日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年2月21日、千葉市若葉区千城台東) |
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」
今日開いていただきました御言葉、なかでも28節以下に記されていることの趣旨は単純明快ですので、多くの言葉を用いて解説する必要がないほどです。
イエスさまがおっしゃっているのは「わたしのもとに来なさい。休ませてあげる」ということです。「休む」とは安息を得ることです。イエス・キリストのもとに安息がある、ということです。そして「わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる」とおっしゃっています。
安らぎとは平安であり、安心です。イエス・キリストのもとに真の平安があります、安心できます、ということです。
このようにイエスさまがおっしゃっていることがもし事実であるならば、これほどありがたいことはありません。それこそがまさに宗教だと言えば、教会に限らずどこでも通じる話にもなるでしょう。
もちろん言葉で言うだけならば簡単です。しかし、もしこれがうそやでたらめであれば、とっくの昔に淘汰されたことでしょう。新約聖書は二千年前に書かれました。もしうそであれば、この箇所の欄外に「イエスさまはこのようにおっしゃっていますが、いまだかつて実現したことはありません。どなたさまもご留意のうえ気をつけてお読みくださいますようお願い申し上げます」という注意書きがつけられたことでしょう。
他のことに関してはそれくらい厳しくチェックされるではありませんか。社会は厳しいです。情け容赦はありません。聖書だけ特別扱いというわけには行きません。
そして、ここに書かれていることがうそかどうかを検証する時間は十分ありました。世界は広いので、そういう注意書きがついている聖書が存在するのかもしれません。しかし、私はまだ見たことがありませんし、そんな話を聴いたこともありません。この箇所に限っての話ではありますが。
そういう聖書はあってもいいと私は考えるほうです。聖書だから何を書いてもいいとは思いません。うそなのか本当なのかは真剣勝負です。うそならうそですと、はっきり言ってよいと思います。「こんなことはありえませんので気をつけてください」と大きな字で書かれているほうが、よほど誠実です。
なぜなら、わたしたちはひどく疲れているからです。社会で、家庭で、さまざまな重荷をたくさん抱えています。まやかしの言葉など、一言たりとも聞きたくありません。甘い言葉にだまされて一時的に気持ちが楽になっても、次の瞬間には奈落の底です。だまされた分だけ余計に疲れます。
しかしそうは言いましても、今日開いていただいた箇所だけではありませんが、イエス・キリストのもとに行けば真の安息があり、平安がある、安心できるということが記されている箇所が聖書にはあります。もしこれが事実であればありがたいことです。救われるとは、まさにそのようなことです。
しかし、ここで私は、なお躊躇します。考えこんでしまいます。イエスさまのもとでの休息と平安を今のわたしたちはどうしたら味わうことができるのでしょうか。教会に来れば、それを味わうことができるのでしょうか。それは事実でしょうか。
「いえ、実はそうではないのです。安息と平安を与えられるのは教会ではないのです」という考えがありうると思います。イエスさまは現時点では地上にはおられないのですから、今はすでに天の父なる神の右に座しておられる方なのですから。
この箇所でイエスさまが「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃっているのは、地上の世界のことではなくて、天国のことなのです。それはつまり死後の世界のことなのですと。
教会はあくまでも地上的で人間的な存在なのですから、そんなところに安息も平安もあるはずがないのですと。
真の平安を得ることができる唯一の場所は、いまイエスさまが生きておられる死後の世界だけなのですと、このような説明の仕方が十分ありうると思います。
しかし、今日の箇所を読むだけではどちらの意味で理解すべきかは分かりません。どちらの意味でもありえます。
しかし、わたしたちが死んだら安息と平安を得られます、生きている間はそれは無理です、という考え方は、もっともらしいようで危険な面があります。私は非常に強い警戒心を持ちます。
それは、最も信仰深い考え方のようでありながら最も危険な虚無主義(ニヒリズム)を同時に抱えています。口を開けば、「早く死にたい死にたい。死んで天国に行きたい行きたい。一刻も早くイエスさまのもとに行って楽になりたいなりたい」と言い始めるのです。自ら死を選ぼうとしている人の背中を押してしまうことになりかねません。
結論的なことを先に申し上げれば、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」というイエスさまの御言葉を「早く死になさい」という意味で理解すべきでないと私は考えています。まるで生きていることには何の意味もないかのようです。そのとおりだなどと言わないでください。
それよりも危険度が低いのは、わたしたちが生きている間に与えられる安息の約束として、イエスさまの御言葉を理解することです。しかし、それはどうしたら実現するのでしょうか。どこに行けばイエスさまのもとに行くことになリ、その安息に与ることができるのでしょうか。
教会に通っているわたしたちは「それは教会に来ることです」と言いたくなります。当然でしょう。教会にたくさん人が集まってほしいというのは、わたしたちの心からの願いですから。
しかし、教会ははたして本当にわたしたちにとって真の平安を得られる場所になっているでしょうか。わたしたちにとっては残念なことですが、「教会には行きましたが、安息も平安も与えられたことがありません」と、はっきりおっしゃる方があまりにも多いのです。皆さんもきっとお聞きになったことがあるはずです。どうしたらよいのか分からなくなることが、あまりにも多いのです。
しかしまた、いま申し上げた二つのことのちょうど中間のような考え方があります。イエスさまがおっしゃっている「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というのは、死後の世界ではなく、あくまでも地上に生きている間のことである。ただし、考え方を変える必要がありますと。そのように実際に教えてきた人々がいます。
それは教会の世界では決してマイナーな考え方ではありません。むしろ非常にメジャーな考え方です。その考え方とは「現世の生を軽んじること」です。
日本の教会で非常によく読まれてきた本にそのことがはっきりと書かれています。それは14世紀のドイツで生まれてオランダで亡くなったカトリック教会の修道士トーマス・ア・ケンピスが書いたとされる『キリストにならいて(デ・イミタチオーネ・クリスティ)』です。もう一つは、16世紀スイスの宗教改革者、ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』です。
一方のトーマス・ア・ケンピスと他方のカルヴァンが書いていることの内容を詳しく紹介する時間はありません。しかし両者の共通点があります。それは、生きている間に「現世の生を軽んじること」がキリスト者としてふさわしい生き方であるとしているところです。
トーマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』に至っては、実に最初のページからそのことが書かれ、何度も繰り返し書かれています。カルヴァンのほうは「現世の生は軽んじるべきであるが、嫌悪してはならない」とも書いてはいますが、「最高の幸福は生まれて来なかったことであり、次善の道はできるだけ早く死ぬことであると見ている人たちの考えがいかにもっともであることを認める」とも書いています。
「信仰者たちは、この死すべき生を考えるにあたって、この世にはそれ自体としては悲惨であるもののほか何ものもないということを悟りつつ、いよいよ快活に、またいよいよ備えを整えて、来るべき永遠の生への瞑想に全生活を賭けてつとめるというこの目標を常に追求しなければならない」とか書いています。
さらに「永遠の生と比較すると、この世の生は、単に無視してもさしつかえがないばかりでなく、来るべき生と引き換えに、徹底的に軽んじ、また嫌うべきほどのものである」とも書いています。
トーマス・ア・ケンピスやカルヴァンがこのようなことを書いた意図が、信仰をもって生きる人々は死をおそれるべきではない、地上の生にしがみつくべきではない、永遠の天国が待っているということを言いたがっているということはよく分かるのです。しかし、読み方を少しでも間違うと、非常に危険な虚無主義(ニヒリズム)に陥ります。
カルヴァン自身も「できるだけ早く死ぬこと」が次善の道であり、最善の道は初めから生まれてこなかったことだ、と考える人たちに、すっかり共感してしまっています。これは一見信仰深い言葉のようですが、非常に危険です。
人生に疲れた人たちが「イエスさまのもとに行くために今すぐ死にます」と本気で考え、実行に移すでしょう。「地上の世界よりも天上の世界のほうが素晴らしい」と絶賛し続ける人々がいるかぎり、生きていることがつらくてつらくてたまらない人々を教会自身が生み出し続けることになるでしょう。それでいいと、私には思えないのです。
初めて説教をさせていただいている教会で私はなんだか変なことを力説しているようで申し訳ないという思いをいま抱いています。申し訳ありません。
しかし、私が今日みなさんにお伝えしたいと願っているのは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう」とイエスさまがおっしゃっているのは、「早く死になさい。早く天国に来なさい。そうすれば、楽になれます」という意味ではないし、そういう意味であってはならないということです。生きながら「地上の生を軽んじなさい」という教えは、「早く死ね」とは言っていないかもしれませんが、結論は同じです。
イエス・キリストのみもとに行くこと、そして従うこと、すなわち「キリストの弟子になること」は地上ですることです。「私は死んでからキリストに従います」と、いくら言っても意味がありません。そして、消去法の論法ではありますが、結果的に「地上において生きている間に教会に通うこと」しか残りません。その意味で、わたしたちは「教会」をなんとかしなければならないのです。
しかし、その教会は「地上の生を軽んじる」のではなくて、「重んじる」のでなければなりません。それがイエス・キリストの御心です。地上の生を軽蔑し続けるイエス・キリストの姿が、新約聖書のどこに描かれているのでしょうか。そのようなことはどこにも書かれていないのです。
わたしたちにとっては、トーマス・ア・ケンピスよりもカルヴァンよりも、聖書が重要です。イエス・キリストにおいて表された神の御心が重要です。そして、地上の生を真に重んじ、世と人を愛し、深く理解しつつ、喜びと感謝と祈りをもって生きることを教会が求め続けることが重要です。
(2016年2月21日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)