2017年5月12日金曜日

サイボーグ009が読みたいだけなのだ

サイボーグ009(コンビニコミック版)
今日の予定がひと段落ついたので、出先で立ち寄ったブックオフで買ったコンビニコミック版サイボーグ009で和む。豪華版とサンデーコミック版各全巻、メディアファクトリー版と文庫版各一部は入手済み。内容は同じだが、味わいは違う。1冊100~300円程度。マニアではないが、楽しみではある。

すべては過去のことなので、そろそろ書いてもいいだろう。ファン・ルーラーを読みたくてオランダ語を独習し、ファン・ルーラー研究会を何人かと立ち上げた。そうしたら、ファン・ルーラーを訳すくらいならカイパーを訳せ、ベルカウワーを訳せと言われはじめた。なぜ人にやらせようとするのかと思った。

何度も明かしてきたことだが、ファン・ルーラーを読むためにオランダ語を独習する気になったのは、東京神学大学の先輩でもある高崎毅志牧師(物故者)が「組織神学をやる者は自分の読みたい著者の言葉を独学するものだ」と励ましてくださったその一言による。全く同じ言葉を私も後輩たちに言ってきた。

もちろん組織神学だけの話ではないとは思うが、こと思想系を学ぶ場合、自分が読める範囲内の語学で本を読むだけでは超えられない壁がある。各国の思想的な空気の中での暗黙の了解のようなものがあり、そのあたりにこそ甘えや罠や弱点がある。そういうのを容赦なく突いていくのが組織神学の仕事である。

しかしそれは今はどうでもいい。自分で読みたい本があるなら自分でその著者の言葉を学び、自分で読んでくれ。それ以外に道はないし、他人のふんどしで相撲はとれない。オーダー通りその本を訳してもお世辞以上のことは言ってもらえないだろう。自分で訳さないかぎり外国語の本の心は分からないものだ。

なぜ今夜こんなことを考えているのかといえば、だからサイボーグ009なのだ。私はサイボーグものやロボットものなら何でもいいと思っているわけではないし、石ノ森章太郎作品なら何でもいいと思っているわけでもないし、すべてを読む気はさらさらない。サイボーグ009が読みたい。それだけなのだ。

2017年5月10日水曜日

おいしいカレーの作り方

おいしいカレーを作りました。レッツ・エンジョイ・クッキン!

①買い出し
②調理
③配膳
④片付け

2017年5月9日火曜日

私は復活の神学のほうがいいや

Windows10 Creators Updateの「ディスプレイ夜間モード」は眠い

幸い私は、というか牧師たちは(とあえて言わせてもらう)「自分がどこから来てどこへ行くのか」を知っている。自分の出発点を覚えているし、目標も分かっている。そういう心の支えがあるので、たとえ生活環境に乱高下があろうと、大いに狼狽えはするが(するんだ)、自己崩壊まではなかなか至らない。

私は復活の神学のほうがいいや。十字架上で絶望して絶叫した存在のままでいてくれるメシアのほうが自分と重ね合わせられる身近な存在なので、自分以上の存在を認めなくて済んで「慰められる」のでプライドが傷つかなくて済むかもしれないが、そういうのはごめんだ。プライドなんかいいかげん捨てろよ。

メシアは復活したが40日したら「昇天」して弟子たちの前から姿を消した。弟子たちは結局置いてきぼりにされたし、自分たちで全部やらなくてはいけなくなった。それが大事なんだよ。「慰め」で終わるとか、はあ?だよね。ありの~ままで~レリゴーレリゴーって言ってもらえるの未成年までじゃないの。

宗教はアヘンだと言った人がどういう理由や根拠でそう言ったのかを調べたこともないし興味もないが、分かるところは大いにある。ありの~ままで~レリゴーレリゴーの線で、あなたのままでそのままで受け容れられているとか言ってもらえる「慰め」だろ。まずいよね。人の自立と成長を阻むものがあるよ。

そういうのがイヤだから牧師になったんだけど。牧師の説教がどうしても納得できなくて、だけど教会や聖書の教えそのものが間違っているとは思えなくて、だったら自分で調べるしかないじゃんという結論が出て、自分が牧師になろうと思っただけだ。それが自立と成長でしょうに。「慰め」が動機ではない。

他人の失敗談とか大好きな人たちいるよね。自分と同じだと「慰め」られるようだけど。一緒にしないでほしいんだけど。そのうち思いっきり振り切って逃げられるよ。そのときまたそのプライド傷つくんじゃない。もっとどん底味わうよ。その覚悟があるならいいけど。「慰め」で終わるなよ、お願いだから。

日本だけではないと思うがとりあえず日本で牧師をしている者たちは、そもそもの最初からマイノリティの極致だったし、ずっとそうだし、死ぬくらいまでそうなので、要は基本が最底辺だということで、乱高下の「高」の状態をほとんど知らないし、ほとんど信用していないところがある。それが強さになる。

それと、神学や教会論を「狭く」切り取ってとらえる立場に立つとか、ピンポイントの聖書箇所についての釈義的な大発見の上に立つ神学(〇〇の神学)のようなものに全体重を乗せてしまうと、自己矛盾に耐えられない状況が訪れるのが早まる可能性が高いので、「論理的な自己崩壊」は比較的起こりやすい。

その手の「狭い」神学にありがちな「あれか・これか」の決断主義はナイーブになりやすい。「あれも・これも」受け容れる包容力というか、ルーズさを身につければ、少なくとも「論理的に」自己崩壊することは免れられる可能性が高くなるし、交友関係が広がり、助け合いの幅が広がる。これも強さになる。

Windows10のCreators Update(バージョン1703)をインストールしたとき加わったらしき「ディスプレイ夜間モード」という新機能に昨夜気づいてさっそく試している。睡眠障害の原因になるブルーライトを抑えているのは分かるが、これなんだか眠くなる。やる気スイッチオフ。

2017年5月8日月曜日

Nobody calls me chicken

最近は毎週のようにどこかの教会で説教させていただいている。定住牧師不在の教会の場合、聖書や信仰についての質問にお応えする日もある。「わたしたちも牧師さんたちがおっしゃることを理解したいと思っているんですよ。質問しやすい先生でよかった」と言われたときはうれしかった。怖くないからね。

同じ理由で叱られることもある。「もっと指示すべきだ」とか「自信がなさそう」とか「優柔不断だ」とか。その先「無責任だ」「卑怯だ」あたりまで言われるとカチンと来て、怖くないキャラでカバーしようとしてもボロが出る。まあでも、このキャラはたぶん一生変わらない。上から言うとか、ほんと無理。

ネットのお友達に勧められて「貴族探偵」を観た。面白かった!木南晴夏さんの個人的なファンを自任。圧巻の名演技。「こういう人いるいる」と納得。リッチでゴージャスで大らかだけど、ゼンゼンいやみが無くて落ち着く。初回から観ればよかった。ネット配信もあるようなので、そのうちまとめて観よう。

「貴族探偵」視聴中
先月よりやる気が回復してきた。来週の礼拝説教は初めてお訪ねする教会。ふだんより緊張するので早めにしっかり聖書に取り組む。説教箇所をギリシア語から私訳し、長年愛用のオランダ語注解署を参考にしながら釈義と黙想。読み込むほど面白い箇所だ。Nobody calls me chicken.

「説教原稿」作成中

2017年5月7日日曜日

小金教会の主日礼拝に出席しました

日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)
今日(2017年5月7日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただきました。自宅(借家)から最も近い教会(1.2キロ)です。創立は1949年4月24日とのこと。今泉幹夫牧師の力強い説教を伺い、聖餐式にあずかりました。ありがとうございます。

2017年5月5日金曜日

最高のゴールデンウィークになりました

お茶の水といえば楽器の街
今日(2017年5月5日金曜日)は旅行中の友人Takeshi Hatayaさんと午前9時にお茶の水で待ち合わせ、朝食をご一緒した。「お茶の水の」吉野家で朝定食をいただき、「お茶の水の」スタバで冷コーをいただきながら語り合った。とても有意義で楽しかった。Hatayaさんありがとう!

八千代市市民会館(千葉県八千代市萱田町728)
今日の午後は「千葉英和高等学校吹奏楽部 第32回定期演奏会」(会場・八千代市市民会館 大ホール)に行った。新3年生も新2年生も元気そうで安心した。演奏はとても見事だった。たくさん涙が出た。劇の悪役が名演技だった。司会進行が丁寧で分かりやすかった。最高のゴールデンウィークになった。

2017年5月4日木曜日

日本聖書神学校に行きました

日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)
今日(2017年5月4日木曜日)は日本聖書神学校(東京都新宿区下落合3-14-16)を訪問した。訪問目的は神学校チャペルでの結婚式の見学。来月から司式者の中に加わることになった。結婚式司式の経験は教会でも一般の式場でも何度もあるが、毎回緊張する。気を引き締めて取り組む所存である。

2017年5月3日水曜日

上野で重要な会合に出席しました

ハードロックカフェ上野駅店(東京都台東区上野7-11-1)
今日(2017年5月3日水曜日)は久しぶりに上野に行き、重要な会合に出席した。何度目の開催だろう。待ち合わせは毎回「ハードロックカフェ上野駅店」(東京都台東区上野7-1-1)の前と決めてある。後代の歴史家はこの場所を「あの重要な会合に出席する人々の集合場所であった」と記すだろう。
日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)
集合時刻より早く到着したので、日頃の運動不足を解消するために上野駅周辺を歩くことにした。5分ほど歩くとなんと教会が。日本基督教団下谷教会(東京都台東区東上野3-37-10)だった。そのとき出席者のひとりから「まもなく到着」と連絡があったので駅へ引き返した。歩行距離1キロ。少なっ。

2017年4月30日日曜日

確かなる希望としての復活(千葉若葉教会)

コリントの信徒への手紙一15章20~21節

関口 康(日本基督教団教師)

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」

先々週の日曜日がイースター礼拝でした。私は日本基督教団下関教会(山口県下関市)から説教者としてお招きを受けて行ってきました。羽田空港から山口宇部空港までジェットに乗りました。帰りは新幹線でした。広島や岡山の実家にも立ち寄りました。そのような五泊六日の旅をしてきました。千葉若葉キリスト教会でもきっと盛大なイースター礼拝が行われたことでしょう。そういうわけで、皆さんに申し上げるのが遅くなりました。イースターおめでとうございます。

言うまでもないことですが、教会がイースターをお祝いするのはもちろん宗教的理由です。最近は日本の各地でイースターをお祝いしてくださる方々が増えているようですが、必ずしも宗教的理由ではないようです。しかし教会は間違いなく宗教団体ですので、遠慮なく宗教的理由でお祝いします。

イースターとは、イエス・キリストが死者の中から復活されたのは歴史的事実であるということを信じる人々の喜びの祝いの日です。その意味でイエス・キリストは「本当に」よみがえられたことを喜び、感謝する思いで、教会はイースター礼拝を毎年行っています。

しかし、教会がイースターをお祝いする理由は厳密に言うとそれだけではありません。少なくとももうひとつあります。それは何かといえば、イースターは「死者の中から復活したのは現時点ではイエス・キリストだけであるが、復活そのものはイエス・キリストだけで終わるものではない」ということを信じ、やがて訪れる将来において自分自身も復活するのだと信じる人々の希望の祝いの日であるということです。

私が今、やや早口で何を申し上げたのかは、きっとお分かりいただけていると信じます。それが、実は先ほど朗読していただきましたコリントの信徒への手紙一15章20節と21節に書かれている内容そのものです。それを私なりの言葉で言い換えて申し上げただけです。

まず20節を読みますと、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)と書かれています。重要な言葉は「初穂」です。この「初穂」は英語の聖書ではだいたいfirst fruitと訳されています。つまり「最初の果実」です。

ここで考えなければならないことは、イエス・キリストの復活が「最初」(ファースト)であるということは、その「次」(ネクスト)の復活もあるということです。最初の1つだけで終わるのではなく、2つ目も3つ目もあるし、もっとたくさんあるということです。

何がもっとたくさんあるのかといえば、それが復活です。何と驚くべきことに、イエス・キリスト以外にも復活する存在があるのです。イエス・キリストが「初穂」(ファーストフルート)ならば、「次の果実」(ネクストフルーツ)もあるのです。それが全人類です。何と驚くべきことに全人類が復活するのです。そのようなことを誰が信じられるだろうか、冗談は休み休みに言ってくれと、多くの人に思われるに違いないのですが、パウロが書いているのはそのようなことです。

しかし、驚くべきことはまだ残っています。それは、この箇所にパウロが書いていることの趣旨は「イエス・キリストの復活」のほうではなく「全人類の復活」のほうであるということです。「全人類の復活」は本当に起こるのだということを言うために、その根拠として「イエス・キリストの復活」を持ち出しているだけです。このような書き方をしている以上、どちらに強調点があるかといえば、前者ではなく後者であることは明らかです。

しかも、「イエス・キリストの復活」と「全人類の復活」を聖書に基づいて比較してみると、両者が全く同じことの単純な反復ではないことが分かります。聖書によると、「イエス・キリストの復活」は40日間弟子たちの前で起こりましたが、その後父なる神のもとへと昇天することによって弟子たちの前から姿を消し、見えなくなりました。しかし「全人類の復活」は、わずか40日で終わるような一時的な出来事ではなく、永久に続く出来事として理解されるべきものです。

ですから、次のように考えることさえできます。「イエス・キリストの復活」は、今はまだ起こっていないが将来起こるであろう「全人類の復活」にとっての「予告編」の意味を持っていました。しかし、それはまだ「本編」ではありませんでした。「イエス・キリストの復活」においては「全人類の復活」のさわりの部分をほんの少しだけ、ちらりと見せてもらえたに過ぎません。

さらに次のように考えることもできます。「イエス・キリストの復活」は、キリスト信仰全体の目標ではなく、途中の通過点にすぎません。キリスト教信仰の目標は「イエス・キリストの復活」を信じることのほうではなく「全人類の復活」を信じることのほうにあります。このように申し上げるからと言って、「イエス・キリストの復活」を信じることが重要ではないと言っているのでは決してありません。それを信じることも重要です。しかしだからといってわたしたちは「イエス・キリストの復活」のほうだけを信じて事足れりとすることはできません。

イースターをお祝いする目的も同じです。「イエス・キリストの復活」をお祝いすることだけではなく、少なくとももうひとつあると申し上げたとおりです。それは、将来における「全人類の復活」を期待することです。イースターは、わたしたち自身の復活を待ち望む将来をめざす希望の祝いです。それは「イエス・キリストの復活」をお祝いすること以上に重要です。

私が言いたいのは次のようなことです。「イエス・キリストの復活」はありえないことだが、不合理なことであっても、理性を犠牲にして無理やりにでも信じ込むことがキリスト教信仰の本質なのだ、という仕方で、ようやくのところ「イエス・キリストの復活」を信じることができたというだけでキリスト教信仰が完結するわけではないということです。キリスト教信仰には、もっと大きな、人をつまずかせる要素があります。それが「全人類の復活」です。

歴史的な事実としては、「全人類の復活」についての思想はパウロが生み出した思想ではないし、新約聖書の著者たちが発明した思想でもありません。それは旧約聖書の時代からあり、サドカイ派を除くユダヤ教の人々に広く受け入れられていた思想でした(ヘンドリクス・ベルコフ『確かなる希望』藤本治祥訳、日本基督教団出版局、1971年、42頁)。事柄の歴史的な順序としては、「全人類の復活」を信じる信仰は「イエス・キリストの復活」を信じる信仰より古いです。

これで分かるのは、イエス・キリストの復活の事実が「全人類の復活」を信じる信仰を生み出したのではなく、順序はその逆であるということです。「全人類の復活」を信じる信仰が先にあり、それは「本当に」起こるのだということを、「イエス・キリストの復活」を目の当たりにした人々がその確証を得たと信じて受け入れたということです。

今日なぜ私がこのようなことをしつこいほど繰り返し強調するのかについても申し上げておきます。

「イエス・キリストの復活」を信じるだけならば、ある意味で簡単なことです。自分に当てはめて考えることをしなくて済むからです。イエス・キリストはわたしたちにとって他人ですから、他人事として考えるだけで済ますことができます。「へえ、そんな不思議なことがあったのですね。神さまの力はすごいですね」と言っていればいいだけです。

しかし「全人類の復活」は違います。他人事で済ますことができません。なぜなら、全人類の中にあなたも私も含まれるからです。あなたも私も復活するのです。そのようなことを本気で信じなければならなくなります。そのほうがわたしたちにとって、「イエス・キリストの復活」を信じることよりも、はるかに難しいはずです。

しかし、難しいことをわたしたちは信じかつ受け入れる必要があります。そうでないかぎり、復活がわたしたち自身の希望にならないからです。なぜ他人事で済ましてはいけないのでしょうか。そのことを最後に申し上げておきます。そのことを理解するために、今日の箇所の31節に書かれていることが重要です。

「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(31節)と書かれています。その説明が22節にあります。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(22節)。

論理は単純です。「死が一人の人によって来た」と言われている中の「一人の人」とは最初の人類アダムです。「アダムによって死が来た」とはアダムが罪を犯したためすべての人に死が定められたという意味です。しかし、その死の定めを打ち消すために「一人の人」イエス・キリストが来ました。イエス・キリストが来てくださったので、すべての人から死が取り除かれた、ということです。

ここで考えなければならないのは、アダムによって何が始まったのかということです。この箇所には記されていませんが、それが「罪」であることは明らかです。アダムの「罪」によって「死」が来ました。しかし「キリストによってすべての人が生かされることになる」。その意味は、キリストによって「罪」が除去されるならば「死」が除去される、ということです。

そしてそれでわたしたちが理解すべきことは、「全人類の復活」を信じることは、全人類が罪から完全に取り除かれ、罪から解放される日が来ることを信じるのと同じであるということです。つまり、わたしたちは、「罪」との関係で「死」を、そして「復活」を理解する必要があるということです。

今かなりややこしいことを言いましたが、ご理解いただきたいのは、ひとつのことです。それは、「全人類の復活」と信じることと「世界と人類からすべての罪が取り除かれること」を信じることは同じことである、ということです。そういう日が必ず来ると信じることが必要なのです。

罪は永遠の存在ではありません。罪の力に飲み込まれてはいけません。罪に市民権を与えて当然視してはいけません。「人類が罪を犯すのは当然なのだ」とか「やむをえないことなのだ」などと言って是認してはいけません。そのようなことを聖書が教えているわけではありません。

しかも、わたしたちは、自分自身は罪に対して無抵抗であり、人生の最期の最期のぎりぎりまで罪の甘い蜜を味わい尽くしながら、天国に行きさえすれば罪から自由になれるなどと考えるべきではありません。神にお委ねするだけではなく、わたしたち自身も、罪の力、悪の力に対して徹底的に抵抗しなければなりません。

わたしたちは主の祈りにおいて「御国を来たらせたまえ」と祈ります。「我らを試みにあわせず、悪よりすくいいだしたまえ」と祈ります。このように祈りつつ生きていくわたしたちの人生の将来に「復活の日」が訪れます。

罪は完全に滅ぼされ、世界と人類の中から完全に取り除かれる日が来ます。罪が取り除かれれば、わたしたちが死ぬこともなくなります。その意味での「完全な救いの日」が来ます。それが「全人類の復活」です。

(2017年4月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)

2017年4月25日火曜日

それよりとにかく生きようぜ


大人であることと、親であることと、牧師であることと、学校の教員であったことの共通点は、自分はもはやいなくても世界は存在し続けるし、子どもは大人になるし、教会も学校も活発な活動を続けていることをこそ喜ぶべき存在であることだ。「おれが育てた」わけでもない。寂しくはあるけどね。ぐすん。

自分の存在には宿命論的な意味での「必然性」(necessity)はないという意味で「私は必要ない」と私が考えることができるのはファン・ルーラーの神学を学んだおかげだ。ものすごく楽になれる。私の存在は神の遊び(「神のいたずら」と訳しても構わない)であり、神の贅沢(luxe)なのだ。

ついでに言えば、私が存在する「意味」もないとファン・ルーラーに教えてもらった。何のために生まれて何のために生きるのか。答えられないなんてそんなのは嫌だとアンパンマンのようなことを問うても答えはない。必然性も意味も問わずに済むなら全く自由に生きることができる。ひたすら楽しめばよい。

冷たい話でも詭弁でもない。子どもを産まなければならない大人はいないし、生まれなければならなかった子どももいない。何人子どもを産まなければならないと決められている親はいないし、何人目に生まれなければならないと決められた子どももいない。必然性はない。すべては自由だ。どうぞご自由に。

そうは言っても子どもはいつか親に、そしてひょっとしたら神に、なぜ私を産んだのか、こんなふうに産んだのかと問う日が来る。「こんなふうに」と問われても親は「知らんがな」としか答えようがない場合が多いだろうが、「なぜ」には何らかの言葉はあろう。「いてほしいと思ったんだよ」くらい言える。

どれほど難しく突き詰めて考えようと、我々自身の存在の根拠ないし少なくとも出発点は、その程度のことでしかない。それ以上の何を求めるか。私の人生に何の意味と必然性があるのか。生きる意味が分からない人生に価値はないのか。そんなことはないだろう。これは悟りでも開き直りでもないと私は思う。

今書いているのは辞世の句ではない。おいおいまだ殺すなよ。強いて言えば人生の意味というのは人生の最期に分かるものかもしれないと若干期待しているところはある。最期まで分からないわけだ。だったらまだ考えるのは早すぎる。四の五の言うのは構わないが、それよりとにかく生きようぜ。飯食おうぜ。