2018年4月29日日曜日

事実を見る

ローマの信徒への手紙3章1~20節

関口 康

「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今していることの狙いは、ローマの信徒への手紙を共に読みながら、それを狭い意味の聖書研究の時間にするのではなく、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の大切なポイントを押さえていく時間とすることです。

二千年前のパウロがどのように考え、信じていたかはどうでもいいなどと申し上げるつもりはありません。しかし、もっと大切なことは、今のわたしたちがどのように考え、信じるかです。

二千年前のパウロが考え、信じたとおりに、今のわたしたちも考え、信じればいいではないかと思われるかもしれません。しかし事態はそれほど単純ではありません。わたしたちは二千年前のパレスチナとは全く異なる状況を生きています。それが悪いわけではありません。

わたしたちは現代人です。現代人が現代的な考え方をし、現代的な信じ方をするのは当然です。そもそも、わたしたちにはそれ以外にどうすることもできません。

だからこそ、古代と現代をつなぐ橋渡しが必要です。教会と説教の役割は、古代と現代の橋渡しです。橋渡しの必要がないのであれば、聖書を朗読するだけで事が足ります。しかし、それだけでは済まないので、教会と説教が必要です。

パウロとわたしたちの共通する要素はもちろんあります。全くないなら、わたしたちが聖書を読む意味がありません。共通点は、パウロもわたしたちも同じ生身の人間であることです。パウロもわたしたちと同じように、空気を吸い、食べ物を食べました。うれしいことがあれば笑い、悲しいことがあれば涙を流しました。孤独なときは寂しいと感じました。

人間としての本質、そして感性や肌感覚において、パウロとわたしたちは完全に共通しています。だからこそわたしたちはパウロの手紙を、たとえ全部ではなく部分的であっても理解できるのです。それで十分だと私は思います。

今日の箇所の最初に出てくるのは、「ユダヤ人の優れた点は何か」(1節)という問題です。「優れた点」とは「長所」のことです。「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」(2節)と続いています。そしてその「あらゆる面からいろいろ」の最初に挙げられているのが「まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」という点です。

「まず」の意味は「第一に」です。ここで面白いのは、パウロがユダヤ人の長所について実際に挙げているのはひとつだけだということです。第一はあっても第二も第三以下もありません。おそらくパウロは、ユダヤ人の長所を箇条書きしようとしたのです。しかし、第一に挙げたことを深く考え、詳しく述べているうちに箇条書きするのを忘れたか、意図的に放棄したのです。

なぜパウロは箇条書きをやめたのか、その理由は何かという問題を深く追及するつもりはありません。ひとつだけ言いたいのは、パウロはこの手紙を、生きた会話として書いたのであって、学術論文を書いたのではないということです。思いつきでべらべらしゃべっているとまで言うのは言いすぎですが、あらかじめ整えた原稿を読んだわけではなかった様子が分かります。

しかし、今の点はあまり重要ではありません。はるかに重要なことは、パウロが「ユダヤ人の長所」を「神の言葉をゆだねられたこと」だと言っていることです。これは逆の順序で考えることができます。「神の言葉をゆだねられた人」が「ユダヤ人」です。そう考えることができるとしたら、そのとき初めて、ここに書かれていることと今のわたしたちとの関係ができます。

わたしたちは「教会」です。「教会」は「神の言葉をゆだねられた」存在です。つまり教会は、パウロが書いている意味の「ユダヤ人」です。パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は、そのままわたしたち教会の長所です。長所があれば必ず短所もあります。パウロが「ユダヤ人」について書いているとおりのことが、わたしたち教会に当てはまります。

今申し上げたことは、この続きに書かれていることを読むときにも当てはまります。「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」(3節)。

この「彼らの中に」を、わたしたちが「教会の中に」と読み替えて考えることが可能です。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われると、わたしたちはドキッとします。そういうことがないとは言えません。

しかし、そのとき重要なことは、「それはあの人のことだ」と自分以外の人を真っ先に思い浮かべるのをやめましょうということです。それは先週申し上げたことです。なぜ自分のことを真っ先に考えないのでしょうか。なぜ自分自身に当てはめないのでしょうか。「教会の中に不誠実な人がいる」と言われたときドキッとするほうがはるかに正解です。

しかし、そういう人が教会の中にいるとしても、だからといって、教会は信用できないとか、あんな信用できない人たちが信じている神は信用できないとか言い出すのはおかしな話であると、パウロが言おうとしていると考えることが可能です。

実際にはそういうことをよく言われます。高校で教えていたときも、よく言われました。よく勉強ができる生徒が世界史を学んで、キリスト教は歴史の中で戦争や差別を引き起こしてきた諸悪の根源だというようなことを言いました。歴史そのものは否定できません。しかし、だからといって、教会は信用できない、神は信用できないとまで言うのは、飛躍しすぎです。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)と書かれています。「真実」の意味は約束を守ることにおいて首尾一貫しているということです。神はご自分が立てた約束を絶対に裏切ることができません。それが「真実」の意味です。

しかし、だからといって「牧師もうそをつきます」だの「牧師も約束を破ります」だのと牧師である者たち自身が、声を大にして言うのは不適切です。開き直っているようです。そのこと自体で信頼を失うこともあります。

ここでパウロは、話を一歩先に進めます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない」(5~6節)。

特に重要な言葉は「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」です。仮定の話ではなく事実です。しかし強いて言えば、教会に通っているわたしたちにはよく分かる話ですが、そうでない方々には何を言っているかが分からない、難しい話かもしれません。

それはどういうことかといえば、牧師が信用できないとか、教会が信用できないというような嫌な経験をしたことがある人には分かる話だ、ということです。そういう経験をしたのに、それでも教会生活を続けてきた人には。もう少し一般的な言い方をすれば、家族や友人など最も近い関係の人に完全に裏切られたことがある人にもきっと分かります。それでも生きてきた人には。

あなたはなぜ、今でも教会生活を続けることができているのでしょうか。信用できない教会、信用できない牧師から逃げ出すことができて、信用できる教会、信用できる牧師のもとに移ることができたからでしょうか。

あなたはなぜ、今でも生きることができているのでしょうか。あなたを裏切った家族や友人のもとから離れることができて、絶対に裏切らない人たちのもとに保護されたからでしょうか。

そのような教会があったでしょうか、そのような人がいたでしょうか。もしあったなら、いたなら幸せなことです。しかし、本当にそうでしょうか。理由は違うのではないでしょうか。

信用する対象が変わったからではないでしょうか。言い方は極端かもしれませんが、人間を信じるのをやめた。人間ではなく神を信じるようになったからではないでしょうか。

ひどい経験はしないほうがいいに決まっています。しかし、すべての人に裏切られ、教会にまで裏切られたときにこそ「神」を信じることへと初めて次元が移行することが実際にあります。神の存在が現実味を帯び、真剣なものになる。それは、人間に裏切られたときにこそ起こることである、ということは実際にあります。

だから教会は信用できない団体であり続けてよいし、牧師はうそばかりついてよいという話ではありません。そういうばかげた言い方は「『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか」(8節)というパウロの指摘に通じます。教会と牧師が積極的に悪さを働けば働くほど神が正しいお方であることの証明になるので、どんどん悪いことをしましょう、などというのは、全く恐るべき冒涜です。

しかし、「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」は、わたしたちの体験的な事実です。それは人を煙に巻く神学議論ではなく、ふざけた話でもありません。そういうきっかけでもなければ人が真剣に神を信じようとすることはないという事実そのものは、何とも言えない気持ちにさせられることではあるのですが。

最後に書かれているのは、箇条書きしようとしてひとつしか書かなかった「ユダヤ人の長所」の裏面です。「神の言葉をゆだねられたユダヤ人」がなぜ罪人なのかという問いの答えです。

「すべて律法の言うところは律法の下にいる人々に向けられている」(19節)からです。聖書の教えを、他人ではなく、自分自身に当てはめましょう。それができるとき初めて分かるのは、自分の存在が神の御心からいかに遠く離れた罪人であるかという事実です。「神の言葉をゆだねられた人」(わたしたち教会!)の長所が、そのまま短所です。

聖書を読んで「自分は罪人だ罪人だ」と自分を責めるだけの出口のない堂々巡りの中に閉じこもってしまうのは、きわめて危険です。小さな針穴でいいので風穴を開けましょう。そこが出口になります。

しかし、聖書に照らし合わせると自分は罪人であるということをはっきり自覚できることが聖書を読むことの恵みです。自分の弱さや欠けを自覚できるのは、まだ「伸びしろ」が残っていると知ることに通じますので、前向きな生き方です。

事実を直視するために、わたしたちは聖書を読みます。聖書は眼鏡です(カルヴァン)。

(2018年4月29日)

2018年4月27日金曜日

2017年度説教報告

各位

私が「日本キリスト教団無任所教師」だった2017年度の説教報告を行う場所がありませんので、ネットの皆様に謹んで報告いたします。42回でした(キリスト教講演1回を含む)。小さなしもべに奉仕の場を与えてくださいました諸教会ならびに諸学校の皆様に感謝いたします。

【2017年】

4月2日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)主日礼拝

4月9日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

4月16日(日)
日本キリスト教団下関教会(山口県下関市)イースター礼拝

4月23日(日)
日本キリスト教団千葉本町教会(千葉市中央区)主日礼拝

4月30日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

5月14日(日)
日本キリスト教団青戸教会(東京都葛飾区)主日礼拝

5月21日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

5月28日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月4日(日)
日本キリスト教団下関教会(山口県下関市)ペンテコステ礼拝

6月11日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月18日(日)
日本キリスト教団青戸教会(東京都葛飾区)主日礼拝

6月25日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

6月27日(火)
東京女子大学(東京都杉並区)日々の礼拝

7月16日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)主日礼拝

7月23日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

7月30日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月6日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月12日(土)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

8月13日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

8月20日(日)
日本キリスト教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)主日礼拝

8月27日(日)
日本キリスト教団蒲田教会(東京都大田区)主日礼拝

9月3日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

9月10日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

9月17日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル1回

10月1日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

10月11日(水)
国際基督教大学高等学校(東京都小金井市)キリスト教講演会

10月15日(日)
日本聖書神学校礼拝堂(東京都新宿区)ブライダル1回

10月16日(月)
関西学院大学理工学部(兵庫県三田市)チャペルトーク

10月22日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

10月29日(日)
日本聖書神学校(東京都新宿区)礼拝堂ブライダル2回

11月10日(金)
代々幡斎場(東京都渋谷区)某氏前夜式

11月11日(土)
代々幡斎場(東京都渋谷区)某氏葬式

11月12日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

12月10日(日)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区)主日礼拝

12月24日(日)
日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市)クリスマス礼拝

【2018年】

1月28日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

2月18日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

3月18日(日)
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)主日礼拝

2018年4月22日日曜日

聖書を読む

ローマの信徒への手紙2章17~29節

関口 康

「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

今日の箇所は、ローマの信徒への手紙2章17節から29節までです。この手紙の「本文」が始まる1章18節以下から話し始めて3回目になります。この手紙のパウロの書き方が螺旋階段になっていますので、私の説教の内容も「またその話か」と思うほど同じことを繰り返しつつ、少しずつ前進しているような感じになっていると思います。とにかく前進していますので、我慢していただきつつ、お聞きいただけますと幸いです。

今日の箇所の内容に入る前に、この箇所の読み方について私が思うところの注意点を一点だけ申し上げます。それは、パウロがこの箇所を、まるでパウロ自身には全く当てはまらないことであるかのように自分を棚に上げたうえで、自分以外の他の人々に対する批判や皮肉や当てこすりを書いているのではないということです。もしほんの少しでもパウロがそのような意図で書いているとすれば、この箇所でパウロが厳しく批判している相手と彼自身が同じことをしていることになります。しかし、パウロの意図はそういうのとは違います。

「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(17~20節)と記されています。

ここでパウロは、自分を棚に上げて、自分以外の「ユダヤ人と名乗る」人々のことを批判しているのではありません。パウロが言おうとしているのは、今日の箇所の最後のほうに出てくる「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそユダヤ人である」(28~29節)という話につながります。民族や国籍の話をしているのではありません。その意味での「ユダヤ人」が「ユダヤ人を名乗る」こと自体には問題ありません。しかし、この問題は後回しにします。

「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」と書かれているのも、批判でも皮肉でもなく、すべて良い意味です。「律法」は今の「聖書」です。パウロが「律法」と書いている箇所のすべてを「聖書」と読み替えることが可能です。

「また、律法の中に」以下に書かれていることも同様です。「自負しています」(20節)にも「彼らはこういう偉そうなことを言っています」という意味はありません。パウロが挙げているすべてのことは「ユダヤ人の長所」です。それが悪いと言われなければならない点は、ひとつもありません。

私が繰り返し強調させていただいているのは、この手紙の中でパウロが「ユダヤ人」と呼んでいるのは、民族や国籍の話ではないということです。もちろん歴史的な意味での「当時のユダヤ教徒」を指していると言えないわけではありません。しかし、そう言ってしまいますと、わたしたちとは関係がない話になります。ですから私は、パウロが言う意味での「ユダヤ人」は、幼いころから聖書に親しんできた人のことだと申しています。私がそのようにこじつけているのではなく、パウロ自身がその意味で言っています。

私が申し上げたいのは、パウロが挙げている「ユダヤ人の長所」が、わたしたちにとっての「何」に当てはまるかをよく考えながらこの箇所を読む必要があるということです。まだ抽象的すぎるかもしれませんので、もう少し具体的な話をします。

本日礼拝後、私にとってはこの教会で初めての教会総会が行われます。私はこの教会のことを何も存じませんので、皆さんのお話を聴かせていただく立場にあります。しかし、それだけでは無責任だと思い、過去の教会総会の議事録をかなり前のものから順に読ませていただきました。

時期や状況は皆さんのほうがよく覚えておられることでしょうから、そこはぼかしておきます。しかし居住まいを正されたところがあります。それは自由討論の記録でした。どなたのご発言であるかは記されていませんでしたが、「牧師の働きの80パーセントは説教である」というご発言がありました。とても重いお言葉として受けとめました。

なぜ今このような話をしているのかと言えば、今日の箇所でパウロが挙げている「ユダヤ人の長所」は今のわたしたちの「何」を意味するかを具体的に例示する必要があると思うからです。それはたとえば「牧師にとっての説教」です。「キリスト者にとっての教会生活」です。それは祈りであり、賛美です。聖書に忠実に従って生きる堅実な生活であり、献身的な社会奉仕です。

説教や教会生活そのものについて、それを営むこと自体が悪いと言われてもわたしたちは困るだけです。しかし、パウロが言っているのが「ユダヤ人の長所」そのものが「ユダヤ人の短所」であるということだと私は指摘せざるをえません。「ユダヤ人」としての「営み」自体をやめるべきだと言っているのではありません。ここは理解が難しいところです。

「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と教えながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」(21~23節)と記されているのがそれです。

ここでパウロが極端なことを書いていると考えることは許されるでしょう。「教える」とか「説く」と言われているのは、説教者である私にとっては他人事ではありえません。しかし説教者全員が窃盗を働き、姦淫を犯し、教会の施設を破壊していると言われるのは、いくらなんでも言い過ぎです。

おそらくパウロ自身も、ここは極端なことを書いているという自覚を持っていただろうと私は信じます。しかし、パウロが言おうとしているのは、各論ではなく総論です。「あなたは他人に教えながら自分には教えないのか」という点です。自分の目の中の丸太を取り除くことをしないで、他人の目の中のおが屑を取り除こうとすることです。

そしてこれは決して、狭い意味での説教者だけに限定される問題にしてはならないことです。「聖書を読むこと」が「聖書を教えること」の大前提です。聖書を読むことはすべてのキリスト者が取り組んでいることであり、例外はありません。その意味でいえば、パウロの指摘は自分には全く無関係であると言える人は、教会にはひとりもいません。

今日の箇所でパウロが問題にしていることも、「聖書の教え方」の問題というよりは「聖書の読み方」の問題であるといえます。少なくとも事柄の順序は「教えること」よりも「読むこと」のほうが常に先です。逆の順序はありえません。

しかし、パウロがここで問うている「聖書の読み方」は、聖書に書かれていることについてのたとえば「歴史的・文献学的な知識の」正しさを問うているのではありません。パウロが問うているのは「あなたが教えているその聖書の御言葉を、他のだれよりも先に自分自身に当てはめていますか。そのうえで教えていますか」ということに尽きます。

そしてその場合の「自分自身への当てはめ」を考える際に、先ほど「後回しにする」とお約束した「外見上のユダヤ人」と「内面のユダヤ人」の区別の問題が関係します。聖書の御言葉を当てはめるべきは、わたしたちの「外見」ではなく「内面」であるということです。聖書の御言葉に外見的・形式的に従うだけなら、悪い意味の律法主義者と同じです。私たちの内面に、わたしたちの心の奥底に、聖書の御言葉をしっかり当てはめることが求められています。

そのことをしっかり行ったうえで教えられると、どのような教え方になるかを最後に申し上げます。聖書の言葉を自分に当てはめずに自分以外の人に当てはめて裁きの説教をすれば、もしかしたら説教者自身はスカッと爽やかな気分になれるかもしれません。「言ってやった」と。その説教者の個人的な支援者も同じかもしれません。「よくぞ言ってくださった」と。あるいは聖書に出てくる「悪役」を「これはあの人のことだ」と自分以外の人に当てはめるのも同じです。

しかし、真っ先に自分に当てはめたうえで聖書を教える人の言葉は、自分の心が痛くて辛くてたまらない状態で「この痛みをあの人にもこの人にも味わわせなければならないのか」と躊躇や葛藤を覚えながらのなんとなく歯切れの悪い説教になるかもしれません。それはもしかしたら、曖昧で優柔不断な説教です。肯定的に言い換えれば、説教者自身がクッションもしくは防波堤になっていて、人当たりの柔らかい説教です。

重要なことは、その聖書の言葉で説教者自身がどれほど傷ついているかです。人を慰める言葉になっているか、人を傷つけるだけの言葉になっているかです。家族に対しても、友人に対しても、わたしたちがふだん「キリスト者として」何を語っているかをよく吟味すべきです。

(2018年4月22日)

2018年4月15日日曜日

神を知る

ローマの信徒への手紙2章1~16節

関口 康

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

先週申し上げたとおり、今年度1年間、私が説教を担当する礼拝ではローマの信徒への手紙を続けて読みます。ちょうど1年で終わるように、聖書箇所の割り振りと説教題と、その日に歌う讃美歌まで、もう決めました。それは私のメモとして自分で持っておきます。

しかしそれは、ローマの信徒への手紙そのものを歴史的・文献学的に研究した成果を披露するというようなことではありません。私の意図は、この手紙の構造に基づいて、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の中身を分かりやすく解説することにあります。

それはある意味で、皆さんに対する私自身の自己紹介であると考えています。この牧師はどういう筋道でキリスト教信仰をとらえているのか、どういう立場に立っているかをお話しすることが、最も意味のある私の自己紹介になるだろうと期待しています。

それこそが、パウロがローマの信徒への手紙を書いた意図でした。なぜパウロはこの手紙をまだ行ったことがない、これからあなたがたに会いたいと願っているローマのキリスト者たちに宛てて書いたのでしょうか。それは自己紹介をするためでした。

「私はこういう信仰を持っています。こういう福音理解を持っています。この福音をあなたがたと一緒に宣べ伝えたいのです」と言おうとしています。私はパウロではありませんが、パウロの弟子ではあります。パウロ先生のやり方を真似することは許されているでしょう。

それで、今日は2章に入ります。先週お話ししたのは1章18節から32節までの箇所でした。それはローマの信徒への手紙の本文の最初といえる箇所ですが、そこにパウロがいきなり人間は「罪人だ、罪人だ」とまるで機関銃のように書き連ねていることに多くの人が驚き、また多くの人がつまずきを覚える、そういう箇所でした。

しかし私は申し上げました。パウロは決して、天地創造の初めから神が人間を「罪人として」創造されたという信仰を持っていたわけではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在として創造なさったことが創世記1章31節に書かれています。それをパウロが知らないわけがありません。

だからこそパウロは先週の箇所に、罪を「堕落」として描いています。「変わった、堕ちた、逆らった」状態が「罪」であるということは「本来、人間は罪人ではなかった」という大前提なしには、決して成立しえない話です。

わたしたちがよく知っている、多くの人に愛されているイエス・キリストの説教のひとつに、ルカによる福音書15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」があります。このたとえ話が記されているルカによる福音書の直前の箇所に、99匹の羊を残してでも1匹の迷子の羊を探しに行く羊飼いのたとえがあります。さらに、見失った銀貨を捜して見つけて喜ぶ人のたとえもあります。

語られていることの趣旨はどれもみな同じです。たとえられているのは、人間が「罪人」であるとは何を意味するのかです。それは本来「極めて良きもの」に創造されたにもかかわらず、そこから「変わり、堕ち、逆らう」存在になりました。それが「罪」です。

もしそうだとしたら「罪から救われる」とは何を意味するかということも、おのずから分かることです。放蕩息子が父の家に帰ることです。迷子の羊が飼い主に抱かれることです。見失った銀貨が持ち主のもとに戻ることです。本来の場所に戻り、本来の姿へと回復されることです。

ですから、私はそれを「救われるとは人間が人間になることを意味する」と申しました。本来の姿へ回復すること以上のことは起こりません。何がどうなろうと、わたしたちは「人間以上の存在」になりません。人間は「神」にも「天使」にもなりません。そうなる必要がありません。

ここまでが先週のおさらいです。今日は2章を開いていただいています。今日の箇所にはいろんなことが書かれていますが、主旨ははっきりしています。ユダヤ人もギリシア人も神の前では同じ人間であるということです。そしてその場合の「ユダヤ人」と「ギリシア人」の意味は、今のわたしたちの常識とは全くかけ離れたものです。

パウロにとって全世界は「ユダヤ人」と「ギリシア人」の二種類だけで構成されていました。両者の違いは「律法を持っているかどうか」です。当時の「律法」は今の「聖書」です。聖書を物心つくころから知っているのがパウロの言う「ユダヤ人」であり、そうではないすべての人が「ギリシア人」です。民族の違いや国の違いを話しているのではありません。

ここで、先週宿題にした点に触れます。それならば、なぜパウロはローマの信徒への手紙を「人類の罪」から書き始めたのかという問題です。それを一言でいえば、この手紙は、主として今申し上げている意味の「ギリシア人」すなわち「異邦人」に宛てて書かれたものだからです。

「異邦人」(「ギリシア人」)は「ユダヤ人」とは違って、天地創造の初めから罪人として創造されたという意味ではありません。異邦人も「極めて良き存在」として創造されました。しかし異邦人はユダヤ人ほど「本来の状態」を自覚しにくい面があります。異邦人は、罪からの救いを「回復モチーフ」でとらえるのが難しい。自分を「放蕩息子」としてとらえるのが難しい。

たとえば、伝道集会の説教や証しの中でよく聞く話があります。「私はもともと信者の家庭で生まれ育ちました。途中、反抗して教会から出て行きましたが、また戻ってきました」という話を聞いてピンと来る人と来ない人がいます。ピンと来るのは、パウロの言う意味の「ユダヤ人」です。ピンと来ない人は「ギリシア人」(「異邦人」)です。

あるいは、ヨーロッパのような十数世紀も前からのキリスト教国や、そこから派生してできたアメリカで「リバイバル」(信仰復興)を訴えることでピンと来る人は、きっといるでしょう。しかし、日本で「リバイバル」と言われてもお困りになる人が多いでしょう。

そのことと、この手紙が「異邦人に宛てられたゆえに人類の罪から書き始められたこと」が関係していると思われます。断言はできません。十分な答えでないことをお許しください。

しかし、その「ギリシア人」も「ユダヤ人」も神の前では全く同じ人間であると、パウロは主張しています。どちらが「上」であり、どちらが「下」であるということはありません。神は両者を差別なさいません。「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書かれているとおりです。

「ユダヤ人」のほうはどれほど罪を犯しても、神がその人々を特別扱いして見逃してくださるが、「ギリシア人」(「異邦人」)のほうはそうではなく、神の厳しい裁きにあうということはありません。同じ罪を犯せば、どちらも同じ扱いです。そのような依怙贔屓を神はなさいません。

しかし問題はその先です。パウロの言う意味の「ユダヤ人」は傲慢になりやすいとパウロは考えています。

物心つくころから聖書を知り、「神の教え」を知っている。その者たちがまるで自分が神になったかのように、神の戒めは自分には当てはまらないかのように、自分の罪を棚に上げて、自分自身を神の立場に置いて、神の視点から人を裁きはじめるのです。教会の窓から外を見ながら「あの人々を悔い改めに導いてあげなければならない」などと言いはじめるのです。

パウロ自身は「ユダヤ人」ですから、それが自分自身の姿でもあることを強く自覚しています。しかしそのうえでパウロはそのような態度がいかに傲慢であり、根本的に間違っているかを強く訴えています。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(1節)と記されているのは、まさにその意味です。

この「あなた」がパウロの言う意味の「ユダヤ人」です。物心つくころから聖書を知り、神の教えを知っている人々。その人々が「神の教え」をひたすら自分に当てはめ、自分自身の反省と悔い改めの機会にし、常に謙遜に生きようとするのであれば、問題はないかもしれません。

しかし、自分に当てはめることを忘れ、あるいは意図的に拒絶し、「神の教え」を傘に着て、自分以外のだれかを裁く。そういうことをする「あなた」自身も、そのこと自体で神の前で重大な罪を犯していることを自覚せよと、パウロは厳しく警告しています。

しかし、続きに書かれていることを見てください。「神はこのようなことを行うものを正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをするものを裁きながら、自分も同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」(2節)。

ここで分からないのは「このようなこと」の意味です。文脈を考えれば、神の教えを傘に着て他人を断罪することを指しています。そういうことをするのは、たいてい牧師です。教会の説教者です。「このようなこと」をすること自体が罪であるとするパウロの言葉は、教会の信徒の方々から歓迎されるかもしれません。「牧師こそが神の裁きにあう」「そうだそうだ」と。

しかし、それはそれで、人を裁く罪として全く同じことをしていることになるとパウロは言っています。「喧嘩両成敗」を言いたいわけではありませんが、「お互いさま」の面があるかもしれません。

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(3節)と記されています。この意味は、人が自分の罪を認めて悔い改めるのは、神の憐れみによる、ということです。

これこそ、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の真髄です。教会が「世の人」を断罪しても、そのこと自体で人が悔い改めるわけではありません。心が頑なになるだけです。叱られれば萎縮します。見下げられれば恨みを抱きます。教会の場合は「二度と行かない」と決意する人々を生み出します。

「神の憐れみ」のみが、人を造りかえます。「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐」が、人を罪から救います。人間は神ではありません。神になれませんし、なる必要がありません。神になろうとすること自体が罪です。わたしたちは、人間とは全く別の「神」がおられることをよく知る必要があります。

(2018年4月15日)

2018年4月8日日曜日

人間を知る

ローマの信徒への手紙1章18~25節

関口 康

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」

今日からこの教会の副牧師として、毎月第1日曜以外の説教を担当させていただきます。よろしくお願いいたします。

1年間の説教計画を私なりに立てました。いろいろ考えた結果、1年かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げることにしました。しかし、ローマの信徒への手紙を学ぶというよりも、ローマの信徒への手紙の構造に従って、我々が共有すべきキリスト教信仰の内容を分かりやすく解説させていただこうと考えました。

難しいことをお勉強しましょうと言いたいのではありません。「ローマの信徒への手紙は難しい」とよく言われます。何を言っているのかさっぱり分からないと。いろんな解釈があってどれが正しいかが分からないと。そうであることは私も分かります。

キリスト教の教理のお勉強をしましょうと言いたいのでもありません。「キリスト教の教理は難しい」とよく言われます。それも分かります。

私はいろんな話し方をします。教会が違えば違う話し方をしますし、同じ教会でも場面や状況が違えば違う話し方をします。学校での話し方も教会とは違います。当然と言えば当然です。とにかく心がけたいのは「分かりやすい話をしたい」ということです。

先ほど朗読していただきました箇所は、1章冒頭の挨拶文が終わり、前回取り上げた「私は福音を恥としない」と書かれた直後の部分です。そこにパウロが書いているのは、新共同訳聖書の小見出しどおり「人類の罪」についてです。人間とはいかに罪深い存在であるか、ということです。

しかし、ここでさっそく誤解が生じます。パウロという人は、人間をはなから「罪人だ、罪人だ」と決めつける人だと。何はさておいても、ひとつの手紙の初めから「人間は罪深い、人間は罪深い」と書く人ですから。まるで機関銃のように、徹底的に人間に弾を打ち込み、痛めつけ、人間を抹殺する人だと。

パウロが普遍的な人間愛に満ち満ちた人だったかどうかは分かりません。もしかしたら、いくらか人間嫌いだったところがあるかもしれません。しかし、人間嫌いであるということは自分嫌いであるということでもあります。自分自身も人間ですから。

もちろん、自分以外のすべての人間が嫌いだという人がいないとは限りません。しかし、そういう人に私からお願いしたいのは「ぜひあなた自身も人間の中に加えてください」ということです。そうすれば人間を完全に否定することは難しくなるでしょう。もっと自分を愛しましょう。自分を愛するように、もっと人間を愛しましょう。

しかし、今申し上げているのは、パウロにお願いしたいことではありません。それは誤解だからです。ローマの信徒への手紙の本文を、パウロが「人類の罪」について書くことから始めたことには、パウロなりの理由がありました。そのことには今日は触れません。

私が今日申し上げたいのは、だからといってパウロは「人間は天地創造の初めから罪人として創造された」と考えているわけではないということです。そのような考えはパウロにはないし、聖書全体にもありません。

もしそういう考えが正しいのであれば、人間が犯す罪の責任は、人間自身には全くありません。「もし神が天地創造の初めから全人類を罪人として創造されたのであれば」、人類の罪の責任も、世界の悪の責任も、百パーセント神御自身にあります。そうとしか言いようがありません。

しかし、聖書全体の教えも、パウロの信仰も、そのようなものではありえません。ここでわたしたちが思い起こさなければならないのは創世記1章31節の言葉です。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とはっきり記されています。

この「お造りになったすべてのもの」に「人間」が含まれています。神は「人間」を「極めて良い」存在として創造されました。神が人間を初めから極めて悪い、極めて罪深い存在として創造されたわけではないということを創世記1章が強く主張しています。

ですから本当はパウロも、ローマの信徒への手紙の本文を「人類の罪」から書き始めるのでなく「極めて良い存在としての人類」という点から書き始めれば良かったのです。そのほうが誤解されなくて済んだでしょう。

「パウロが嫌い」とおっしゃる方がいます。何はさておき「人間は罪深い、罪深い」と言う。そう言ったうえで「その罪深いわたしたちを神がイエス・キリストにおいて罪から救い出してくださった」と言う。相手を「下げて上げる」。そういうパウロのやり方が嫌いだ。

疑問の感じ方はそれぞれ違うかもしれませんが、「パウロが嫌い」とおっしゃる方の話を聞くと、だいたい今申し上げたようなところに原因があるように私には思えます。

しかし、違うのです。神は人間を初めから罪人として創造なさったのではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在としてお造りになったのです。それが聖書全体の教えでありパウロの信仰です。「そんなことはもう分かっている」と思われる方は、ぜひもう一度自分の信仰を見直すきっかけにしていただきたいですし、驚きをお感じになる方は心にとめていただきたいです。

人間だけでなく「天地万物」も同じです。

私は子どもの頃から海が好きでした。私が生まれ育ったのは岡山県岡山市南端の岡山港のすぐ近くです。岡山県は瀬戸内海に面していますが、岡山市は瀬戸内海の一部の児島湾に面しています。

岡山港に面する海は、波もなければ風もない、見てもつまらない何も起こらない海です。しかし私は、そういう海を見に、学校帰りに自転車で毎日のように行き、日が沈むまでじっと佇んでいたような少年でした。

しかしそんな私が、海が怖くなりました。7年前(2011年)の東日本大震災以来です。しばらくは海に近づくことも見ることもできない状態でした。

しかし神は、空も海も陸も、山も川も動物も、初めから「恐ろしい」存在として創造されたのではありません。「極めて良い」存在として創造されました。今申し上げていることで、聖書についての正しい知識を問題にしているのではありません。私が申し上げたいのは、わたしたちが人間と世界を見るときの根本的な姿勢の問題です。

「人を見たら泥棒と思え」という諺があります。その意味は「他人は信用できないものなので、人は軽々しく信用しないで疑ってかかれ」ということです。リアルで説得力がある教えです。

しかし、聖書の教えもパウロの信仰も要するにそういうことなのかというと、全くそうではありません。「神は泥棒を御覧になった。見よ、すべては極めて悪かった」と創世記1章31節に書かれていません。

言い換えれば「罪は第一のものではなく、第二のものである」ということです。話が急に難しくなったかもしれません。

今申し上げたのは有名な神学者の言葉です。典拠を明示しておきます。戦後の日本の国際基督教大学で教えたことでも知られる神学者エーミル・ブルンナーの言葉です。

「罪は第一のものではなく、第二のものである」(教文館『ブルンナー著作集』第3巻、108頁)。ブルンナーがそのように書いていることの意味は、第一のものは「神の創造」であり、第二のものである「罪」は「創造への反逆」であるということです。

「極めて良かったものが悪くなった」状態が「罪」であり、「罪」は「堕落の結果」です。「堕落」とは良い状態から堕ちた状態です。今日の箇所に描かれている「変わった、堕ちた、逆らった」人間の状態は「堕落」もしくは「倒錯」としての「罪」です。

なぜ私はこのようなことを強調しているのかといえば、このことを受け入れることこそがキリスト教信仰にとって重要であると私が信じているからです。最も関係してくるのは、神がイエス・キリストにおいてわたしたちを罪から救い出してくださった、その「救い」とは何かという問題です。

その答えは単純です。人間は本来ないし元来、良い存在でした。しかし、その良い存在としての人間が、堕ちて悪くなりました。それが「罪」です。

もしそうであれば、「救い」とは人間の本来の「良い状態」へと戻されることです。人間の本来性の回復が「救い」です。

それは「人間が真に人間らしくなること」です。それ以上にはなりません。救われた人は「人間以上の存在」になりません。たとえイエス・キリストの十字架の力によっても、熱心な祈りによっても、わたしたちが「本来の人間性」へと回復されること以上に高められることはありません。

だから教会は絶対に傲慢になることはできません。教会の窓から外を見て「我々はあの人々よりも高い位置にある」などと考えることは絶対にできません。「分からず屋のあの人たちに、わたしたちが伝道してあげる」などと。わたしたちは「人間以上」になることはできませんし、なる必要がありません。

私はよく「人間的な牧師である」と言われます。それは、ある人々にとってはもしかしたら悪い意味です。もしかしたら私は厳しく批判されているのかもしれません。しかし、私はうれしくて仕方がありません。「人間」だと認めてもらえたことへの感謝以外ありません。「救われる」とは「人間が人間になること」を意味するからです。

誤解がないように言いますが、今申し上げたことをそのままひっくり返して「救われていない人は人間ではない」とか「人間未満である」などと言いたいのではありません。それはとんでもない誤解です。それこそ傲慢の極みです。

パウロが「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任がある」(1章14節)と書いていることも、パウロが福音を告げ知らせたいと願っている相手に対して自分が「上」に立ち、相手を「下」に見ているという意味ではありません。

「未開の人にも知恵のない人にも福音を宣べ伝えてあげる責任がある」と言っているのではありません。そのような態度で伝道が進むわけがありません。「見下げられた」と腹を立てられるだけです。

教会と世界の関係は垂直の関係ではなく、水平の関係にあります。両者は同じ地平に立っています。

そのことをわたしたち自身がすっきり自覚できるようになるとき初めて、教会の伝道が力強く進んでいきます。福音が前進します。

(2018年4月8日)