2016年2月15日月曜日

ゼカリヤ書14章1~9節についての釈義(日本基督教団教師転入試験回答)

(以下は日本基督教団教師転入試験「旧約聖書釈義」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)

ゼカリヤ書14章は、ある意味で12章1節から13章6節までの個所の並行記事である。どちらも直接的には、終末時のエルサレムの様子を描いている。それはまた、聖書が描く「終末における神の国」のイメージを意味すると言っても過言ではない。しかし、それはいわゆるシオニズムの思想とは多くの部分で食い違うであろう。

しかし、二つの記事(14章と、12章1節から13章6節まで)には顕著な違いもある。14章は12章10節から13章1節までの個所が強調しているエルサレムの民の内面的刷新という点を強調していない。また、13章2節から6節までの個所が強調している宗教的浄化という点も強調していない。14章の記事が強調しているのは、全世界をすべおさめられる普遍的な主としてエルサレムにお住まいになるヤハウェの王的支配のもとにある諸国民の自然と歴史の変化という点である。いくつかの論拠を挙げて、12章1節から13章6節までの著者と14章の著者とは別の人物であると考える人々もいる。

14章についても、1節から5節までと、6節から11節までは、もともとは別々だったのに後からつなげられたものだと主張する人もいる。

(1節)12章2節と同じように、14章は「見よ」という分詞によって始められる。「見よ」は、これからまもなく起こる出来事を予測しつつ一緒に期待して待とうではないかという呼びかけを意味する。「主の日」とは、ヤハウェが世界に批判的に介入する時を意味する。しかし、2節で明らかになるように、ヤハウェの眼差しは主としてエルサレムに向けられている。「かすめ取られたあなたのものが、あなたの中で分けられる日が」は、過去の戦争で戦利品として敵国に奪い取られたものを取り返すことを意味する。

(2節)「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる」の「わたし」はヤハウェ御自身を指している。神であられるヤハウェが一人称で発言なさる言葉の中で、御自身が主導して諸国の民を集めてエルサレムに戦争を挑ませる、と言っておられるのだから、事態は尋常ではない。ヤハウェはエルサレムの側ではなく、エルサレムを敵視する諸国の民の側を指揮しておられる。シオニズムと食い違うであろう点はこのあたりにある。そして、エルサレムは陥落する。類似した状況の描写がヨエル書2章1節から17節までの個所にも見つかる。2節の描写がネブカドネザル二世時代のエルサレム陥落のイメージに負うている可能性を除外することはできない。しかしこの個所は終末論との関係で読まれるべきである。プトレマイオス一世のエルサレム征服のイメージがこの個所の描写の背後にあるとは考えられない。「しかし、民の残りの者が、都から全く断たれることはない」という望みが残される。

(3節)エルサレム陥落の悲劇の後に「ヤハウェの顕現」(epifanie van YHWH)が起こる(新共同訳聖書は「主は進み出て」と訳している)。「ヤハウェの顕現」のイメージは、ミカ書1章3節、4節に描かれている。「ヤハウェの顕現」は、神が諸国民との戦いに勝利することを意味する。ヤハウェは「戦いや争いの日」のために倉に蓄える方である(ヨブ記38章23節)。

(4~5節)「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの他にはアツァルにまで達している。ユダヤの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」(新共同訳)。終末時に大きな地震災害が起こり、オリーブ山が半分に裂け、大きな谷ができる。エルサレムの人々はその谷を通って逃げることが勧められている。

(6~7節)終末時に自然が大きく変化することが6節から8節までの個所で描かれている。ヤハウェがエルサレムに再び来られるときに世界の救いの時が幕を開ける。そのとき自然が変化する。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」(新共同訳)。ただし、この「光」はゼファニア書3章5節、ヨブ記24章13節などで用いられている語と同じで、それらの個所では、自然的・物理的な「光」という意味というよりも心理的・内面的な事柄を描写する比喩的表現であると思われる。繰り返し記されている「その日」は終末の日を指しているが、「ただひとつの日」(7節)であり、歴史上一度だけ訪れる、反復不可能な唯一無二の日である。その日が世界にいつもたらされるかはヤハウェのみがご存じである。マタイによる福音書24章26節には「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と記されている。「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」。またヨハネの黙示録22章5節には「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」と記されている。しかし、後述するが、これらの描写を単にパラダイス(楽園)の情景の描写であると考えてしまうことに私は反対する。

(8節)また終末時には、泉としてのエルサレムから命の水が湧き出る。その水が二つの川に分かれ、東と西に流れる。二つの川についてのこの描写は、エゼキエル書47章1節にある以下の記述を彷彿させる。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東を向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた」。ヨエル書4章18節には「その日が来ると、山々にはぶどう酒が滴り、もろもろの丘には乳が流れ、ユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出て、シティムの川を潤す」と記されている。これらの描写は、ありもしないことを空想して書いているというよりは、当時のエルサレムや神殿の様子を見て熟知している人が、その現実と照らしあわせながら未来を見つめているものだと言える。それゆえ、これらの(神の国の)イメージは、現実から全くかけはなれた異次元にある超自然的なパラダイス(楽園)の情景を描いているにすぎないと考えるより、地上の現実の上に神御自身が打ち立ててくださる新しい世界としてとらえるほうがよい。

(9節)戦争や災害によって失われた世界は、異次元にある超自然的なパラダイス(楽園)に至ってやっと初めて回復されるのではない。そのような思想は、地上の生を軽視することを意味する。結局のところ、我々人間の、地上の世界に対する無責任な姿勢を是認してしまうことになる。敵との戦いにことごとく勝利すること(1~5節)と自然の変化(6~8節)によって、ヤハウェは「地上をすべて治める王」となられる。終末時においては、ヤハウェはただおひとりの神であり、御自身の御名で呼ばれる。

以上の釈義はA. S. Van der Woude, Zecharia, Prediking van het Oude Testament(POT), 1984.を参考にしつつ、若干の私見をまじえたものである。