2011年2月8日火曜日

「葛藤」の評価

そうそう、その「葛藤」の有無ないし度合いですよね、と思いますが。

「右」と「左」を分けるものは、です。

「極右」の人には、自分自身の中に葛藤がないし、葛藤などあってはならないものという確信があるし、そもそも葛藤なるものは地上に存在してはならないものだと思い込まれている。葛藤を抱く者は「弱い人間」であるが、キリスト者たるもの決してそうであってはならない、と。

「極右」の破壊性を警戒してはいるが「左」ではないことを強く自覚しているソフトな「右」の人は、すべての人に葛藤があり、いかなるキリスト者も例外ではありえないことを受け入れてはいるが、一刻も早く葛藤から脱出して一元的な確信に至ることこそがキリスト者のあるべき姿だと、おぼろげながら、またはわりと強く信じている。つまりその場合、われわれにとっての「葛藤」の状態とは信仰の未成熟な状態を意味し、それは一時的な通過点にすぎず、早く脱却されなければならない段階であるととらえられている。

自称「左」の人は、われわれが地上の生のうちにあるかぎり葛藤の状態にあることは恒常的であり、またある意味で運命的なことでさえあり、いずれにせよわれわれにとっては脱却不可能な状態であるととらえている。一つの問いに対する答えは一つではなくいろいろあるし、完璧な正解は求めても見つからないし、人間には常に「隠されて」いる。それゆえ、葛藤は何ら恥ずかしいことではないし、未成熟であることを意味しない。われわれは地上に生きるかぎり常に問い続けなければならないし、勉強を怠ってはならないのだと思っている。このタイプの自称「左」の人たちは、物事のとらえ方の単純化ないし一元管理化を最も嫌うゆえに、とくに「極右」の人々とは全く相容れない。

「極左」の人は・・・なんでしょう?・・・比較的おおかたの共通理解が成り立っているものまで故意に破壊し、何らかの答えを求めようとすること自体を暴力的に妨害し、対話や議論を意図的に混乱とカオスに陥れ、からかって楽しんでいる人たち、かな?(笑)

あるいは「扇(おうぎ)」。

あくまでも仮の話ですが、扇の要の位置に「説教壇」があり、そこから放射状に広がる位置に「会衆席」と「教会の外なる世界」があるとすれば、

「説教壇」から近い順に「極右」・「右」・「左」・「極左」の人が“立って”いるかもしれません。

とくに牧師の子弟の場合で考えれば、

「オヤジの言うとることはすべて絶対正しいねん。だって神さまの言葉を語っとるんやで。オヤジに反対する奴らは全員間違っとるねんから、殺しても構わんねん」と思い込んでいるような子たちは「極右」。

「あのー、教会の皆さん。うちのお父さんは、家ではいつもパンツ一丁、丸裸で歩き回っているような弱い人間なんスけど、この人の言ってること、まあまあ間違いやないと思うんですわ。お願いですんで、聞いたってくださりませんでせうか」と頭を下げたりする子たちは、ややソフトながら「右」。

「はははははは。」と笑ってごまかすのが、自称「左」。

「うっせーな。」と怒っているのが「極左」。