日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
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2022年礼拝予定表を作成しましたのでご利用ください(変更の可能性があります)
「新たな一歩を」
ルカによる福音書5章1~11節
関口 康
「話し終わったとき、シモンに『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。」
あけましておめでとうございます。
2022年の元旦礼拝の聖書箇所として選ばせていただきましたのは、ルカによる福音書5章1節から11節までです。救い主イエス・キリストが最初の弟子をお選びになった箇所です。
その場所が「ゲネサレト湖畔」(1節)と書かれています。イスラエルの北部のガリラヤ湖です。ガリラヤ湖で漁をする漁師たちの住む町が近くにありました。その町ひとつのカファルナウムをイエスさまは最初の宣教拠点とされました。
イエスさまがゲネサレト湖畔あるいはガリラヤ湖畔に立っておられたとき「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1節)と記されています。特に気にせず読み流していましたが、改めて読むとはっとさせられる言葉が書かれています。
「群衆」とあるのは大勢の人というくらいの意味だと思われます。大勢の人がまだ宣教活動をお始めになったばかりで、若くて、それほど広く知られているわけでもないイエスさまのもとに「神の言葉」を聞こうとして「押し寄せて来た」というのです。
もしそうだとしたら、イエスさまの語る言葉は「人の言葉」でなく「神の言葉」であるという認識がその人々の中にあったということになります。しかし、それがどういう意味を持っていたかは考えさせられます。
そのひとつの可能性は、「神の言葉」は「人の言葉」よりも権威があるという認識がその人々の中にあった、ということではないでしょうか。権威ある言葉を語ってもらえる存在を探し求めた結果、イエスさまがそうだと信じることができたので集まってきた、ということではないだろうかということです。
ところが、そのときイエスさまは、突飛と言いうる行動をおとりになりました。ガリラヤ湖に浮かぶ2そうの舟の近くで、夜通し漁をしても一匹の魚もとれず、心身ともに疲れ果てた状態の2人の漁師が舟から上がって、網を洗っていました。その姿を御覧になったイエスさまが、2人のうちの1人のシモンの舟に乗り込まれ、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになったというのです。
なぜこれが「突飛と言える行動」なのかといえば、3つくらいの理由を思いつきます。いちばん深刻な問題から考えていくとしたら、徹夜で働いても何の収穫もなく身も心も疲れ果てた労働者にまだ「働け」とイエスさまが言われているということです。勘弁してくださいよと断っていい場面です。気が短い労働者であればイエスさまに腹を立ててつかみかかるかもしれないほどです。そのことをイエスさまは分かっておられて、あえておっしゃっています。
2つめも今申し上げたことに関係します。漁師にとって漁はプロの仕事です。魚がとれないとなれば自分と家族の生活に影響する、自分の存在をかけた仕事でもあります。しかし、その日は何も収穫が無くて肩を落としながら、汚れた網や道具を洗って片付けて、さあこれからひと眠りしようとしていた場面です。
その彼らにとっての神聖なる領域である舟に、イエスさまが、彼らに断りもなく乗り込まれ、沖に漕ぎ出してくれと頼まれたというわけです。人として職業人としてのプライドがずたずたにされ、土足で踏みにじられているようです。そのことをイエスさまがあえてなさっています。
3つめは、逆の視点です。最初に申し上げたことですが、群衆は「神の言葉」(1節)を求めて押し寄せて来たと記されています。その意味は権威を求めてきたということではないでしょうか。しかし、もしそういう意味だとして、イエスさまがその群衆の要求どおりにお応えになる考えをお持ちになったとすれば、イエスさまが向かうべき先は、ガリラヤ湖に浮かぶ舟の上ではなく、カファルナウムにもあったことが聖書に明記されている会堂(シナゴーグ)だったのではないでしょうか。
権威ある言葉を求める人に語るにふさわしい場所は権威ある建物なり、何らかのセッティングでしょう。しかしイエスさまは真逆の方向に進まれました。宗教的権威が認められた施設のほうではなく、労働者が仕事をする現場のほうに向かわれました。そこからイエスさまは「神の言葉」を求めて押し寄せて来た群衆に「神の言葉」をお語りになろうとしたのです。
3つ理由を挙げました。心理的に考えると、どれも「迷惑」なことばかりです。徹夜で働いても収穫なく心身疲れ果てた労働者にまだ働けと言い、彼らの労働者の神聖な道具を荒らし、「宗教家の行くべき場所はこちらでなくあちらでしょう」とあしらわれてしまうような場所に入って来る。「そういうのは目新しい方法かもしれませんが、あまり長続きしませんよ」と皮肉を言われてもおかしくないような行動をイエスさまがあえておとりになっています。
しかし、その結果どうなったかは今日の聖書の箇所に書かれているとおりです。網が破れそうなほど魚がとれたとか、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので舟が沈みそうになったとか、それを見たペトロがイエスさまの足もとにひれ伏したとか。
なぜペトロがイエスさまにひれ伏したのかの理由は分かります。その前に「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)とペトロが言ったのは、彼のプライドを賭けた皮肉だったからです。
「わたしたちは漁の専門家です。そのわたしたちにできなかったことですが、それでもやれと言うならやります。結果は同じでしょうけどね。わたしたちの苦労を少しは分かってもらいたいですよ」という皮肉で舟を出したのです。しかし、その結果がとんでもないことになったので、ペトロは謝罪しているのです。
聖書の話はここまでにします。ペトロの姿はわたしたちにそっくりではないかと思えてなりません。自分が今までしてきたこと、自分の領域を守りたくて必死です。私もそうです。他人の話をしているのではありません。教会も同じです。しかし、何の成果も無い。ますます先細りするばかり。もしそうだとしたら、発想をすっかり逆転させて、何もかも新しくやり直すしかないではありませんか。
わたしたちは今年こそ「新たな一歩」を踏み出そうではありませんか。具体的な提案については次の機会に改めてお話しします。イエスさまが、わたしたちが苦労して守ってきた神聖な領域に踏み込んで来られ、従来のやり方を全部ひっくり返され、何もかもめちゃくちゃに破壊されるかもしれません。しかし、もしそれをイエスさまがなさるなら、歓迎しようではありませんか。今年こそ、舟が沈みそうなほどの魚がとれると信じようではありませんか。
(2022年1月1日 元旦礼拝)