2014年11月26日水曜日

『教会史』と『世界史』の両方を読むことをお勧めします

高校時代に泣かされた「世界史」の教科書(中央)

さっきから、必要あって高校時代の世界史の教科書(『詳説 世界史(再訂版)』山川出版社、1981年)を引っぱり出し、数年前に買った『もういちど読む山川世界史』(山川出版社、2009年)と読み比べながら、唸っているところです。

「やっぱりか」と今さらながら気づかされるのは、「近代ヨーロッパの誕生」(『もういちど読む』版では「近代ヨーロッパの形成」)の章あたりの論調は、ほぼ一貫して、「教会支配から自由になること」こそが近代ヨーロッパの目標であるという描き方だということです。

そういう描き方が全く間違っていると言いたいわけではないのです。でも、そういう話を「教会支配」など自分自身で一度たりとも体験したことがない日本の高校生たちが、一方的に聞かされ、大学入試のために覚えなくちゃならなかった。

私がこういう授業を受けていた当時は、どういう言葉で表現すればいいのかが分かりませんでしたが、正直言って不快感しかありませんでした。ゼロ歳から教会に通っていた人間としては、とてもじゃないが教室の椅子に黙って座って聞いていられないという気分でした。

今ならば、ほんの少しくらいなら、当時の私が何を感じていたのかを説明するための言葉が浮かんできます。だいたい上に書いたとおりです。「教会支配」など自分自身では一度たりとも体験したことがない人たちに、「教会支配からの自由」の喜びとか口にしてもらいたくない、という気持ちです。

その後、私が「救われた」のは、東京神学大学で教会史の講義を受けたときです。事情を書くと長くなるので割愛しますが、教会史の「古代史」から「宗教改革史」までを、私は(私たちの学年は、というべきか)隣接する日本ルーテル神学大学(現「ルーテル学院大学」)の徳善義和先生から学びました。教科書はウォーカーの『キリスト教史』でした。

どういう意味での「救い」なのかといえば、「教会史も教会支配の現実も知らない人たち」が発する「一方的な教会批判」からの「救い」でした。教会に問題がないなどとは、当時から思っていませんでした。問題だらけですよ、教会は。しかし、「一方的に」言うな。「知らずに」言うな。それを私は言いたかった。

もし「そういう」問題で悩んでいる方がおられるなら、お勧めしたいのは、『もういちど読む山川世界史』とウォーカーの『キリスト教史』(全巻)を両方読むことです。「救われる」こと、請け合います。

私たぶん、小学生くらいの頃から変わっていないですね。どんなことであれ、一方的な押しつけというのが、とにかく不愉快でたまらない。アンフェアだと感じる。「卑怯だ」と言いたくなります。私を怒らせるのは簡単ですよ(怒るなよ、笑)。

2014年11月25日火曜日

スーパーで買い物しながら神学する

近所のスーパー(マルエツ小金原店)でお買い物

今日は早めのお買い物。ちょうど正午です。

この時間帯で男性客は約半数。夕方頃には7割か8割が男性客です。10年前とは状況が全く違います。

そういうことも毎日スーパーに行ってると分かる。これが社会学です。ソシオロジー。

年齢層の変化は、あまり感じないです。日中にスーパーで買い物できるのは「通勤していない」人たちだけであることはほぼ確実なので、退職なり、失職なり(ごめんなさいキツイ言葉でどなたかを傷つける意図は皆無です)あとは内職なり(SOHOといえばかっこいい)住職なり(牧師はこれかな)の人が、日中の買い物客です。平均はだいたい70代くらいかな、というところです。

夕方の一時期、午後7時前後は、東京あたりの勤務地から電車とバスで帰ってきた女性たちがどっと流入してきて、その時間帯は女性が増えますが(マルエツ小金原店はバス停の前です)、ピークをすぎれば、また男性客が多い感じになります。スーパーの買い物は男性の仕事、という感覚が定着しつつあるのかもしれません。

というか、女性たちが、大して役にも立たない男性たちに「買い物ぐらいしてくださいよ」と、仕事を与えている(命じている)というところかもしれません。

東京都(葛飾区)に隣接している千葉県松戸市、とくに松戸市小金原は、東京都の爆発的な人口増の緩和政策として、国策で人口誘導するために約50年前(1960年代)に作られた典型的な「ニュータウン」の一つです。

ですから、50年前の「入植者」のほとんどは、元東京都民です。「入植後」においても、職場が(そして「教会」も)東京にあることは変わらないのでバスと電車を使って東京まで通っていた人たちの町です。町にいる時間は、純粋に寝るだけ。文字通りの「ベッドタウン」でした。

私が松戸市小金原に来た2004年4月(10年8ヶ月前)には、まだその様相(純粋な「ベッドタウン」)がはっきりあったと思います。しかし、急激に変わった感じになったのは、ここ1、2年というところです。

日中のスーパーの男性客の加速度的急増の理由は、「団塊の世代」の定年退職、でしょう。それ以前を知っている者(私)としては、驚くべき変化です。

しかし、逆に言えば、この状況は、おそらく一時的なものに終わる、ということです。「団塊の世代」の方々の多くが100歳を超えて生きられれば話は別ですが、現実はそうではない。

だとしたら、今の状況(日中のスーパーの男性客の増加)は、10年後には全く異なる様相になる、ということではないかと予想できます。

ちなみに私は純粋な買い物客の一人です。社会学者ではありません。

「実践神学部門」ではアンケートとか統計とか、社会学のいわゆる「社会調査」の方法論を積極的に取り入れていこうという動きは、海外にはあるようです。

日本の実践神学は説教学ばっかりが極端に肥大化していて「釈義、釈義、また釈義」とか言ってしまうところが今でもあるようですが、教会が宣教しようとしている人や町の現実が「釈義、釈義、また釈義」だけで見えてくればいいのですけど、そうは問屋は卸さないです。

それで、そのような「社会調査」の方法論やパースペクティヴを、私は「組織神学部門」の中に、そして「教義学」の中に取り入れることはできないだろうかと考えてきた面があるつもりです。実現の可能性は十分あるという感触を得ています。神学とピーマンの関係を考えるのは重要なことです。

お恥ずかしながら愚息が大学に入るまで知らなかった言葉ですが、エスノメソドロジーなどの社会学の方法論は、組織神学、教義学の中にどんどん取り入れられることを、私は願っています。

聖書学にはフェミニズム批評やポストコロニアル批評、宣教学にはマーケティングやマネジメントやエスノグラフィなどの方法論が、すでに導入されていると教えていただきました。ありがとうございます。素晴らしいです。

私が考えているのは、キリスト教の教義そのものを扱う部分、たとえば三位一体論やキリスト論や聖霊論や救済論や終末論などを展開していく中で、論拠にしうるのは聖書と教会会議の決定事項のみであるという姿勢を貫くのは、大事なことではあると思いますが、一面的すぎるきらいもあるというあたりのことです。

改革派教会以外の方々からはしばしば目の敵にされてきた「二重予定論」なども、それを「慰めの教理」として語るか「恐怖の裁きの教理」として語るかで、まるきり印象が違いますよね。

なぜその教えを多くの人に受け入れていただくことができないのか、語り方を換えれば済むのか、思想の根本構造の問題なのかをチェックしなおすにしても、その教理を伝える「相手」との「対話」や「交流」の中身に踏み込んでいくような考察がないような組織神学、教義学で良いだろうかというようなことは、考えられて然るべきことだと思うわけです。あくまでも一例です。

いずれにせよ、「現場」との対話なしには組織神学は成立しません。そうであると私は考えてきましたので、ファン・ルーラーやバルトや他の組織神学者の「論」を扱うときも、なぜその神学者がその「論」を扱うに至ったのか、つまり、時代的背景とか文脈とかを明らかにすることから書き起こすことをしてきたつもりです。

「教会」と「社会」は実際には「交流」していますし(教会員は社会の一員であるという意味を含む)、かなりの面で等号(イコール)で結んでもいいのではないか(良い意味でも悪い意味でも)と言いたくなるほどの類似点・共通点があると思いますが、両者の違いを言えないようなら「教会」など無理して続ける意味はないとも言えますよね。

そのことを十分に考えたうえで、「教会」のほうも「社会」のほうもイデアではなく実在そのものであり、社会的な現象でもあることを考える必要があります。

もう少し具体的な言い方をすれば、それぞれの「教会」がその中へとほとんど入り込んでいるそれぞれの「社会」に違いがあるので、その違いを丁寧に見ていく必要があるということです。

教会の会員数や礼拝出席者の人数、年間予算といった「数字」を見るにしても、それぞれの「教会」のそれぞれの「社会」があっての数字であることは、わざわざ書き立てるほどのことではない当然すぎることではあるのですが、そのあたりのディティールが全く無視されて、「大きな教会/小さな教会」という評価やラベルだけがひとり歩きするとか、「大きな教会に属している人や役員や教師は偉大である」が、そうでない教会はそうでないというような話になってしまっていたりする。

そのうち「大きな教会」が「小さな教会」を叩き壊そうとしているのではないかと感じられる動きまで出てくる。

こういうのは、本当のところを言えば、神学の大問題なのだと思うのですが、表立った場所でのそういう議論は寡聞にして知りません。そういう問題について議論が起こらないのは、神学部や神学校の経営が「大きな教会」の手に握られているようなところがあるからかもしれません。良い傾向だとは思えませんけどね。

なんと言えばよいのでしょうか、「神学利権」(?)みたいなものがあるのかないのか(「ないだろ!」と言いたいところですが)、在野でいくら声を大にして訴えても、鼻であしらわれるイヤな感覚がありますね。

いったん自分が「(その世界の)エリート」だと思い込んでしまった「神学者」は取り付く島がなくなりますね。アンタッチャブルになっていくところがあります。そんな妄想野郎に負けてる場合じゃないんですが。

自分ひとりとか少数の「エリート(笑)」の指先で日本の全キリスト教界をつまんでいるような錯覚に陥っているのかもしれない人たちに冷水をぶっかけて、正気に戻ってもらう必要がありますね。

2014年11月24日月曜日

アジア・カルヴァン学会 日本カルヴァン研究会 合同講演会 開催のお知らせ

カルヴァン(16世紀)
ファン・ルーラー(20世紀)

PDF版はここをクリックしてください

「アジア・カルヴァン学会 日本カルヴァン研究会 合同講演会」を以下のように開催いたします。

◆日 時 2015年3月9日(月)13時~17時

◆場 所 青山学院大学(渋谷キャンパス)
     (総合研究所ビル5階、正門を入ってすぐ右の建物です)

【講 演】

「ファン・ルーラー研究の過去・現在・未来」
元・ファン・ルーラー研究会代表   関口 康

「カルヴァンの聖書解釈の技法」
本学会代表 東北学院大学教授   野村 信

【研究発表】

「カルヴァンとルターのマリア理解」
テュービンゲン大学プロテスタント神学部留学中   木村あすか

どなたでも、自由にご参加ください (入場無料)

連絡先 野村 信 Tel:090-2990-4109 email : sn111@hotmail.co.jp

アジア・カルヴァン学会ブログ http://calvin-research.blogspot.jp

2014年11月22日土曜日

ヒマになりたかったのは我々自身だと思うんだけど

すべては「夢の道具」(当時)でした

なんか我々「ヒマだヒマだ」と言いたくなることあると思うんですけど、デジタルツールとインターネットがなかった頃にはものすごく時間がかかっていたことが、今はものすごく短時間でできるようになったので、「外見上何もしていないように見える」時間が増えただけ、という面があると思いますよ。

私は来年で50歳になるので、47年くらい前までの記憶はかろうじて残っています。大人たちがガリ版刷りしていた頃のことを覚えています。白黒テレビで浅間山荘の立てこもりだの突入だのをリアルタイムで見ていた記憶がはっきりあります。故郷の岡山には地下鉄はありませんでした(今もありません)。

手間や時間がかかることを億劫に思い、「こんな面倒くさいことはもうイヤだ。こんなことをぜんぶ代わりにやってくれるロボがほしい。そういう世の中にならないかなあ」と当時の人は大真面目に願っていました。忘れたとは言わせません。私ははっきり覚えています。当時の夢の多くが今叶っているのです。

「ヒマになりたいヒマになりたい」とみんな願っていました。いまその夢が見事に叶い、多くの人がヒマになりました。そうなった途端、わりと多くの人が「ヒマだヒマだ。何もすることがない。むなしくて仕方ない。生きている意味を感じない」と言い出しました。その流れを全部見ました。それなんなのと。

だれかの悪口を言ってるんじゃないですよ。私も「同じ時代を生きてきた仲間」だからね。面倒なことをなんでも代わりにやってくれるロボが欲しいと思ってたじゃん。コンピュータとか、携帯通信ツールとか、夢のまた夢だったじゃん。それ、「ヒマになりたかった」んだよね。その夢が今かなったんだよね。

だったらね、いま「ヒマでヒマで仕方がない」ことを、今の40代以上くらいの人はもっと喜ばなくっちゃ。自分だけがヒマだと思わないほうがいいですよ。みんな条件は同じです。指先をちょいちょいと動かすだけで、何でも欲しいものを注文できて、寝そべってても宅配してもらえる時代になったんですよ。

時代に逆行してもらいたいとは私は思いません。「過去に」帰りたい方はどうぞご自由に。尊重はします。しかし私はイヤです。レトロの趣味はありません。はっきり言ってどうでもいいです。過去を今よりも良いものと考えるノスタルジアもありません。帰るなら「未来に」帰りたいです。帰らせてください。

目ばかりギョロギョロ動いていることを除けば、せいぜい両手の第一関節のチャカチャカした動きだけで(キーボードへの打ち込みの様子を字にしてみました)、我々の子どもの頃は特撮かアニメの中だけで実現していたことが、本当にできるようになりました。当時と比べれば便利になったんだと思いますよ。

でも、実際にそういう世の中になったらなったで「ああ、空しい空しい。ヒマだヒマだ。何もすることがない」みたいなことを言いだしてしまった我々でした。「ヒマでいいじゃん。なにが文句あるのよ」と言いたいんだけど。だれかに言ってるんじゃないですよ。自分自身に言い聞かせているだけですよ。ね。

日記「改革派教会」


今夜はヘッセリンク先生の『改革派とは何か』(廣瀬久允訳、教文館、1995年)をちょっとだけ読み直して、大いに励まされています。

「今日では、オランダの改革派教会は極めて活気に満ち、また大きな影響力を持っているが、改革派という用語とオランダの教会とを同一視すべきではない。オランダの改革派系の信者は、全部併せても総人口の約40パーセントに過ぎない。

より重要なことは、スイス、ハンガリーおよびフランスで最も有力な教会が改革派だということである。その神学から言って、イタリアのヴァルドー派は基本的には改革派である。またドイツやポーランドにも、有力な改革派教会が今もなお存在している。これらに、スコットランド、イングランドおよびアイルランドの長老派教会を加えれば、改革派がヨーロッパで最大の教派の一つであることは明白であろう。

今日、自らの改革派に属すると考えているキリスト者の数は、全世界で2500万人以上と推定されている。

アメリカでは、改革派/長老派の教会は、プロテスタントで第三位の教派である。アジア、アフリカ、およびラテン・アメリカでも、プロテスタント教派の最大のものの幾つかは、改革派/長老派の背景を持っている。メキシコ、ブラジル、韓国、台湾およびインドネシアでも、(また、改革派という名前が必要以上に悪名の高い南アフリカは言うに及ばず)、最有力の教派はみな改革派/長老派である。

今日では、改革派/長老派の教会として最大のものは、ジュネーヴ、アムステルダム、エディンバラ、あるいはピッツバーグといった伝統的な中心地にではなく、ナイロビやソウル、またサン・パオロに存在しているのである!」(25~26ページ)

すっかり遅くなりましたので、お祈りしてから休みます。それでは、おやすみなさい。

2014年11月21日金曜日

希望は最後までぼくらの味方だ


エンジンを切り 夕闇の中 人を待つ

また聴いている ガラケーで 昔の歌

思い出があるわけでない ただ好きな歌

あの頃は忙しかった 記憶がないくらい

ちょっと変だったかもしれない 今も変か

状況が似てるのか 違うのか まだ分からない

「希望の神学」と口にしてみたものの

出てくるのは ためいきばかりだ

ルララ 宇宙の風に乗るぜ

それ パクリだから

希望は最後までぼくらの味方だ

2014年11月20日木曜日

ファン・ルーラーという神学者は『知りませんでした』では済まされないほど巨大な存在でした

『ファン・ルーラー教授文庫目録』(ユトレヒト大学図書館、1997年)

オランダの古書店から購入を予定している本(本日支払完了しました)は『アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー教授文庫目録』(ユトレヒト大学図書館、1997年)です。

これが発行された1997年に私も購入しましたので、17年前の購入ということになります。頻繁に利用し、ボロボロになりましたので、2冊めの購入に踏み切ることにしました。

ユトレヒト大学図書館がこの『文庫目録』(1997年)を作成するに至った経緯は、以下のとおりです。

1970年12月15日にファン・ルーラーが突然亡くなりました。62歳の若さでした。ユトレヒト大学神学部教授の現職のままの、心臓発作による、まさに突然死でした。

ファン・ルーラーの死後、彼の書斎に残された膨大な蔵書は、その後約20年間は妻J. A. ファン・ルーラー=ハーメリンク(法学博士、改革派教会長老)が厳重に保存していましたが、1990年代初頭に妻が要介護の状態になった頃、子どもさんたちの手でユトレヒト大学図書館に寄贈されたもの以外は、古書店にほとんど売却することになりました。

しかし、寄贈の際に、ユトレヒト大学図書館の人々が驚愕したそうです。ファン・ルーラーの書斎の中に、非常に大量の未出版の手書き原稿やタイプ原稿が眠っていたことが分かったからです。

それで同図書館は『ファン・ルーラー教授文庫目録』を作成することにしました。この『目録』は出版されたファン・ルーラーの本やパンフレットだけではなく、1990年代になってから「見つかった」未出版の原稿のタイトルと日付と発表場所が分かるように整理してくれているものです。

簡単に言えば「ファン・ルーラーの全著作のカタログ」ですが、それが297ページもあります。それは複数の神学者による巻頭論文や索引等の巻末付録を含むページ数ではありますが、ものすごい量であることは間違いありません。

あえて「権威主義的な」言い方をさせていただけば、ファン・ルーラーは、これほどまで分厚い『文庫目録』を、オランダで古い方から2番めのヨーロッパ有数の伝統校であるユトレヒト大学の図書館が出しているほどの神学者なのです。

日本ではいまだにほとんど名前が知られていないファン・ルーラーですが、「知りませんでした」では済まされないほど巨大な存在だったと、私は声を大にして言わせていただきます。

しかし、これまで日本で「ファン・ルーラー」の名前が知られてこなかったのは、ある意味で当然というか自然のことですので、ほとんどの人が同じです。

それは、当時のオランダでそういう言葉づかいで議論されていたという意味ではありませんが、今ちょうど議論になっている「G(グローバル)型大学」と「L(ローカル)型大学」という話と関連づけることができそうな話です。

カール・バルトの流行は、日本を含めて世界的なものでした。当時の世界トップの(国立大学系の)神学部だと思われたベルリン大学神学部のアードルフ・フォン・ハルナック教授のもとで学んだ一人でありながら、そのハルナックを激烈に批判した新進気鋭の神学者、というような感じの売り込み方がいくらでもできそうな、まさに「G型神学者」がカール・バルトでした。

そのことをバルト自身もかなり意識していたようで、彼の本は、どの国の、どの教派・教団の人でも読めるような内容を目指していたところがありました。だから、どの国でも売れるし、どの教派・教団の人にも読まれました。

しかし、その反面、バルトの神学は「ローカルな局面」(このたび文科省でプレゼンした某氏の言い方を借りれば「Lの世界」)でどの程度通用し、どの程度意味を持つのかということは、本当はもっと問題にされなければならないはずでした。

深井智朗先生が明言しておられましたが、バルトはバーゼル大学神学部の教授になってからは、日曜日は教会に行かなくなりました。日曜日に教会に通わない『教会教義学』(バルトの主著のタイトル)の著者でした。それってどうなのでしょうか。

「Gの世界」では売れるかもしれませんが、各個教会(ローカルチャーチ)での生きた営みのない、抽象的な教会論が展開されていたにすぎないものだ、と言われても仕方ないではありませんか。

しかし、「Lの世界」に徹しようとする神学者の書く本は「Lの世界」の人にしか読まれず、「Gの世界」では読まれない。ファン・ルーラーは「Lの世界」の神学者だったのです。

だから、バルトが売れている間は、日本の人に知られることはありませんでした。

教会が「Gの世界」ばかりを見ている間は、バルトは売れ続けるでしょう。

しかし、そのような教会のあり方が行き詰まったら、その先にファン・ルーラーの神学の需要が起こるでしょう。

私は、その日を待っている最中です。

オランダ語古書の購入方法(マニュアル)

本日、松戸北郵便局でオランダ宛て国際送金手続きを行いました。「20ユーロ」の古書(1冊)の購入代金です。

ファン・ルーラー研究に欠かせない一書です。日本の所有者は多くて5人位ではないかと思う、貴重なものです。

うちに1冊あるのですが、17年前に購入し頻繁に開いたのでボロボロです。古書店から届く本が「アップデート」になるのかどうかは微妙ですが、うちのよりはましだろうと信じて、2冊めを購入することにしました。

古書店側の送料が「9.45ユーロ」で、合計「29.45ユーロ」。本日は「1ユーロ=149.64円」の換算でした。加えて、ゆうちょ銀行料金が2,500円(これが高い)。合計「6,906円」でした。

「20ユーロ」の本で「ほぼ7000円」です。愕然としますが、毎度のことです。

「神学のゆく道は 果てしなく遠い

  だのに なぜ 歯を食いしばり

  きみは行くのか そんなにしてまで」です。

「オランダ宛て国際送金手続」完了後のほっと一息
私ができるのは「神学限定」の話ですが、

外国語の新刊書や古書を購入する方法については、私などが出る幕などないほど、多くの方々に熟知されていることでしょうし、最近の大学や神学校の講義やゼミなどでは「当然」教えられていることだと思っています(未確認)。

しかし、大学や神学校の「昔の」卒業生は聴いたことがない話かもしれませんので、私のやり方をちょっとだけ書かせていただきます。

ただし、私が知っているのは「オランダ語の本」限定です。他の国の言語の本のことは分かりません。また、「クレジットカードを使用しない購入方法」です。

(1)自分が購入を希望する本のタイトルをとにかくGoogleなどで検索する。そのタイトルの本が、もし「神学の古書店」のサイトの商品リストに載っている場合は(3)に進む。

(2)(1)の方法で「神学の古書店」のサイトの商品リストに自分が購入を希望する本のタイトルが見つからない場合は、そこであきらめないで、オランダ語の「神学の古書店」を意味する「theologische antiquariaat」という語などで検索して、いくつかの「神学の古書店」のサイトを見つけ、そのサイトの書名または著者名検索で、自分が購入を希望する本のタイトルを見つける。
(ここまでで話についていけなくなった人は、手を挙げてください。もう一回説明します)。

(3)自分が購入を希望する本が見つかったら、多くの場合、その本のタイトルの近くに「チェックボタン」がありますので、それをチェックする。複数の本の購入を希望する場合は、希望する本のすべての「チェックボタン」をチェックする。

(4)自分が購入を希望する本の「チェック」が終わったら、「お会計」(winkelmandje)というボタンを押す。次に出てくる注文者本人(あなた)の氏名、住所などを記入して「ご注文」(bestellen)を押すと注文完了。

(5)注文完了後まもなく、古書店から確認のメールが届くので、それに返信する(オランダの古書店の場合は、英文メールでほとんど対応してくれます)。内容の変更や値段の交渉が必要な場合は、きちんと書きさえすれば、それなりに対応してくれる場合があります。

オランダの古書店とのメールのやりとり
(6)今回私も、最初に注文した内容で計算されたコストがあまりにも高額すぎることが分かったので、注文する本の点数を大幅に減らす交渉をしましたが、嫌がることなく受け容れてくださいました。

(7)郵便局の「ゆうちょ銀行」に行き、「国際送金をしたいのですが」と窓口で言えば、「国際送金請求書兼告知書」を渡してくれるので、古書店から送られてきたメールに書いてある口座名や口座番号を書き込んで窓口に返せば、その日の為替レートに基づいて換算された日本円での金額を教えてくれますので、その金額を窓口で支払うだけです。

郵便局(ゆうちょ銀行)でもらえる「国際送金請求書兼告知書」
(8)今は速いですよ。注文完了後1週間もすれば、オランダからでも商品が届きます。あとは、ダンボール箱の封を外すだけです。

簡単簡単。だれでもできます。みなさんぜひやってみてください。

2014年11月19日水曜日

日記「クリスマスローズの関口です」

49歳が描いた絵(ひどすぎる)

私の今年の誕生日は日曜日(11月16日)でした。バースデーメッセージをくださった方々にお礼を申し上げましたが、漏れている方がおられたらお詫びします!

メッセージをくださった男性の方が「誕生花はクリスマスローズですね!」と書いてくださいました。すっごく慰められました。

「1965年(S40年)11月16日生まれ」は、世間的に言えば「へび年のサソリ座」。こういうのを「ダブルポイズン」というんですかね、ハチとブヨに同時に刺されるみたいなもので。私という人間はどんな相手でも確実にしとめる猛毒の持ち主なのではないかと、長年気に病んできました。

すると、ここに来て、「誕生花はクリスマスローズですね!」の朗報です。目の前が一気に明るくなりました。これからは「クリスマスローズの関口です☆彡」と自己紹介することにします。

えっとみなさん、これからもどうかよろしくお願いいたします。

2014年11月19日 関口 康

日記「教会は『どちらでもある』ところです」

教団や教派という意味でない、個別単位の「教会」の規模が小さくなりすぎると、悪く行けば昔の五人組制度のように「監視」や「取り締まり」の側面が強く出すぎて、だんだん物を言えなくなる。キリスト教に関する発信内容から自由な議論の要素が失われ、純粋な「宣伝」か「心温まる言葉」に限定される。

しかし他方、自由な議論の要素を好む人たちばかりが集まる純粋な「小規模教会」になると、「監視」や「取り締まり」の側面は取り去られるかもしれないが、そういうのは教会というよりサロンと呼ばれるべきものであろうし、声の大きい強者が常に支配する場になる。ルール無用の虎の穴みたいなものかも。

はたして「教会」とは「監視目的の五人組制度」なのか、それとも「ルール無用のサロン」なのかという二者択一を、この言葉通りでなくても内容的に事実上同じ趣旨の問いを、やたら人に迫ろうとする人たちがいるが、「どちらか一方」ではなく「どちらでもある」というのが健全な答え方であると私は思う。

しかし、「どちらでもある」と答える人は、どちらからも嫌われることに相場が決まっているので悩ましい。でも、教会の中で嫌われることに私は慣れている。そのために牧師になったんじゃないの。あれ、違ったっけ。いつくしみ深き友なるイエスさまは、世の友われらを捨て去るときも労ってくださるよ。