2011年2月27日日曜日
カール・バルトの予定論の勘所
バルトの予定論は、一言でなど決して語り尽くせない、きわめて複合的な要素をもっています。しかしそれでもあえて一言でまとめるとしたら、バルトの予定論は、父なる神がイエス・キリストを十字架上での「滅び」へと定めることによってすべての人間を「救い」へと定めたとするものです。これをバルトは初めから、ウェストミンスター信仰告白の予定論、あるいはローレン・ボエトナーの予定論に対抗する意図をもって考案しました。
バルトのこの教説に立って実際に説教として語ると「感動させられる」要素がありますので、20世紀の多くの人を魅了してきました。ウェストミンスター信仰告白の擁護者側からは、バルトの予定論には普遍救済説(万人救済説)への傾斜があると(当然ながら)指摘されてきました。
福音派の人々のうち特にアルミニウス主義的な人々は、バルトの予定論を批判することができないかもしれません。また、アルミニウス主義的でない福音派の人であっても、たとえばエドウィン・パーマーの本などを持ち出されて、「改革派予定論の立場から言わせていただけば、伝道説教の中で『イエス・キリストはすべての人のために十字架についてくださったのです』と語ることは不可能なことなのです」などと諭された日には、ほとんど絶望的な思いになるはずです。
事実、私の知るかぎり、日本でも多くの福音派の人やホーリネス系の人が「予定論の素晴らしさゆえに」バルトの支持者になりました。それほどに、バルトの予定論は独特の魅力を持っています。今の私はバルトの予定論には一ミリも賛成できません。ウェストミンスター信仰告白の予定論に全く立っています。しかし、だからといってローレン・ボエトナーの『改革派教会の予定論』やエドウィン・パーマーの『カルヴィニズムの五特質』のような説明でよいとは思っていません。パーマーの本などは、予定論の解説としては現時点で最悪の本であると思っています。
過去の改革派神学における予定論の抱えていた多くの問題点は、日本キリスト改革派教会創立50周年宣言「予定についての信仰の宣言」によって克服されたと私自身は考えています。しかし、50周年宣言で予定論の真理をくみ尽くせているとは思っていません。永遠の謎の教理であることには変わりありません。
50周年宣言の「予定論」の勘所は、キリスト論的視点を中心にして考え抜いた「慰めと希望に満ちた予定論」です。それはそれでものすごく大切なことであり、今日的に説得力のある、完成度の高い予定論に仕上がっていると思っています。しかし、強いていえば「慰め」の(やや過度の)強調が、若干のセンチメンタリズムを招き入れ過ぎているかもしれません。これからの我々の教派の課題であると、私一人で考えています。
2011年2月26日土曜日
yahooオークションにカール・バルト教会教義学英語版
ヤフーオークションに「カール・バルト教会教義学」英語版全巻が30,000円~(即決40,000円)で出品されているようです。英語版の定価は100,000円だそうです。期間は「1日」と表示されています。特に神学生にはお買い得かもしれませんので、ご紹介します。私はドイツ語版(原著)と日本語版は全巻所有していますが、英語版まで手を伸ばす力(気力も読解力も)はありません。しかしそれでも、もし自由に使えるお金が3万円手元にあれば入札しました。ファン・ルーラーはじめオランダ改革派神学者の翻訳に取り組む場合にも、バルトの教義学の複数の翻訳があると、非常に助けになります。神学用語の翻訳はとても難しいので、原文のこの語は日本語で訳すとこうなるが、英語で訳すとこうなるという感じで、比較対象が多いほど助かるのです。だれか買わないかなあと注目しています。
2011年2月25日金曜日
Ustream「ファン・ルーラーについて(4)」
ファン・ルーラーの神学は、20世紀の「実践神学」に非常に大きな影響を与えました。(50分59秒)
【訂正】ファン・ルーラーのユトレヒト大学神学部教授の在任期間は「23年間」でした。
2011年2月20日日曜日
Greeting Cardというメールのリンクはクリックしないでください Please do not click the link of Greeting Card
Please do not click the link of Greeting Card. I don't know how such a mail was sent from my mail-address to you. I sincerely apologize.
2011年2月19日土曜日
Ustream「ファン・ルーラーについて(3)」
神学者ファン・ルーラーは教会の牧師でもありました。彼は、神学は教会の仕事(職務)と切り離して考えることができないものであることを知っていました。(45分47秒)
2011年2月18日金曜日
2011年2月17日木曜日
Ustream「ファン・ルーラーについて(1)」
Ustreamで何ができるかを試しているうちに、ファン・ルーラーについて話しはじめてしまいました。最後は電話がかかってきたので、中断しました 。タイトルは一応「ファン・ルーラーについて(1)」としましたが、(2)以降があるかどうかは分かりません。(35分47秒)
2011年2月16日水曜日
A. J. ジャンセン著『神の国、職制、教会』(2006年)
二つの教派(RCAとCRC)は19世紀半ばに分裂したまま今日に至っていますが、どちらの教派もドルト教理基準を重んじる「改革派敬虔主義」(オランダ語でgereformeerde pietisme)の伝統を受け継いでおり、また「体験主義」(オランダ語でbevindelijkeheid)の宗教性を受け継いでいることなどの点で同じ流れにあるとジャンセンは見ています。しかしまた、RCAの自己認識としては「自分たちはpublic Dutch church(オランダ王室公認教会)の子孫である」とか「我々はestablished church in the American colonies(アメリカのオランダ人植民地の国教会系教会)として歩んできた」というような考えを持っていて、CRCの人たちの反感を買ってきたこともジャンセンは知っています。
また、「敬虔主義」だ「体験主義」だというとアメリカのコンテキストの中ではすぐにいわゆるリバイバル運動と結び付けられてしまいますが、オランダ改革派教会のより古い伝統と、より最近のリバイバル運動との間には、緊張関係がある、とも言っています。
それではジャンセンは、ファン・ルーラーの教会職制論のどのあたりがRCAとCRCの対話にとっての良き材料になると考えているかと言えば、それはファン・ルーラーの三位一体論的視点(trinitarian perspective)である、と考えています。
ジャンセンによると、ファン・ルーラーの三位一体論的視点は、「神が教会へと来てくださる」(God comes to the church)という神理解を持つハイチャーチ(high church)の発想と、「聖霊なる神は教会において(in)また教会を通して(through)働いてくださる」という神理解を持つ体験主義の発想との両方を包括するものです。言葉を補うとしたら、どちらかといえばよりハイチャーチ的な発想を持っているのがRCAであるとしたら、より体験主義的な発想をもっているのがCRCなので、ファン・ルーラーの三位一体論的神学は両方の発想を包括していると言える、ということです。
あるいは、私自身はあまり好きな表現ではないし、適切な表現でもないと思っているのですが、もしそう言いたい人がいるなら、ファン・ルーラーの教会職制論は「上から」(from above/ top-down)の発想と「下から」(from below/ bottom-up)の発想との両面を持っている、と言えるかもしれません。
日本キリスト改革派教会の中では周知のことですが、私と松戸小金原教会が現在属している「東関東中会」は、2006年7月に設立されたばかりの新しい中会なのですが(まもなく五周年)、所属している12の群れ(11教会・1伝道所)のすべてが過去50年以内に北米キリスト改革派教会(CRC)の日本伝道会(Japan Mission)によって生み出された群れです。
その意味では東関東中会が「純CRC産中会」であることは間違いないことであり、「これはあくまでもジョークですが」と断りながらではありますが「我々はCRC日本中会です」と自己紹介して笑いをとったりすることがあるくらいの状況です。
そのようなわけで、CRCとRCAの関係や、この両者の和解を成り立たせうるとジャンセンが信じてやまないファン・ルーラーの神学とCRC・RCA両教派との関係や、さらにそれら一切と日本キリスト改革派教会との関係がどうなっていくかは、私にとっては決して他人ごとでも絵空事でもなく、きわめてリアルな問題になりつつあります。
「日本におけるRCAの伝統」が十分な意味で残っているのかどうかは私にはあまりよく認識できないのですが、150年前の日本に来たプロテスタント宣教師の中の主要な数名がRCAの人であったことは確実な歴史的事実ですし、広い意味ではそういう「伝統」の上に日本プロテスタント教会史のメインラインが築かれてきた、と言えるかもしれない。そこに今、とても小さいながら「純CRC産中会」が日本に誕生した。アメリカにはRCAとCRCの対話と再一致を模索する人々が現れている。
大げさに言えば、今起こっていることは、日本プロテスタント教会史上前例が無かった事態ではないでしょうか。
2011年2月13日日曜日
ふたりだけのところで
関口 康
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
この箇所に書かれていることを要約すれば、「教会の中で起こるキリスト者同士の人間関係上のトラブルにどのように対処すべきか」ということです。言い換えれば「教会の危機管理の方法はどのようなものか」です。その方法をイエス・キリストが教えてくださっています。
イエス・キリストのこの教えを別の言葉で言い直すとしたら、「教会の危機管理の方法には、いくつかの段階がある」ということです。ここで語られているのは「四つの」段階です。
第一の段階は、個人的な対処です。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」
第二の段階は、少人数による対処です。「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい」
第三の段階は、教会的対処と呼んでおきます。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」
第四の段階は、放置です。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」
説明が必要なのは、第三の教会的対処です。考えなければならないのは「教会に申し出る」の意味です。それは「公表すること」と同義語です。「教会に知られること」と「世間に知られること」は大差ありません。「教会」とはそういう場所であると、主イエスがご存じです。
イエス・キリストが教えておられる四つの段階の中で最善の方法は、第一の方法です。「行って、二人だけのところで忠告しなさい」です。
「行って」は、インターネットの時代には特に重要です。もし教会内部のトラブルを解決したいと思うなら、顔を合わせて直接言えないようなことをメールやSNSで伝えようとすべきではありません。
最善の方法は、相手のところまで足を運ぶこと、そして、文字にも記録にも残らないように口頭で直接話すこと、です。
「二人だけのところで」の意味は、当事者同士で解決することです。わたしたちの教会の状況にあてはめていえば、すべてを「教会に知らせる」必要はないということです。
たとえ教会員同士の間で起こった問題でも、役員会がすべて把握していなければならないわけではありません。「教会」に知らせるのは、第一でも第二でもなく第三の段階です。放置の手前の、最後の手段です。
教会役員同士の仲が良いこと自体は、大切なことです。しかし、教会役員が教会員の個人情報のすべてを把握し、裏か陰で、常に噂話をしているように感じられるのを気持ち悪がる教会員がいることは事実です。
私は牧師ですが、教会員の個人情報を根掘り葉掘り聞きたいとは思わないし、聞くべきでないと考えています。教会員のすべてを牧師が知らなければならないわけではないからです。
私が思うのは、「教会役員は個人情報に必要以上の興味を持つべきでない」ということです。のぞき趣味に陥ってはなりません。他人の噂話を楽しむようになってはなりません。
質問すると誠実に答えてくださる方が必ずおられます。しかし、すっかり聞き出した上で、どうするのでしょう。その人に対して、何ができるというのでしょう。
お祈りするのは、とても良いことです。しかし、礼拝の祈祷や祈祷会のような場所で、自分の知っていることのすべてをみんなの前で暴露してしまうのは、完全な間違いです。教会の場を個人情報の暴露大会にしてはなりません。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)は、少ない人数の教会を励ますためによく引用される御言葉です。
しかしそれは、間違った引用であるとまでは言いきれませんが、この御言葉が語られている文脈とは無関係であるという意味で勝手な引用の仕方です。
この個所でイエス・キリストが教えておられるのは、なんらかのトラブルが起こったときは、可能な限り「二人だけのところで」解決することの大切さです。騒ぎをむやみやたらに大きくしてはならないのです。
「二人」または、せいぜい「三人」で、つまり、当事者同士で秘密裡に解決すべきです。それで解決できる可能性が十分にあります。
それは決して、悪事を闇から闇へ葬り去ることではありません。「二人または三人」のところにも、イエス・キリストが共にいてくださるからです。
(2011年2月13日 某地区教会役員研修会開会礼拝)
2011年2月8日火曜日
「葛藤」の評価
「右」と「左」を分けるものは、です。
「極右」の人には、自分自身の中に葛藤がないし、葛藤などあってはならないものという確信があるし、そもそも葛藤なるものは地上に存在してはならないものだと思い込まれている。葛藤を抱く者は「弱い人間」であるが、キリスト者たるもの決してそうであってはならない、と。
「極右」の破壊性を警戒してはいるが「左」ではないことを強く自覚しているソフトな「右」の人は、すべての人に葛藤があり、いかなるキリスト者も例外ではありえないことを受け入れてはいるが、一刻も早く葛藤から脱出して一元的な確信に至ることこそがキリスト者のあるべき姿だと、おぼろげながら、またはわりと強く信じている。つまりその場合、われわれにとっての「葛藤」の状態とは信仰の未成熟な状態を意味し、それは一時的な通過点にすぎず、早く脱却されなければならない段階であるととらえられている。
自称「左」の人は、われわれが地上の生のうちにあるかぎり葛藤の状態にあることは恒常的であり、またある意味で運命的なことでさえあり、いずれにせよわれわれにとっては脱却不可能な状態であるととらえている。一つの問いに対する答えは一つではなくいろいろあるし、完璧な正解は求めても見つからないし、人間には常に「隠されて」いる。それゆえ、葛藤は何ら恥ずかしいことではないし、未成熟であることを意味しない。われわれは地上に生きるかぎり常に問い続けなければならないし、勉強を怠ってはならないのだと思っている。このタイプの自称「左」の人たちは、物事のとらえ方の単純化ないし一元管理化を最も嫌うゆえに、とくに「極右」の人々とは全く相容れない。
「極左」の人は・・・なんでしょう?・・・比較的おおかたの共通理解が成り立っているものまで故意に破壊し、何らかの答えを求めようとすること自体を暴力的に妨害し、対話や議論を意図的に混乱とカオスに陥れ、からかって楽しんでいる人たち、かな?(笑)
あるいは「扇(おうぎ)」。
あくまでも仮の話ですが、扇の要の位置に「説教壇」があり、そこから放射状に広がる位置に「会衆席」と「教会の外なる世界」があるとすれば、
「説教壇」から近い順に「極右」・「右」・「左」・「極左」の人が“立って”いるかもしれません。
とくに牧師の子弟の場合で考えれば、
「オヤジの言うとることはすべて絶対正しいねん。だって神さまの言葉を語っとるんやで。オヤジに反対する奴らは全員間違っとるねんから、殺しても構わんねん」と思い込んでいるような子たちは「極右」。
「あのー、教会の皆さん。うちのお父さんは、家ではいつもパンツ一丁、丸裸で歩き回っているような弱い人間なんスけど、この人の言ってること、まあまあ間違いやないと思うんですわ。お願いですんで、聞いたってくださりませんでせうか」と頭を下げたりする子たちは、ややソフトながら「右」。
「はははははは。」と笑ってごまかすのが、自称「左」。
「うっせーな。」と怒っているのが「極左」。
2011年2月3日木曜日
G. C. ベルカウワー著『教義学研究』
アムステルダム自由大学神学部で長く教鞭をとったヘリット・コルネーリス・ベルカウワー(Dr. Gerrit Cornelis Berkouwer [1903-1996])の『教義学研究』(原題Dogmatische Studien)は、同神学部における教義学講座の開設者であったアブラハム・カイパーやカイパーの同僚のヘルマン・バーフィンクらの基本路線(新カルヴァン主義)を受け継ぎながらも、ベルカウワーと同世代の諸外国の神学者、なかでもカール・バルトをはじめとするスイスやドイツの弁証法神学者たちの神学に強い関心を寄せ、両者(新カルヴァン主義と弁証法神学)の関係を明らかにした労作であると評することができます。そのため、ベルカウワー自身の独自の神学が豊かに展開されているとは必ずしも言えず、その面での物足りなさを感じる向きがあるかもしれませんが、とりわけ歴史的・伝統的な改革派神学の立場に立つ者たちにとっては、自分たちの伝統路線にただあぐらをかくことで事足れりとせずに(当時の)新しい時代における新しい神学的発想と正面から向き合い、どの点は受け入れることができ・どの点は受け入れることができないかを明らかにしようとしたベルカウワーの真摯な姿勢から学ぶべきことは多いでしょう。
(上は原著オランダ語版、下は英語版。どちらも左から以下のタイトル順に並んでいます。)
一般啓示 De Algemene Openbaring/ General Revelation
聖書 De Heilige Scrift (I-II)/ Holy Scripture
神の選び De Verkiezing Gods/ Divine Election
神の摂理 De Voorzienigheids Gods/ The Providence of God
神の似像としての人間 De Mens het Beelds Gods/ Man: The Image of God
罪 De Zonde (I-II)/ Sin
キリストの位格 De Pesoon van Christus/ The Person of Christ
キリストの御業 Het Werk van Christus/ The Work of Christ
信仰と義認 Geloof en Rechtvaardiging/ Faith and Justification
信仰と聖化 Geloof en Heiliging/ Faith and Sanctification
信仰と堅忍 Geloof en Volharding/ Faith and Perseverance
教会 De Kerk (I-II)/ The Church
キリストの再臨 De Wederkomst van Christus (I-II)/ The Return of Christ
(上は『神の選び』の表紙、下は同書第一章の冒頭個所。同書の各章タイトルは以下のとおりです。)
第一章 考究の限界 De Grens der Bezinning
第二章 教理史の視点 Dogmahistorisch Perspectief
第三章 神の選びと自由意志 Verkiezing en Willekeur
第四章 神の選びと隠匿性 Verkiezing en Verborgenheid
第五章 キリストにおける神の選び Verkiezing in Christus
第六章 神の選びと遺棄 Verkiezing en Verwerping
第七章 神の選びと説教 Verkiezing en Prediking
第八章 堕落前予定説と堕落後予定説 Supra- en Infralapsarisme
第九章 神の選びと救いの確かさ Verkiezing en Heilszekerheid
第十章 大きな誤解 Het Grote Misverstand