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| これからもよろしくお願いいたします |
2016年4月13日水曜日
「日本基督教団教務教師」登録のお知らせ
このたび私こと関口康は、2016年4月12日付けで「日本基督教団教務教師」としての登録が、教団において正式に承認されました。所属は東京教区(千葉支区)となります。諸教会の皆さまにおかれましては、これからも小さなしもべのため、お祈りとお支えをいただきたく、よろしくお願いいたします。
2016年4月10日日曜日
人生をもっと楽しめ(千葉若葉教会)
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| 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年4月10日、千葉市若葉区千城台東) |
「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
前回の説教を「次回に続く」という形で終わらせていただきました。先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」を前回も取り上げました。このたとえ話についての説教の続きをこれからお話しします。内容をなるべく繰り返さないようにと願っていますが、前回いらしていなかった方々もおられますので、少しだけ振り返ります。
このたとえ話は「天の国」(14節)、すなわち天国のたとえです。天国にはどのような人が歓迎され、どのような人は歓迎されないのかという話であると考えることができます。ある人が必ず戻ってくる「旅行」(14節)に出かけました。その前にその人は3人の僕を呼んで1タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンは当時のお金の単位で、今の日本円に換算すればざっと5億円、2億円、1億円だと言ってよいほど莫大な規模のお金です。
今の日本では資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を「大会社」と呼びます。資本金2億円でも1億円でも小さな会社とは言えないでしょう。つまり、このたとえ話を読んでわたしたちが思い描いてよいイメージは、資本金5億円、2億円、1億円のそれぞれ大会社の社長が3人いて、その人々が「僕」で、3つの会社を統合するグループの会長が「主人」であるというようなことです。
そういう話であると言ってしまえば、なんとなく身も蓋もない感じになってしまうかもしれません。これは天国のたとえ話であると、すでに申し上げました。天国というのは結局のところ、生きている間に仕事がうまく行ってたくさんお金を儲けて成功した勝ち組だけが入ることができて、そうでない人は地獄の火に焼かれてしまう。それがイエス・キリストの教えの趣旨なのかと考えられてしまうかもしれません。そのあたりで私は、前回の説教を終わりました。
しかし、私がそのあたりで説教を終えることができたのは、皆さんに対する信頼ゆえです。それは、皆さんがそのような誤解をなさることはありえないだろうという信頼です。「天国」なるところが成功者だけの集まりで、失敗者は地獄送りであるというのがイエス・キリストの教えであるというようなことを、よもやみなさんがお考えになるはずはないだろうと信頼しました。
もちろん、そんな話ではありません。私自身もそのようなことを全く考えたこともないし、信じたこともありませんので、どうぞご安心ください。ただ、今日これからお話しさせていただきたいのは、このたとえ話の中で比較的見落とされやすいのではないかと思われる要素です。
それは、五タラントン預けられた僕と二タラントン預けられた僕の二人について、「商売」(16節)をしたと書かれているところです。彼らは商売をしたのです。つまり働いたのです。仕事をしました。そして、それによって主人から預かったお金を倍に増やすことができました。このことは重要な点だと思いますが、案外見落とされやすいところです。
私自身は本当に会社勤めをしたことがないので、会社というのがどのようなものかは想像でものを言うしかない面があります。ただ、そんな私でも想像できるのは、資本金5億円の会社の社員が一人だけということは考えにくいということです。必ず多くの社員を雇うのではないでしょうか。
また、商売というのは、ただ金儲けをすることだけが目的ではないでしょう。何かを作ったり生み出したりする。しかも、良いものを作り、生み出す努力をする。悪いものを売って暴利を貪るだけなら商売ではなく詐欺です。良いものを売って、買ってもらって世と人にとって役立つことをする。それが会社の仕事でしょう。そして、そのような仕事をした結果として、あるいは報酬として利益を得ることができるのであって、何もしないのに収入を得られるということは、通常考えにくいわけです。
しかしまた、いま私が申し上げていることの中に仕事していない人を責める意図は全くありません。私が言いたいのは「商売」には必ずリスクが伴うということだけです。必ず成功する商売はありえません。5億円が自動的に10億円になるわけではありません。そういうことが書いてある本があれば、それは商売ではなく詐欺の本です。
ちゃんとした商売をしようと思うなら、社員に給料を払わなくてはならないし、社員の家族の面倒を見なくてはならないし、新しくて良いものを作り、生み出すことにも莫大な費用がかかります。「商売」を始めれば、お金が増えるどころか、どんどん減っていくものです。
先ほども申しましたが、今の日本の「大会社」の定義は、5億円以上の資本金か、200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を指します。200億円以上の負債を抱えるリスクを背負うのが会社の使命です。
しかし、だからといって、「商売」は、ただひたすら苦痛に耐えて、嫌々ながら、借金を返さなければならないからする、というような暗くネガティヴな思いだけで取り組むようなことなのだろうかということをよく考える必要があると思います。そういう感覚で取り組む人がいないとは思いません。しかし、5タラントン預けられた僕と2タラントン預けられた僕の二人には、そのような悲壮感がないと思われるのです。
「借りた金は返さなければならない、借りた金は返さなければならない」と、ただひたすら憂うつな気持ちでいる。「それを返すために働かなければならない。失敗したらどうしよう。返せなかったら貸してもらった人に怒られる。ああ、どうしよう、どうしよう」と、そのようなことばかり考えて、身動きがとれなくなってしまう。そのような悲壮な面持ちを前二者の僕には感じられません。
イエスさまは、5タラントンを10タラントンに増やした人も、2タラントンを4タラントンに増やした人も「商売」をしたと、ちゃんとおっしゃっています。手品ではなく(手品が悪いという意味ではありません)、タネも仕掛けもある方法で、彼らは利益を得たのです。その彼らの努力は決して過小評価されてはならないと私は思います。
そういうことを全くしなかった人が三番目の僕です。そして、次のように言う。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる恐ろしい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」(24~25節)。
これを読んで私が思うことは、もし私自身がこの主人の立場でこんなことを言う人の言葉を聞くと腹が立つだろうということです。私を馬鹿にするなと言いたくなります。「あなたは恐ろしい人だ」とか言われると、あなたに私の何が分かるのかと言いたくなります。もし本当に、あなたの言うとおり私が恐ろしい人間であるならば、最初から1タラントン(1億円相当)を預けたりはしない。何のためにあなたにそれだけのものを託したか、その思いと期待をなぜそうやって踏みにじり、裏切るのかと言いたくなります。
私は会社勤めはしたことがありませんが、子どもを2人育ててきました。子どもたちの教育にお金がかかります。親が借金しなければならないほど。それでやっと分かるようになりました。親が子どもに期待するとはどういうことか、が。
もし子どもたちが私に三番目の僕と同じようなことを言ってきたら、手を出したりはしませんが、こっぴどく説教すると思います。何のために私がお前たちのためにリスクを背負っているのか。将来何かを返してもらいたいからではない。世で成功してもらいたいからでもない。世のため人のために役立つ働きができるようになってもらいたいだけだ。そして、人の役に立つことができるようになることが、お前たち自身の喜びや楽しみになる。人生を楽しめ。そのための投資を惜しむことはない。私ならそう言います。
イエスさまが私とは全く違うお考えを持っておられるかどうかは分かりません。ただ、言えることは、自分に預けられた1億円を地に埋めて隠した僕は、こっぴどく叱られた、ということだけです。
わたしたちの人生にチャンスがあるのではありません。わたしたちの人生そのものがチャンスです。生きていること自体がチャンスです。一人で生まれる人はいません。必ず親がいます。一人で生きる人はいません。必ず他者がいます。社会があります。国があります。世界も宇宙もあります。
意識が自分ひとりだけの中に閉じこもってしまうことは、わたしたちによくあることです。その状態がひどくなると病気になります。なんとかして意識を自分の外側に向けることが必要です。
この主人は僕たちに、預けたタラントンを増やしてもらいたかったのでしょうか、それとも、使ってもらいたかったのでしょうか。私は後者だと思います。使ってもらいたかったのです。増やすことができた僕たちは、使ったから増えたのです。それが「商売」です。
地に埋めて隠した僕が叱られたのは、増やせなかったからではなく、使わなかったからです。世のためにも、人のためにも、そして自分のためにも使わなかったので、叱られたのです。
結論:人生は楽しむものです。お金は使うものです。飾っておくものではないし、しまいこむものでもありません。そして、お金は使わなければ増えません。
神さまはわたしたちに、生命と課題と目標を与えてくださいました。世のため、人のため、そして自分のためにも生きることが、わたしたちの主人である神さまの御心です。その御心を踏みにじる人は、神さまから叱られます。
神さまから叱られるのは、人生を楽しもうとしない人です。悔い改めて、もっと人生を楽しんでください。そのことを今日はみなさんにお伝えしに来ました。
(2016年4月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)
2016年4月3日日曜日
千葉本町教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年4月3日日曜日)は日本基督教団千葉本町教会(千葉市中央区)の主日礼拝に出席させていただきました。岸憲秀牧師はまもなく30年の知己ですが、説教を聴くのは初めてでした。素晴らしい説教でした。ありがとうございました。
2016年4月1日金曜日
就職のお知らせ
2016年3月27日日曜日
千葉若葉教会イースター礼拝
今日(2016年3月27日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(若葉区千城台東)のイースター礼拝に出席させていただきました。永田泰三副牧師の明快な説教に励まされました。午後の祝会も楽しかったです。ありがとうございました!
2016年3月24日木曜日
転籍のお知らせ
親愛なる各位
本日、正式な通知が届きましたので、謹んでご報告申し上げます。
このたび私こと関口康は、2016年3月22日付けで「日本基督教団」への転入が承認され、同教団の正教師となりました。
任地はキリスト教主義の高等学校で、宗教科の常勤講師になります。来週3月29日(火)に同校で行われる辞令交付の後、改めてご報告いたします。
同校は「日本基督教団関係学校」であるため、教団教規第128条1項に基づき、教団の「教務教師」として登録させていただきます。
ご心配とお祈りをいただきました皆さまに、心から感謝いたします。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
2016年3月24日
関口 康
本日、正式な通知が届きましたので、謹んでご報告申し上げます。
このたび私こと関口康は、2016年3月22日付けで「日本基督教団」への転入が承認され、同教団の正教師となりました。
任地はキリスト教主義の高等学校で、宗教科の常勤講師になります。来週3月29日(火)に同校で行われる辞令交付の後、改めてご報告いたします。
同校は「日本基督教団関係学校」であるため、教団教規第128条1項に基づき、教団の「教務教師」として登録させていただきます。
ご心配とお祈りをいただきました皆さまに、心から感謝いたします。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
2016年3月24日
関口 康
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| これからもどうかよろしくお願いいたします。関口 康 |
2016年3月20日日曜日
鎌ヶ谷教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年3月20日日曜日)は、日本基督教団鎌ヶ谷教会(千葉県鎌ケ谷市)の主日礼拝に出席させていただきました。車で30分(12キロ)。柏木英雄牧師の丁寧で力強い説教に励まされました。鎌ヶ谷教会の皆さま、ありがとうございました。
苦い「教会の」思い出
私のネットつながりは、最古層は幼稚園時代から今日に至るまでのどこかで接点があった方々を含むワイドレンジな関係者と、面識ない方々とで構成されているので、過去の記憶が共有されている可能性があって、書きづらい。でも書きたいことがある。たしか中学生か高校生だった頃の「教会での」出来事だ。
初めて教会に来た男の子がいた。時系列や舞台設定の記憶があやしいが、教会主催の中学生か高校生の修養会のような場所だったかもしれない。私は生後まもなくから通っていた常連組。他にも何人かいたし、若い副牧師もたぶんいた。円座だったかも。説教か、読んだ聖書の感想を述べ合うことが求められた。
その問いかけに、その日初めて教会に来たその男の子が口を開いた。何か言えと求められたから応えたのだろうが、教会が初めてで、聖書を読むのも初めてのようだったから、発言すること自体にけっこう勇気が必要だっただろう。教会慣れしすぎていた私(当時中学生か高校生)のほうがよほど口が重かった。
「えーと、聖書とかよく分かんないですけど、さっき読んだ箇所に『父』とか『子』とか出てくるのを読んで、おれ父親とあんまりうまく行ってなくて悩んでるところがあるんで、ちょっと気になりました」みたいなことを、その子がたしか言った。私の記憶が書き換えられていなければ、そういう内容だった。
そのときの私(当時中学生か高校生)の内心の反応は「あちゃー」というようなものだった。「それ聖書の読み方間違ってるよ、聖書のその箇所の『父』と『子』の関係というのは、人間の親子関係のことなんか関係なくて『父なる神』と『子なるイエス・キリスト』の関係のことを意味しているのだから」と。
でも、そのとき私はたしか黙っていた。黙ったまま心の中で「あちゃー」と言っているだけだった。そうしたら、他の子だったか若い副牧師だったかが、私が内心で考えたのとほぼ同じことを口に出して説明しはじめた。「その聖書の箇所のそれは、あなたが考えたそういう意味ではなくて、どうでこうで」と。
そうしたら、その自分の親との関係がうまく行ってなくて悩んでいるということをみんなの前で打ち明けた男の子が不機嫌になった。座っていた椅子を蹴飛ばして部屋を出て行くというような行動まではとらなかったが、そこから先は、だれから何を聞かれても、何を言われても、何も応えなくなってしまった。
私がかれこれ40年近くこの記憶を抱え続け、忘れられずにいるのは、そのとき感じた強い衝撃と、反省ゆえだと思う。内心で「あちゃー」と言ってしまったこと。そして、その子が聖書の言葉から自分なりに連想して自分の父親との関係という深刻な問題を告白したことを、ぞんざいに扱ってしまったことを。
「教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください」と、教会の人たちは百万回くらい言う。だけど、勇気を出して行ってみて、「何か言え」と言われて勇気を出して何か言ったら「それは違う。それはこうでああで」と指南だけされる。そんな教会にだれが二度と行くか。
自分が逆の立場なら「うるせーよ」の一言しかないだろう。何が「間違ったこと」なのかの判断自体が難しいことでもあるが、教会に初めて来た人に「間違ったこと」を教会の中で言わせたくないなら、初めから「何か言え」と求めなければいい。質問しておいて応えが返ってくると文句つけるのはどうなのか。
50歳で50年の教会生活を続け、半分の25年を牧師生活に費やした私だが、教会というものがますます謎に思えてきたし、伝道というのがいまだに分からない。こう書くからと言って「信仰」を失ったわけでも「召命感」を失ったわけでもない。悩むことをやめることが最悪だよなと感じているだけである。
初めて教会に来た男の子がいた。時系列や舞台設定の記憶があやしいが、教会主催の中学生か高校生の修養会のような場所だったかもしれない。私は生後まもなくから通っていた常連組。他にも何人かいたし、若い副牧師もたぶんいた。円座だったかも。説教か、読んだ聖書の感想を述べ合うことが求められた。
その問いかけに、その日初めて教会に来たその男の子が口を開いた。何か言えと求められたから応えたのだろうが、教会が初めてで、聖書を読むのも初めてのようだったから、発言すること自体にけっこう勇気が必要だっただろう。教会慣れしすぎていた私(当時中学生か高校生)のほうがよほど口が重かった。
「えーと、聖書とかよく分かんないですけど、さっき読んだ箇所に『父』とか『子』とか出てくるのを読んで、おれ父親とあんまりうまく行ってなくて悩んでるところがあるんで、ちょっと気になりました」みたいなことを、その子がたしか言った。私の記憶が書き換えられていなければ、そういう内容だった。
そのときの私(当時中学生か高校生)の内心の反応は「あちゃー」というようなものだった。「それ聖書の読み方間違ってるよ、聖書のその箇所の『父』と『子』の関係というのは、人間の親子関係のことなんか関係なくて『父なる神』と『子なるイエス・キリスト』の関係のことを意味しているのだから」と。
でも、そのとき私はたしか黙っていた。黙ったまま心の中で「あちゃー」と言っているだけだった。そうしたら、他の子だったか若い副牧師だったかが、私が内心で考えたのとほぼ同じことを口に出して説明しはじめた。「その聖書の箇所のそれは、あなたが考えたそういう意味ではなくて、どうでこうで」と。
そうしたら、その自分の親との関係がうまく行ってなくて悩んでいるということをみんなの前で打ち明けた男の子が不機嫌になった。座っていた椅子を蹴飛ばして部屋を出て行くというような行動まではとらなかったが、そこから先は、だれから何を聞かれても、何を言われても、何も応えなくなってしまった。
私がかれこれ40年近くこの記憶を抱え続け、忘れられずにいるのは、そのとき感じた強い衝撃と、反省ゆえだと思う。内心で「あちゃー」と言ってしまったこと。そして、その子が聖書の言葉から自分なりに連想して自分の父親との関係という深刻な問題を告白したことを、ぞんざいに扱ってしまったことを。
「教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください、教会に来てください」と、教会の人たちは百万回くらい言う。だけど、勇気を出して行ってみて、「何か言え」と言われて勇気を出して何か言ったら「それは違う。それはこうでああで」と指南だけされる。そんな教会にだれが二度と行くか。
自分が逆の立場なら「うるせーよ」の一言しかないだろう。何が「間違ったこと」なのかの判断自体が難しいことでもあるが、教会に初めて来た人に「間違ったこと」を教会の中で言わせたくないなら、初めから「何か言え」と求めなければいい。質問しておいて応えが返ってくると文句つけるのはどうなのか。
50歳で50年の教会生活を続け、半分の25年を牧師生活に費やした私だが、教会というものがますます謎に思えてきたし、伝道というのがいまだに分からない。こう書くからと言って「信仰」を失ったわけでも「召命感」を失ったわけでもない。悩むことをやめることが最悪だよなと感じているだけである。
2016年3月13日日曜日
失敗を恐れるな(千葉若葉教会)
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| 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年3月13日、千葉市若葉区千城台東) |
「『天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」
今日お話ししますのは、マタイによる福音書25章14節から30節までの「タラントンのたとえ」の箇所です。この箇所を選ばせていただいたのは、やや個人的ではありますが、理由があります。
1ヶ月以上前になりましたが、2月はじめに4日間、来月から勤務となる高校で新年度の宗教科新教員研修をしていただきました。そのとき現在の宗教科の先生の授業を見学させていただく時間がありました。その授業の中で取り上げられていたのが「タラントンのたとえ」の箇所でした。
それで、言い方は雑で申し訳ないのですが、単純に面白いなと思ったのです。先生たちが教会ではなく学校という場所で高校生に「タラントン」とは何か、これをきみたちは持っているのか、持っているとしたらそれをどうやって使うのかということを一生懸命教えておられました。その先生たちのお姿に感動しました。私も来年からあんなふうに聖書を高校生に教えることができたらいいな、でも大変そうだな、とも思いました。
そして、それと同時に私自身も「タラントンのたとえ」が伝えようとしている聖書のメッセージは何なのかを改めて考えるきっかけになりました。それで、今日はぜひこの箇所の説教をさせていただきたいと願った次第です。
しかしまたこの箇所は、学校はともかく、教会ではあまりにも有名な箇所です。みなさんも、この箇所の説教を何度も聴いてこられたでしょう。それで、みなさまにあらかじめお願いしておきます。この箇所の説教をするチャンスをもう一度与えてください。2回に分けてお話しします。考えなければならないことがたくさんあります。今日は「続きは次回に」という終わり方をさせていただきます。そのことをどうかお許しください。
ここから中身に入っていきます。最初に申し上げなければならないことは、「タラントンのたとえ」は、イエス・キリストが御自身の説教の中でこのようなたとえ話をお用いになったことを、マタイが紹介しているものだということです。本当にこういうことをイエスさまがおっしゃったのか、マタイが後から考えてイエスさまがこういうことをおっしゃったことにしたのかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。それ以上のことは言えません。
次に「天の国はまた次のようにたとえられる」(14節)に書かれているとおり、たとえられているのは「天国」であるという点が重要です。天国天国と言うけれど、だれも行ったことがないし見たことがない。天国に行って帰って来た人がいれば、天国の写真を撮って来てくれたり、音を録音してきてくれたりできるもしれませんが、それは無理だという場合、天国とはどんなところなのか教えてくれと問われたときに、それは「こういうふうなところ」だと、たとえを用いて説明することです。
さて、たとえの中身に入っていきます。最初に「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」(14節)と書かれています。この「ある人」(アンスローポス)は、すぐ後の18節で「主人」(キュリオス)と呼び替えられています。その人には複数の「僕」がいました。この「僕」(ドゥーロス)は「主人」(キュリオス)の対義語です。重要なことは、この「僕」は、わたしたちが「奴隷」という言葉を聞くとだいたいすぐに思い浮かべることになる存在とは区別して考える必要があるということです。
わたしたちの多くが「奴隷」という言葉でイメージする可能性があるのは、24章45節の「使用人」(オイケテース)のほうだと思います。これは「僕」(ドゥーロス)とは異なる言葉です。「使用人」と訳されているオイケテースは「家」を意味するオイコスという言葉が含まれます。家の中で主人の妻や子どもとは区別され、家の仕事をするために低賃金で雇われた「使用人」という意味での「奴隷」がオイケテースです。
しかし、今日の箇所に出てくる「僕」(ドゥーロス)は、ただちに今申し上げた意味での「奴隷」を意味しません。「僕」の中に「奴隷」は含まれていますが、イコールではありません。「僕」は「主人」の対義語であるだけです。これは全体の理解の中で重要な点だと思います。
なぜ重要かと言いますと、この主人が旅行に出かけるとき僕たちを呼んで、一人には5タラントン、一人には2タラントン、一人には1タラントンを預けたことが書かれているからです。今申し上げたことの中に3つ、重要なキーワードがあります。「旅行」、「預けた」、「タラントン」です。
第一のキーワードは「旅行」(アポデメオー)です。主人は旅行に出かけただけです。必ず帰ってきます。二度と帰ってこない旅行はまずいです。片道切符の旅行には行かないでください。必ず帰ってくるのが「旅行」です。これで分かるのは、この主人が僕たちに「タラントン」なるものを預けたのは、あくまでも一時的なことだということです。僕の視点からいえば、一時的に預けられたものは、いつか必ず返さなければならない性格のものです。
第二のキーワードは「預けた」(パラディドーミ)です。この意味はもうお分かりでしょう。「与えられた」のではないということです。彼らは「タラントン」を主人からもらったのではありません。その意味では「タラントン」は彼らのものではありません。私物化してはなりません。主人の旅行中に預かったという意味は、管理を任されたということです。勝手に使ってよいわけではないのです。
そして第三のキーワードは「タラントン」です。これは、よく知られているとおり、当時のお金の単位です。しかも、かなり高額です。「1タラントンは約1億円だと覚えてください」と、先日の教員研修のときの授業で教えていただきました。とても分かりやすい説明でしたので、よく覚えています。
つまり、この箇所に登場する3人の僕が主人から預かった「タラントン」は、今の日本で言えば、一人は5億円、一人は2億円、一人は1億円であると考えることができます。とんでもない金額です。いくら主人がお金持ちだからといって、「はい、あなたは5億円。あなたは2億円、あなたは1億円」とキャッシュでポンと渡して「どうぞご自由に」と言うなどという状況は通常考えられないわけです。
この主人がどこに、どれくらいの年数、旅行に行っていたのかは分かりませんが、3人の僕に5億円と2億円と1億円を預けたとしたら合計8億円。主人自身も2億円くらいはもって旅行してきたかもしれません。それで全部で10億円。
しかし重要なことは、主人が彼らに自分の財産を「預けた」のは、プレゼントしたという意味ではないということです。それは主人から僕への贈り物ではありません。主人から僕への「贈り物」は、あとで出てきます。しかし「タラントン」は贈り物ではありません。管理を任せただけです。しかも、非常に高額です。
そのことを考え合わせますと「僕」(ドゥーロス)と「使用人」(オイケテース)の区別の問題の答えが見えてきます。「使用人」という意味での「奴隷」に5億円、2億円、1億円を手渡して「自由に使っていいよ」とプレゼントする「主人」がいるだろうかと考えてみれば、通常ありえないと考えざるをえないわけです。
そういう意味ではありえません。彼らは「主人」の対義語として「僕」と呼ばれているだけです。会社でいえば、上司と部下の関係、あるいは社長と社員の関係であると考えるほうが近いです。言い方を換えれば、この主人が僕たちに「タラントン」を預けたことには初めから目的があったということです。
それは要するに事業展開です。お金を預けたということの意味は、仕事を任せたということです。それは、たとえていえば、5億円の事業、2億円の事業、1億円の事業です。ただし、その事業内容はお前たちが決めろという話です。内容まで指図はしない。その意味では自由に使え。しかし、私物化していいわけではないし、ばくちに使っていいわけでもない。とにかくうまくやってくれ。お前たちに期待しているよと、部下を信頼して仕事を任せてくれた上司の話であると考えるほうが近いです。
膨大な資本金を預けられたその瞬間から、自分はこれを用いて何をすべきかを自分で考えて、すぐ動きはじめ、あらゆる手を尽くして働く。そのことを主人は僕たちに初めから期待していたと考えるべきです。誰かの指示がなければ自分では何の判断もできず、何の働きもできない僕では困るのです。そうであるかどうか、僕の判断力を主人が試そうとしていると考えることができるかもしれません。
そのような主人の思いを察し、適確に理解し、その期待に応えるべく努力し、成果をおさめることができたのは、5タラントン預けられた僕と、2タラントン預けられた僕でした。それは資本金5億円の事業の責任者と、資本金2億円の事業の責任者の2人だと考えることができます。
インターネットで調べたら、今の日本では、資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社のことを「大会社」と呼ぶそうです。そのように日本の法律の「会社法」で定義されているそうです。2億円の会社や1億円の会社はどうでしょうか。会社勤めをしたことがない私には正確な知識はありませんが、決して小さい会社であるとは言えないと思います。
いま申し上げたいのは今日開いていただいた聖書の箇所の「タラントンのたとえ」でわたしたちが思い描くべきイメージの問題だけです。3人の僕は、たとえていえば、資本金5億円の会社の社長と、資本金2億円の会社の社長と、資本金1億円の会社の社長。そして、彼らにお金を預けた主人は3つの会社を統合するグループの会長のような存在です。
事業に成功した前二者の社長はグループの会長からごほうびをいただきました。21節と23節に同じ言葉で「主人と一緒に喜んでくれ」とあるのは「祝宴に出席してください」という招待の言葉です。この「祝宴への招待」が先ほど申し上げた、主人から僕への「贈り物」の中身です。「タラントン」は贈り物ではありません。祝宴で食べたり飲んだりできる「喜び」が、彼らへの贈り物です。
そして、この「祝宴」(このように新共同訳聖書に訳されていませんが)こそが「天国」です。天国という祝宴には、どのような人が招かれるのか、どのような人は招かれないのかということが、このたとえ話のテーマです。
祝宴に招いてもらえなかった人がいます。3人目の僕です。彼は主人の怒りを買い、外の暗闇に追い出されてしまいます。彼は殺されたわけではありません。祝宴に招待してもらえなかっただけです。ひとりぼっちで、外の暗闇で、自分のどこが悪かったのかを反省しろ、と言われているのです。
彼のどこが悪かったのでしょうか。この続きは次回にお話しします。
一点だけ申し上げておきます。
彼は失敗を恐れた。そのことを主人は厳しく責めているのです。
(2016年3月13日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)
2016年3月10日木曜日
アルバイトの前に「サンダーバード ARE GO」を観る
今日(2016年3月10日木曜日)も昼からアルバイト。その前に先週土曜(3月5日)放送分の「サンダーバード ARE GO」の「第13話 重力の井戸」の録画にやっとありつく。期待を裏切らない面白さと迫力に大興奮。トレーシー兄弟大活躍。
いちおう書いておきますね、私がなぜサンダーバードなのか。観るたびに、いまの私の最大関心事は「オンラインコミュニケーションによるチームワークの可能性」だと気づかされます。我々がすでにかなり実現していることをどこまで広げうるか。おもちゃをトイザらスに買いに行くような関心はありません。
そしてサンダーバードから学びうる「オンラインコミュニケーションによるチームワークの可能性」のもう一つの側面は、もしそれに失敗すると人助けはおろか自分も死ぬということです。ずさんや横柄が命取りになります。「空気」は読まなくていいので「字」や「表情」や「状況」をしっかり読まなくては。
まもなくアルバイトに出かけるので録画を見直す時間はないので、うろ覚えで書くことをお許しいただきたいのですが、「5分しかない!」と叫ぶ兄弟に「5分あればいろいろできる!」と強く制して、あらゆる可能性を考え手段を講じることを最後まで諦めないトレーシー兄弟のやりとりが心に残っています。
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