(以下は日本基督教団教師転入試験「新約聖書釈義」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)
テトスへの手紙の著者問題に関しては私には判断がつかない。あまりにも明確に「使徒パウロ」(1・1)が書いたことが明記されているが、それは当時からすでに多く存在したとされる偽名書簡のやり方だと有力な聖書学者に言われてしまうと閉口せざるをえない。
いささか妥協的な一案ではあるが、他の新約諸文書に登場する使徒パウロの言行記録と絡め合わせる仕方で時系列的な年表を作成したり、「史実性」を再構成してみせたり、他の(偽名書簡であると称されることの少ない)パウロ書簡に見られる「パウロの神学」との共通点や相違点を論証してみせるというようなことを避けさえすれば、1・1に基づいて、この手紙が「使徒パウロ」によって書かれたと、著者問題に触れないままで、ごく素朴に説教の中で述べることは構わないのではないか。説教原稿には「(自称)『使徒パウロ』は」などと表現することは不可能ではないが、礼拝等での説教演述においては無意味である。
このような妥協的で曖昧な判断をしつつではあるが、この手紙の内容は非常に魅力的で、端的に面白いものであることは断言しうる。特に1・5以下の「あなたをクレタに残してきたのは」から始まるテトスに対する著者「パウロ」の牧会的な指示内容は、今日の教会のあり方や信徒の生き方にとって褪せない価値を持ち続けている。
さて、私に与えられた課題である2章11~15節を釈義していくことにする。その前に、ごく大雑把に俯瞰しつつ、前後の文脈の中でこの段落を見るかぎり、主に「道徳的な事柄」が記されていると予測しながら読むことは十分可能である。しかし、1・5から始まる一連の話題の中心にあるのは、地上にある制度としての「教会」の組織的なあり方や、組織としての「教会」を健全に建て上げるために構成員(教会員)はどのような立ち居振る舞いや姿勢をとるべきかという点にもっぱらある。つまり単なる一般的な意味での「道徳的な事柄」というよりも「教会を健全に建て上げるための知恵と心得」、あるいは「教会生活の手引き」が記されていると考えるほうがよいだろう。
(11節)「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(新共同訳)は、なんとも直訳的であるが、他に訳しようがない。σωτηριος(救いをもたらす)には σοωτηρος (救い主)という異読がある。また、古代の教会において、この聖句がクリスマスの日に朗読されていたと言われる(そのようにA. F. J. Klijn, Timoteus, Titus, en Filemon, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1994, p.138)。このようないくつかの例は、もしかすると「神の恵み」と「イエス・キリスト」の同一視に起因するのかもしれないが、この段落では両者は区別されている。σωτηριος πασιν ανθρωποις(すべての人々に救いをもたらす)と書かれているのを見ると、普遍(万人)救済説か特定救済説かという議論を始めたくなる人々もいるだろう。しかしあれはイエス・キリストにおける贖罪のみわざの効力の範囲についての議論であり、テトス2・11の趣旨とは異なる。「大酒のとりこにならず」(2・3)など、日常的な生活態度を道徳的に改善すべきことを勧告する一連の文脈の中で言及された「すべての人々に救いをもたらす」の「救い」は、イエス・キリストにおける「贖罪」よりも広義であると考えることができる。後で見るテトス2・14に「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」と贖罪論との関連を想起させる言葉が出てくるが、この「わたしたち」(2・14)を「すべての人々」(2・11)と読み替えることができるかどうかをよく考えるとよいだろう。はっきり言えそうなことは、俯瞰して見れば、制度的な意味での「教会」をどのように建て上げていくかという関心がこの手紙全体を支配していることは明らかであるゆえに、「わたしたち」の意味はほとんど「教会」と同義であると考えてよさそうだ、ということである。そのため、「すべての人に救いをもたらす」(2・11)というこの一文を取り上げてイエス・キリストの贖罪の効力の範囲をめぐる教会史的な議論とかかわらせることは、文脈を無視することに通じてしまう。むしろこの文脈で重要な点は、「神の恵み」には人の心と生活を変える力があり、その力は人を選ばない(その意味での「すべての人々」)ということにある。神の恵みを与えられた人には必ず、新しい生き方が同時に与えられる。程度の差はあれ、どの人の立ち居振る舞いや生活態度も例外なく改善される。これは贖罪の範囲の議論とは無関係である。
(12~13節)テトス2・12~13は、前節の「神の恵み」の内容説明である。新共同訳聖書を用いて説教する場合に気をつけなくてはならないのは、「現世的な欲望」と訳されているκοσμικας επιθμιας と、「この世で」と訳されているτω νυν αιωνιの関係をどのようにとらえるべきかという問題であると思われる。日本語で考えれば「現世」と「この世」は同義語である。しかし、この文脈では明らかに、前者は悪い意味で、後者は良い意味で言及されている。日本語としての「現世」と「この世」を、前者は悪い意味であるが後者は良い意味であると説明することは不可能である。しかし、新共同訳聖書がτω νυν αιωνιを「この世」と訳してくれたおかげで、それと「現世」(κοσμος)ないし「現世的」(κοσμικας)との関係をどのように考えればよいかという問いを呼び起こす可能性が出てきたことは幸いなことでもある。それは、地上の生の評価の問題、ないし地上に生きることの意味は何かという実存的な問題に深くかかわる重要な問いでありうる。この個所で言われているのは、「神の恵み」が「わたしたち」に教えるのは「この世で、思慮深く(「控えめな」という意味)、正しく、信心深く生活するように」という勧告である。この世において、現世的な欲望にとりつかれることは、ある意味で不可避的なことであるとも思われる。しかし、そうならないように、神が強い力で人をそのような欲望の妄想のとりこになっている状態から引きはがしてくださり、人を正気に戻してくださる。このようなことが、この文脈での広義の「救い」であると思われる。
(14節)すでに触れたが、テトス2・14は「キリストがわたしたちのために御自身を献げられた」と書いてある以上、贖罪論に関するテキストとして扱わざるをえない。しかし、この個所においてイエス・キリストにおける贖罪のみわざの目的は、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、善い行いに熱心な民を御自身のものとして清めるためだった」とされる。この場合の「わたしたち」も「教会」という語とほとんど交換可能な意味であると思われるが、その意味での「わたしたち」がλαον περιουσιον ζηλωτην καλων εργων(新共同訳は「良い行いに熱心な民」と訳している)と呼ばれ、その「わたしたち」を「御自身のものとして清めること」にあったと言われる。このようにきわめて道徳的な意味合いが強調された贖罪論であると言える。
(15節)「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい」(新共同訳)とは、神の御言の説教者としてのテトスに対する著者「パウロ」の勧告である。しかしまたそれは同時に、代々の教会に仕えてきたし、これからも仕えていくであろうすべての説教者への勧告でもある。勧告されている内容を敷衍していえば、組織としての「教会」を健全なものとして建て上げていくために、道徳的な事柄について真剣に取り組むことは、不可避的である。しかし、道徳的な事柄に触れようとすると、個人の尊厳や多様性の尊重という問題に踏み込むことを余儀なくされ、大きな反発を受けることが予想される。そのようなときにも、神の御言の説教者である者たちは、神御自身から委ねられた権威をもって語り、勧め、戒めることが肝要である。