2024年11月14日木曜日

教会学校のお知らせ

 

「教会学校のお知らせ」

すっかり秋ですね!朝夕は寒いと感じます。皆さんの健康と勉強の日々が守られますように、お祈りしています。

11月24日(日)、教会の「収穫感謝日」の午前9時より、子ども向けの「教会学校」を行います! 

聖書のお話、讃美歌、お祈り、おやつ、ゲームがあります。ぜひ出席してください。歓迎します!

日本キリスト教団 足立梅田教会

〒123-0851 足立区梅田5-28-9 TEL 03-3887-4010

adachiumedachurch@gmail.com    www.adachiumeda.church


2024年11月10日日曜日

アブラハムの模範

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「アブラハムの模範」

ガラテヤの信徒への手紙3章7~14節

関口 康

「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(7節)

今日の聖書の箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙3章7節から14節までです。

この手紙のパウロは、最初から最後までけんか腰です。聖書に慰めを求めて読むとがっかりする可能性がある文書であるということを、あらかじめご承知置きいただきたく願います。

1章1節からけんか腰です。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」

これで言いたいのは、この手紙を書いているわたしパウロは、人間によって使徒にされたのではなく主イエスと父なる神によって使徒とされた者なのだから、これからわたしが言うことを黙って聞きなさいと言っているのと同じです。

1章6節から事件の概要です。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」。

私が手塩にかけて育てたあなたがたに伝えたこととはまるで違う教えに、よくも早々と乗り換えようとしているのは一体何ごとか、と言っているのと同じです。「呪われよ」とまで言い出すと辛辣さがピークです。激辛です。

この手紙のすべてを一気に読むわけに行きませんので、かいつまんだところをピックアップしていきます。1章12節から始められるのは、パウロの証しです。

わたしパウロは先祖代々ユダヤ教徒の家庭に生まれ育ち、「神の教会」(キリスト教会)を迫害し、滅ぼそうとしていたほど熱心なユダヤ教徒でした。しかし、そのわたしを神が「母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって(使徒として)召し出してくださった」と言っています。

これで言おうとしているのは、自分の意志によらず、あるいは自分の意志に反して、このわたしパウロはキリスト教徒になり、キリストの使徒になったということです。

彼が目指していたのは、ユダヤ教の律法学者です。当時のユダヤはローマ帝国の属国でしたが、そのユダヤを統治する最高権力者会議たる最高法院(サンヘドリン)の議員になることが究極の夢でした。

最高法院の議員数は70名。議長・副議長を合わせれば71名か72名。そのメンバーはエリート中のエリートでした。

パウロはそれを目指してがんばっていましたが、その自分がなりたかった、なろうとした者にはなれず、就きたかった職業には就けず、最も忌み嫌っていたキリスト教徒になりました。自分の意志ではなく、神が決めた進路に進ませられることになったというニュアンスです。

パウロがキリスト者になったばかりの最初の頃にお世話になった人がいました。それが生前の主イエスの一番弟子、使徒ペトロです。1章18節以下の「ケファ」は使徒ペトロです。「ケファ」(アラム語)も「ペトロ」(ギリシア語)も「岩」という意味です。

「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」(1章18節)。

「それから三年後」(1章18節)はオリエントの数え方だそうで、その意味は「足掛け3年」ということで、「満」でいえば「2年」であると解説されている註解書があります。もしその解説が正しければ、「2年後」です。「アラビアに退いた」とか「再びダマスコに戻った」とか書かれています。その年数は書かれていませんが、年数よりも大事なのは、短期間だったことです。

5年も前ではなさそうです。「つい最近」と言える頃にはまだ熱心なキリスト教の迫害者、言い換えれば「教会の敵」であったこのわたしパウロにペトロは会ってくれた、ということはペトロがパウロを信用して受け入れたことを意味するわけですから、それだけでパウロにとってペトロは十分に恩人でしょう。

ところが、大事件発生。「その後14年経ってから」(2章1節)パウロは再びペトロに会っています。その場所はエルサレムでした(同上節)。この2人の3回目の会談が、今度はパウロがそのときいたアンティオキアのほうで行われました(2章11節)。

そのときです。パウロがペトロを面罵したというのです。パウロは、恩人ペトロを公衆の面前で怒鳴りつけました。そのときパウロが何を言ったかが、2章14節に記されています。

「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。

パウロの言い分は、ペトロを筆頭者とするエルサレムの教会の人たちが、洗礼を受けただけでは真のキリスト者ではなく、割礼を受けることによってこそ初めて真のキリスト者になることができる、というようなことを教える人たちにそそのかされて、その流れに飲み込まれ、異邦人教会に不当な圧力と過剰な負担を強いている、ということです。

生まれながらのユダヤ人たちは嬰児の頃に割礼を受けているので、儀式の最中はその痛みにきっと泣き叫んだでしょうが、恐怖の記憶が残っているわけではありません。しかし、異邦人の割礼の場合は、成人になってから受けるわけですから、とんでもない恐怖と痛みです。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」(3章1節)

パウロは強い落胆を隠しません。パウロが言いたいのは、聖書を読んでごらんなさいということです。

「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(創世記15章6節)と書かれているでしょう。「律法を行ったから義と認められた」とも「割礼を受けたから義と認められた」とも書かれていないでしょう。

モーセの出現はアブラハムのはるか後です。モーセの律法が生まれるまで誰も救われなかったのですか。そんなはずはないでしょうと言っているのです。キリスト者はアブラハムの模範に従うべきであるとパウロは言っているのです。

その意味は、神を信じるだけでいい、それ以外の何も求められていない、割礼を受けなければならないだなんてありえない、ということです。

こうしなければ、ああしなければ真のキリスト者ではないと、キリスト教信仰にあれやこれやと追加される要求に一切惑わされてはならないと、今日の箇所が、そしてガラテヤの信徒への手紙全体が、強く激しく訴えています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(2章6節)というのがガラテヤの信徒への手紙の中心テーマです。

教会も同じです。信仰だけでいいです。他になんにも要りません。手ぶらで大丈夫です。

(2024年11月10日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2024年10月27日日曜日

私たちが神をおそれる理由

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「私たちが神をおそれる理由」

マタイによる福音書10章26~33節

関口 康

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。

今日の箇所はマタイによる福音書10章26節から33節までです。10章1節に「イエスが十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(1節)とあります。多くの弟子の中から12人の使徒を主イエスご自身がお選びになり、世の中へと派遣されました。

主イエスはすべてをおひとりで抱え込んで、ほかのだれにも何もお任せにならないような方ではありません。神のみわざを共に担う仲間を集め、その人々に何を語り、何をなすべきかを教え、ご自身のみわざをお託しになる方です。

その一点において、主イエスは教会の牧師と同じです。ユダヤ教のラビとも共通しています。共通点は、上下関係ではないことです。役割分担です。

当時、主イエスは「およそ30歳」(ルカ3章23節)でした。使徒を「弟子」とも言いますが、ペトロたちが主イエスと年齢が大きく離れているとは考えにくいです。12人の中に主イエスよりも年上の人がいたかどうかは分かりませんが、いたからといっておかしいとも言えないでしょう。

皆さんがよくおっしゃるではありませんか、「役員会の中で牧師がいちばん若い」と。主イエスと牧師が「同じ」と申し上げているのは、その意味です。

私は皆さんの上司ですか、皆さんは私の部下ですか、そうではないでしょう。年齢が上だから先輩、下だから後輩、というような枠組みも、主イエスと弟子たちの関係とは無関係です。

「教える」というのも、学校の教員が生徒に対してすることとは違います。「まだ知らないことを知ってもらう」という点は同じかもしれませんが、「まだ知らないこと」の意味が違います。教科書に書いてあるとか、大人たちは知っていることを子どもたちにも分かってもらうことが学校の働きだとすれば、主イエスが弟子たちにされたのはそういうことではありません。

主イエスが弟子たちに「教えた」のは、このわたしは何者なのか、何を語り、何をするために今ここにいるか、です。わたしはキリストである。わたしは救い主である。わたしは神の言葉を伝えに来たのである、と。

それを「教える」ことで何をしておられるかといえば、このわたしと一緒に生きてほしい、わたしの目指す目標を共有し、みわざを共に担ってほしいと訴えることです。

「いやいや、学校の教師と生徒の関係も、会社の上司と部下の関係も、それと同じですよ」とおっしゃる方がおられるかもしれません。違いを強調する必要はないかもしれません。夢や理想を言葉にして伝え、力を合わせて実現する。「それは学校だって会社だって同じです」と言われれば、たしかにそうかもしれません。

一昨日、久しぶりにラーメン店に行きました。看板に「昭和29年創業」と書かれていました。1954年です。今年70周年。昨年70周年のわたしたちの教会とほぼ同じです。

帰宅後ネットで調べたら、最初は「わずか6坪の雨漏りのする食堂」だったが、現在は全国総店舗数400、年間延べ利用者数3500万人に成長。次なる目標は1000店舗。さらに海外への進出を目指し、「日本のらーめん文化をグローバルスタンダードにしたい」と書いてありました。今の社長さんは創業者の息子さんです。

聖書と関係ない話をしていると思っていません。主イエスと弟子たちの関係、そして主イエスと教会との関係はどういうものなのかを考えるための材料を提供しています。

今日の箇所は、いまご説明した話の流れの中に位置づけられています。これは主イエスが弟子たちを世の中に派遣されるに際しての激励の言葉です。そして、これはこのまま今のわたしたちに当てはまる言葉です。

聖書学者の言葉を借りていえば、今日の箇所(26~33節)の趣旨は「イエスの名を告白するとき、人を恐れないようにと勧めている」(J.T. ニールセン)、「総じて敵対的な人々を前にしてイエスを告白すべき弟子たちの教会に対し、慰めを語りかけようとしている」(E. シュヴァイツァー)などと説明されています。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26節)が「人々を恐れてはならないこと」の理由になっているのが、どうつながるのか分かりにくいかもしれません。

教会に敵対する人たちには大なり小なり隠しごとがあるが、そういうのは必ず発覚するものなので、そこで転んで失敗するでしょう、というような意味ではありません。そうではなく、「信仰を告白すること」自体を指していると読むべきです。

信仰告白とは「公に言い表すこと」です。隠れたまま、隠されたままがいつまでも続くことはないと、主イエスご自身がおっしゃっているのです。

「明るみで言いなさい」「屋根の上で言い広めなさい」も同じです。信仰を告白しなさい、公に言い表しなさい、ということです。

やや個人的な話になって申し訳ありません。思い出すことがあります。私の息子が中学生の頃だったので、15年ほど前です。2010年前後です。私は松戸の改革派教会で牧師をしていました。当時に限ったことではありませんが、特に当時、私は伝道に行き詰まりを感じていました。それで、中学生の息子に「お父さんどうしたらいいかね」と相談したのです。

息子の返事は即答でした。「商店街の真ん中で説教すれば?」と言いました。息子の言う通りだと思いました。

息子が中学生、娘は小学生。妻は福祉施設勤務。私は日曜日は教会。国民の祝日は、教団でいえば教区や支区のようなところ、改革派教会では中会・大会と言いますが、その会議だ修養会だ。それ以外にも自主的な研究会だ。

私はそのようなことの「準備」と称して、いちばん近くにいる家族に背を向けて、牧師室に引きこもって、パソコンの画面をにらみつけて書類を作ることに明け暮れていました。

その私の姿を、息子は苦々しく思っていたのでしょう。もっと教会の外へと出ていけばいい。商店街の真ん中で説教すればいい。内向きではなく外向きに語るべきだ、と。

その後、2016年から私は複数のキリスト教主義学校の聖書科講師として働きました。繰り返し思い出すのが息子の言葉でした。「商店街の真ん中で説教している」気持ちで授業をしました。「明るみで言いなさい」「屋根の上で言い広めなさい」も、趣旨は同じです。

「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことができる方を恐れなさい」(28節)とあるのは、信仰告白に伴う迫害や攻撃を恐れるなという主イエスからの激励の言葉です。殉教の可能性すらある中でも恐れるな。

聖書学者エドゥアルド・シュヴァイツァーが「魂」は「生命」と訳すべきであると提案しています。我々の信仰によれば、肉体の死をもってわたしたちの生命が終わるわけではないからです。神と共に生きる永遠の生命があるからです。

わたしたちと神との関係は、だれにも妨げることはできません。神がわたしたちを愛してくださるというのですから、神とわたしたちの関係はいつまでも切れません。神と共に生きることを指して「永遠の生命」というのです。

「わたしたちが神をおそれる理由」は、わたしたちが神の顔色うかがいをしなければならないからではありません。愛するに値しない罪深いこの私をも愛してくださる神の愛の大きさに恐れおののくのです。

(2024年10月27日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2024年10月6日日曜日

信じるものを求めている方々へ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信じるものを求めている方々へ」

ヨハネによる福音書11章28~44節

関口 康

「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14節)

今日の箇所に登場するのは主イエス。マルタ、マリア、ラザロの3人姉弟。そして数名のユダヤ人です。一連の物語が11章冒頭から始まっています。

3人姉弟のうちマルタとマリアはルカ福音書10章に登場する姉妹と同じです。ルカ福音書のその箇所にラザロは登場しませんが、必ず全員の名前を書かなければならないことはないでしょう。

3人の年齢順は分かりません。マルタが「マリアの姉」なのは明白です。「兄弟ラザロ」は2人の姉の「弟」とみなされることが多いですが、確証はありません。2人の妹の「兄」である可能性が無いとは言えません。

しかし、全員成人している同年配の肉親同士の「男1人、女2人」で共同生活を営む家族は意外と珍しく、町の中で目立っていた様子がうかがえます。

ルカ福音書10章のほうを先にお話しします。主イエスがマルタとマリアの家までわざわざ来てくださいました。姉マルタはおもてなしをしなくてはと忙しく立ち回りました。妹マリアはお客さまの前に座り込み、じっと話を聴いていました。

マルタは激怒して主イエスに抗議しました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10章40節)。

主イエスはおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(同10章41~42節)。

厳しい言葉です。私はおふたりとお話ししに来たのです、とおっしゃっているのです。私がいつ「もてなしてほしい」とあなたに頼みましたか。おもてなしはコミュニケーションを円滑にする手段であっても目的ではありません。肝心なことを忘れていませんか、です。

同じ姉妹が今日の箇所に登場します。このときもイエスさまがマルタとマリアの家に来られています。しかし、ルカ福音書の場面と状況が大きく違います。イエスさまがこの家に到着されたとき、ラザロは亡くなっていました。葬儀も終わり、墓に埋葬されて、4日経っていました。遺体から臭いもすると、マルタが言っています(39節)。

そのことを主イエスがご存じなくて、この家に到着して初めて知って驚かれたという話ではありません。主イエスはすべてご存じでした。それどころか、11章の最初から読むと分かりますが、意図的に到着を遅らせました。

遅刻の理由が14節に記されています。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14節)。

「あなたがたが信じるようになるためである」を、古い英語聖書(KJV(1611)、RSV(1952)、NIV(1978)など)はso that you may believeと訳しています。より新しい英語聖書(REB(1989)など)はfor it will lead you to believe。直訳すれば「それがあなたがたを信じることへと導くだろうから」。

主イエスが到着されたとき、多くのユダヤ人がマルタとマリアを慰めていました(19節)。マルタは主イエスが到着したと聞いて迎えに行きましたが、マリアは家の中に座っていました(20節)。2人の態度はそれぞれルカ福音書10章の場面と似ていますが、内容は大きく違います。

マルタはとにかく体を動かして主イエスのために働く「行為の人」です。しかし、ルカ福音書のときと正反対なのはマリアです。座っているのは同じですが、ルカ福音書のマリアは主イエスの話を聞く人でした。しかし、今日の箇所のマリアは、主イエスから顔を背けて座り込んでいる人です。

マルタもマルタで、イエスさまのもとに駆けつけはしましたが、おもてなしをするためではありませんでした。また抗議です。激しい抗議です。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。こんな大事な時になぜ遅刻したのか。わたしたちを愛しているとおっしゃる言葉のすべてはウソか。帰ってくれとは言わないが反省してほしい、です。

そのあと主イエスと押し問答が始まります。マルタは教えの正しさという面で主イエスの言葉に同意することはやぶさかでないと返答したようには読めますが、元通りの信頼関係を回復できた様子はありません。

それから主イエスは、マリアを呼んでほしいとマルタに願われました。そのことをマルタがマリアに伝えたら、マリアが「すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」(29節)というこの描写は、胸を打たれます。

わたしたちは主イエスにとって不要だった、多くの弟子の中のワンオブゼムだった、それなのになぜ「愛している」というのかと、何もかも信じられなくなってしまったマリアに、主イエスが「会いたい」と自分を呼んでくださった。そのことが分かって「すぐに」立ち上がれたのです。

イエスさまは「まだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた」(30節)も、感動的です。2人に会うまでは一歩も動かないと、イエスさまが決心しておられたかのようです。

マリアはイエスさまのところに来ました。そしてマルタと全く同じことを言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。そしてマリアは泣き、一緒にいたユダヤ人たちも泣いた。

そのときです。主イエスが「涙を流された」(35節)のは。

主イエスがなぜ泣かれたかは記されていませんが、想像ぐらいできます。理由として考えられるのは、マルタもマリアもイエスさまに同じことを言った、その内容です。

「もしここにいてくださいましたなら」?

わたしがいつ、あなたがたと一緒にいなかったと言うのか。この場所、この空間に、四六時中、目に見える距離にいれば「共にいてくれている」とか「愛してくれている」と思ってもらえるが、少しでも離れたら「もういない」とか「愛していない」ということになるのか。そんなことありえないだろう。なぜ私の愛を疑うか、ということに憤慨された「涙」です。

ラザロだってそうだ。「死にました」?「墓に葬りました」?

だからラザロは「もういない」のか?「もう愛さなくていい」のか?きれいさっぱり忘れるのか?あなたがたはなぜそんなふうに考えることができるのか。私があなたがたのことをどれほど愛しているかをどうしたら伝えられるのだろうか、という葛藤の中で流された「涙」です。

19世紀デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの『死に至る病』(1849年)は、ヨハネ福音書11章のラザロについての解釈から書き始められています。キルケゴールによると、キリスト教的な意味では「死」でさえも「死に至る病」ではありません。「死に至る病」とは「絶望」であると言っています。

主イエスはラザロの墓に行き、大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫びました。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」(41節)と記されています。主イエスは、人々に「ほどいてやって、行かせなさい」とおっしゃいました。

ラザロは布でぐるぐる巻きにされたままで墓から出てきましたので、本当に生きているかどうかをまだ確認できません。いずれにせよ、ラザロの「蘇生」は、主イエス・キリストに起こった出来事と同じ意味での「復活」ではありません。主イエスの「復活」の前ぶれですが、「蘇生」自体はわたしたちの信仰の対象ではありません。

この箇所が教えていることは、「信じる」とはどういうことか、です。この「信じる」は、「主イエス・キリストが、いつも共にいてくださり、愛してくださっていることを信じる」です。

今日の説教題「信じるものを求めている方々へ」に興味を持ってくださった方々に、「主イエスの愛の強さと深さを信じてください」とお伝えしたいです。「絶望」という「死に至る病」から逃れる道です。

(2024年10月6日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2024年9月29日日曜日

永遠の住み家(東京教区東支区講壇交換)

日本基督教団三崎町教会(東京都千代田区神田三崎町1-3-9)

説教 「永遠の住み家」(要旨)

コリントの信徒への手紙二 5章1~10節

関口 康

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」(1節)

今日の箇所はひとりの人間、おそらくパウロ自身の「死」を描いています。

人生の終わりにあっても希望がある。なぜなら「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」(1節b)が備えられているからである、と述べています。

「地上の住みかである幕屋」(1節a)と「永遠の住み家」が対比されているため、「パウロは地上の人生を幕屋(テント)のような『仮住まい』とみなしている」と誤解する危険性があります。

この箇所の「幕屋」(5章1節)の意味は、「死ぬはずのこの身」(4章11節)や「〔衰えていく〕外なる人」(4章16節)と同じです。パウロの主旨は「人間存在(肉体+精神)は弱くて不安定である」ということだけです。

「仮住まい」という意味を持ち込むのは危険です。「私たちの本籍がある天国に行くまでの通過点にすぎない人生など、さっさと終わってくれ」と言い出しかねません。

2~9節の趣旨は「神はわたしたちを裸にしない」ということです。裸にされることをパウロは最も恐れています。裸の屈辱を味わったからです(11章27節など)。

わたしたちは死んでも裸にはされません。神が永遠に保護してくださいます。

それが「永遠の住み家」の意味です。

(2024年9月29日、東支区講壇交換、日本基督教団三崎町教会)

2024年9月8日日曜日

世を愛する神の愛 北村慈郎牧師

北村慈郎牧師(2024年9月8日 日本基督教団足立梅田教会)

説教「世を愛する神の愛」

ヨハネによる福音書3章16~21節

北村慈郎牧師(当教会第2代牧師)          

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)

今日は足立梅田教会創立70周年記念礼拝の説教を頼まれまして、私はここに立っています。

私は現在82歳なので、足立梅田教会で私が説教するのはおそらくこれが最後ではないかと思います。そこで今日は、私がこれが聖書の使信(メッセージ)の神髄ではないかと思わされていることを、この説教でみなさんにお話しさせてもらいたいと思います。

先ほど司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書3章16節は、神の愛を語っている新約聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。

このヨハネ福音書3章16節は、古くから「小福音」と呼ばれてきました。この3章16節一節の言葉の中に、イエスさまがもたらされた喜ばしき音ずれである「福音」が見事に言い表されているという意味で、この言葉を「小福音」と呼んで来たのです。

ここに語られています「世を愛する神の愛」は、ヨハネ福音書とヨハネの手紙全体を貫いている根本的なテーマの一つですが、そのことがこの箇所ほど明確に出ているところは他にはありません。

このヨハネによる福音書3章16節は、その前に記されていますイエスとニコデモとの対話(3章1~15節)を受けて記されています。

イエスとニコデモとの対話で中心になる言葉は、3節のイエスの言葉です。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない』」という言葉です。

その後、ニコデモはイエスに「『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」(4節)と頓珍漢な質問をします。すると、ニコデモにイエスは答えて、このようにおっしゃいます。

「『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれた者は霊である。「あなたがたは新しく生まれなければならない」とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』」(5~8節)。

このニコデモとイエスの対話を受けて、ヨハネによる福音書の記者は16節で、田川建三訳で読みますと、「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、永遠の生命を持つためである」と語られているのです。

16節に続く17節では「世」(コスモス)という言葉が3回も出てきます。これも田川訳で読みますが、「というのも、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼によって救われるためである」。

ここに「世が彼(イエス)によって救われるためである」と言われています。ヨハネ福音書の「世」は、神に反するものを意味する場合と、単に「現実に存在しているこの世界」というだけの意味に用いることも多いと言われています。そしてこの3章16節、17節の「世」は「現実に存在しているこの世界」を意味していると言えます。

「現実に存在しているこの世界」、現在の世界の現実を皆さんはどう思っているでしょうか。

今年の7月、8月は日本では大変暑い日が続きました。7月、8月の気温としては今年が最高を記録したと言われます。気候温暖化による気候危機が叫ばれるようになってだいぶ経ちますが、CO2削減も進まず、このままですと海の水位が上がって水没する国や都市が出るに違いありません。神が人類にそれを守るべく与えて下さった地球環境を、人類は守るどころか、自らの欲求の充足を求めるあまり破壊してしまっています。

また世界の国々は、20世紀に二つの世界大戦を経験しながら、21世紀になっても戦争はなくならず、この数年はロシアによるウクライナへの軍事侵攻とイスラエルによるガザへの軍事攻撃をはじめ、世界の各地で軍事衝突が起きています。

日本の国も、かつてアジアへの侵略戦争と太平洋戦争によって、アジアの国々をはじめ諸外国の約2000万人の人々の命を奪い、その戦争と戦災によって約300万人の日本人の命を失った戦争犯罪を犯しました。

戦後、その反省に立って、日本の国は二度と再び戦争はしないとの決意を日本国憲法第9条に込めたはずにもかかわらず、台湾有事を理由に、現在の日本政府はアメリカと一体となって日米軍事同盟を強化し、防衛費予算を倍増して軍備増強を進めています。

また、新自由主義的な資本主義が覇権主義的な力を発揮し、国家を越えて資本が世界を支配しています。そのためにグローバルサウスの人々は今も貧困によって苦しんでいます。グローバルサウスの人々だけでなく先進国と言われる国々でも経済格差が広がり、生活困窮者が増えています。様々な差別もあり、一人一人の人間の尊厳が踏みにじられています。

これが現在の世界の現実の一面です。そして私たちはこの現実の世界をその一員として日々生きているわけです。しかもこの世界の現実は命に溢れているというよりは、滅びと死に向かって動いているように思われます。

ヨハネによる福音書が記す「世」も、現代の世界の現実と変わらないと思われます。「神の愛」はそのような「世」を、その独り子を与えるほどに神は愛されたと言うのです。そして、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われているのです。これが、ヨハネによる福音書が語っている「世を愛する神の愛」です。

愛とは、愛する対象のために最も価値あるものを惜しまずに与える行為です。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3章16節)とヨハネの手紙一の著者が書いている通りです。

愛についての解説やことばの説明ではなく、イエスの生涯そのものが、愛を定義しているのです。なくてもよいものをあたえるのは、愛ではありません。残り物や余分なものを捨てるのは、慈善であっても本当の愛からは遠いことです。自分にとって最も価値あるもの、捨て難いものを、相手のためにあえて捨てるところに愛があります。

愛とは、文字通り身を切ることです。奇跡とは、病人をいやしたり、人間の願望を何でもなかえて上げたりすることではなく、身を切るほどまでに、相手のために自分をさし出すことであり、そのような愛がイエスにおいて示されたということが、もっとも大きな奇跡なのだ、とヨハネは私たちにむかって語り、証ししているのではないでしょうか。

では、「神は御子イエスを世に遣わされることによって、御子イエスによって世が救われる」と言われていますが、それはどのようにしてなのでしょうか。

神から遣わされた御子イエスは「すべての人を照らすまことの光」(1章9節)と、ヨハネ福音書の記者は語っています。この光は、人間の過去と現在のすべてを明るみに出すのです。このような光がこの世に来たということは、私たちにとっては、今や出会いと決断の時である、ということを意味しています。

この光である御子イエスを信じないということは、神の恵みの光に対して、心を閉ざして拒否することです。ヨハネにとっては、裁きは信じないことの結果もたらされることではなく、信じないということがすでに裁きなのです(18節)。

裁きは将来にあるのではなく、神の御子、すべての人を照らすまことの光に対して心を閉ざして受け入れないという現在の姿そのものの中にあるのです。この光である御子イエスを信じることの中にすでに救いがあるのであり、したがって「信じる者はさばかれない」(18節)と言われているのです。

光にうつし出された人間の姿は、すべて例外なく闇の中にあります。そこには、救われる者と滅びる者との二分法はありません。すべての人間は、闇を愛し、滅びに向かって走っています。そして、光が強ければ強いほど、闇も深くなって行きます。

「信じる」とは、闇そのものでしかない自分の姿をうつし出されて、光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することであり、この決断の中に救いがあるのだと、ヨハネはここで言っているのです。

先ほどイエスとニコデモの対話の記事の中で、「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われていました。信じるということは、霊によって新しく生まれることなのです。洗礼(バプテスマ)がそのことを象徴的に意味しています。光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することなのです。

20節、21節で、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と言われています。「真理を行なっている者は光に来る」(21節)のです。

「すべての人を照らすまことの光」(1章9節)である御子イエスを父なる神がこの世に派遣してくださったことによって、その御子イエスから新しい人類の歴史が始まるのです。その御子イエスによる新しい人類の歴史とは、愛である神の御心が支配する神の国の歴史です。

ものすごい悪が存在していると同時に、まことの光に向かって自分自身を転換し、キリストにあって生きている互いに愛し合う人たちが多く存在しているということもまた事実なのです。闇が深くなればなるほど、光の明るさはよりいっそうの輝きを増すのです。

闇が深まるほどに、まことの光としてのイエスの到来は、その喜ばしさを増すのです。救いと滅び、光と闇とを、固定的、平面的に二分するのではなく、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5章20節)とパウロが言っているようにです。

この世を愛する神の愛は、御子イエスを光としてこの世に遣わしてくださり、聖霊の息吹を受けて、その光である御子イエスを信じ、闇の中に生きていた己を方向転換して、光に向かって歩むイエスの兄弟姉妹団である教会をこの世に誕生させてくださったのです。そのことによって神はこの世を救おうとしておられるのです。

ヨハネによる福音書13章34節、35節で、イエスは弟子たちにこのように語っています。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」と。

教会はイエスを主と信じる者たちの群れです。イエスの兄弟姉妹団です。御子イエスによってこの世を救おうとしておられる神の愛を証言する群れです。光である御子イエスを信じて、方向転換して、悔改め(メタノイア)て、互いに愛し合うことによって生きる群れです。

本田哲郎さんは、御自身の聖書翻訳で、信仰を「信じて歩みを起こす」に、「愛」は「大切」、「愛する」は「大切にする」と訳しています。「互いに愛し合う」は「互いに大切にし合う」です。人間の尊厳を互いに大切にし合うということです。「イエスを信じる」ということは、イエスが人間の尊厳を大切にされたように、私たちも互いの尊厳を大切にし合って、イエスを信じて歩みを起こすということなのです。

聖書の教えやキリスト教の教義を学ぶことも、礼拝に出席することも大切ですが、それらはイエスを信じて歩みを起こすために必要なものであって、それが自己目的化されるのはおかしいと思います。

私たちは、「世を愛する神の愛」の確かさを信じて、神の御心が支配する神の国の民の一員とし召されて、イエスの兄弟姉妹団である教会に連なっていることを覚えたいと思います。その教会は、御子イエスの福音を信じて、喜びと希望を持ってこの問題に満ちた世に対峙して生きる者たちの群れなのです。

「世を愛する神の愛」は御子イエスを通して世にその愛を示されました。イエスが十字架にかかり、死んで葬られ、復活して、昇天した後は、聖霊の導きによってイエスの弟子集団である教会を通して、神は世を愛されているのではないでしょうか。

今日は足立梅田教会の皆さんとそのことを確認したいと思いました。 

お祈りいたします。

神さま、今日は足立梅田教会の皆さんと礼拝を共にすることができ、感謝いたします。

神さま、70年の歴史をこの地にあって刻んできているこの足立梅田教会が、イエスを主と信じる群れとして、この地にあってイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことができますようにお導きください。

新しく牧師として赴任された関口先生と教会の皆さんの上にあなたの祝福が豊かにありますように!

この一言の祈りを、イエスさまのお名前を通してお捧げします。  アーメン。

(2024年9月8日 日本基督教団足立梅田教会 創立70周年記念礼拝)

2024年9月5日木曜日

あと3日です!

夕日に映える教会の看板(2024年9月4日 17時46分撮影)

敬愛する各位

初めての方も、懐かしい方も、9月8日(日)北村慈郎先生をお招きしての「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」に、ぜひご出席ください!

北村慈郎先生は、1969年度から1973年度までの5年間、足立梅田教会の第2代牧師として1953年9月に創立した当教会の土台作りに、また特に貧困に苦しむ地域の方々への救援活動に献身的に取り組んでくださいました。

その後、御器所教会(名古屋)、紅葉坂教会(横浜)の各牧師を歴任され、日本基督教団常議員にもなられました。とても優しい方で、多くの人に愛され、慕われています。

現在82歳の北村慈郎先生のご健康が守られ、記念礼拝の恵みに共にあずかることができますようお祈りいたします。

2024年9月1日日曜日

エレミヤの預言

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「エレミヤの預言」

エレミヤ書28章1~17節

関口 康

「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる、わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる」(14節)

今日のテーマは「エレミヤの預言」です。

エレミヤ書はユダヤ教聖書の第二部「預言者」(ケトゥビーム)の第二部(3大預言書と12小預言書)の前者3大預言書(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書)に位置します。

エレミヤは「記述預言者」(Writing Prophets)の一人ですが、エレミヤ書は書記バルクが書いたものであることが、36章4節に記されています。

「3大」と「12小」の違いは「3人の偉大な預言者と、12人の小物」ではなく、巻き物の長さ、書物の規模の違いです。

エレミヤ書は3つに区分することができます。彼の生涯は約40年でした。

第1期 ヨシヤ王時代(1~6章):前627年(または626年)~前609年
第2期 ヨヤキム王時代(7~20章):前609年~前598年
第3期 ゼデキヤ王時代(21~52章):前598年~580年代(?)

第1期:ヨシヤ王時代(1~6章)

ヨシヤは8歳で南ユダ王国の王になりました(歴代誌下34章3節)。15歳から16歳の頃に宗教に目覚め、20歳の頃から大規模な偶像破壊運動を始めました。「ヨシヤの宗教改革」と呼ばれます。

エレミヤが預言者として活動を始めたのはヨシヤの宗教改革の開始直後でした。そのため宗教改革にエレミヤが賛成していたかどうかが議論されます。浅野順一先生は「賛成していた」というお考えでした(『浅野順一著作集』第1巻「予言者研究Ⅰ」288頁)。しかし、「賛成していなかった」と考える人もいます(たとえば左近淑先生)。

幼いヨシヤが王になったのは本人の実力ではなく、彼を利用して自分たちの思い描く理想の政治を実現しようとするオトナの力によるもので、ヨシヤは国家官僚たちの傀儡でした。ヨシヤの宗教改革は、異教の偶像や施設を武力で破壊するだけの外面的な改革でした。

エレミヤは言いました。「ユダの人、エルサレムに住む人々は、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ」(4章4節)。

エレミヤは心の改革、内面の改革を訴えました。ヨシヤの宗教改革とは方向性が違います。

第2期:ヨヤキム王時代(7~20章)

ヨシヤ王の死をもって南王国の宗教改革は頓挫しました。次に王になったヨヤキムはヨシヤの子でした。

国家は滅亡前夜。政権は弱体化していました。国力の弱さを知る例として挙げられるのは、ヨヤキム王が元はエルヤキムという名前だったのに、エジプト王ファラオ・ネコによってヨヤキムという名前へと改めさせられたことです。

ヨヤキムはエジプトの傀儡でした。国民はエジプト王に納めるための重い税金を課せられました。

その状況の中でヨヤキム王がしたのは、宗教的な熱狂をあおることでした。エレミヤは、ヨヤキム王の政策に反対する預言をしました。「神殿説教」と呼ばれます。

「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」(7章2~6節)。

「主の神殿」の連呼は、宗教的な熱狂主義を煽る表現です。そのような扇動をヨヤキム政権が行い、国内の宗教的右翼に頼り、政権を維持しようとしました。

そのことにエレミヤは反対し、自国の滅亡を預言し、我々はバビロンのネブカドネツァルの軛にかかるべきであると訴えました。それは戦争の中で犠牲になりやすい、立場が弱い人たちの保護を求めるためでした。とても人道的な訴えでした。

エレミヤは自国の滅亡を預言したため、売国奴呼ばわりされ、孤立しました。悲しみの中でエレミヤは神に訴えました。

「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても主の言葉はわたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(20章7~9節)。

孤立など本当はしたくないのだ、しかし、神が語れと命じる言葉を押さえつけると、神の言葉が自分の中で火のように燃え上がるので、語らざるをえないのだと、神の御前で叫びました。エレミヤは苦難の多い預言者でした。

第3期:ゼデキヤ王時代(21~52章)

南ユダ王国最後の王ゼデキヤは、バビロニアの傀儡でした。

バビロニアに従えば生かしてもらえたのですが、最後に反旗を翻して捕らえられ、ネブカドネツァルはゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめて、バビロンに連行しました(エレミヤ書39章7節)。それが「第二次バビロン捕囚」(前587年)と呼ばれます。

その10年前、ユダヤ人の中の指導的な立場にあった人たちや、これからそういう立場に立ちそうな人たちがバビロンに連行されました。それが「第一次バビロン捕囚」(前597年)です。

その人数は、「3千人ほど」と記した箇所(エレミヤ書52章28節)と「1万人ほど」と記した箇所(列王記下24章14節、16節)があり、どちらが正しいかは分かりません。

エレミヤの活動が終了したのは「第二次バビロン捕囚」(前587年)の直後です。ユダヤ人の中の宗教的に熱狂的な立場の人々によって誘拐され、エジプトで消息不明になります。おそらく殺害されました。

さて、今日の箇所です。

第28章に描かれているのは、ゼデキヤ王時代のエレミヤです。エレミヤの前に立ちはだかったのは、正反対の言葉を語る預言者ハナンヤでした。

ハナンヤの預言は「主はバビロンの軛を打ち砕く」というものでした。「あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く、と主は言われる」(11節)。

これは、戦争を煽る言葉です。主の約束は、この戦争には絶対に勝利できるということなので、最後まで戦い抜け、ということです。

エレミヤは正反対でした。「軛の横木と綱を作って、あなたの首にはめよ」。その意味は、バビロニアに対して敗戦を認め、敵国の捕虜になるべきだということです。それも人道的観点から述べられたことでした。

「どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいだろうか」(27章13節)とエレミヤは訴えました。その意味は、捕虜になれば国民の生命は守られるが、戦死すれば国民は助からない、ということです。

自分とは反対の言葉を語るハナンヤにエレミヤは立ち向かいました。「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ」(15節)。

エレミヤとハナンヤ。どちらの生き方が正しいでしょうか。「わが国は必ず勝利する」と甘い言葉を語るハナンヤは人気があったでしょう。その反対のエレミヤは孤立しました。

わたしたちはどちらを目指すべきでしょうか。偽りではなく真理を語り、弱い人の側に立つことが大事ではないでしょうか。

(2024年9月1日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2024年8月27日火曜日

足立梅田教会創立70周年記念礼拝のお知らせ

再来週9月8日(日)午前10時30分より、足立梅田教会創立70周年記念礼拝を行います。当教会第2代牧師の北村慈郎先生を説教者にお迎えします。どなたもぜひご出席ください。

足立梅田教会創立70周年記念礼拝ポスター

(ウェブ版)
https://www.adachiumeda.church/2024/08/70thAnniversary.html

(モバイル版)
https://www.adachiumeda.church/2024/08/70thAnniversary.html?m=1

2024年8月25日日曜日

全地よ、喜びの叫びをあげよ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「全地よ、喜びの叫びをあげよ」

詩編98編1~9節

関口 康

「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え」(4節)

今日の説教の準備は難しかったです。詩編98編について書かれた解説書がなかなか見つかりませんでした。

浅野順一先生の全11巻ある『浅野順一著作集』(創文社)の第4巻(1982年)が「詩篇研究」ですが、詩編98編の解説はありませんでした。

私が1980年代後半の東京神学大学で旧約聖書緒論を教わった左近淑先生の『詩篇研究』(新教出版社、初版1971年、復刊1984年)の中にも、詩編98編の解説はありませんでした。

ハイデルベルク大学のヴェスターマン教授(Prof. Dr. Claus Westermann [1909-2000])の『詩編選釈』(大串肇訳、教文館、2006年)にも詩編98編の解説はありませんでした。

やっと見つけたのはドイツの聖書註解シリーズ『ATD(アーテーデー)旧約聖書註解』第14巻「詩編90~150篇」です。この中に詩編98編の解説がありました。

著者はテュービンゲン大学神学部の旧約聖書学者アルトゥール・ヴァイザー教授(Prof. Dr. Artur Weiser [1893-1978])です。しかし解説はかなり古風でした。歴史的な読み方への踏み込みが足りない感じでした。

私が愛用しているオランダ語の聖書註解シリーズにも、詩編98編の解説が見つかりました。最初に調べれば良かったですが、オランダ語がすらすら読めるわけではないので、最後にしました。De Prediking van het oude testament(旧約聖書説教)というシリーズですが、学問的な聖書註解です。

詩編98編の解説を書いたのはタイス・ブーイ博士(Dr. Thijs Booij)です。1994年に出版された『詩編 第3巻(81~110編)』です。

“Thijs Booij (1933) studeerde aan de Vrije Universiteit Amsterdam theologie”(タイス・ブーイ(1933年)はアムステルダム自由大学で神学を学んだ)という記述がネットで見つかりました。1933年生まれだと思います。今も生きておられたら91歳です。

ブーイ先生の解説に私は納得できました。手元にこれ以上の材料はありませんので、ブーイ博士の解説に基づいて詩編98編について説明し、今日的意味を申し上げて今日の説教とさせていただきます。

私は学問をしたいのではありません。聖書を正確に読みたいだけです。自分が読みたいように読むことが禁じられているとは思いません。しかし、たとえば今日の箇所に「新しい歌を主に向かって歌え」と記されていますが、これはどういう意味でしょうか。「作詞家と作曲家に新しい歌を作ってもらって、みんなで歌いましょう」という意味でしょうか。

その理解で正しいとして「新しい歌」でなければならない理由は何でしょうか。「古い歌は時代遅れなので歌うのをやめましょう」ということでしょうか。この詩編が何を言いたいのかを知るために、歴史的な背景を調べる必要があるのではないでしょうか。

ブーイ博士の解説に第一に記されているのは「詩編98編は詩編 96 編と強く関連している」ということです。

「どちらも主(ヤーウェ)の王権について語り、万民の裁判官として来られる主を敬うよう被造物に呼びかける讃美歌である。主の王権については『王なる主』(6 節)として言及されている。主は王として地を裁くために来られる。詩編 98 編はティシュリ月の祝祭を念頭に置いて作曲された。

主の王権は多くの文書の中でシオンと神殿と結びついている。この曲が宗教的な目的以外の目的で作曲されたとは考えにくい。ユダヤ人の伝統では、主の王権はティシュリ月の初日の新年の祝賀と結びついている。」(Ibid.)。

「ティシュリ月」とはユダヤの伝統的なカレンダーです。太陰暦の7月であり、太陽暦の9~10月であり、農耕暦の新年の初めです。ブーイ博士の説明を要約すれば、ユダヤ人の「新年」は秋に始まり、新年祭のたびに「主(ヤーウェ)こそ王である」と宣言する儀式が太古の昔から行われていて、その儀式で歌うために作られた讃美歌のひとつが詩編98編だろう、ということです。

同じ新年祭の儀式で歌われた、時代的にもっと古い讃美歌は詩編93編であるとのことです。詩編93編は、言葉づかいやリズムの格調が高く儀式にふさわしいというのが、そうであると考える理由です。

ブーイ博士が第二に記しているのは「詩編 98 編のもうひとつの特徴は、第二イザヤとの強い親和性(verwantschap)にある」ということです。

「第二イザヤ」(Deuterojesaja; Tweede Jesaja)とは、南ユダ王国で前8世紀に活動した預言者イザヤ(イザヤ書1章から39章までの著者)とは別人です。

イザヤ書44章28節の「キュロス」が前6世紀のペルシア王の名前です。その名前を前8世紀のイザヤが知っていたとは考えにくいというのが、第一と第二を区分する、わりと決定的な理由です。

「第二イザヤ」は、40章から55章までを記した前6世紀のバビロン捕囚とそれに続く時期に活動した預言者です。「第三イザヤ」は56章から66章までの著者です。第二イザヤと同じ前6世紀の人ですが、聖書学者の目でヘブライ語の聖書を読むと文体や思想が全く違って見えるそうです。

詩編98編と第二イザヤの「親和性」についてのブーイ博士の説明に基づいて作成した表は次の通り。

第二イザヤ(イザヤ4055章)

詩編98

4210節a

新しい歌を主に向かって歌え。

1節b

新しい歌を主に向かって歌え。

5210節a

 

主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。

2節b

 

主は恵みの御業を諸国の民の目に現し

 

5210b

 

地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ

3節b

 

地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。

4423

 

天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。

4

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。

529

 

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。

5節b

 

琴に合わせてほめ歌え。琴に合わせ、楽の音に合わせて。

5512節b

山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく

8

潮よ、手を打ち鳴らし、山々よ、共に喜び歌え。

ブーイ博士によると「これらの類似点は、詩編98編の作者が第二イザヤの預言に精通し、そこから当時の出来事を理解していたという意味で説明しうる。詩編98編は前538年以降のイスラエルの復興を歌っている。バビロン捕囚からの解放後の初期のものと考えられる」とのことです。

「当時の出来事」とはバビロン捕囚(前597~538年)です。

ブーイ先生の解説の紹介はここまでにします。これで分かるのは、「新しい歌」の「新しさ」とは、国家滅亡という究極の喪失体験(バビロン捕囚)を経て、そこから解放されて国家再建を目指す人々に求められる、心の入れ替えを意味する、ということです。

もはや古い歌(讃美歌)で十分でないのは、主が前代未聞の奇跡を起こしてくださったからです。

わたしたちはどうでしょうか。世界はどうでしょうか、日本はどうでしょうか。足立梅田教会はどうでしょうか。

足立梅田教会に限らせていただけば、最近起こった出来事は牧師が交代したことです。以前と今と何も変わっていないでしょうか。

もし変わったとして、どのように変わったかは私が言うことではありません。もし「新しい時代の訪れ」を感じるなら「新しい歌を歌うこと」が求められています。

1954年版の讃美歌はやめて「讃美歌21」に取り換えましょう、という程度の意味ではありません。「歌は心」です(淡谷のり子さん)。根本的な心の入れ替えが必要です。

神の御業が更新されたなら、わたしたちにも「新しい思い」が必要です。喜びと感謝をもって共に前進しようではありませんか。

(2024年8月25日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)