2025年2月26日水曜日

立派な信仰

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「立派な信仰」

マタイによる福音書15章21~28節

関口 康

「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)

今日の説教題は「立派な信仰」です。

この表現が朗読箇所の28節に出てきます。つまり、聖書の言葉です。主イエスの言葉です。

しかし、この題をご覧になったとき、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。次の5つのうちからお選びください。

①ぞっとした、②悲しくなった、③腹が立った、④教会に行きたくなくなった、⑤翻訳の誤りかもしれないので説教を聞いてみたいと思った。

⑥どれでもない、も加えておきます。説明が必要でしょう。

昨日観ていたインターネットの番組でも、繰り返し語られていました。今はどういう時代なのかを考えるときに引き合いに出されるのが「宗教ゼロ」という言葉です。

ヨーロッパがそういう状態だと言われます。宗教だとか信仰だとか言われても何をどう考えればよいか分からないし、身につかない。この感覚は、私もかなりの面で共有しています。

それなのに教会の看板に大きな字で「立派な信仰」と書いてある。まったく理解に苦しむ、というような否定的な感情を呼び起こすために、この言葉を選ばせていただきました。お詫びしなくてはなりません。

翻訳の問題かどうかは、日本聖書協会の歴代聖書を読み比べるだけで分かります。

明治元訳(1887年)

大正改訳(1917年)

口語訳(1954年)

新共同訳(1987年)

聖書協会共同訳(2018年)

婦(をんな)よ、爾の信仰は大いなり。

をんなよ、汝の信仰は大いなるかな。

女よ、あなたの信仰は見上げたものである。

婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

女よ、あなたの信仰は立派だ。

原文は「Ὦ γύναι, μεγάλη σου ἡ πίστις」(オー・グナイ、メガレー・スー・ヘー・ピスティス)。「立派」「見上げたもの」「大いなるもの」と訳されているのはμέγας(メガス)の女性単数与格μεγάλη(メガレー)です。

これは、メガロポリス、メガバイト、メガトンパンチなどの「メガ」(mega)の語源です。国際単位の10の6乗(100万)。「キロ」は10の3乗(1千)。「ギガ」は10の9乗(10億)。「テラ」は10の12乗(1兆)。

呼びかけの言葉も、翻訳が難しいです。直訳的な意味は正しくても「をんなよ」「女よ」「婦人よ」はなんだか失礼だし、「女性よ」もかなり微妙。「おねえさん」や「おくさん」は論外。そもそも「あなた」と呼ばれるのが不愉快だと言われることもあります。「お前」あたりは論外中の論外。

「おたくさま」は、意外なほど可能性があるかもしません。「おたくさまの信仰はメガトンパンチ級ですね」。

内容に入ります。登場するのは主イエス、弟子たち、そして「カナンの女」です。説明が必要なのは「カナンの女」です。結論から言えば、当時の差別語です。意図的に用いられています。

「カナン」は、エジプトにいたユダヤ人たちがモーセに率いられて戻って来た先祖の地の古い呼び名です。ならば「カナン人」がなぜ差別語なのかといえば、いま申した歴史が関係します。

エジプトから戻って来たユダヤ人の戦争相手が「カナン人」だったからです。あくまでユダヤ人の立場からすれば、ということになりますが、彼らがいなかった間にカナンに住むようになった人たちが「カナン人」です。現代のパレスチナ問題さながらです。

しかし、この女性がユダヤ人と戦争した時代の「カナン人」の純血を受け継いでいるという話ではありません。もっと広い意味です。そして差別的な意味です。説明自体に苦しみを感じます。「外見や方言などで、見る人が見れば分かる違いを持った人」というぐらいにとどめます。

この女性と主イエスが出会った場所は「ティルスとシドンの地方」(21節)。巻末の聖書地図「6」の最北端です。この女性がしたのは、主イエスに向かってひたすら叫び続けることでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。

「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」(23節)とあります。立ち止まられたかどうかも顔を向けられたかどうかも記されていません。どちらもなさらなかった可能性を私は考えます。実際の場面を想像すると、対応なさらなかった理由がなんとなく分かります。

私が抱くイメージは、通りすがりで手早く解決するとは考えにくい深刻な問題を抱えている相手に安易にかかわることが、かえって相手を傷つける場合がある、ということです。

しかしそれでも、どうして立ち止まってくださらないのですか、振り向いてもくださらないのですか、冷たすぎますよ、イエスさま、と言いたくなる場面であることは間違いありません。

主イエスの弟子たちが「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言っています(23節)。この「ついて来ます」で立ち止まっていなさそうな様子が伝わってきます。弟子たちが厄介な存在を嫌がって舌打ちしたかどうかも記されていませんが、それに近い感じです。

そのとき主イエスが「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった(24節)とありますが、これが弟子たちに対してであって、その女性に対してではなかったことは慰めです。本人に直接言っていません。こういうことを言ってはいけません。

しかし、女性がひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と懇願したとき(25節)、主イエスは口を開いてくださいました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と。

ひどい答えかどうかは考え方次第です。主イエスは人を「魚」や「麦」にたとえるおかたですから、「小犬」もたとえではないでしょうか。「大きな犬」ではなく「小犬」が選ばれていることに、ユーモアの要素が含まれているかもしれません。「子供」も、「小犬」と背格好が同じぐらいの幼児をイメージしてみると良さそうです。

「大変申し訳ありません。残りのパンが1個しかありません。うちの子(大きな子供を含む)が、お腹が空いたと泣いておりまして、小犬さまにお譲りできるものがありません」ぐらいではないでしょうか。「お引き取りください」とはねつけるような言い方ではありません。

しかし、そのときこの女性から返ってきた答えに主イエスが感動されました。「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」(27節)。

こう言いたいのではないでしょうか。

「確かに私は、あなたが守るべき神の家族の一員ではないかもしれない、ただの通りがかりの小犬です。そんなことは分かっています。しかし、あなたのパンが必要な者です。そしてパン屑もパンです。だれかの残りものだろうと、床に落ちていようと、そんなことどうでもいいです。私はあなたの食卓に共にあずかるべき者です。あなたのものは、私のものです。ここから一歩も下がれません」

この確信に満ちた求めを「これはメガトンパンチの信仰だ」と言って受け入れてくださったのです。

「立派な信仰」のイメージが変わったでしょうか。良い方向でご理解いただけますと幸いです。

(2025年2月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)