2018年9月23日日曜日

鍵を探して扉を開ける(立川からしだね伝道所)

日本キリスト教団立川からしだね教会(東京都立川市高松町3-2-1)

使徒言行録9章26~31節

関口 康

「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」

立川からしだね伝道所のみなさま、こんにちは。関口康(せきぐちやすし)と申します。よろしくお願いいたします。

4月から西東京教区の教会の担任教師になりました。先月発行された『教区だより』の「新着任教師紹介」の中に私の文章もあります。1990年に日本キリスト教団の教師になりましたが、途中19年間は日本キリスト改革派教会に移籍し、2年前の2016年に日本キリスト教団に戻ってきました。

今日は私のほうから道家紀一(どうけのりかず)先生にお願いして説教させていただくことになりました。道家先生は、最初は嫌がっておられましたが、私がしつこくお願いしたので仕方なく受け入れてくださいました。

しつこくお願いしたのは、道家先生の前でどうしても言いたいことがあったからです。ひとことでいえば、道家先生は素晴らしい伝道者であるということです。

お世辞を言いに来たのではありません。道家先生を昔からよく知る者のひとりとして、お人柄の一端をご紹介したいと思いました。初対面のみなさまですし、夕礼拝でもありますので、聖書の言葉を厳密に解釈するような硬い話ではなく、私の個人的な証しをするのをお許しいただきたく願います。

私と道家先生の初めての出会いは1985年4月です。今から33年前です。私が東京神学大学の1年生から2年生に進級したとき、道家先生は茨城大学を卒業されて3年に学士編入されました。年齢は道家先生のほうが私より5歳も年上の大先輩ですが、東京神学大学の学生寮の住民としては私のほうが1年先輩でしたので、何を言われてもいつもタメ口で返していました。

学生寮時代の道家先生との最大の思い出は、私が学部4年のとき中古で買って2年ほど乗った赤いスポーツカー「日産シルビア」を売ることになったときに買ってくださったのが道家先生だったことです。当時の東京神学大学を覚えている人たちは「赤い車の関口」のことばかりを悪く言うのですが、それを言うなら道家先生も赤い車に乗っておられました。

道家先生は1989年3月に大学院を修了されました。そして最初に赴任されたのが徳島県の小松島教会でした。1年後の1990年3月には私も大学院を修了し、高知県の南国教会に赴任しました。つまり道家先生と私は、同じ四国教区の教会で伝道者としての歩みを始めた関係です。

そして、教区や分区での関係だけでなく、いわば有志の集まりとして、高知県、徳島県、愛媛県の牧師と教会をつなぐグループがありました。そして、そのグループ主催の「説教セミナー」があり、そこでも私と道家先生が同席する機会が何度かありました。

そのグループのことも「説教セミナー」のことも話し始めると長くなりますので、割愛します。しかし、私の人生において決定的な意味を持ちました。

ある年の「説教セミナー」の席上、私は当時のリーダー格の先輩牧師たちを、面と向かって非常に強い言葉で批判しました。そして、その翌年、私は南国教会を辞めて九州教区の教会に転任しました。さらにその教会も1年足らずで辞任し、とうとう日本キリスト教団そのものも辞めて、日本キリスト改革派教会に移籍しました。それが1997年です。

なぜ私は教団を辞めたのか、なぜ改革派教会に移籍したのかについても、長くなりますので割愛します。しかし、ひとつだけ申し上げたいのは、私が教団離脱を決断した決定的な瞬間は、その道家先生も参加しておられた、あの「説教セミナー」の最中だったということです。

ところがその後、神さまがいたずらを始めました。そして、私の身に大きな変化が起こるたびに、なぜかいつもそこに道家先生が登場しました。

道家先生との再会の最初は、2009年に宗教改革者カルヴァンの生誕500年を迎えるにあたり、2007年にアジア・カルヴァン学会の日本大会が行われることになり、その前年の2006年にカルヴァン研究者の久米あつみ氏を中心に日本側のスタッフチームを作ることになったときです。

スタッフになってほしいと日本キリスト改革派教会の私にも呼びかけがあり、久米あつみ長老がおられる井草教会に集まることになったとき、当時の井草教会の牧師が道家先生でした。

まさか無視するわけには行かないだろうと道家先生がおられる牧師室をお訪ねしました。そして私が「ご無沙汰しています」と言うなり、道家先生から返ってきたのは「裏切り者め」という言葉でした。いかにも道家先生らしい言葉を聞くことができて安心しました。

そして、その再会の日すぐにではなくカルヴァン学会のスタッフミーティングの何回目かのときでしたが、道家先生がちょっとうれしいことも言ってくれました。ただ一言、「関口くんの言ったとおりになった」とおっしゃいました。しかし、それ以上のことは何もおっしゃいませんでした。

当時の私は日本キリスト改革派教会の教師でしたので、日本キリスト教団の内部のことは分かりませんでした。しかし、そのとき道家先生がおっしゃった「関口くんの言ったとおり」の意味が、あの「説教セミナー」のときに私が強い調子で言った批判の言葉を指していることに、私はすぐに気づきました。その道家先生の一言に深く慰められたのを忘れることができません。

聖書の話そっちのけで私の話になって申し訳ありません。しかし、どうしてもお話ししたいのです。私は、当然のことながら、日本キリスト教団に戻ることは二度とありえないという強い決心をもって離脱しました。その決心がないような教団離脱などそもそもありえません。しかし、人間が憎くなったとか、だれかにつまずいたというような理由ではありませんでした。

何が最も根本的な理由だったかといえば、日本キリスト教団において教師に対する「戒規」を行うことは「絶対に不可能」であると当時の私に思えたことでした。1997年に教団に提出した教師退任届に書いたのはそのことでした。私が書いた文面は、教団事務局に今でも保管されているはずです。

私自身も罪深いひとりの人間として生きつつ神の言葉を預かり語る者として、もし自分が罪を犯したときに、この私に免職の戒規を適用する仕組みが機能しえないような教団にとどまることに、当時の私は良心の呵責を覚えました。

逆に言えば、理由はそれだけでした。私にとって問題だったのは「戒規」の問題だけでした。

だからこそ私は、移籍先の日本キリスト改革派教会の中で親しくなった人々に例外なく打ち明けてきたのは、「もし日本キリスト教団でたったの一度でも教師への戒規を行うことができたら、私は日本キリスト教団に戻るであろう」という自分の考えでした。その意味は、日本キリスト教団にそれを行うことは「絶対に不可能」であるということでした。

ところがその後、2010年に日本キリスト教団史上初めて教師に対する免職の戒規が行われたことをキリスト新聞の報道で知り、天地が逆転するほど驚きました。そしてなんと、免職された当該教師への言い渡しの場に道家先生が担当幹事として立ち会っておられたことを最近知り、これまた驚きました。

それで困ったのが私です。その2010年の戒規と共に、私に「日本キリスト教団に戻らない理由」がなくなってしまいました。それで日本キリスト教団に戻ることを決心しました。

一昨年の2016年の春に受けた教団の転入試験の提出論文にも、そのことしか書いていません。教師検定委員会の面接のとき、委員全員が「こんなのは理由にならない」と文句を言いましたが、私は「いけませんか」と気色ばんだだけで、それ以上のことは言いませんでした。それで通してもらいました。

日本キリスト教団で任地を求めていたとき、当時教団の総務幹事だった道家先生にも何度かお会いしましたが、その答えがいちいち冷たい。「戻ってくるな」と言われました。そういう人だということは昔から知っていますので、笑いましたが。

そして今や、道家先生と私は、西東京教区の「隣の隣」の教会の牧師になりました。道家先生は私のこれまでの人生の中で随所随所に突如として姿を現わし、何ごとか決定的なことを告げて去っていく、天使なのか悪魔なのか分からない存在であり続けています。

なぜ今日、このような話をするために先ほど朗読していただいた聖書箇所を選び、このような説教のタイトルをつけたのかということを、そろそろ申し上げます。

この使徒言行録9章は、使徒パウロがまだサウロと呼ばれていたときに体験した回心の出来事と、キリスト教会の伝道者として歩み始める出発の場面が描かれている箇所です。

サウロ(後の使徒パウロ)は、キリスト教会にとっては最近まで自分たちを殺そうとしていた迫害者であり、ユダヤ教側にとってはキリスト教に寝返った裏切り者でした。両サイドのどちらの人々からも信用してもらえない孤立感の中で、伝道者としての歩みを始めました。

そのとおりのことが書かれています。「サウロはエルサレムに行き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」(26節)。当然のことです。しかし、助け舟を出してくれたのがバルナバでした(27節)。

バルナバの仲裁によって、やっと使徒たちがサウロを信用してくれて、話を聞いてくれました。そして、サウロの命を狙う人々もいたので、逃げ道を作って助け出し、伝道の旅へと送り出してもらえました。

このときのサウロの一連の動きの中に、いわゆる奇跡の要素は全くないと私には思えます。天からバリバリと稲妻がとどろき、超自然的で神秘的な奇跡が起こった形跡などは全くありません。

ここに描かれているのは、前途に立ちはだかる壁や障害物をハンマーでぶち壊して無理やり道をこじ開けるのではなく、鍵を探して扉を開けるように、壊れた人間関係を修復するための仲裁の努力を重ねることによって道を切り開いていく、そのようなサウロと支援者の姿です。

「伝道」の話になると「壁をぶっ壊せ」だの「既成概念を打ち破れ」だのと言い出す人がいますが、そのような暴力的な言葉に私が突き動かされることはありません。とことん事務屋に徹し、教憲教規と信仰告白を踏まえ、「教会論的手続き」を積み重ねていく道家先生のような方の言葉に私は全力で耳を傾けます。

手続きを無視してめちゃくちゃに人を集めても、それが「教会」になることはありません。そう思ったからこそ私は、年がら年じゅう会議と事務仕事ばかりしている、温度が低い日本キリスト改革派教会に移籍したわけですが。

たとえていえば(あくまでもたとえです)、道家先生は、太っている人に「太ってるね」、勉強が苦手な人に「勉強が苦手だね」と言ってくれるような人です。とことん冷たいですが、言葉に嘘がありません。事実を事実としてまっすぐに伝えてくれる真の伝道者です。そういう人がいなければ「教会」はできません。

立川からしだね伝道所と西東京教区の諸教会のために、心からお祈りいたします。

(2018年9月21日、日本キリスト教団立川からしだね伝道所 夕礼拝)

罪人を招く


マタイによる福音書9章9~13節

関口 康

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』」

もう皆さんお忘れになったかもしれませんが、4月の初めに皆さんとお約束したことをどうするかについて、いま迷っています。何の約束をしたかを私から言わなければそのままになりそうな雰囲気もあると感じているほどですが、1年間かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げますと私はたしかに申しました。

しかし、それを途中から変更しました。「たまにはイエスさまの御言葉を聴きたい」というご意見を、ある方からいただいたからです。そういうご意見はすぐに取り入れるのが私のポリシーであるということは、すでに申し上げました。しかし、いま悩んでいるのは、その「たまには」をいつまで続けるかということです。

イエス・キリストの御言葉は新約聖書の中にたくさんあります。しかし、その中のどの御言葉を取り上げるかについては迷いませんでした。なるべく有名な言葉で、心に深くとどまるのは、マタイによる福音書の5章から7章までに記されているいわゆる山上の説教だろうと、すぐに思い当たりました。

しかし、山上の説教すべてを細かく取り上げますと、それはそれでとても長い時間がかかることになり、「たまには」の趣旨に反すると思いましたので、山上の説教の中でも特別に印象的な言葉だけを取り上げることにしました。

それが「心の貧しい人々は、幸いである」(5章3節)であり、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5章44節)であり、主の祈り(6章9~13節)であり、「思い悩むな」(6章25節)であり、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7章7節)でした。

本当にものすごいことをイエスさまがおっしゃっていると、私自身何度読み返してもそう思います。これらの御言葉のすべてに必ず当てはまると一概に言うことは難しいかもしれません。しかしそれでもはっきり言っておくほうがよいだろうと思うのは、わたしたちはなぜ、イエスさまの山上の説教の中の、特にこれらの御言葉のひとつひとつに心を揺さぶられ、感動するだろうかということです。

その答えははっきりしています。これらすべてはわたしたちにとって難しいことであり、ほとんど不可能なことばかりだからです。なかでも最も難しく、最も不可能だと思えるのは「敵を愛しなさい」というイエスさまの教えでしょう。絶対に愛することができない相手が「敵」なのだから、その相手を愛することは本来不可能なことなのです。しかし、これだけではありません。「思い悩むな」もそうでしょうし、「求めなさい」もそうでしょう。

たとえば、私が「思い悩むな」というイエスさまの御言葉について皆さんにお話ししたのは先々週の9月9日(日)です。二週間経ちましたが、そのあいだ、思い悩まなかった方がおられるでしょうか。皆さんにお尋ねすると、その中に私が入っていないことになってしまいます。私自身はどうだったかを問う必要があります。はっきりいえば、自分で説教しながら説教者自身が毎日思い悩んでいました。説教者失格かもしれません。

しかし、わたしたちは安心してよいのだと思います。イエスさまは、わたしたちにできそうなこと、努力次第で何とかなるようなことをおっしゃっているわけではないのだと思うからです。「こんなことは誰でもできる簡単なことでしょう。どうしてできないのですか、だらしない」とわたしたちを責めるために、イエスさまがこのようなことをおっしゃっているのだろうかということを、よく考える必要があります。

もうひとつの問いとして、イエスさまご自身はおできになったのかという疑問をわたしたちが持つことはありうるかもしれません。もし仮にイエスさまがご自分にもおできにならないことを教えておられるとしても、わたしたちにイエスさまを責める資格はないでしょう。しかし、ここははっきり、イエスさまにはおできになったと言うべきです。だからこそ、お教えになりました。

しかし、問題はここから先です。イエスさまは、御自分にはおできになることはすべての人にも必ずできることだ。できない、できないと言っているのは努力が足りない人だ。全くけしからんとお考えになったうえで、このようなことをおっしゃっているでしょうか。

さらにもう一歩踏み込んで、それではイエスさまは、ご自身がお教えになったこれらのことは、わたしたちにとって、あるいは多くの人にとって、まだできていないが、将来はできるようになる努力目標のような意味でおっしゃっているのだろうか、ということも考えてみる必要があるでしょう。

さて、ここで話を元に戻します。私は何の話をしていたかと言いますと、私はローマの信徒への手紙を1年間かけて取り上げることを約束しながらそれを途中で変更してイエス・キリスト御自身の言葉を取り上げましたが、それをいつまで続けるかで悩んでいるという話でした。結論をいえば、そろそろローマの信徒への手紙のほうに戻りたいと私自身は願っています。具体的にどうするかはまだ決めていません。

ただし、誤解されたくないと思っていることがあります。それは、このたび山上の説教を取り上げたことは、なんら脱線ではないということです。これは神学や聖書学の次元の話にもなります。イエスの教えとパウロの教えは矛盾しているとか対立していると主張する人たちがいますが、それは言い過ぎです。

パウロもイエス・キリストの教えを信じ、受け入れ、その上に立って生き、教えた人です。最近『パウロ』という岩波新書を出版なさった青野太潮(あおのたしお)先生という聖書学者が、イエスの教えとパウロの教えは「無条件の赦し」という点で一致していると主張しておられますので、参考になります。パウロの手紙を学びながら「たまには」イエスさまの御言葉を学ぶのは、なんら脱線ではありません。

ローマの信徒への手紙でパウロは何を言っていたでしょうか。わたしたちは罪人であるということです。例外はありません。例外なく罪人であるわたしたちを罪の中から救い出すために、イエス・キリストが来てくださったということです。十字架のうえでわたしたち罪人の身代わりに死んでくださることによってイエス・キリストはわたしたちを罪の中から贖い出してくださったということです。それゆえ、わたしたちが救われるのは、わたしたちの努力や行いによるのでなく、イエス・キリストを信じる信仰によるということです。

しかも、その場合の信仰は「行いなしの信仰」です。信じることもわたしたち人間の行為のひとつであるとしても、だからといって、その自分がなす行為そのものでわたしたちが救われるのではありません。それだと結局、自分で自分を救うことになります。そうではなく、わたしたちの信心の努力がわたしたちを救うのではなく、わたしたち自身は特に何もせず、いわばただ見ているだけのような「信仰」を、神がわたしたちにプレゼントしてくださり、与えられた信仰によって、イエス・キリストにおいて神がわたしたちを救ってくださるのです。

それと同じことを、わたしたちは、特に新約聖書の中の福音書と呼ばれる書物の中に記されているイエス・キリストの教えとご生涯を学ぶときにも当てはめることができます。そして、その意味では、先ほどいくつか挙げさせていただいた問いの答えが、ある程度見えてきます。

イエスさまはわたしたちにできそうなこと、可能なことをお教えになったわけではおそらくないし、努力目標でもないことをおそらくおっしゃっているということです。そして、もしそうであれば、なぜイエスさまは、わたしたちにできないことを求めておられるのかという問いの答えも見えてきます。

それは、できないことを突き付けられるときにこそ、わたしたちは自分の罪を自覚できるということです。「自分の罪を自覚する」ということは、その聖書的な意味は、「私は救われなければならない存在であること」を自覚するということです。それは「私には救いが必要であり、救い主が必要である」という自覚です。

最後になりましたが、今日朗読していただいた聖書箇所について短く触れます。イエスさまは、当時のユダヤ社会の中で嫌われたり差別されたりしていた人々、その中でも特に「罪人」と呼ばれていた人々と共に、躊躇なく食事をなさいました。それでイエスさまにつまずく弟子がいましたし、誤解する人もいましたが、イエスさまは意に介されませんでした。

それはなぜでしょうか。理由ははっきりしています。イエスさまご自身がはっきりおっしゃっています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

わたしたちがよく知っている言葉に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という中国由来のことわざがあります。イエスさまの教えとそれは、意味することも歴史的背景も全く違います。しかし、共通する要素は「立ち位置はどこか」ということです。

イエスさまがおっしゃっているのは、「ああいう人たちも救われたほうがいいよねえ」と思っているだけで、遠巻きにして見ているだけで、自分自身は決して近づかないし、自分たちの仲間に決して加えようとしないことの反対です。

イエスさまと同じことがわたしたちにもできるでしょうか。私にはとても難しいことだと思えてなりません。なぜなら、宗教というのは人の心の深いところにかかわるものだからです。だからこそ、デリケートな感性の問題に必ずなります。生理的な「肌感覚」の次元が必ず問題になります。

生理的に受け付けないとなると、それ以上はどうすることもできず、からだがすくみ、足が止まり、身動きがとれなくなってしまう性質がわたしたちにあることを無視することができません。「ああいう連中」(こういう言い方自体が大問題ですが)と同じ空気を吸いたくない、同じ場所にいるだけで我慢できない、逃げ出したくなるというような感覚とそれは紙一重です。それを「悪い」と責められても困ってしまう面があります。

しかし、だからといってわたしたちは手をこまねいているわけには行きません。長年聖書を学び、神をよく知っていて、なおかつ共通理解を持ちうる仲間内で小さく固まっているだけでは「伝道」は不可能です。それだけははっきりしています。窓を開けなければ新しい空気は入って来ません。外に出ていかなければ新しい出会いはありません。他流試合が必要です。

わたしたちには難しいことであり、不可能なことであるかもしれませんが、そのわたしたちと共にイエスさまがいてくださいます。

イエスさまと共に大胆に、外に飛び出していきましょう。新しい出会いを求めていきましょう。

(2018年9月23日)

2018年9月16日日曜日

門をたたく者には開かれる


マタイによる福音書7章7~12節

関口 康

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

今日の箇所に記されているのもイエス・キリストの言葉です。イエスさまは二千年前に本当にこのようにお話しになりました。そのようにわたしたちは信じてよいのです。しかし、わたしたちの信仰はそれだけで終わるものではありません。

教会の信仰によれば、イエスさまは十字架にかけられて死に、三日目によみがえり、その四十日後に天に昇り、父なる神のみもとで今も生きておられます。そのイエスさまは今もわたしたちに御言葉を語り続けておられます。そのようにも信じてよいのです。

今は昔と状況が全く違うので、今の状況にマッチする言い方に変えて語るということはありうるかもしれません。しかし、視点と方向においてイエスさまのお考えが根本的に変わることはないと思います。たぶん大丈夫です。

「たぶん」とか「と思います」などと余計なことを言う必要はないかもしれません。しかし私がこういう言い方をするのは、勢いで口走っているのではなく、理由があります。意図的な言い方です。その理由をふたつ挙げます。

一つは、私はイエスさまではないということです。当たり前のことです。もう一つは、わたしたちはいまだ完全な仕方で神の御心の実現を見ていない、その意味で不完全な世界の中で生きているということです。もしそうであれば、地上に「こうです」と断言できることは何もありません。実際にどうであるか、どうなるかは「信仰と祈りの事柄」に属することです。

鈴木正三先生が生涯の研究テーマにしておられるディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者の言葉として伝えられているのは「究極以前の事柄」という概念です。その意味は、私がいま申し上げたようなことです。

わたしたちは、天上の御心が完全に実現しているわけではない、不完全な世界の中で生きているということです。神の御心が究極的に実現しているのが「天国」だとすれば、わたしたちが「いまここで」生きている地上の世界のすべては「究極以前の事柄」であるということです。

ボンヘッファーについては、私は斜め読みした程度ですので、詳しいことはぜひ鈴木先生に教えていただきたいです。この神学者が地上の事柄を「究極以前」と呼んだのは、それは究極的な事柄としての天国よりも次元が低いものだから軽んじてよいという意味ではないと私は理解しています。

もっとも私は、ボンヘッファーの言葉を自分の都合のいいように、説教の言葉を断言口調にせずに事柄を曖昧にし続けるための理由にするくらいのことしかしていないのですが、この概念にはもっと深い意味があると思います。私の心に浮かぶのは、地上の世界を「究極以前」としてとらえることは、単なる世界観の問題ではなく、わたしたちの信仰に基づく生き方や行動の問題になっていくだろうということです。

それはどういう意味かという問いの答えを考えるところで、今日の聖書の箇所を見ていただきたいのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。

イエス・キリストの御言葉です。この御言葉については口語訳聖書よりもさらに以前の文語訳聖書の言葉で暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん」。

これは多くの人に誤解されている言葉であるということが、よく指摘されます。欲しいものは何でも手に入る。そのようにイエスさまが教えてくださったと。しかし、実際にはそのようなことは起こらないわけです。わたしたちは欲しいものだらけ、不満だらけです。あれもない、これもないと、毎日のように愚痴をこぼしています。

求めても与えられないのは、わたしたちのお祈りが足りないからでしょうか。そうかもしれません。よし、これからみんなでお祈りしましょう。そうすれば、明日の朝にはどっさりと、わたしたちの家の玄関に大きな荷物が届くでしょう。そうであればいいのですが、全くそうでない現実をわたしたちは生きています。

そうであれば、イエスさまがおっしゃったことのほうが間違っているのでしょうか。求めても与えられたことがない。探しても見つかったことがない。そちらのほうの記憶と感覚のほうが、願ったものはちゃんと与えられたし、探したものはちゃんと見つかったということよりも、わたしたちの心と体の中にはるかに強く残っているとしたら、イエスさまの教えは虚しく感じられるばかりです。

しかし、もしそうである場合、二つの解決策があると思います。これは私の提案です。ひとつの解決策は、イエスさまの御言葉についてのわたしたちの解釈が間違っていると考え、これはどういう意味なのかを考え直すことです。「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」とはどういう意味なのかを歴史的・文献学的・神学的に研究することです。

そして、その場合の研究の目的は、イエスさまがおっしゃっているのは「欲しいものは何でも手に入る」というような次元の低いことではないのだ、ないのだ、もっと次元の違う高尚な意味があるのだ、あるのだと、自分自身に言い聞かせ、納得を得るためです。それで納得できれば、それはそれで、わたしたちの心に平安が与えられるかもしれません。

しかし、もうひとつの解決策があります。それは、求めても与えられない、探しても見つからない、門をたたいても開けてもらえないと、ほとんどいつも不満を感じているわたしたち自身の姿を鏡に映してよく見ることです。鏡に映る自分の姿を見ながら、本当にそれほどそうなのか、本当にわたしたちは求めたものを与えられていないのか、もう十分すぎるほど与えられているのではないかと、考えてみることです。そちらのほうがすぐにできることです。

しかし、自分で提案しておいて何ですが、この第二の解決策で問題が解決する人はあまりいないかもしれません。自分は足りない、自分は足りない、自分は足りないと、ほとんど常に思い込んでいる状態ですから。これはどなたかの話ではなく、私自身の話です。わたしたちの認知がそのようなひとつの視点で固定されてしまっていれば、自分の姿を何度鏡に映しても、足りない自分としか見えない可能性は十分あります。

ただし、やめたほうがいいと思うことがあります。やめましょう。それは他人と比較することです。あの人と比べて足りない、あの人よりは足りている。それは相手にも自分にも失礼なことですし、全く余計なお世話です。しかし、それがもしかしたら最も根本的な問題かもしれません。なぜ自分は不満を感じるのか。それは他人と比較するからではないかということに気づく必要があるかもしれません。

しかし、もしそうだとしても、そのことに気づくだけにしましょう。比較そのものをやめることは、わたしたちには不可能です。やめましょうといくら言ってもやめられません。なぜなら、わたしたちはひとりで生きていないからです。必ず多くの人と共に生きている社会的な存在です。他人との比較を全く考えず、自分のことだけを見つめて生きることのほうが、かえって問題ある行動かもしれません。

しかし、ここでひとつよく考えるほうがよさそうなのは、いったい自分は本当のところ何が欲しいのだろうかということではあります。他人との比較の中で考えれば、欲しいものはすぐ見つかります。あの人のような身長とか見た目とか、家や暮らしが欲しい。そう願うことは全く自由ですが、おそらく実現しません。一時的に実現しても消えていきます。

敬老感謝のお祝いの日に、嫌がらせのようなことを言いたいわけではありませんが、厳しいことも言わなくてはなりません。「究極以前の事柄」は時間の経過と共に変化し、朽ちていきます。かつて若かりし頃に欲しいものがたくさんあった。それをがんばってすべて手に入れた。しかし、見よ、すべてが古くなった。古くなったものをどうやって捨てようかと悩んでいる。捨てるにもお金がかかるではないか、というようなことで悩むのが、わたしたちのあからさまな現実です。

今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、先週お話ししたことと、実は全く同じです。神に頼りなさいということです。それ以上のことはおっしゃっていません。空の鳥や野の花さえ見捨てず養ってくださる天の父が、わたしたち人間のことを見捨てるはずがないでしょう、ということです。わたしたちの神さまは、わたしたちの求めに対して最も良きものを与えてくださるでしょう、ということです。

イエスさまは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9~10節)とおっしゃっています。現実の人間の親の中にこういうことをする人がいるという指摘はしておくべきでしょう。います。いてはいけないのですが、います。明確な殺意をもって自分の子どもを殺す親がいます。

イエスさまも人間が「悪い者」であることをご存じです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも」(11節)とおっしゃっています。人間に対して甘い見方をしておられません。厳しく見ておられます。

しかし、そのうえで、イエスさまは「自分の子供には良い物を与える」(同上節)人間の姿をご存じです。そのことをイエスさまは責めておられません。これは大事な点です。イエスさまは「自分の子どもに良きものを与える」のは人間のエゴイズムだ、マイホーム主義だなどとおっしゃいません。

「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」(同上節)というのがイエスさまの結論です。何が「良い物」なのかの内容は記されていません。もしかしたらそれはわたしたちが求めたものとは違うかもしれません。しかし、神はわたしたちに必要な、わたしたちにとって最も良いものを与えてくださいます。

わたしたちは神を、自分の欲望をかなえさせる召し使いにすべきではありません。

ここでちょっと話を落としますが、昔の漫画映画(テレビアニメ)の「ハクション大魔王」を覚えておられる方がいらっしゃるでしょう。呼ばれて飛び出てなんとやら。今の「ドラえもん」のことはきっとご存じでしょう。不思議なポッケでなんでも夢をかなえてくれる。

わたしたちの神はハクション大魔王でもドラえもんでもありません。そのことを最後に申し上げておきます。

(2018年9月16日)

2018年9月9日日曜日

思い悩むな


マタイによる福音書6章25~34節

関口 康

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

先週立て続けに起こった台風21号と北海道地震で大きな被害を受けた方々のために心からお祈りいたします。

今日の聖書の箇所を私が選んだのは、先週9月2日に発行した週報を作るときでした。それは8月27日です。なぜこのようなことを言うかといえば、先週の大きな災害のことを予想する由もなかったときに選んだ聖書箇所であることをご理解いただきたいからです。今の状況を知ったうえで関連づけてお話しする意図が、あらかじめあったわけではありません。

今年6月末から7月初めにかけて起こった西日本豪雨災害のことは意識にありました。他人事だと思う気持ちはありません。しかし、国内や世界中で起こる災害や事故・事件と被害に対して、具体的にどのように考え、何をなすべきかについての行動原則のようなことは私の頭と心では思いつきません。心苦しく思っております。申し訳ありません。

わたしたちにできるかもしれないのは聖書の御言葉に基づく信仰の言葉で苦しみの中にある方々を慰め、励まし、力づけることだろうという思いは、私の中にもちろん常にあります。その思いがないようなら、何のために教会が現代社会に存在するのか、その意味すら分からなくなります。

しかし、言い逃れか開き直りのように響いてしまうかもしれませんが、実際問題として言わざるをえないのは、教会にできることはあまりに小さい、ということです。

テレビがあり、インターネットもある時代の中で、世界の隅々に起こる災害や事件の情報が瞬時に飛び込んで来るようになりました。理想的には、苦しみ悩むすべての方々のためにまんべんなく公平にお祈りしたいところです。しかし、現実には不可能です。

ごく大雑把な言葉で「すべての人が救われますように」と祈ることはできますが、地上に起こるすべての災害や事件について詳細な状況を把握したうえで祈ることはできません。こういうことを言葉にしてはっきり言うと冷たいことを言っているように思われるかもしれませんが、冷たいことを言っているつもりはありません。

今日の箇所に記されているのはイエス・キリストの言葉です。新共同訳聖書のこの段落の小見出しに「思い悩むな」と書かれています。そのとおりの内容です。前後の文脈が分かるように引用すれば、次のとおりです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。

「思い悩むな」を昔の口語訳聖書などでそう訳されていた「思いわずらうな」という訳のほうで暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「思い悩む」も「思いわずらう」も意味は同じです。

もっと単純に「心配するな」とか「くよくよするな」などと訳しても全く問題ありません。意味は同じです。「思い悩む」とか「思いわずらう」と言うほうが高尚なことを言っていて、「心配するな」というのは次元の低いことを言っている気がするというような感覚が、もしかしたらわたしたちのうちにあるかもしれませんが、それは考えすぎです。

これで分かるのは、イエス・キリストの御言葉の趣旨は、わたしたちの日常生活に関すること、特に衣食住に関することについて、くよくよ悩むな、心配するな、と言っておられるということです。もう少し踏み込んで言えば、イエスさまが問題にしておられるのは、わたしたちの衣食住の具体的な内容に関することであるということです。

「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」と言われているわけです。食べるか食べないか、飲むか飲まないか、着るか着ないかということは、全く問題になっていません。遠慮なく食べてください、ぜひ飲んでください、ぜひ着てください。何の躊躇も要りません。むしろ、裸で表を歩かないでください。

ですから、イエスさまがおっしゃっていることを別の言葉で言い換えるとしたら、衣食住の具体的な内容に関して、「どれにしようか」という選択(チョイス)の問題であると言えるかもしれません。「食べるか食べないか」ではなく「何を食べるか」ですので。

しかし、ここでぜひ、ご安心いただきたいことがあります。

わたしたちが家でごはんを食べる場合、自分ひとりで自分のために料理して食べることもあれば、家族や知人・友人と食べることもあります。もちろん外食することもあります。食事の場所や状況はなんであれ、来る日も来る日も同じメニューですと、自分も飽きるし、飽きられてしまいます。

それでいろいろ違ったメニューを考えるわけですが、「そんな無駄で愚かなことをする必要はない」とイエスさまがおっしゃっているかといえば、そういうことでは全くないと申し上げておきます。

イエスさまが当時どのようなものを食べておられたかは分かりませんが、毎日同じものを食べておられたでしょうか。そうではないだろうと想像します。

しかし、だからといって今申し上げたことがイエスさまの御言葉の趣旨から完全にかけ離れていることかどうかは、考えどころです。

お肉にしようか魚にしようか野菜にしようかと思い悩むことを禁じられてしまうと、わたしたちは困ってしまいます。「どの」お肉にしようか、「どの」魚にしようか、「どの」野菜にしようかで悩むことも、ある程度は許していただきたいです。

しかし、そこから先、だんだんエスカレートして、「いくらくらいの」値段のものにしようかと悩み始めるところまで行くと、そろそろイエスさまの御言葉の趣旨に抵触するかもしれません。

なぜそうかといえば、それは生活そのものの問題というよりも生活レベルの問題になるからです。何が贅沢で何が贅沢でないかは一概には言えませんが、「いくらくらいの」値段のものにするかという悩みを持つことができるのは裕福な人たちだけである、ということは考慮する必要がありそうです。

今申し上げていることはこのあたりでストップします。確認したいと願ったのは、イエス・キリストが「思い悩むな」とおっしゃっているのは、わたしたちの日常生活の、特に衣食住に関する事柄についてである、ということです。

それ以外のすべてのことに当てはめるのは行き過ぎです。自分の人生の進路の問題、あるいは個人や社会や世界の悩みや苦しみの問題について考えるのをやめろ、思考停止せよと言われているわけではありません。そのような冷酷非道なことをイエスさまがおっしゃるわけがありません。

しかし、ここでまたひっくり返して考えてみると、それでは、そういうことは「思い悩むな」というイエスさまの御言葉の趣旨と全く無関係であるかというと、それも言い過ぎです。

災害や事件で被害を受け、苦しい立場を余儀なくされている方々が、これからどう生きていこうかと悩み、ただ漠然と「人生とは何か」と哲学的に問うだけでなく(哲学を軽んじる意図は私にはありません)、より具体的に毎日の生活の細部(ディティール)を微分し、それらをどのように整え、営むかという問題を避けて通ることは絶対にできません。

実際的な飲み食いの問題など次元が低いことなので、そんなことはどうでもよいことで、そんなことよりも高尚な哲学や宗教を重んじなさい、というような話にすべきではありません。

哲学や宗教も大切ですが、飲み食いも大切です。どちらが重く、どちらは軽いということはありません。両方が等しく重要です。私は自分で料理をしたり家事をしたりするところがありますので、文句があるなら自分で料理してみろよと言いたくなります。

そして、今大事なことは、この問題に対するイエスさまのお答えが「思い悩むな」であるということです。くよくよするな、心配するな。それはどういう意味であるかをわたしたちはよく考える必要がありますが、あまり難しいことは私は言いません。この御言葉においてイエスさまが「おっしゃっていない」ことを指摘するだけにとどめます。

イエスさまが「おっしゃっていない」のは、すでにあるもので我慢しろとか、出されたものを文句を言わずに黙って食べろとか、衣食住ごときの次元の低いことで悩むのをただちにやめて、もっと高尚なことで悩み苦しめ、ということです。イエスさまは、そのようなことを全くおっしゃっていません。そのような意味であると言いうる根拠はどこにも見当たりません。

日本のキリスト教、とりわけプロテスタント教会は「武士道」の影響を受けているということが、かなり前から指摘されています。武士道には人斬りの面がありますので、人が死のうが殺そうが、心を動かさず、感情的にならず、冷静でいることを教えるところが必ずあります。その武士道と通じ合うところがあるストイック(ストア哲学的)な思想と教会の教えとが混同される可能性があります。

「武士は食わねど高楊枝、なければないで我慢しろ、衣食住ごときでがたがた文句を言うな、イエスさまもおっしゃっている」などと教会が言い出すことが実際にあります。しかしイエスさまがおっしゃっているのはそういう意味ではありません。全く違います。

イエスさまがおっしゃっているのは、ただ神のみに頼れということだけです。直接的にそのような言葉が今日の聖書箇所の範囲に出てくるわけではありません。しかしそのことがはっきり分かるのが25節の言葉です。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(25節)。

この御言葉に腹が立つ方がおられるかもしれません。実は私もちょっと腹が立ちます。我々人間は鳥よりも価値があるとか言われても、うれしくも楽しくもありません。動物と比較されること自体が失礼な話だと感じます。かえって、なんとなくばかにされた気持ちになります。

しかし、イエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、あなたがたは鳥よりもましだから我慢しろという話ではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、あの鳥でさえ神さまがすべて養っておられるということです。野の花も。

あの鳥よりも価値がある人間を神が見捨てるはずがない、ということです。わたしたち人間は、神を見限ることがあるかもしれません。どれほど祈っても、どれほど熱心に奉仕をしても、自分の願いどおりにしてもらえない。そんな役に立たない神など要らないと、わたしたちが神を見限り、見捨てることはあるかもしれません。しかし、神は絶対に人間を見限らないし、見捨てない方です。

だから思い悩むな、心配するなと、イエスさまがおっしゃっています。イエスさまのお勧めの言葉を信頼してみませんか。

(2018年9月9日)