2011年2月13日日曜日

ふたりだけのところで

マタイによる福音書18章15~20節

関口 康

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

この箇所に書かれていることを要約すれば、「教会の中で起こるキリスト者同士の人間関係上のトラブルにどのように対処すべきか」ということです。言い換えれば「教会の危機管理の方法はどのようなものか」です。その方法をイエス・キリストが教えてくださっています。

イエス・キリストのこの教えを別の言葉で言い直すとしたら、「教会の危機管理の方法には、いくつかの段階がある」ということです。ここで語られているのは「四つの」段階です。

第一の段階は、個人的な対処です。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」

第二の段階は、少人数による対処です。「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい」

第三の段階は、教会的対処と呼んでおきます。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」

第四の段階は、放置です。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」

説明が必要なのは、第三の教会的対処です。考えなければならないのは「教会に申し出る」の意味です。それは「公表すること」と同義語です。「教会に知られること」と「世間に知られること」は大差ありません。「教会」とはそういう場所であると、主イエスがご存じです。

イエス・キリストが教えておられる四つの段階の中で最善の方法は、第一の方法です。「行って、二人だけのところで忠告しなさい」です。

「行って」は、インターネットの時代には特に重要です。もし教会内部のトラブルを解決したいと思うなら、顔を合わせて直接言えないようなことをメールやSNSで伝えようとすべきではありません。

最善の方法は、相手のところまで足を運ぶこと、そして、文字にも記録にも残らないように口頭で直接話すこと、です。

「二人だけのところで」の意味は、当事者同士で解決することです。わたしたちの教会の状況にあてはめていえば、すべてを「教会に知らせる」必要はないということです。

たとえ教会員同士の間で起こった問題でも、役員会がすべて把握していなければならないわけではありません。「教会」に知らせるのは、第一でも第二でもなく第三の段階です。放置の手前の、最後の手段です。

教会役員同士の仲が良いこと自体は、大切なことです。しかし、教会役員が教会員の個人情報のすべてを把握し、裏か陰で、常に噂話をしているように感じられるのを気持ち悪がる教会員がいることは事実です。

私は牧師ですが、教会員の個人情報を根掘り葉掘り聞きたいとは思わないし、聞くべきでないと考えています。教会員のすべてを牧師が知らなければならないわけではないからです。

私が思うのは、「教会役員は個人情報に必要以上の興味を持つべきでない」ということです。のぞき趣味に陥ってはなりません。他人の噂話を楽しむようになってはなりません。

質問すると誠実に答えてくださる方が必ずおられます。しかし、すっかり聞き出した上で、どうするのでしょう。その人に対して、何ができるというのでしょう。

お祈りするのは、とても良いことです。しかし、礼拝の祈祷や祈祷会のような場所で、自分の知っていることのすべてをみんなの前で暴露してしまうのは、完全な間違いです。教会の場を個人情報の暴露大会にしてはなりません。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)は、少ない人数の教会を励ますためによく引用される御言葉です。

しかしそれは、間違った引用であるとまでは言いきれませんが、この御言葉が語られている文脈とは無関係であるという意味で勝手な引用の仕方です。

この個所でイエス・キリストが教えておられるのは、なんらかのトラブルが起こったときは、可能な限り「二人だけのところで」解決することの大切さです。騒ぎをむやみやたらに大きくしてはならないのです。

「二人」または、せいぜい「三人」で、つまり、当事者同士で秘密裡に解決すべきです。それで解決できる可能性が十分にあります。

それは決して、悪事を闇から闇へ葬り去ることではありません。「二人または三人」のところにも、イエス・キリストが共にいてくださるからです。

(2011年2月13日 某地区教会役員研修会開会礼拝)