2016年2月14日日曜日

キリストに従う(置戸教会)

日本基督教団置戸教会(2016年2月14日、北海道常呂郡置戸町)
マタイによる福音書11・25~30

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」

置戸教会に来させていただいたのは、今日が2回目です。前回は29年前です。ただし、日曜日ではありませんでした。29年前の私はまだ21歳で、東京神学大学の4年生でした。その年の夏休み中に、春採教会で夏期伝道実習をさせていただきました。それが1987年7月です。

そして、その実習の最後に春採教会の当時牧師だった青砥好夫先生と釧路教会の秋保宣先生と私の3人で、「道東地区めぐりに行こう」ということで、1泊2日のドライブに連れて行っていただきました。と言っても、納沙布岬で花咲がにを食べて、知床岬で毛がにを食べて、網走に行って、摩周湖や屈斜路湖を見ただけなのですが。

過密なスケジュールでしたので、北見望ヶ丘教会には行くことができませんでした。しかし、置戸教会に立ち寄らせていただきました。高田弘先生がお元気だったころです。立ち寄らせていただいたのは、わずか数分だけです。そのとき以来です。

しかし、私が置戸教会で説教をさせていただくのは、今回がなんと3回目です。不思議な話です。前回と前々回はインターネットで録画説教をさせていただきました(2012年12月30日、2015年2月22日)。そういうことができる時代になったことを感謝しています。

でも、私は不満でした。皆さんのお顔を拝見できないのです。一方通行です。私は独り言を言っているようなものでした。これは何とかしなくてはならないと思い、今回無理やり私から頼み込んで、置戸教会で説教させてください、お願いしますと訴えて、やっとお許しをいただきました。かえってご迷惑だったかもしれません。どうかお許しください。

さて、そろそろ本題に入ります。今日みなさんにお話ししたいと思っているのは、たった一つのことです。それは「キリストに従うことは、楽になることです」ということです。

そういうふうに、聖書に書いてあります。イエスさまご自身がそうおっしゃっています。イエスさまがおっしゃっているのは、わたしのもとに来なさい、休ませてあげるということです。わたしに学びなさい、そうすれば安らぎを得られる。それは、安心できます、という意味です。

こんないい話、なかなか聞けないと思います。そして、イエスさまがおっしゃっていることが事実であれば、こんなにありがたいことは他にないと思います。

なぜなら、わたしたちはみんな、ひどく疲れているからです。いろんな重荷を負っているからです。休めるものなら休みたいと心から願っているからです。そうでない人はいないでしょう。

しかし、ここで考えさせられることがあります。それは、イエスさまがおっしゃっているとおりのイエスさまのもとでのこの休息とこの平安を、今のわたしたちは、どうしたら味わうことができるのでしょうか。教会に来れば、それを味わうことができるでしょうか。それは本当でしょうか。

ここでまたちょっと私の話をさせてください。私は今、自由の身です。昨年12月までの11年9ヶ月、牧師として働かせていただいた教会を辞職しました。ついでに、というわけではありませんが、19年所属した教派を退会しました。私は今、無職で無所属です。そのような立場でみなさんに説教をさせていただいています。

4月からの仕事は決まっています。プロテスタントのキリスト教主義学校の宗教科の常勤講師になります。高校生に聖書を教える仕事です。そして、その学校が「日本基督教団関係学校」であることを理由に、日本基督教団関係学校に在職する者は教団の「教務教師」として登録することができる制度(教規第128条1項)に基づいて、日本基督教団に転入させていただくことにしました。

転入試験は来週(2016年2月23日、25日)です。もしそれに合格すれば、私は日本基督教団の教師です。

しかし今日の段階では、まだ無所属です。そして無職です。現在私は、時給のアルバイトをさせていただいています。建築関係の会社のホームページを作るのをお手伝いする仕事です。私には大学生と高校生の子どもがいますので、父親が無収入になってしまうわけには行きませんので、アルバイトをしています。そのような状態です。肩書きをつけるとしたら「フリーター」かもしれません。

自分の話が長くなりました。私は今、自由の身であると申し上げたかっただけです。教会に通うことは、生まれたときから今の50歳になるまで50年続けています。牧師の仕事は、1990年4月に日本基督教団の補教師になったときから数えれば、25年させていただきました。しかし、今の私は、無職で無所属です。

そのような状態になってみて初めて気づいたことがあります。それは多少私の見苦しい言い訳の面があるかもしれませんが、事実としてそうだと思えることです。

それは、私は「キリストの弟子」であるということです。そのことだけは断言できます。誰に何と言われようと、この点だけは誰にも譲ることができません。しかし、私が「キリストの弟子」であるということと、どこかの教会に属しているということ、あるいはどこかの教会の牧師であるということは、完全に区別して考えることはできないかもしれませんが、だからといって完全にぴったり同じことを意味するとも言えない、ということです。

客観的に言えば、今の私は無所属で無職です。どこの教会にも属さず、どこの牧師でもありません。しかしそれでは、今の私が「キリストの弟子」であると名乗ることができないのかといえば全くそんなことはありえないと思います。自信をもって堂々と、声を大にして「私はキリストの弟子です!」と名乗ることができます。だからこそ今日みなさんの前にも立たせていただいています。

そしてその私は、もし私がそうであるならば、自分だけを特別扱いしてはならないはずであるとも考えます。自分のことをそうであると言いたいならば、他の人にも当然同じことを当てはめなくてはならない。それが私の責任であり、義務でもあると思います。

わたしたちはどうしても、人の顔を見ると「教会に通ってください、教会に来てください」と、つい言いたくなります。キリストの弟子であることと、教会に属することは、全く同じことであると考えたくなります。そのように考えることのすべてが間違っているわけではありません。

しかし、問題はその先です。「教会に来ない人はキリストの弟子ではない」とも、つい考えてしまいます。「あの人は、この人は、以前は教会に来ていたので、キリストの弟子だった。しかし、今は教会に来ていないので、キリストの弟子でなくなった」と、そんなふうにさえ、つい考えてしまいます。これは私が大げさに言っていることではありません。一度ならず、何度も繰り返し、教会の中で耳にしてきた言葉です。

しかし、そういう話になっていきますと、わたしたちはだんだん、教会が楽でなくなります。教会が苦痛になり、重荷になる。教会に行くたびに疲れる。イエスさまがおっしゃっていることからかけ離れていきます。キリストに従うことは、楽になること、であるはずですが、現実はそうではないと言わなくてはならなくなります。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、イエスさまはおっしゃっているのに。

いま私が申し上げているのは、どこかの教会やだれか牧師の批判ではありません。自分自身の反省として申し上げていることです。そしてまた、これからの私自身の目標と希望として申し上げていることです。

行けば行くほど疲れる教会。重荷ばかりが増えて喜びを感じられない教会。教会がそのような状態であってよいはずがないではありませんか。

「イエスさまは好きですが、教会は嫌いです」ということを、わりとはっきりおっしゃる方がおられます。決して少なくありません。かなり大勢の人から聞こえてくることです。その原因は何なのかということを、わたしたちはもっと真剣に考えなくてはなりません。

もちろん私は、このようなことを言いながらも、教会を長い間、一生懸命に支えてこられた方々の努力や苦労は並大抵のものではないということも、よく分かっているつもりです。その努力や苦労を踏みにじるようなことを申し上げる意図は全くありません。

教会の中でなにかの役につけられると、責任ばかり押し付けられて、文句ばかり言われて。できて当たり前、できなければ厳しく批判される。そのようなことばかりが続くと、腹も立つし、愚痴も言いたくなります。すべてを投げ出したくなります。そのような気持ちになることがしばしばあることもよく分かります。

私の過去の人生50年すべて教会と共に歩んできましたので、他人事のように思えることは、ただのひとつもありません。

しかし、だからこそあえて申し上げたいことがあります。教会に通っているわたしたちは、教会を長年支えてきたわたしたちは、どんなことがあっても喜びましょう。絶えず祈りましょう。すべてのことに感謝しましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサロニケ5:16~18)という使徒パウロの言葉を思い出しましょう。

無理に笑う必要はありません。作り笑いはすぐバレます。教会は楽しいところであり、ここに来ると楽になれる、重荷をおろすことができる、そういうところであるということを、わたしたちの言葉と態度で示していきましょう。そうすれば、おのずから教会に人が集まるようになります。

「ここは楽しいところなのか苦しいところなのか」ということを、人は瞬時に判断します。肌感覚で分かります。教会を楽しいところにするテクニックのようなものはありません。そういうのはすぐに見抜かれます。

そのようなことよりも大事なのは、わたしたち自身が「キリストに従うこと」です。イエスさまの弟子になることです。イエスさまの前に重荷をおろして、真に自由にされたことを心から喜び、感謝することです。

(2016年2月14日、日本基督教団置戸教会主日礼拝)