本日の聖日礼拝動画
讃美歌21 聖なる聖なる 351番(1、4節)
「宣教の豊かさ」
マルコによる福音書1章21~28節
関口 康
「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。』」
今日朗読した聖書箇所は、マルコによる福音書1章21節から28節までです。私たちの救い主イエス・キリストが「神の国の福音」を宣べ伝える宣教活動をお始めになってまださほど時間が経っていない頃の出来事が描かれています。
その場所はカファルナウム。それはガリラヤ湖の近くの町で、漁師たちが多く住んでいました。その町にユダヤ教の礼拝施設である「会堂」(シナゴーグ)がありました。そこでイエスさまが、安息日に聖書に基づく説教を行われました。
イエスさまが安息日に「会堂」で説教を行われたのはこのとき限りではありません。たとえば、同じマルコによる福音書の6章2節にも「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」と記されています。
ユダヤ教の安息日は土曜日で、キリスト教の安息日(クリスチャン・サバス)は日曜日であるという違いがあります。しかし、本質的に現代の私たちがしていることと同じです。要は、定期的にみんなでひとつの場所に集まり、聖書の解き明かしが行われること、祈ること、賛美を歌うこと、です。この安息日ごとに集まって行う礼拝をイエスさまご自身もなさったし、イエスさまの弟子たちが受け継ぎ、その後の二千年のキリスト教会の歴史の中で続けられてきました。
このことから申し上げたいのは、当時と今の連続性です。イエスさまの宣教活動とは具体的にどういうものだったかについては聖書に基づいて想像するしかありません。しかし、今の私たちがしていることと全く違う異質なことをなさったわけではありません。今日も私たちは礼拝堂に集まっています。いま私が立っている説教壇にイエスさまが立って聖書の解き明かしをなさっている様子を想像しても構いません。本質的に全く同じです。
説教者が私でなければよいのに、と思わなくありません。なぜ私でなく、イエスさまがここにおられないのでしょう。私は今マスクをしています。顔が半分隠れています。イエスさまがどんなお顔だったかは、研究者が科学的な方法で解明に取り組んでいます。不謹慎かもしれませんが、私が「イエスさまのお面」をかぶって説教すれば、当時の情景さながらになるでしょう。
しかし、イエスさまの聖書の解き明かしについて今日の箇所に記されているのは、「人々はその教えに非常に驚いた」ということです。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(22節)とあるとおりです。
しかし、これはどういう意味でしょうか。「律法学者」は「権威がない」ということでしょうか。もしそういう意味だとしたら、ここで言われているイエスさまに対してこのときいた人が感じた「権威ある者として教える」とは、何を意味するのでしょうか。
それは、たとえば言い方の問題でしょうか。自信たっぷりに断定口調で語ることでしょうか。学者たちは厳密に考えます。客観的な証拠が乏しいことや、憶測に過ぎないことを「そうです」「こうです」と断定口調で語ることを嫌います。そういうのは「はったり」をきかせているだけだと学者たちは考えます。
「はったり」とは「相手をおどすようにおおげさに言ったり行動をしたりすること。実際以上に見せようとして、おおげさにふるまうこと」です(小学館『日本国語大辞典』参照)。そういうのを避けようとするのが学者の本質です。「~と思います」「~かもしれません」「~である可能性が無いとも言えません」という言い回しが増えます。嘘を言ってはいけない、厳密に語らなければならない、と考えているからです。私は学者ではありませんが、この傾向が強いです。
しかし、そういう口ぶりを嫌がる向きがあることも私はよく分かっているつもりです。説教の中で「~と思います」と言うだけで「あなたの考えや意見を聞いているのではない。神の言葉が聴きたい」と注文を付けられたことがありますので。「~かもしれません」と言うだけで「自信が無さそうに聴こえるので、もっと自信を持ってください」と励まされたことがありますので。
しかし、イエスさまはどうだったでしょう。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」(23節)とあります。この「そのとき」はイエスさまが会堂で説教をなさっている最中を指していると思われますが、その人が要するにイエスさまの説教を妨害するために大声を発した様子であると考えてよいでしょう。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)とその人が言いました。そうしたらイエスさまが「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになったというのです(25節)。
くれぐれも気を付けたいのは、イエスさまはご自身の説教中に騒いで妨害する人に「会堂から出て行け」とおっしゃったのではないということです。正反対です。「会堂の中にとどまりなさい」とはおっしゃっていませんが、事実上その意味です。その人の中にいる「汚れた霊」に呼びかけ、「黙れ。この人から出て行け」とおっしゃいました。
すると、イエスさまから「黙れ」と言われた人は黙りました。しかしこの箇所に記されているのは「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」(26節)です。その人の心の中の、イエスさまの説教を妨害したがる悪意や敵意だけがその人から出て行ったのです。その人の心がつくりかえられたのです。その人自身は会堂に残ることができました。
当時の人がイエスさまの説教に感じた「権威」の意味は、それだと思います。人の心をつくりかえる力がある説教です。心だけでなく、その人の生活、その人の人生そのものをつくりかえる説教、それがイエスさまの宣教でした。ただ「はったり」をきかせれば済む問題ではありません。
律法学者の説教はどうやらそうでなかったのです。ひとりひとりの生活との関係性が見えない。騒いだ人は、その日だけ会堂にいたわけではないでしょう。町の中で有名だったかもしれません。その人が礼拝中に騒ごうと、人が話しているのを邪魔しようと、律法学者はお構いなし。ひとりひとりにかかわることを面倒くさがって、遠巻きにして放置していたのかもしれません。人々も一緒になって遠巻きにして、耳をふさぐか、無視していたのではないでしょうか。
しかし、イエスさまはその人に直接かかわられました。その人を変えられました。人を変える力がある。それが「権威ある説教」の意味でしょう。そうであることが分かったからこそイエスさまの説教をカファルナウムの人たちが夢中で聴くことができたのです。
わたしたちも、そのような宣教ができるようになりたいです。「説教は知識ではない」と、私は言いません。「宣教は~ではない」とひとつの傾向のあり方に当てこすり、否定的に本質をあぶり出す排除の論理は嫌いです。「説教は知識でもある」のです。
そのうえで「宣教は知識以上であり、もっと豊かなものである」と申し上げたいです。
(2022年1月23日 聖日礼拝)