2021年12月17日金曜日

私は現代人ではない

 

2021年12月17日撮影


【私は現代人ではない】

テレビを観ず、ラジオを聴かず、書店に行かず、情報はもっぱらネット経由だが、課金界には踏み込まず、無料で得られる範囲の記事の見出しや断片を目にする程度。話題が佳境に入ると「これは有料記事です」と出てきて読めなくなる。すべて私の話。情報弱者なのだろうけれども、特に不自由していない。

それでもつい最近、高校生たちの自主企画集会を見る機会があったとき、そこで流れる歌と音楽を私がひとつも知らなかったのは、老いた証拠だと思った。私の記憶と意識の中に流れる曲とはまるで違う。悪い意味ではない。ひと山越えて次の時代になったことを、それを願ってきた者として喜ぶばかりである。

書店に行かないだけでなく、ネットでも本を買わなくなった。事物への関心を失いつつあるかもしれないが、私の自覚はそうでない。事実ベースの個別事象はそのときかぎりのものなので緻密なデータが必要であるのは当然としても、そのデータに基づく対策の提案に新発想を感じないので、端的につまらない。

最近の音楽を自主的に聴こうとしない理由も、今書いたことと同じ。私が覚えている範囲の「昭和」以来の流行歌の枠を越えるものがない。大昔のクラシック音楽を参照できる教養が私にはないので、ちまたで流行した当時のだれでも知っている曲しか私には分からない。それの「焼き直し」としか聴こえない。

焼き直しなら焼き直しで、たとえば「サード」さんのようなザードさんのトリビュートであることを明示するグループは愛することができる。毎日聴いちゃうよ。「ザード学派のサードです、よろしく」と名乗っているようで潔いし、次第に師匠超えをしてきてもいる。でも「サード」さん以外はそうでもない。

だんだん悪口を書いている気分になる。高校の軽音楽部あたりで「オリジナル曲です」と言って歌われ演奏される作品が、どれもこれもちょっと昔どこかで聴いたことがあるようなのになるのを、数年前に体験的に知った。そのことを思い出している。師匠を明示した忠実なコピーバンドのほうがよほどましだ。

テレビを観ずラジオを聴いていないので、最近の音楽と触れ合う接点はテレビドラマのOPやEDではないし、15秒とか30秒でサビだけ流れる商品広告ソングでもない。ネットの動画の途中の広告でもない。それではどこかといえば、駅前の日高屋でたまに食事をするときに流れている有線放送だ。あれ大事だね。

ラーメンをすすり、ギョウザやチャーハンをつつきながら拝聴する「熱烈中華食堂」日高屋さんの有線放送で、たまに心惹かれる曲がある。だれが歌っているかもタイトルも分からない。そのときは歌詞の一部をメモして、その場で持っていたらタブレットで、持っていなかったら帰宅後PCで検索して見つける。

出身地や年齢や世代と関係あると言いたいが、そうでもないかもしれないので自信はない。「推し」だ「追っかけ」だの経験がない。岡山市民会館に来てくれた当時のアイドルで観に行ったのは三田寛子さんくらいかな。岡山球場に来た巨人・阪神のオープン戦は父親と行った。ピッチャー定岡、ファースト王。

単身赴任が苦でない理由は、まだ十分ではないが、そろそろ言葉になってきている。次のように言いうる。「人はある程度の年齢になると、過去の良かった頃の記憶だけで、ごはん3杯くらいおかわりできるようになる」。もっとも今は牛丼もカレーもラーメンも「並」を注文するようになった。大盛は無理だ。

どうでもいい自分の話を書きながら、マーケティングをする人たちの参考になるかもしれないと思っているところがある。私は1965年生まれの56歳。このあたりのレンジをターゲットにする場合のポイントをこっそり教えているつもり。「あの世代は大盛は無理と。メモメモ」など、ぜひ活用してもらいたい。