、知らない人です。電車やバスでたまたま一緒にいる人たち。町を歩いているときにすれ違う人たち。行ったこともない他の国の人たち。いちいち気にしていると気が変になりそうだと思うほどたくさんいる世界中の人たちのことです。35億の2倍の70億の人です。

そんなことを言われても困ると思う人がおられるのは分かっています。電車やバスの中で知らない人に関心をもっていつもじろじろ見ていたりすると「ストーカーですか」と言われるかもしれません。私が言いたいのはそういうことではありません。

ならば何を言いたいのでしょうか。こんなふうに言われるとますます腹が立つかもしれませんが、「みなさんは自分の周りにいる人々を自分と同じ人間だとどれほど認識できていますか」というようなことです。それは、この学校の皆さんにはきっと理解していただけることだと思っています。

こんなことを部外者に言われたくないかもしれませんが、ICU高校の皆さんは全国的に見てもトップレベルの優秀な方々です。私なんか逆立ちしても入学させてもらえません。私は逆立ちできませんが。

しかし、みなさんは私からこういうことを言われると、たぶん嫌な気持ちになるのではないかと想像します。勉強を一生懸命がんばったから今の自分があるのだと、感じるのではないでしょうか。

途中の努力の部分をあなたは見たのか。何も知らない人に「あなたは優秀だ。みなさんは優秀だ」などと評価されたくないと思うのではないでしょうか。そういうことを言ってもよいのは私と同じか私以上の努力をし、苦しんだことがある人だけだと。今日初めて会ったばかりのあなたに何が分かるのか。私の、わたしたちの何を知ってるのかと。

先ほど言いました「みなさんは自分の周りにいる人をどれくらい自分と同じ人間として認識できていますか」という問いは、今申し上げたことと関係しています。

わたしたち人間にはプライドがあります。それは誇りであり、「矜持」です(「矜持」は漢検一級レベルの言葉ですので、ぜひ覚えてください)。しかし、それは他の人も同じであると私は言いたいのです。もしあなたにプライドがあるとしたら、あなたの周りにいる人々にも、あなたと同じだけあるのです。

そしてそれは、はっきり言えばしばしば屈折しています。「あなたは優秀だ。みなさんは優秀だ」という言葉は褒め言葉のはずですが、そんなふうに言われても全然うれしくない。むしろ腹が立つ。そこで起こるのは、自分のことを何も知らない人に自分の「評価」などされたくないと思う心です。よほど尊敬できる先生ならともかく、普通のおじさんのくせに知ったふうなことを言わないでほしいという思いです。

いかがでしょうか。そんなことを自分は一度も考えたことがないという方がおられるようでしたら、お許しください。しかし、その思いは大なり小なりみんな持っています。それをどこまで互いに尊重し合うことができるかが問題です。

Ⅲ 上を目指して突き進むこと


いま申し上げたことと、その前に言いました、電車やバスでたまたま一緒にいる知らない人に関心を持つこととがどう関係するのかと思われるかもしれません。その関係をこれから説明します。

先ほども言いましたが、今日はバスと電車で来ました。私はバスにも電車にもよく乗りますので、これからお話しするのは今日の話ではありません。それはたいてい夕方ですが、高校生たちが学校が終わって家に帰る電車やバスの中で繰り返し見かける光景であり、そのとき耳にする話し声です。

どこのバス停やどこの電車の駅から乗ってきたかでどこの高校の生徒かが分かってしまうのですが、そのバスや電車に乗ってきたときから下りるまで、とにかくずっと、大きな声で大学受験の話をしている生徒たちがたくさんいます。

しかも、それはたいてい大学そのものの話ではなく、大学の偏差値の話です。この偏差値だと自分は入れるか入れないかと、いつまでも言い続けている。そういう話を他のお客さんが大勢いるところで、電車に乗ってきたときから下りるまでずっとしている。他に話題がないのかと言いたくなるほど。

その高校生たちの気持ちは私にも分かるのです。しかし残念な気持ちになります。特に私が気になるのは、その高校生たちにとって楽勝だと思っているほうの大学の話をしているときです。「あそこは偏差値が低いので誰でも入れる」とか「あいつはあの大学程度だろう」とか、そういう話。

失礼だと思いませんか。同じ車内にその大学を受験しようとしている高校生がいるかもしれません。その大学の学生や卒業生がいるかもしれません。むかし自分が受験しようとして失敗した大学の話だと思って聴いている大人の人もいるかもしれません。大学受験とか進路の話というのはすべての人に関係することなので、みんな黙っていますが、耳をそばだてて興味津々で聴いています。そして、その話を聴いて傷ついている人々がいます。

そういうことまで考えたことがありますかと、皆さんにお尋ねしたいのです。そして、そういう考え方や価値観を持ち続けているかぎり、大学生になっても、会社に勤めるようになっても、同じようなことをいつまでも繰り返すことになると思います。

厳しい言い方になりますが、中途半端な人がいちばん人を見くだします。本当に勉強している人は人を見くだしたりしません。上を目指している人は「上には上がある」ことを知っています。自分はまだまだこれからだということが分かっているので謙遜です。

しかし、中途半端な人は自分の下を見て安心しようとします。自分の下の人を見くだし続けることにおいてしか自分の位置を確認することができないし、安心できないのです。しかし、そういうのは本当にみっともない、見苦しい考え方や価値観であると言わざるをえません。

ですから、私は皆さんにはぜひ遠慮なく上を目指して突き進んでいただきたいと願っています。自分の下との比較なんかどうでもいいです。上だけ見てください。上を目指してください。そのほうが謙遜な生き方ができます。人を見くだすよりも、はるかにましです。

Ⅳ イエス・キリストを模範とすること


以上、どこがキリスト教講演会なのか分からないような内容で申し訳ありません。三点述べました。第一は「人助けのスキルを身につけること」、第二は「人間にもっと関心を持つこと」、第三は「上を目指して突き進むこと」。

しかし、最後はやはりキリスト教講演会にふさわしい内容にしなければならないと思っています。そこで申し上げたいのは、みなさんがこの高校で3年間学んだ聖書の教え、特にイエス・キリストの生き方がみなさんの生き方のモデルであるということです。

イエス・キリストは、困っている人なら知らない人でも助けてくださいました。そして、誰よりも謙遜に生きられました。そのお姿こそが、みなさんの人生の模範であり、モデルです。

しかし、それだけ言っても抽象的すぎて何のことか分からないかもしれませんので、具体的な提案を二点させていただきます。二つともカタカナの言葉です。第一は「ノブレス・オブリージュ」、第二は「ハイブリッド・シナジー」です。

第一の「ノブレス・オブリージュ」はフランス語です。英語で言えばnoble obligationです。その意味を噛み砕いていえば、身分や地位が高い人であればあるほど、その身分や地位にふさわしい人間でありうるために果たさなければならない義務や責任がある、ということです。それは、上の人が下の人々を見くだして偉そうにすることの反対です。偉い人ほどへりくだって、人に仕える人間になることです。

それはイエス・キリストの生き方そのものです。神の御子であられる方が人間になられました。父なる神のみもとで何不自由なく暮らせたお方が面倒くさい地上の世界に来てくださいました。そして、十字架にかかってわたしたち罪人のために死んでくださいました。イエス・キリストの上から下へおりてこられたその道に私たちも従うべきです。私たちも謙遜にならなければなりません。

第二の「ハイブリッド・シナジー」は最近の自動車のトレンドです。ガソリンエンジンと電動式モーターの両方を搭載した自動車の仕組みのことです。それがいまお話ししていることに関係します。

みなさんはこの学校で聖書とキリスト教を学びました。しかしここは学校です。学校とは「学問」(サイエンス)を教える場所です。それは可能でした。聖書科の先生がたは全員、宗教の教員免許を持っています。それは日本の文部科学省と各都道府県の教育委員会が「宗教を学校で教えること」を認めていることを意味しています。日本のミッションスクールの「聖書科」は他のすべての教科と全く対等な「学問」(サイエンス)であるということを、我々が持っている宗教の教員免許が証明してくれています。

しかし、おそらくみなさんが感じておられるのは、聖書科の授業や学校礼拝の説教は他の教科と性質が違うということでしょう。それは私もそのとおりだと認めます。しかし、性質が違うからこそ「ハイブリッド・シナジー」の生き方が皆さんに可能になっていると、私は信じています。

それは何のことかといえば、他の教科で学んだ徹底的な現代的科学的な考え方と、聖書とキリスト教の教えに基づく考え方とを「ハイブリッド・シナジー」の関係で両立させることが皆さんには可能になっている、ということです。「イエス・キリストの生き方に学びながら、徹底的に科学的に考えて生きること」が、ICU高校を卒業する皆さんには可能である、ということです。

どの学問も決して完璧ではありません。宇宙は謎だらけ、世界は謎だらけ、人間は謎だらけです。将来みなさんが何を勉強し、どのような働きに就くのかは、私には分かりません。しかし、私に分かるのは、みなさんがどの道を行くにせよ必ず行き詰まるときがくる、ということです。

宗教が完璧だと言いたいのではありません。宗教も謎だらけ、聖書もキリスト教も謎だらけです。だからこそ科学と宗教はタイアップしなければならないと私は考えています。そうすれば、どちらかが行き詰ったとき、もう一方のエンジンが力強く皆さんを前に運んでくれます。

皆さんのこれからの歩みのためにお祈りさせていただきます。

ご清聴ありがとうございました!

(2017年10月11日、国際基督教大学高等学校 キリスト教講演会)