今日(2016年2月28日日曜日)の主日礼拝に出席させていただいた日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市草深(そうふけ)1139-7)の美しい会堂の写真を撮らせていただきました。伝統と新しさと素朴さが調和した居心地の良い空間でした。
2016年2月21日日曜日
キリストに従う(千葉若葉教会)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年2月21日、千葉市若葉区千城台東) |
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」
今日開いていただきました御言葉、なかでも28節以下に記されていることの趣旨は単純明快ですので、多くの言葉を用いて解説する必要がないほどです。
イエスさまがおっしゃっているのは「わたしのもとに来なさい。休ませてあげる」ということです。「休む」とは安息を得ることです。イエス・キリストのもとに安息がある、ということです。そして「わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる」とおっしゃっています。
安らぎとは平安であり、安心です。イエス・キリストのもとに真の平安があります、安心できます、ということです。
このようにイエスさまがおっしゃっていることがもし事実であるならば、これほどありがたいことはありません。それこそがまさに宗教だと言えば、教会に限らずどこでも通じる話にもなるでしょう。
もちろん言葉で言うだけならば簡単です。しかし、もしこれがうそやでたらめであれば、とっくの昔に淘汰されたことでしょう。新約聖書は二千年前に書かれました。もしうそであれば、この箇所の欄外に「イエスさまはこのようにおっしゃっていますが、いまだかつて実現したことはありません。どなたさまもご留意のうえ気をつけてお読みくださいますようお願い申し上げます」という注意書きがつけられたことでしょう。
他のことに関してはそれくらい厳しくチェックされるではありませんか。社会は厳しいです。情け容赦はありません。聖書だけ特別扱いというわけには行きません。
そして、ここに書かれていることがうそかどうかを検証する時間は十分ありました。世界は広いので、そういう注意書きがついている聖書が存在するのかもしれません。しかし、私はまだ見たことがありませんし、そんな話を聴いたこともありません。この箇所に限っての話ではありますが。
そういう聖書はあってもいいと私は考えるほうです。聖書だから何を書いてもいいとは思いません。うそなのか本当なのかは真剣勝負です。うそならうそですと、はっきり言ってよいと思います。「こんなことはありえませんので気をつけてください」と大きな字で書かれているほうが、よほど誠実です。
なぜなら、わたしたちはひどく疲れているからです。社会で、家庭で、さまざまな重荷をたくさん抱えています。まやかしの言葉など、一言たりとも聞きたくありません。甘い言葉にだまされて一時的に気持ちが楽になっても、次の瞬間には奈落の底です。だまされた分だけ余計に疲れます。
しかしそうは言いましても、今日開いていただいた箇所だけではありませんが、イエス・キリストのもとに行けば真の安息があり、平安がある、安心できるということが記されている箇所が聖書にはあります。もしこれが事実であればありがたいことです。救われるとは、まさにそのようなことです。
しかし、ここで私は、なお躊躇します。考えこんでしまいます。イエスさまのもとでの休息と平安を今のわたしたちはどうしたら味わうことができるのでしょうか。教会に来れば、それを味わうことができるのでしょうか。それは事実でしょうか。
「いえ、実はそうではないのです。安息と平安を与えられるのは教会ではないのです」という考えがありうると思います。イエスさまは現時点では地上にはおられないのですから、今はすでに天の父なる神の右に座しておられる方なのですから。
この箇所でイエスさまが「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃっているのは、地上の世界のことではなくて、天国のことなのです。それはつまり死後の世界のことなのですと。
教会はあくまでも地上的で人間的な存在なのですから、そんなところに安息も平安もあるはずがないのですと。
真の平安を得ることができる唯一の場所は、いまイエスさまが生きておられる死後の世界だけなのですと、このような説明の仕方が十分ありうると思います。
しかし、今日の箇所を読むだけではどちらの意味で理解すべきかは分かりません。どちらの意味でもありえます。
しかし、わたしたちが死んだら安息と平安を得られます、生きている間はそれは無理です、という考え方は、もっともらしいようで危険な面があります。私は非常に強い警戒心を持ちます。
それは、最も信仰深い考え方のようでありながら最も危険な虚無主義(ニヒリズム)を同時に抱えています。口を開けば、「早く死にたい死にたい。死んで天国に行きたい行きたい。一刻も早くイエスさまのもとに行って楽になりたいなりたい」と言い始めるのです。自ら死を選ぼうとしている人の背中を押してしまうことになりかねません。
結論的なことを先に申し上げれば、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」というイエスさまの御言葉を「早く死になさい」という意味で理解すべきでないと私は考えています。まるで生きていることには何の意味もないかのようです。そのとおりだなどと言わないでください。
それよりも危険度が低いのは、わたしたちが生きている間に与えられる安息の約束として、イエスさまの御言葉を理解することです。しかし、それはどうしたら実現するのでしょうか。どこに行けばイエスさまのもとに行くことになリ、その安息に与ることができるのでしょうか。
教会に通っているわたしたちは「それは教会に来ることです」と言いたくなります。当然でしょう。教会にたくさん人が集まってほしいというのは、わたしたちの心からの願いですから。
しかし、教会ははたして本当にわたしたちにとって真の平安を得られる場所になっているでしょうか。わたしたちにとっては残念なことですが、「教会には行きましたが、安息も平安も与えられたことがありません」と、はっきりおっしゃる方があまりにも多いのです。皆さんもきっとお聞きになったことがあるはずです。どうしたらよいのか分からなくなることが、あまりにも多いのです。
しかしまた、いま申し上げた二つのことのちょうど中間のような考え方があります。イエスさまがおっしゃっている「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というのは、死後の世界ではなく、あくまでも地上に生きている間のことである。ただし、考え方を変える必要がありますと。そのように実際に教えてきた人々がいます。
それは教会の世界では決してマイナーな考え方ではありません。むしろ非常にメジャーな考え方です。その考え方とは「現世の生を軽んじること」です。
日本の教会で非常によく読まれてきた本にそのことがはっきりと書かれています。それは14世紀のドイツで生まれてオランダで亡くなったカトリック教会の修道士トーマス・ア・ケンピスが書いたとされる『キリストにならいて(デ・イミタチオーネ・クリスティ)』です。もう一つは、16世紀スイスの宗教改革者、ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』です。
一方のトーマス・ア・ケンピスと他方のカルヴァンが書いていることの内容を詳しく紹介する時間はありません。しかし両者の共通点があります。それは、生きている間に「現世の生を軽んじること」がキリスト者としてふさわしい生き方であるとしているところです。
トーマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』に至っては、実に最初のページからそのことが書かれ、何度も繰り返し書かれています。カルヴァンのほうは「現世の生は軽んじるべきであるが、嫌悪してはならない」とも書いてはいますが、「最高の幸福は生まれて来なかったことであり、次善の道はできるだけ早く死ぬことであると見ている人たちの考えがいかにもっともであることを認める」とも書いています。
「信仰者たちは、この死すべき生を考えるにあたって、この世にはそれ自体としては悲惨であるもののほか何ものもないということを悟りつつ、いよいよ快活に、またいよいよ備えを整えて、来るべき永遠の生への瞑想に全生活を賭けてつとめるというこの目標を常に追求しなければならない」とか書いています。
さらに「永遠の生と比較すると、この世の生は、単に無視してもさしつかえがないばかりでなく、来るべき生と引き換えに、徹底的に軽んじ、また嫌うべきほどのものである」とも書いています。
トーマス・ア・ケンピスやカルヴァンがこのようなことを書いた意図が、信仰をもって生きる人々は死をおそれるべきではない、地上の生にしがみつくべきではない、永遠の天国が待っているということを言いたがっているということはよく分かるのです。しかし、読み方を少しでも間違うと、非常に危険な虚無主義(ニヒリズム)に陥ります。
カルヴァン自身も「できるだけ早く死ぬこと」が次善の道であり、最善の道は初めから生まれてこなかったことだ、と考える人たちに、すっかり共感してしまっています。これは一見信仰深い言葉のようですが、非常に危険です。
人生に疲れた人たちが「イエスさまのもとに行くために今すぐ死にます」と本気で考え、実行に移すでしょう。「地上の世界よりも天上の世界のほうが素晴らしい」と絶賛し続ける人々がいるかぎり、生きていることがつらくてつらくてたまらない人々を教会自身が生み出し続けることになるでしょう。それでいいと、私には思えないのです。
初めて説教をさせていただいている教会で私はなんだか変なことを力説しているようで申し訳ないという思いをいま抱いています。申し訳ありません。
しかし、私が今日みなさんにお伝えしたいと願っているのは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。やすませてあげよう」とイエスさまがおっしゃっているのは、「早く死になさい。早く天国に来なさい。そうすれば、楽になれます」という意味ではないし、そういう意味であってはならないということです。生きながら「地上の生を軽んじなさい」という教えは、「早く死ね」とは言っていないかもしれませんが、結論は同じです。
イエス・キリストのみもとに行くこと、そして従うこと、すなわち「キリストの弟子になること」は地上ですることです。「私は死んでからキリストに従います」と、いくら言っても意味がありません。そして、消去法の論法ではありますが、結果的に「地上において生きている間に教会に通うこと」しか残りません。その意味で、わたしたちは「教会」をなんとかしなければならないのです。
しかし、その教会は「地上の生を軽んじる」のではなくて、「重んじる」のでなければなりません。それがイエス・キリストの御心です。地上の生を軽蔑し続けるイエス・キリストの姿が、新約聖書のどこに描かれているのでしょうか。そのようなことはどこにも書かれていないのです。
わたしたちにとっては、トーマス・ア・ケンピスよりもカルヴァンよりも、聖書が重要です。イエス・キリストにおいて表された神の御心が重要です。そして、地上の生を真に重んじ、世と人を愛し、深く理解しつつ、喜びと感謝と祈りをもって生きることを教会が求め続けることが重要です。
(2016年2月21日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)
2016年2月15日月曜日
テトスへの手紙2章11~15節についての釈義(日本基督教団教師転入試験回答)
(以下は日本基督教団教師転入試験「新約聖書釈義」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)
テトスへの手紙の著者問題に関しては私には判断がつかない。あまりにも明確に「使徒パウロ」(1・1)が書いたことが明記されているが、それは当時からすでに多く存在したとされる偽名書簡のやり方だと有力な聖書学者に言われてしまうと閉口せざるをえない。
いささか妥協的な一案ではあるが、他の新約諸文書に登場する使徒パウロの言行記録と絡め合わせる仕方で時系列的な年表を作成したり、「史実性」を再構成してみせたり、他の(偽名書簡であると称されることの少ない)パウロ書簡に見られる「パウロの神学」との共通点や相違点を論証してみせるというようなことを避けさえすれば、1・1に基づいて、この手紙が「使徒パウロ」によって書かれたと、著者問題に触れないままで、ごく素朴に説教の中で述べることは構わないのではないか。説教原稿には「(自称)『使徒パウロ』は」などと表現することは不可能ではないが、礼拝等での説教演述においては無意味である。
このような妥協的で曖昧な判断をしつつではあるが、この手紙の内容は非常に魅力的で、端的に面白いものであることは断言しうる。特に1・5以下の「あなたをクレタに残してきたのは」から始まるテトスに対する著者「パウロ」の牧会的な指示内容は、今日の教会のあり方や信徒の生き方にとって褪せない価値を持ち続けている。
さて、私に与えられた課題である2章11~15節を釈義していくことにする。その前に、ごく大雑把に俯瞰しつつ、前後の文脈の中でこの段落を見るかぎり、主に「道徳的な事柄」が記されていると予測しながら読むことは十分可能である。しかし、1・5から始まる一連の話題の中心にあるのは、地上にある制度としての「教会」の組織的なあり方や、組織としての「教会」を健全に建て上げるために構成員(教会員)はどのような立ち居振る舞いや姿勢をとるべきかという点にもっぱらある。つまり単なる一般的な意味での「道徳的な事柄」というよりも「教会を健全に建て上げるための知恵と心得」、あるいは「教会生活の手引き」が記されていると考えるほうがよいだろう。
(11節)「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(新共同訳)は、なんとも直訳的であるが、他に訳しようがない。σωτηριος(救いをもたらす)には σοωτηρος (救い主)という異読がある。また、古代の教会において、この聖句がクリスマスの日に朗読されていたと言われる(そのようにA. F. J. Klijn, Timoteus, Titus, en Filemon, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1994, p.138)。このようないくつかの例は、もしかすると「神の恵み」と「イエス・キリスト」の同一視に起因するのかもしれないが、この段落では両者は区別されている。σωτηριος πασιν ανθρωποις(すべての人々に救いをもたらす)と書かれているのを見ると、普遍(万人)救済説か特定救済説かという議論を始めたくなる人々もいるだろう。しかしあれはイエス・キリストにおける贖罪のみわざの効力の範囲についての議論であり、テトス2・11の趣旨とは異なる。「大酒のとりこにならず」(2・3)など、日常的な生活態度を道徳的に改善すべきことを勧告する一連の文脈の中で言及された「すべての人々に救いをもたらす」の「救い」は、イエス・キリストにおける「贖罪」よりも広義であると考えることができる。後で見るテトス2・14に「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」と贖罪論との関連を想起させる言葉が出てくるが、この「わたしたち」(2・14)を「すべての人々」(2・11)と読み替えることができるかどうかをよく考えるとよいだろう。はっきり言えそうなことは、俯瞰して見れば、制度的な意味での「教会」をどのように建て上げていくかという関心がこの手紙全体を支配していることは明らかであるゆえに、「わたしたち」の意味はほとんど「教会」と同義であると考えてよさそうだ、ということである。そのため、「すべての人に救いをもたらす」(2・11)というこの一文を取り上げてイエス・キリストの贖罪の効力の範囲をめぐる教会史的な議論とかかわらせることは、文脈を無視することに通じてしまう。むしろこの文脈で重要な点は、「神の恵み」には人の心と生活を変える力があり、その力は人を選ばない(その意味での「すべての人々」)ということにある。神の恵みを与えられた人には必ず、新しい生き方が同時に与えられる。程度の差はあれ、どの人の立ち居振る舞いや生活態度も例外なく改善される。これは贖罪の範囲の議論とは無関係である。
(12~13節)テトス2・12~13は、前節の「神の恵み」の内容説明である。新共同訳聖書を用いて説教する場合に気をつけなくてはならないのは、「現世的な欲望」と訳されているκοσμικας επιθμιας と、「この世で」と訳されているτω νυν αιωνιの関係をどのようにとらえるべきかという問題であると思われる。日本語で考えれば「現世」と「この世」は同義語である。しかし、この文脈では明らかに、前者は悪い意味で、後者は良い意味で言及されている。日本語としての「現世」と「この世」を、前者は悪い意味であるが後者は良い意味であると説明することは不可能である。しかし、新共同訳聖書がτω νυν αιωνιを「この世」と訳してくれたおかげで、それと「現世」(κοσμος)ないし「現世的」(κοσμικας)との関係をどのように考えればよいかという問いを呼び起こす可能性が出てきたことは幸いなことでもある。それは、地上の生の評価の問題、ないし地上に生きることの意味は何かという実存的な問題に深くかかわる重要な問いでありうる。この個所で言われているのは、「神の恵み」が「わたしたち」に教えるのは「この世で、思慮深く(「控えめな」という意味)、正しく、信心深く生活するように」という勧告である。この世において、現世的な欲望にとりつかれることは、ある意味で不可避的なことであるとも思われる。しかし、そうならないように、神が強い力で人をそのような欲望の妄想のとりこになっている状態から引きはがしてくださり、人を正気に戻してくださる。このようなことが、この文脈での広義の「救い」であると思われる。
(14節)すでに触れたが、テトス2・14は「キリストがわたしたちのために御自身を献げられた」と書いてある以上、贖罪論に関するテキストとして扱わざるをえない。しかし、この個所においてイエス・キリストにおける贖罪のみわざの目的は、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、善い行いに熱心な民を御自身のものとして清めるためだった」とされる。この場合の「わたしたち」も「教会」という語とほとんど交換可能な意味であると思われるが、その意味での「わたしたち」がλαον περιουσιον ζηλωτην καλων εργων(新共同訳は「良い行いに熱心な民」と訳している)と呼ばれ、その「わたしたち」を「御自身のものとして清めること」にあったと言われる。このようにきわめて道徳的な意味合いが強調された贖罪論であると言える。
(15節)「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい」(新共同訳)とは、神の御言の説教者としてのテトスに対する著者「パウロ」の勧告である。しかしまたそれは同時に、代々の教会に仕えてきたし、これからも仕えていくであろうすべての説教者への勧告でもある。勧告されている内容を敷衍していえば、組織としての「教会」を健全なものとして建て上げていくために、道徳的な事柄について真剣に取り組むことは、不可避的である。しかし、道徳的な事柄に触れようとすると、個人の尊厳や多様性の尊重という問題に踏み込むことを余儀なくされ、大きな反発を受けることが予想される。そのようなときにも、神の御言の説教者である者たちは、神御自身から委ねられた権威をもって語り、勧め、戒めることが肝要である。
テトスへの手紙の著者問題に関しては私には判断がつかない。あまりにも明確に「使徒パウロ」(1・1)が書いたことが明記されているが、それは当時からすでに多く存在したとされる偽名書簡のやり方だと有力な聖書学者に言われてしまうと閉口せざるをえない。
いささか妥協的な一案ではあるが、他の新約諸文書に登場する使徒パウロの言行記録と絡め合わせる仕方で時系列的な年表を作成したり、「史実性」を再構成してみせたり、他の(偽名書簡であると称されることの少ない)パウロ書簡に見られる「パウロの神学」との共通点や相違点を論証してみせるというようなことを避けさえすれば、1・1に基づいて、この手紙が「使徒パウロ」によって書かれたと、著者問題に触れないままで、ごく素朴に説教の中で述べることは構わないのではないか。説教原稿には「(自称)『使徒パウロ』は」などと表現することは不可能ではないが、礼拝等での説教演述においては無意味である。
このような妥協的で曖昧な判断をしつつではあるが、この手紙の内容は非常に魅力的で、端的に面白いものであることは断言しうる。特に1・5以下の「あなたをクレタに残してきたのは」から始まるテトスに対する著者「パウロ」の牧会的な指示内容は、今日の教会のあり方や信徒の生き方にとって褪せない価値を持ち続けている。
さて、私に与えられた課題である2章11~15節を釈義していくことにする。その前に、ごく大雑把に俯瞰しつつ、前後の文脈の中でこの段落を見るかぎり、主に「道徳的な事柄」が記されていると予測しながら読むことは十分可能である。しかし、1・5から始まる一連の話題の中心にあるのは、地上にある制度としての「教会」の組織的なあり方や、組織としての「教会」を健全に建て上げるために構成員(教会員)はどのような立ち居振る舞いや姿勢をとるべきかという点にもっぱらある。つまり単なる一般的な意味での「道徳的な事柄」というよりも「教会を健全に建て上げるための知恵と心得」、あるいは「教会生活の手引き」が記されていると考えるほうがよいだろう。
(11節)「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(新共同訳)は、なんとも直訳的であるが、他に訳しようがない。σωτηριος(救いをもたらす)には σοωτηρος (救い主)という異読がある。また、古代の教会において、この聖句がクリスマスの日に朗読されていたと言われる(そのようにA. F. J. Klijn, Timoteus, Titus, en Filemon, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1994, p.138)。このようないくつかの例は、もしかすると「神の恵み」と「イエス・キリスト」の同一視に起因するのかもしれないが、この段落では両者は区別されている。σωτηριος πασιν ανθρωποις(すべての人々に救いをもたらす)と書かれているのを見ると、普遍(万人)救済説か特定救済説かという議論を始めたくなる人々もいるだろう。しかしあれはイエス・キリストにおける贖罪のみわざの効力の範囲についての議論であり、テトス2・11の趣旨とは異なる。「大酒のとりこにならず」(2・3)など、日常的な生活態度を道徳的に改善すべきことを勧告する一連の文脈の中で言及された「すべての人々に救いをもたらす」の「救い」は、イエス・キリストにおける「贖罪」よりも広義であると考えることができる。後で見るテトス2・14に「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」と贖罪論との関連を想起させる言葉が出てくるが、この「わたしたち」(2・14)を「すべての人々」(2・11)と読み替えることができるかどうかをよく考えるとよいだろう。はっきり言えそうなことは、俯瞰して見れば、制度的な意味での「教会」をどのように建て上げていくかという関心がこの手紙全体を支配していることは明らかであるゆえに、「わたしたち」の意味はほとんど「教会」と同義であると考えてよさそうだ、ということである。そのため、「すべての人に救いをもたらす」(2・11)というこの一文を取り上げてイエス・キリストの贖罪の効力の範囲をめぐる教会史的な議論とかかわらせることは、文脈を無視することに通じてしまう。むしろこの文脈で重要な点は、「神の恵み」には人の心と生活を変える力があり、その力は人を選ばない(その意味での「すべての人々」)ということにある。神の恵みを与えられた人には必ず、新しい生き方が同時に与えられる。程度の差はあれ、どの人の立ち居振る舞いや生活態度も例外なく改善される。これは贖罪の範囲の議論とは無関係である。
(12~13節)テトス2・12~13は、前節の「神の恵み」の内容説明である。新共同訳聖書を用いて説教する場合に気をつけなくてはならないのは、「現世的な欲望」と訳されているκοσμικας επιθμιας と、「この世で」と訳されているτω νυν αιωνιの関係をどのようにとらえるべきかという問題であると思われる。日本語で考えれば「現世」と「この世」は同義語である。しかし、この文脈では明らかに、前者は悪い意味で、後者は良い意味で言及されている。日本語としての「現世」と「この世」を、前者は悪い意味であるが後者は良い意味であると説明することは不可能である。しかし、新共同訳聖書がτω νυν αιωνιを「この世」と訳してくれたおかげで、それと「現世」(κοσμος)ないし「現世的」(κοσμικας)との関係をどのように考えればよいかという問いを呼び起こす可能性が出てきたことは幸いなことでもある。それは、地上の生の評価の問題、ないし地上に生きることの意味は何かという実存的な問題に深くかかわる重要な問いでありうる。この個所で言われているのは、「神の恵み」が「わたしたち」に教えるのは「この世で、思慮深く(「控えめな」という意味)、正しく、信心深く生活するように」という勧告である。この世において、現世的な欲望にとりつかれることは、ある意味で不可避的なことであるとも思われる。しかし、そうならないように、神が強い力で人をそのような欲望の妄想のとりこになっている状態から引きはがしてくださり、人を正気に戻してくださる。このようなことが、この文脈での広義の「救い」であると思われる。
(14節)すでに触れたが、テトス2・14は「キリストがわたしたちのために御自身を献げられた」と書いてある以上、贖罪論に関するテキストとして扱わざるをえない。しかし、この個所においてイエス・キリストにおける贖罪のみわざの目的は、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、善い行いに熱心な民を御自身のものとして清めるためだった」とされる。この場合の「わたしたち」も「教会」という語とほとんど交換可能な意味であると思われるが、その意味での「わたしたち」がλαον περιουσιον ζηλωτην καλων εργων(新共同訳は「良い行いに熱心な民」と訳している)と呼ばれ、その「わたしたち」を「御自身のものとして清めること」にあったと言われる。このようにきわめて道徳的な意味合いが強調された贖罪論であると言える。
(15節)「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい」(新共同訳)とは、神の御言の説教者としてのテトスに対する著者「パウロ」の勧告である。しかしまたそれは同時に、代々の教会に仕えてきたし、これからも仕えていくであろうすべての説教者への勧告でもある。勧告されている内容を敷衍していえば、組織としての「教会」を健全なものとして建て上げていくために、道徳的な事柄について真剣に取り組むことは、不可避的である。しかし、道徳的な事柄に触れようとすると、個人の尊厳や多様性の尊重という問題に踏み込むことを余儀なくされ、大きな反発を受けることが予想される。そのようなときにも、神の御言の説教者である者たちは、神御自身から委ねられた権威をもって語り、勧め、戒めることが肝要である。
テトスへの手紙2章11~15節についての説教(日本基督教団教師転入試験回答)
(以下は日本基督教団教師転入試験「新約聖書説教」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」
今お読みしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。
テトスはクレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある最も美しい島です。そこでテトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。
そのことが分かるように書いているのが次の言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」(5節)。
どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。「教会が新しく生まれる」という言葉を聞いて多くの人々が思い浮かべることといえば、やはりなんといっても新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができるということも、大切なことです。しかし、実はもっと大切なことがあります。
そこに教師ではないという意味での信徒の中から教会役員となる人々が選ばれることが重要です。今お読みしました個所で「長老」と呼ばれている教会役員(教会の伝統の違いによって教会役員の呼称が異なる場合があります)が選ばれる必要があります。教師と役員が一人ずつというのでは、けんかになったときに収拾がつきませんので、なるべくなら役員は2名以上いることが望ましいです。
もちろん教会役員が選ばれ、役員会が組織されさえすれば、はい、それで終わり、教会ひとつ出来上がり、というわけではありません。さらに教会全体が組織化され、現実的・実際的に運営されていく必要があります。
なぜなら、「教会」とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それが教会です。
当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教との接点がなかった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。
しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から役員となるべき人を選ぶこと、そしてその人々を推進力とする教会組織を作り上げて行くことでした。
そのような状況の中でパウロはテトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々はやはり、それまでとは異なる「生き方」をしなければならないということです。
「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いと感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。
そのような変化が、人生の中にもたらされた。そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、頭の中だけの変化にすぎないのか。体全体の変化も伴うのか。
パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。
「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、私個人の生き方や立ち居振る舞いまで干渉され、こうしろ、ああしろと、とやかく言われるのは、勘弁してもらいたい」と即刻反発されるかもしれません。
あるいは、「私は大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれません。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。そのようなことを求められるようであれば、私は教会に近づくことすらできません」と言われてしまう理由になるかもしれません。
そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。
パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(15節)。
キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。
その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生がそのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。
また、今申し上げたこととの関連でぜひ注目していただきたいのは、今お読みしました個所にひとこと出てくる「この世で」という言葉です。
教会が宣べ伝えている内容が宗教であることは間違いありませんが、宗教といえばこの世のことではなく、この世とは次元の異なる天国のことを教えるものではないかと、どうしても考えられがちです。しかし、今開いていただいている個所に記されている「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」は、本質的にこの世のものです。生きている間に味わうことができるものです。地上の人生を終えて天国に行かなければ決して味わうことができないというようなものではないのです。
実際問題として、神の恵みによって生活の変化が起こりますよという話は、生きている間に聴かなければ意味がありません。「現世的な欲望を捨てる」のは「この世」ですることです。死ねば自動的に欲望がなくなるかもしれません。しかし、わたしたちは、その日そのときまでは欲望に任せて傍若無人に生きてもよいわけではないのです。
そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえないということです。
パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。
ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなどです。このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が次第に作りかえられて行くのです。
もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。わたしたち自身が教会になるのです。それは、わたしたち自身がイエス・キリストの体になることを意味しています。
日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょうといった感じのことです。言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては人生の大問題になりうるのです。
「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。それに加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているとおり、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」ということまでのすべてを含んでいます。神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。
それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。
イエス・キリストを通して神の恵みが現れたことの目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。
教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここには、わたしたちの心を真に満たしてくれるものがあります。「神の恵み」があります。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」
今お読みしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。
テトスはクレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある最も美しい島です。そこでテトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。
そのことが分かるように書いているのが次の言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」(5節)。
どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。「教会が新しく生まれる」という言葉を聞いて多くの人々が思い浮かべることといえば、やはりなんといっても新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができるということも、大切なことです。しかし、実はもっと大切なことがあります。
そこに教師ではないという意味での信徒の中から教会役員となる人々が選ばれることが重要です。今お読みしました個所で「長老」と呼ばれている教会役員(教会の伝統の違いによって教会役員の呼称が異なる場合があります)が選ばれる必要があります。教師と役員が一人ずつというのでは、けんかになったときに収拾がつきませんので、なるべくなら役員は2名以上いることが望ましいです。
もちろん教会役員が選ばれ、役員会が組織されさえすれば、はい、それで終わり、教会ひとつ出来上がり、というわけではありません。さらに教会全体が組織化され、現実的・実際的に運営されていく必要があります。
なぜなら、「教会」とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それが教会です。
当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教との接点がなかった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。
しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から役員となるべき人を選ぶこと、そしてその人々を推進力とする教会組織を作り上げて行くことでした。
そのような状況の中でパウロはテトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々はやはり、それまでとは異なる「生き方」をしなければならないということです。
「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いと感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。
そのような変化が、人生の中にもたらされた。そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、頭の中だけの変化にすぎないのか。体全体の変化も伴うのか。
パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。
「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、私個人の生き方や立ち居振る舞いまで干渉され、こうしろ、ああしろと、とやかく言われるのは、勘弁してもらいたい」と即刻反発されるかもしれません。
あるいは、「私は大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれません。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。そのようなことを求められるようであれば、私は教会に近づくことすらできません」と言われてしまう理由になるかもしれません。
そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。
パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(15節)。
キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。
その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生がそのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。
また、今申し上げたこととの関連でぜひ注目していただきたいのは、今お読みしました個所にひとこと出てくる「この世で」という言葉です。
教会が宣べ伝えている内容が宗教であることは間違いありませんが、宗教といえばこの世のことではなく、この世とは次元の異なる天国のことを教えるものではないかと、どうしても考えられがちです。しかし、今開いていただいている個所に記されている「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」は、本質的にこの世のものです。生きている間に味わうことができるものです。地上の人生を終えて天国に行かなければ決して味わうことができないというようなものではないのです。
実際問題として、神の恵みによって生活の変化が起こりますよという話は、生きている間に聴かなければ意味がありません。「現世的な欲望を捨てる」のは「この世」ですることです。死ねば自動的に欲望がなくなるかもしれません。しかし、わたしたちは、その日そのときまでは欲望に任せて傍若無人に生きてもよいわけではないのです。
そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえないということです。
パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。
ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなどです。このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が次第に作りかえられて行くのです。
もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。わたしたち自身が教会になるのです。それは、わたしたち自身がイエス・キリストの体になることを意味しています。
日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょうといった感じのことです。言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては人生の大問題になりうるのです。
「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。それに加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているとおり、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」ということまでのすべてを含んでいます。神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。
それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。
イエス・キリストを通して神の恵みが現れたことの目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。
教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここには、わたしたちの心を真に満たしてくれるものがあります。「神の恵み」があります。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。
ゼカリヤ書14章1~9節についての釈義(日本基督教団教師転入試験回答)
(以下は日本基督教団教師転入試験「旧約聖書釈義」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)
ゼカリヤ書14章は、ある意味で12章1節から13章6節までの個所の並行記事である。どちらも直接的には、終末時のエルサレムの様子を描いている。それはまた、聖書が描く「終末における神の国」のイメージを意味すると言っても過言ではない。しかし、それはいわゆるシオニズムの思想とは多くの部分で食い違うであろう。
しかし、二つの記事(14章と、12章1節から13章6節まで)には顕著な違いもある。14章は12章10節から13章1節までの個所が強調しているエルサレムの民の内面的刷新という点を強調していない。また、13章2節から6節までの個所が強調している宗教的浄化という点も強調していない。14章の記事が強調しているのは、全世界をすべおさめられる普遍的な主としてエルサレムにお住まいになるヤハウェの王的支配のもとにある諸国民の自然と歴史の変化という点である。いくつかの論拠を挙げて、12章1節から13章6節までの著者と14章の著者とは別の人物であると考える人々もいる。
14章についても、1節から5節までと、6節から11節までは、もともとは別々だったのに後からつなげられたものだと主張する人もいる。
(1節)12章2節と同じように、14章は「見よ」という分詞によって始められる。「見よ」は、これからまもなく起こる出来事を予測しつつ一緒に期待して待とうではないかという呼びかけを意味する。「主の日」とは、ヤハウェが世界に批判的に介入する時を意味する。しかし、2節で明らかになるように、ヤハウェの眼差しは主としてエルサレムに向けられている。「かすめ取られたあなたのものが、あなたの中で分けられる日が」は、過去の戦争で戦利品として敵国に奪い取られたものを取り返すことを意味する。
(2節)「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる」の「わたし」はヤハウェ御自身を指している。神であられるヤハウェが一人称で発言なさる言葉の中で、御自身が主導して諸国の民を集めてエルサレムに戦争を挑ませる、と言っておられるのだから、事態は尋常ではない。ヤハウェはエルサレムの側ではなく、エルサレムを敵視する諸国の民の側を指揮しておられる。シオニズムと食い違うであろう点はこのあたりにある。そして、エルサレムは陥落する。類似した状況の描写がヨエル書2章1節から17節までの個所にも見つかる。2節の描写がネブカドネザル二世時代のエルサレム陥落のイメージに負うている可能性を除外することはできない。しかしこの個所は終末論との関係で読まれるべきである。プトレマイオス一世のエルサレム征服のイメージがこの個所の描写の背後にあるとは考えられない。「しかし、民の残りの者が、都から全く断たれることはない」という望みが残される。
(3節)エルサレム陥落の悲劇の後に「ヤハウェの顕現」(epifanie van YHWH)が起こる(新共同訳聖書は「主は進み出て」と訳している)。「ヤハウェの顕現」のイメージは、ミカ書1章3節、4節に描かれている。「ヤハウェの顕現」は、神が諸国民との戦いに勝利することを意味する。ヤハウェは「戦いや争いの日」のために倉に蓄える方である(ヨブ記38章23節)。
(4~5節)「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの他にはアツァルにまで達している。ユダヤの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」(新共同訳)。終末時に大きな地震災害が起こり、オリーブ山が半分に裂け、大きな谷ができる。エルサレムの人々はその谷を通って逃げることが勧められている。
(6~7節)終末時に自然が大きく変化することが6節から8節までの個所で描かれている。ヤハウェがエルサレムに再び来られるときに世界の救いの時が幕を開ける。そのとき自然が変化する。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」(新共同訳)。ただし、この「光」はゼファニア書3章5節、ヨブ記24章13節などで用いられている語と同じで、それらの個所では、自然的・物理的な「光」という意味というよりも心理的・内面的な事柄を描写する比喩的表現であると思われる。繰り返し記されている「その日」は終末の日を指しているが、「ただひとつの日」(7節)であり、歴史上一度だけ訪れる、反復不可能な唯一無二の日である。その日が世界にいつもたらされるかはヤハウェのみがご存じである。マタイによる福音書24章26節には「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と記されている。「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」。またヨハネの黙示録22章5節には「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」と記されている。しかし、後述するが、これらの描写を単にパラダイス(楽園)の情景の描写であると考えてしまうことに私は反対する。
(8節)また終末時には、泉としてのエルサレムから命の水が湧き出る。その水が二つの川に分かれ、東と西に流れる。二つの川についてのこの描写は、エゼキエル書47章1節にある以下の記述を彷彿させる。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東を向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた」。ヨエル書4章18節には「その日が来ると、山々にはぶどう酒が滴り、もろもろの丘には乳が流れ、ユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出て、シティムの川を潤す」と記されている。これらの描写は、ありもしないことを空想して書いているというよりは、当時のエルサレムや神殿の様子を見て熟知している人が、その現実と照らしあわせながら未来を見つめているものだと言える。それゆえ、これらの(神の国の)イメージは、現実から全くかけはなれた異次元にある超自然的なパラダイス(楽園)の情景を描いているにすぎないと考えるより、地上の現実の上に神御自身が打ち立ててくださる新しい世界としてとらえるほうがよい。
(9節)戦争や災害によって失われた世界は、異次元にある超自然的なパラダイス(楽園)に至ってやっと初めて回復されるのではない。そのような思想は、地上の生を軽視することを意味する。結局のところ、我々人間の、地上の世界に対する無責任な姿勢を是認してしまうことになる。敵との戦いにことごとく勝利すること(1~5節)と自然の変化(6~8節)によって、ヤハウェは「地上をすべて治める王」となられる。終末時においては、ヤハウェはただおひとりの神であり、御自身の御名で呼ばれる。
以上の釈義はA. S. Van der Woude, Zecharia, Prediking van het Oude Testament(POT), 1984.を参考にしつつ、若干の私見をまじえたものである。
ゼカリヤ書14章は、ある意味で12章1節から13章6節までの個所の並行記事である。どちらも直接的には、終末時のエルサレムの様子を描いている。それはまた、聖書が描く「終末における神の国」のイメージを意味すると言っても過言ではない。しかし、それはいわゆるシオニズムの思想とは多くの部分で食い違うであろう。
しかし、二つの記事(14章と、12章1節から13章6節まで)には顕著な違いもある。14章は12章10節から13章1節までの個所が強調しているエルサレムの民の内面的刷新という点を強調していない。また、13章2節から6節までの個所が強調している宗教的浄化という点も強調していない。14章の記事が強調しているのは、全世界をすべおさめられる普遍的な主としてエルサレムにお住まいになるヤハウェの王的支配のもとにある諸国民の自然と歴史の変化という点である。いくつかの論拠を挙げて、12章1節から13章6節までの著者と14章の著者とは別の人物であると考える人々もいる。
14章についても、1節から5節までと、6節から11節までは、もともとは別々だったのに後からつなげられたものだと主張する人もいる。
(1節)12章2節と同じように、14章は「見よ」という分詞によって始められる。「見よ」は、これからまもなく起こる出来事を予測しつつ一緒に期待して待とうではないかという呼びかけを意味する。「主の日」とは、ヤハウェが世界に批判的に介入する時を意味する。しかし、2節で明らかになるように、ヤハウェの眼差しは主としてエルサレムに向けられている。「かすめ取られたあなたのものが、あなたの中で分けられる日が」は、過去の戦争で戦利品として敵国に奪い取られたものを取り返すことを意味する。
(2節)「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる」の「わたし」はヤハウェ御自身を指している。神であられるヤハウェが一人称で発言なさる言葉の中で、御自身が主導して諸国の民を集めてエルサレムに戦争を挑ませる、と言っておられるのだから、事態は尋常ではない。ヤハウェはエルサレムの側ではなく、エルサレムを敵視する諸国の民の側を指揮しておられる。シオニズムと食い違うであろう点はこのあたりにある。そして、エルサレムは陥落する。類似した状況の描写がヨエル書2章1節から17節までの個所にも見つかる。2節の描写がネブカドネザル二世時代のエルサレム陥落のイメージに負うている可能性を除外することはできない。しかしこの個所は終末論との関係で読まれるべきである。プトレマイオス一世のエルサレム征服のイメージがこの個所の描写の背後にあるとは考えられない。「しかし、民の残りの者が、都から全く断たれることはない」という望みが残される。
(3節)エルサレム陥落の悲劇の後に「ヤハウェの顕現」(epifanie van YHWH)が起こる(新共同訳聖書は「主は進み出て」と訳している)。「ヤハウェの顕現」のイメージは、ミカ書1章3節、4節に描かれている。「ヤハウェの顕現」は、神が諸国民との戦いに勝利することを意味する。ヤハウェは「戦いや争いの日」のために倉に蓄える方である(ヨブ記38章23節)。
(4~5節)「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの他にはアツァルにまで達している。ユダヤの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」(新共同訳)。終末時に大きな地震災害が起こり、オリーブ山が半分に裂け、大きな谷ができる。エルサレムの人々はその谷を通って逃げることが勧められている。
(6~7節)終末時に自然が大きく変化することが6節から8節までの個所で描かれている。ヤハウェがエルサレムに再び来られるときに世界の救いの時が幕を開ける。そのとき自然が変化する。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」(新共同訳)。ただし、この「光」はゼファニア書3章5節、ヨブ記24章13節などで用いられている語と同じで、それらの個所では、自然的・物理的な「光」という意味というよりも心理的・内面的な事柄を描写する比喩的表現であると思われる。繰り返し記されている「その日」は終末の日を指しているが、「ただひとつの日」(7節)であり、歴史上一度だけ訪れる、反復不可能な唯一無二の日である。その日が世界にいつもたらされるかはヤハウェのみがご存じである。マタイによる福音書24章26節には「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と記されている。「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」。またヨハネの黙示録22章5節には「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」と記されている。しかし、後述するが、これらの描写を単にパラダイス(楽園)の情景の描写であると考えてしまうことに私は反対する。
(8節)また終末時には、泉としてのエルサレムから命の水が湧き出る。その水が二つの川に分かれ、東と西に流れる。二つの川についてのこの描写は、エゼキエル書47章1節にある以下の記述を彷彿させる。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東を向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた」。ヨエル書4章18節には「その日が来ると、山々にはぶどう酒が滴り、もろもろの丘には乳が流れ、ユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出て、シティムの川を潤す」と記されている。これらの描写は、ありもしないことを空想して書いているというよりは、当時のエルサレムや神殿の様子を見て熟知している人が、その現実と照らしあわせながら未来を見つめているものだと言える。それゆえ、これらの(神の国の)イメージは、現実から全くかけはなれた異次元にある超自然的なパラダイス(楽園)の情景を描いているにすぎないと考えるより、地上の現実の上に神御自身が打ち立ててくださる新しい世界としてとらえるほうがよい。
(9節)戦争や災害によって失われた世界は、異次元にある超自然的なパラダイス(楽園)に至ってやっと初めて回復されるのではない。そのような思想は、地上の生を軽視することを意味する。結局のところ、我々人間の、地上の世界に対する無責任な姿勢を是認してしまうことになる。敵との戦いにことごとく勝利すること(1~5節)と自然の変化(6~8節)によって、ヤハウェは「地上をすべて治める王」となられる。終末時においては、ヤハウェはただおひとりの神であり、御自身の御名で呼ばれる。
以上の釈義はA. S. Van der Woude, Zecharia, Prediking van het Oude Testament(POT), 1984.を参考にしつつ、若干の私見をまじえたものである。
ゼカリヤ書14章1~9節についての説教(日本基督教団教師転入試験回答)
(以下は日本基督教団教師転入試験「旧約聖書説教」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)
「見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものが、あなたの中で分けられる日が。わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く。しかし、民の残りの者が都から全く断たれることはない。戦いの日が来て、戦わねばならぬとき、主は進み出て、これらの国々と戦われる。その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの谷はアツァルにまで達している。ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる。その日には光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」
いまお読みしましたのは、みなさんのうちの多くの方々にとって、おそらくは必ずしも馴染み深いとは言いがたいと思われる旧約聖書のゼカリヤ書の一節です。内容的に決して平易であるとは言えませんので、どのようにお話しすればよいか迷うばかりです。しかし、じっくり読んでいくと味わい深い内容が記されていることが分かりますので、お付き合いいただきたくお願いいたします。
この個所に記されていることをひとことでまとめて言えば、「世界の終わり」を意味する終末の時にエルサレムがどうなるかということです。つまり、これは過去の歴史の出来事を描写しているものではなく、将来起こるであろうことについての預言です。そのことについて預言者ゼカリヤが、まさに預言しています。
しかも、この預言は、実在する地名で知られる、現在のイスラエル国の首都エルサレムがどうなるのかという関心事に終始するものではなく、もっと広い視野を持っています。まさに「世界の終わり」について語られている個所であり、その関心事は世界がどうなるのかということにあります。その意味では、語弊を恐れずいえば、この個所に言及されるエルサレムという地名は一種の比喩であると考えるほうがこの個所の理解としては正しいと思われます。
つまり、重要な問題は「世界はどうなるのか」です。その結論については、わたしたちキリスト教会は、ある意味でよく知っています。神が創造されたこの世界は、いつの日か必ず終わりの日を迎えるというのが聖書の教えであり、かつキリスト教信仰における重要なポイントでもあります。恐怖心を煽る意図から申し上げるのではありませんが、わたしたちの人生がいつか必ず終わりを迎えるのと同じように、わたしたちが今生きているこの世界もまた、いつか必ず終わるのです。それは命あるものの定めです。
しかしそれは、神を信じる者たちにとっては恐ろしいことではありません。先ほどから私は世界が終わる終わると申しておりますが、それは、たとえていえば、長く苦しい旅を続けてきた人が目標としてきたゴールにたどり着くことを意味します。あるいは、一つの大きな作品をゼロから苦労して作り上げていくアーチストのような人々にとって、その作品がやっと完成したと、喜び、感謝する日を迎えることを意味します。
わたしたちの人生も、わたしたちが生きているこの世界も、神がお造りになった創造物です。わたしたちは自分で自分の命を造ることはできませんし、この世界を私がひとりで造りましたと言える人はいません。言うのは自由かもしれませんが、それは事実ではありません。
もしかしたら、ふだんのわたしたちはそういうことを考えもしないようなことかもしれませんが、今日はぜひお付き合いいただきたいのは、わたしたち自身の人生とこの世界を、これを造ってくださり、わたしたちに与えてくださった神御自身の視点に立って見つめてみることです。そういうことが実際にできるかどうかはともかく、みなさんの意識を少し変えていただき、自分の側の視点、あるいは、もっと厳しい言い方をお許しいただけば、わたしたちの自己中心的な視点から自由になって、神の視点に立って考えればどのようなことになるのかを思い巡らしながら、先ほどお読みしましたゼカリヤ書の個所を見つめていただきたいのです。
逆の言い方をすれば、今申し上げたようなことを強く意識してでもなければ、この個所に書かれていることの意味を理解することはほとんど不可能だと言えるとも私には感じられます。ここに書かれていることは、何を言っているのかが分からないということもさることながら、これをそのまま信じろと言われても、とてもではないが受け容れがたいと、多くの人が感じるかもしれないことなのです。しかしそれは、あらかじめやや結論めいたことを申しておきますが、わたしたちが自己中心的な視点から自由になれていない証拠かもしれません。以上、前置きが長くなりましたが、このあたりから内容に入っていきたいと思います。
預言者ゼカリヤがこの個所に書いていることの要点は、世界を創造された主なる神が、世界の終わりの日に、全世界の支配者になられるということに尽きます。
「見よ、主の日が来る」の「見よ」は、これからまもなく起こる出来事を予測しつつ、一緒に期待して待とうではないかという呼びかけを意味しています。「主の日」とは、これがまさに世界の終わりの日です。
教会では毎週日曜日を「主の日」と呼ぶならわしがありますが、ゼカリヤが描いている「主の日」は、七日ごとに定期的に訪れる日曜日のことではありません。むしろ、それはたった一度だけ世界に訪れる日です。それは繰り返されません。そしてまた、それはまだ来ていません。まだ誰も体験したことがない将来の出来事です。主なる神御自身が全世界の支配者になられる日です。それはすでにそのとおりのことが実現しているのではないかとお考えになる方もおられるかもしれませんが、今申し上げている意味で主なる神が全世界の支配者になられるとは、全世界の人々がそのことを認め、信じ、告白することを含んでいなくてはなりません。なぜなら、聖書に登場するわたしたちの神は、一方的な支配者ではないからです。悪い意味での専制君主ではありません。わたしたち人間の信仰と信頼をお求めになる方です。
しかし、主なる神御自身が良い意味での全世界の支配者になられるために、驚くべきことが行われることをゼカリヤは預言します。「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる」というのです。この「わたし」は主なる神御自身です。そして、先ほど私は、語弊を恐れず言えばとお断りしながらやや語弊を恐れていますが、この個所に登場する「エルサレム」という地名はある意味で比喩であると申し上げたわけですが、何の比喩であるかといえば、神を信じる人々をたとえていると、考えることができます。その人々に対して、「わたし」と称される神御自身が、諸国の民をことごとく集めて戦いを挑ませるというのです。
何のことかお分かりでしょうか。ここで言われていることの趣旨は、神が、神を信じる人々の側ではなく、その正反対の人々の側に立って、その人々を集めて、神を信じる人々と戦わせるということです。そんなことがあってよいのでしょうか。神は、神を信じる人々の常に味方になってくださるのではないのでしょうか。そうではないということがここで語られているのです。
なぜ神がそのようなことをなさるのか、その理由や動機については、何も記されていませんが、なんとなく想像はつきます。「しかし、民の残りの者が、都から全く断たれることはない」と記されています。その戦いの中で、厳しい言い方かもしれませんが、民の中に残ることができる人と残ることができない人が出てくるということです。つまり、ふるいにかけられるのです。それを「試練」と表現することができるかもしれません。
その意味では、神は厳しい方であるというべきです。神を信じる者たちをこそ、厳しい試練にあわせる方です。あなたの信仰は本物ですか偽物ですかと試される方です。
しかし、神は冷たい方ではありません。神を信じる者をお見捨てになりません。戦いに敗れたかのように、神の民のシンボルであるエルサレムが陥落した後に、主なる神御自身がいわば姿を現してくださり、「進み出てくださり」、民の先頭に立って戦ってくださる方です。そのことをゼカリヤは預言しています。
他人事のような言い方をすべきではないかもしれませんが、わたしたちは、戦いに負けなければ自分自身の限界や弱さを自覚することができないところがあります。自分自身の限界や弱さを自覚できないということは、自分のほんとうの姿を知らないということです。そして、それと同時に言えることは、わたしたち人間は、神の助けなしには生きることも立つこともできない存在であることを知らないということです。そのことをわたしたちに自覚させることが、神がわたしたちに厳しい試練を与えることの理由ではないでしょうか。その意味では、わたしたちは負けてもいいのです。いえ、負けるべきなのです。逃げてもよいのです。いえ、逃げるべきなのです。
そのことをゼカリヤは熟知しています。「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの他にはアツァルにまで達している。ユダヤの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」と書いてあるとおりです。神がオリーブ山を真っ二つに引き裂いて、神を信じる者たちの逃げ道を造ってくださる。そのようなとんでもないことをなさる神の姿が描かれています。
このような描写を荒唐無稽だと言ってしまえばそれまでです。しかし、わたしたちは、ここに書かれていることの意味は何なのかをよく考えなくてはなりません。
今日開いていただいている個所でもう一つ重要な点としては、終わりの日に主なる神が世界に対してなさることとして、地上の大自然を大きく変化させてくださるということがあります。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」と記されています。ただし、この「光」は、ゼファニア書3章5節、ヨブ記24章13節などで用いられているのと同じ言葉が用いられています。それらの個所を見ると自然的・物理的な「光」という意味というよりも心理的・内面的な事柄を描写する比喩的表現としての「光」であることが分かります。ゼカリヤが述べている「光」も、それと同じかもしれません。
またゼカリヤによると、終わりの日には泉としてのエルサレムから命の水が湧き出ます。その水が二つの川に分かれ、東と西に流れます。これも比喩であると考えるべきではありますが、しかしまた、単なる空想や想像の産物だと言うだけで片付けることができない、むしろ、きわめて具体的で現実的な情景を思い描くことができる描写でもあります。
世界地図というのは、それを作る国によって中心地が異なる場合が多々あります。日本で作られる世界地図の真ん中には日本列島が描かれます。他の国の場合もそれと同じです。エルサレムで作られた世界地図を私は見たことがありませんが、真ん中に描かれるのは、おそらくエルサレムではないでしょうか。
こういうことを言いますと各国のエゴイズムだというような批判が飛び交うことになるのかもしれません。しかし、ゼカリヤが描いているのは、まさにそのような世界地図です。エルサレムが中心です。しかし今申し上げたことは正確ではありません。ゼカリヤの描く世界地図の中心は神御自身です。神が全世界の支配者になられる日が来る。それは、神が全世界の頭を押さえつけて恐怖政治を行う日ではありません。神の救いの恵みが全世界に満ちあふれる日です。
「見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものが、あなたの中で分けられる日が。わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く。しかし、民の残りの者が都から全く断たれることはない。戦いの日が来て、戦わねばならぬとき、主は進み出て、これらの国々と戦われる。その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの谷はアツァルにまで達している。ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる。その日には光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」
いまお読みしましたのは、みなさんのうちの多くの方々にとって、おそらくは必ずしも馴染み深いとは言いがたいと思われる旧約聖書のゼカリヤ書の一節です。内容的に決して平易であるとは言えませんので、どのようにお話しすればよいか迷うばかりです。しかし、じっくり読んでいくと味わい深い内容が記されていることが分かりますので、お付き合いいただきたくお願いいたします。
この個所に記されていることをひとことでまとめて言えば、「世界の終わり」を意味する終末の時にエルサレムがどうなるかということです。つまり、これは過去の歴史の出来事を描写しているものではなく、将来起こるであろうことについての預言です。そのことについて預言者ゼカリヤが、まさに預言しています。
しかも、この預言は、実在する地名で知られる、現在のイスラエル国の首都エルサレムがどうなるのかという関心事に終始するものではなく、もっと広い視野を持っています。まさに「世界の終わり」について語られている個所であり、その関心事は世界がどうなるのかということにあります。その意味では、語弊を恐れずいえば、この個所に言及されるエルサレムという地名は一種の比喩であると考えるほうがこの個所の理解としては正しいと思われます。
つまり、重要な問題は「世界はどうなるのか」です。その結論については、わたしたちキリスト教会は、ある意味でよく知っています。神が創造されたこの世界は、いつの日か必ず終わりの日を迎えるというのが聖書の教えであり、かつキリスト教信仰における重要なポイントでもあります。恐怖心を煽る意図から申し上げるのではありませんが、わたしたちの人生がいつか必ず終わりを迎えるのと同じように、わたしたちが今生きているこの世界もまた、いつか必ず終わるのです。それは命あるものの定めです。
しかしそれは、神を信じる者たちにとっては恐ろしいことではありません。先ほどから私は世界が終わる終わると申しておりますが、それは、たとえていえば、長く苦しい旅を続けてきた人が目標としてきたゴールにたどり着くことを意味します。あるいは、一つの大きな作品をゼロから苦労して作り上げていくアーチストのような人々にとって、その作品がやっと完成したと、喜び、感謝する日を迎えることを意味します。
わたしたちの人生も、わたしたちが生きているこの世界も、神がお造りになった創造物です。わたしたちは自分で自分の命を造ることはできませんし、この世界を私がひとりで造りましたと言える人はいません。言うのは自由かもしれませんが、それは事実ではありません。
もしかしたら、ふだんのわたしたちはそういうことを考えもしないようなことかもしれませんが、今日はぜひお付き合いいただきたいのは、わたしたち自身の人生とこの世界を、これを造ってくださり、わたしたちに与えてくださった神御自身の視点に立って見つめてみることです。そういうことが実際にできるかどうかはともかく、みなさんの意識を少し変えていただき、自分の側の視点、あるいは、もっと厳しい言い方をお許しいただけば、わたしたちの自己中心的な視点から自由になって、神の視点に立って考えればどのようなことになるのかを思い巡らしながら、先ほどお読みしましたゼカリヤ書の個所を見つめていただきたいのです。
逆の言い方をすれば、今申し上げたようなことを強く意識してでもなければ、この個所に書かれていることの意味を理解することはほとんど不可能だと言えるとも私には感じられます。ここに書かれていることは、何を言っているのかが分からないということもさることながら、これをそのまま信じろと言われても、とてもではないが受け容れがたいと、多くの人が感じるかもしれないことなのです。しかしそれは、あらかじめやや結論めいたことを申しておきますが、わたしたちが自己中心的な視点から自由になれていない証拠かもしれません。以上、前置きが長くなりましたが、このあたりから内容に入っていきたいと思います。
預言者ゼカリヤがこの個所に書いていることの要点は、世界を創造された主なる神が、世界の終わりの日に、全世界の支配者になられるということに尽きます。
「見よ、主の日が来る」の「見よ」は、これからまもなく起こる出来事を予測しつつ、一緒に期待して待とうではないかという呼びかけを意味しています。「主の日」とは、これがまさに世界の終わりの日です。
教会では毎週日曜日を「主の日」と呼ぶならわしがありますが、ゼカリヤが描いている「主の日」は、七日ごとに定期的に訪れる日曜日のことではありません。むしろ、それはたった一度だけ世界に訪れる日です。それは繰り返されません。そしてまた、それはまだ来ていません。まだ誰も体験したことがない将来の出来事です。主なる神御自身が全世界の支配者になられる日です。それはすでにそのとおりのことが実現しているのではないかとお考えになる方もおられるかもしれませんが、今申し上げている意味で主なる神が全世界の支配者になられるとは、全世界の人々がそのことを認め、信じ、告白することを含んでいなくてはなりません。なぜなら、聖書に登場するわたしたちの神は、一方的な支配者ではないからです。悪い意味での専制君主ではありません。わたしたち人間の信仰と信頼をお求めになる方です。
しかし、主なる神御自身が良い意味での全世界の支配者になられるために、驚くべきことが行われることをゼカリヤは預言します。「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる」というのです。この「わたし」は主なる神御自身です。そして、先ほど私は、語弊を恐れず言えばとお断りしながらやや語弊を恐れていますが、この個所に登場する「エルサレム」という地名はある意味で比喩であると申し上げたわけですが、何の比喩であるかといえば、神を信じる人々をたとえていると、考えることができます。その人々に対して、「わたし」と称される神御自身が、諸国の民をことごとく集めて戦いを挑ませるというのです。
何のことかお分かりでしょうか。ここで言われていることの趣旨は、神が、神を信じる人々の側ではなく、その正反対の人々の側に立って、その人々を集めて、神を信じる人々と戦わせるということです。そんなことがあってよいのでしょうか。神は、神を信じる人々の常に味方になってくださるのではないのでしょうか。そうではないということがここで語られているのです。
なぜ神がそのようなことをなさるのか、その理由や動機については、何も記されていませんが、なんとなく想像はつきます。「しかし、民の残りの者が、都から全く断たれることはない」と記されています。その戦いの中で、厳しい言い方かもしれませんが、民の中に残ることができる人と残ることができない人が出てくるということです。つまり、ふるいにかけられるのです。それを「試練」と表現することができるかもしれません。
その意味では、神は厳しい方であるというべきです。神を信じる者たちをこそ、厳しい試練にあわせる方です。あなたの信仰は本物ですか偽物ですかと試される方です。
しかし、神は冷たい方ではありません。神を信じる者をお見捨てになりません。戦いに敗れたかのように、神の民のシンボルであるエルサレムが陥落した後に、主なる神御自身がいわば姿を現してくださり、「進み出てくださり」、民の先頭に立って戦ってくださる方です。そのことをゼカリヤは預言しています。
他人事のような言い方をすべきではないかもしれませんが、わたしたちは、戦いに負けなければ自分自身の限界や弱さを自覚することができないところがあります。自分自身の限界や弱さを自覚できないということは、自分のほんとうの姿を知らないということです。そして、それと同時に言えることは、わたしたち人間は、神の助けなしには生きることも立つこともできない存在であることを知らないということです。そのことをわたしたちに自覚させることが、神がわたしたちに厳しい試練を与えることの理由ではないでしょうか。その意味では、わたしたちは負けてもいいのです。いえ、負けるべきなのです。逃げてもよいのです。いえ、逃げるべきなのです。
そのことをゼカリヤは熟知しています。「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの他にはアツァルにまで達している。ユダヤの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」と書いてあるとおりです。神がオリーブ山を真っ二つに引き裂いて、神を信じる者たちの逃げ道を造ってくださる。そのようなとんでもないことをなさる神の姿が描かれています。
このような描写を荒唐無稽だと言ってしまえばそれまでです。しかし、わたしたちは、ここに書かれていることの意味は何なのかをよく考えなくてはなりません。
今日開いていただいている個所でもう一つ重要な点としては、終わりの日に主なる神が世界に対してなさることとして、地上の大自然を大きく変化させてくださるということがあります。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」と記されています。ただし、この「光」は、ゼファニア書3章5節、ヨブ記24章13節などで用いられているのと同じ言葉が用いられています。それらの個所を見ると自然的・物理的な「光」という意味というよりも心理的・内面的な事柄を描写する比喩的表現としての「光」であることが分かります。ゼカリヤが述べている「光」も、それと同じかもしれません。
またゼカリヤによると、終わりの日には泉としてのエルサレムから命の水が湧き出ます。その水が二つの川に分かれ、東と西に流れます。これも比喩であると考えるべきではありますが、しかしまた、単なる空想や想像の産物だと言うだけで片付けることができない、むしろ、きわめて具体的で現実的な情景を思い描くことができる描写でもあります。
世界地図というのは、それを作る国によって中心地が異なる場合が多々あります。日本で作られる世界地図の真ん中には日本列島が描かれます。他の国の場合もそれと同じです。エルサレムで作られた世界地図を私は見たことがありませんが、真ん中に描かれるのは、おそらくエルサレムではないでしょうか。
こういうことを言いますと各国のエゴイズムだというような批判が飛び交うことになるのかもしれません。しかし、ゼカリヤが描いているのは、まさにそのような世界地図です。エルサレムが中心です。しかし今申し上げたことは正確ではありません。ゼカリヤの描く世界地図の中心は神御自身です。神が全世界の支配者になられる日が来る。それは、神が全世界の頭を押さえつけて恐怖政治を行う日ではありません。神の救いの恵みが全世界に満ちあふれる日です。
2016年2月14日日曜日
キリストに従う(置戸教会)
日本基督教団置戸教会(2016年2月14日、北海道常呂郡置戸町) |
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」
置戸教会に来させていただいたのは、今日が2回目です。前回は29年前です。ただし、日曜日ではありませんでした。29年前の私はまだ21歳で、東京神学大学の4年生でした。その年の夏休み中に、春採教会で夏期伝道実習をさせていただきました。それが1987年7月です。
そして、その実習の最後に春採教会の当時牧師だった青砥好夫先生と釧路教会の秋保宣先生と私の3人で、「道東地区めぐりに行こう」ということで、1泊2日のドライブに連れて行っていただきました。と言っても、納沙布岬で花咲がにを食べて、知床岬で毛がにを食べて、網走に行って、摩周湖や屈斜路湖を見ただけなのですが。
過密なスケジュールでしたので、北見望ヶ丘教会には行くことができませんでした。しかし、置戸教会に立ち寄らせていただきました。高田弘先生がお元気だったころです。立ち寄らせていただいたのは、わずか数分だけです。そのとき以来です。
しかし、私が置戸教会で説教をさせていただくのは、今回がなんと3回目です。不思議な話です。前回と前々回はインターネットで録画説教をさせていただきました(2012年12月30日、2015年2月22日)。そういうことができる時代になったことを感謝しています。
でも、私は不満でした。皆さんのお顔を拝見できないのです。一方通行です。私は独り言を言っているようなものでした。これは何とかしなくてはならないと思い、今回無理やり私から頼み込んで、置戸教会で説教させてください、お願いしますと訴えて、やっとお許しをいただきました。かえってご迷惑だったかもしれません。どうかお許しください。
さて、そろそろ本題に入ります。今日みなさんにお話ししたいと思っているのは、たった一つのことです。それは「キリストに従うことは、楽になることです」ということです。
そういうふうに、聖書に書いてあります。イエスさまご自身がそうおっしゃっています。イエスさまがおっしゃっているのは、わたしのもとに来なさい、休ませてあげるということです。わたしに学びなさい、そうすれば安らぎを得られる。それは、安心できます、という意味です。
こんないい話、なかなか聞けないと思います。そして、イエスさまがおっしゃっていることが事実であれば、こんなにありがたいことは他にないと思います。
なぜなら、わたしたちはみんな、ひどく疲れているからです。いろんな重荷を負っているからです。休めるものなら休みたいと心から願っているからです。そうでない人はいないでしょう。
しかし、ここで考えさせられることがあります。それは、イエスさまがおっしゃっているとおりのイエスさまのもとでのこの休息とこの平安を、今のわたしたちは、どうしたら味わうことができるのでしょうか。教会に来れば、それを味わうことができるでしょうか。それは本当でしょうか。
ここでまたちょっと私の話をさせてください。私は今、自由の身です。昨年12月までの11年9ヶ月、牧師として働かせていただいた教会を辞職しました。ついでに、というわけではありませんが、19年所属した教派を退会しました。私は今、無職で無所属です。そのような立場でみなさんに説教をさせていただいています。
4月からの仕事は決まっています。プロテスタントのキリスト教主義学校の宗教科の常勤講師になります。高校生に聖書を教える仕事です。そして、その学校が「日本基督教団関係学校」であることを理由に、日本基督教団関係学校に在職する者は教団の「教務教師」として登録することができる制度(教規第128条1項)に基づいて、日本基督教団に転入させていただくことにしました。
転入試験は来週(2016年2月23日、25日)です。もしそれに合格すれば、私は日本基督教団の教師です。
しかし今日の段階では、まだ無所属です。そして無職です。現在私は、時給のアルバイトをさせていただいています。建築関係の会社のホームページを作るのをお手伝いする仕事です。私には大学生と高校生の子どもがいますので、父親が無収入になってしまうわけには行きませんので、アルバイトをしています。そのような状態です。肩書きをつけるとしたら「フリーター」かもしれません。
自分の話が長くなりました。私は今、自由の身であると申し上げたかっただけです。教会に通うことは、生まれたときから今の50歳になるまで50年続けています。牧師の仕事は、1990年4月に日本基督教団の補教師になったときから数えれば、25年させていただきました。しかし、今の私は、無職で無所属です。
そのような状態になってみて初めて気づいたことがあります。それは多少私の見苦しい言い訳の面があるかもしれませんが、事実としてそうだと思えることです。
それは、私は「キリストの弟子」であるということです。そのことだけは断言できます。誰に何と言われようと、この点だけは誰にも譲ることができません。しかし、私が「キリストの弟子」であるということと、どこかの教会に属しているということ、あるいはどこかの教会の牧師であるということは、完全に区別して考えることはできないかもしれませんが、だからといって完全にぴったり同じことを意味するとも言えない、ということです。
客観的に言えば、今の私は無所属で無職です。どこの教会にも属さず、どこの牧師でもありません。しかしそれでは、今の私が「キリストの弟子」であると名乗ることができないのかといえば全くそんなことはありえないと思います。自信をもって堂々と、声を大にして「私はキリストの弟子です!」と名乗ることができます。だからこそ今日みなさんの前にも立たせていただいています。
そしてその私は、もし私がそうであるならば、自分だけを特別扱いしてはならないはずであるとも考えます。自分のことをそうであると言いたいならば、他の人にも当然同じことを当てはめなくてはならない。それが私の責任であり、義務でもあると思います。
わたしたちはどうしても、人の顔を見ると「教会に通ってください、教会に来てください」と、つい言いたくなります。キリストの弟子であることと、教会に属することは、全く同じことであると考えたくなります。そのように考えることのすべてが間違っているわけではありません。
しかし、問題はその先です。「教会に来ない人はキリストの弟子ではない」とも、つい考えてしまいます。「あの人は、この人は、以前は教会に来ていたので、キリストの弟子だった。しかし、今は教会に来ていないので、キリストの弟子でなくなった」と、そんなふうにさえ、つい考えてしまいます。これは私が大げさに言っていることではありません。一度ならず、何度も繰り返し、教会の中で耳にしてきた言葉です。
しかし、そういう話になっていきますと、わたしたちはだんだん、教会が楽でなくなります。教会が苦痛になり、重荷になる。教会に行くたびに疲れる。イエスさまがおっしゃっていることからかけ離れていきます。キリストに従うことは、楽になること、であるはずですが、現実はそうではないと言わなくてはならなくなります。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、イエスさまはおっしゃっているのに。
いま私が申し上げているのは、どこかの教会やだれか牧師の批判ではありません。自分自身の反省として申し上げていることです。そしてまた、これからの私自身の目標と希望として申し上げていることです。
行けば行くほど疲れる教会。重荷ばかりが増えて喜びを感じられない教会。教会がそのような状態であってよいはずがないではありませんか。
「イエスさまは好きですが、教会は嫌いです」ということを、わりとはっきりおっしゃる方がおられます。決して少なくありません。かなり大勢の人から聞こえてくることです。その原因は何なのかということを、わたしたちはもっと真剣に考えなくてはなりません。
もちろん私は、このようなことを言いながらも、教会を長い間、一生懸命に支えてこられた方々の努力や苦労は並大抵のものではないということも、よく分かっているつもりです。その努力や苦労を踏みにじるようなことを申し上げる意図は全くありません。
教会の中でなにかの役につけられると、責任ばかり押し付けられて、文句ばかり言われて。できて当たり前、できなければ厳しく批判される。そのようなことばかりが続くと、腹も立つし、愚痴も言いたくなります。すべてを投げ出したくなります。そのような気持ちになることがしばしばあることもよく分かります。
私の過去の人生50年すべて教会と共に歩んできましたので、他人事のように思えることは、ただのひとつもありません。
しかし、だからこそあえて申し上げたいことがあります。教会に通っているわたしたちは、教会を長年支えてきたわたしたちは、どんなことがあっても喜びましょう。絶えず祈りましょう。すべてのことに感謝しましょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサロニケ5:16~18)という使徒パウロの言葉を思い出しましょう。
無理に笑う必要はありません。作り笑いはすぐバレます。教会は楽しいところであり、ここに来ると楽になれる、重荷をおろすことができる、そういうところであるということを、わたしたちの言葉と態度で示していきましょう。そうすれば、おのずから教会に人が集まるようになります。
「ここは楽しいところなのか苦しいところなのか」ということを、人は瞬時に判断します。肌感覚で分かります。教会を楽しいところにするテクニックのようなものはありません。そういうのはすぐに見抜かれます。
そのようなことよりも大事なのは、わたしたち自身が「キリストに従うこと」です。イエスさまの弟子になることです。イエスさまの前に重荷をおろして、真に自由にされたことを心から喜び、感謝することです。
(2016年2月14日、日本基督教団置戸教会主日礼拝)
2016年2月7日日曜日
倉敷教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年2月7日日曜日)は、日本基督教団倉敷教会(岡山県倉敷市)の主日礼拝に出席させていただきました。旧組合教会の伝統を受け継ぐ教会です。「奇跡の食卓」と題する中井大介牧師の説教は本当に素晴らしかったです。深く感動しました。
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