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「少年イエス」
ルカによる福音書2章41~52節
関口 康
「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
昨日は元旦礼拝を行いました。今日は新年礼拝です。ついこのあいだクリスマス礼拝を行ったばかりです。毎年のことですが、年末年始の教会は慌ただしい空気に包まれます。
しかし、それがよいことかどうかは分かりません。年末年始を逃しては仕事を休むことができないし、家族水入らずの時を過ごすことができないという方もおられるでしょう。教会のことは良い意味で牧師に丸投げしていただいて、なるべく皆さん自身の時間を大切にしていただきたいと、私はそう考える人間です。
先ほど朗読していただいた聖書の箇所に、まだ子どもだった頃の、しかも「12歳になったとき」(42節)とそのときの年齢がはっきり記されているイエスさまとご両親が、親子水入らずで旅行なさる場面が描かれています。
「水入らず」という言葉は年配の方々はよくご存じだと思いますが、若い世代の方々はあまり使わない言葉かもしれませんので、一応説明します。と言っても、私が持っている古い国語辞典に書かれている意味を紹介するだけです。「内輪の親しい者ばかりで、中に他人を交えないこと」(広辞苑第4版、1991年)。書かれているのは、それだけです。
そして、このときイエスさまが「12歳」だったということは、はっきり記されていますので、そのことを前提としてこの箇所の意味を考える他はありません。12歳は今の日本の教育制度では小学6年生になる年齢です。
私の話になって申し訳ありませんが、今年度、私は神奈川県茅ヶ崎市の平和学園小学校の5年生と6年生に聖書の授業をしていますので、ちょうど今日の聖書箇所に登場なさるイエスさまと同じ年齢の子どもたちに聖書を教えていることになります。しかし、偶然の一致にすぎません。
それより、いま皆さんの子どもさんやお孫さんが小学生であるという方がおられるでしょう。また私の話ですが、私も息子と娘がいます。彼らが小学生だった頃のことは覚えています。もうだいぶ前ですので、そろそろ記憶が怪しくなっていますけれども。
なぜ今このような話をしているかと言いますと、現実の12歳の子どもがどのような存在であるかは、実際にその年齢の子どもたちと向き合っているときと、そうでないときとで、イメージがずいぶん違ってくるだろうと思うからです。
言いにくい部分があります。しかし、実際に自分の子どもとして生まれた男の子であれ女の子であれ、赤ん坊から育てて12歳くらいになったときに、その子の親がどのような感情を持つかは、自分自身が体験してみる以外にどうしようもないところがあります。だれも口出しできません。親子水入らずの状態は、神聖不可侵な領域です。
いま申し上げたのは親の視点です。父親であるか母親であるかで大きく違うかもしれませんが、その問題には触れないでおきます。喧嘩になりますので。それより今日申し上げたいのは、今日の箇所のイエスさまと同じ12歳くらいの子どもをどのように見るかは、これまた言いにくい要素が多く含まれていますが、親の視点だけで考えられてはならない、ということです。
それは当然のことだと、きっとご理解いただけるはずです。なぜかといえば、いま「大人」と呼ばれている人たちには、例外なく12歳だったときがあるからです。当時のことを正確に覚えていなくても、その頃の記憶も記録もすべて失われているとしても、「12歳だったことがない大人」はいません。そして、意外なほどその頃のことは覚えているものです。
そのことをお認めいただけるとすれば、ぴったり12歳でなくてもいいです、そのくらいの年齢の子どもたちを見る視点の中に確実に数えなければならないのは、子どもたち自身の本人の視点です。もう十分すぎるほど自覚的に主体的に責任的に生きる力を持っています。
実はそのことを、また私の話に戻ってしまいますが、私はその年齢の子どもたちに聖書の授業をする責任と光栄を今年度与えられている者として証言できると思っています。
それは、彼らは聖書の言葉を理解することにおいて十分な力を持っている、ということです。「子ども扱い」などは全くできませんし、してはいけません。二千年前の12歳と今の12歳とが全く違う存在であるわけではありません。全く同じです。
そのことを私は、現実の小学生と対面で向き合って、聖書の授業をしながら認識しています。私は教育学者ではなく教育現場の人間です。その立場からの証言もたまには貴重でしょう。
ところが、今日の聖書の箇所の話を今しているわけですけれども、ここに出てくるイエスさまの両親はもちろんヨセフとマリアのことですが、彼らは12歳になった自分の子どもを悪い意味で「子ども扱い」した様子が描かれていると、はっきり言わせてもらいたいと思う次第です。
この家族は毎年親子水入らずで、ユダヤ教の過越祭のたびに、彼らが住んでいたガリラヤの町ナザレから遠くエルサレムまで旅行して、エルサレム神殿のお参りをしていました。エルサレムの宿屋に何日か滞在してからまたナザレに帰ろうとして、1日分の道のりを歩いたところで長男イエスがいないことに気づきました。
12歳の子どもと手をつないで歩く親がいるかどうかは知りませんが、そうしていなかったのでしょう。一緒にいると信じて歩き、いないと分かって信頼を裏切られてがっかりしたのでしょう。
しかし、12歳のイエスさまはエルサレム神殿にずっとおられたという話です。まさか携帯電話はありませんし、連絡の取りようがない。親の視点から見れば、イエスさまは3日間も「迷子」になっていた、ということになります。しかし、イエスさま自身の視点からすれば、「お父さんもお母さんも一体何を考えているのですか」と反論なさりたいお気持ちだった様子です。
判明した事実は、「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられた」(46節)ということです。「聞いている人は皆、イエスの賢い答えに驚いていた」(47節)とも記されています。
イエスさまが特殊だったとは思いません。小学生にこれくらい十分可能です。想像ではなく、このとおりのことを学校でしています。関心をもって学んでいるのを邪魔しないでほしいです。
12歳のイエスさまがその模範を示してくださいました。いま小学生のお子さんがおられる方は、ぜひ聖書を学ぶことをおすすめください。
昭島教会の教会学校に、大切なお子さんをぜひお預けください。よろしくお願いいたします。
(2022年1月2日 新年礼拝)