2010年4月16日金曜日

説教は説教者の意見表明の場でもある

誤解を避けるために付言しますと、私が二十数年来反発してきたことは「説教からの“人間的なるもの”の強制排除ないし禁止」という点だけです。



世代の問題がかかわるのかどうかは分かりませんが、ある人々は「私は・・・と思います」という言い回しを説教の中から一切締め出そうとし、常に「です」と言い切るべきであると主張してきました。「説教とは説教者の意見表明の場ではない」とか何とか言って、です。



しかし、それはとても不自然なことであり、無理があります。説教の根拠である聖書テキストは「我々にとっては」(pro nobis)何ら一義的ではないからです。



何ら一義的でない聖書テキストを解釈しながら、それがあたかも一義的に理解しうるものであるかのように自信たっぷりに「です」とだけ言い切る説教者たちは、私に言わせていただくと、要するにハッタリをきかせているだけなのです。



私は(かつても今も)この種のハッタリオヤジたちに嫌気がさした(または「さしている」)だけのことであり、それ以外の何も意図していません。



2010年4月15日木曜日

説教における神と人間の関係をめぐる問題群

今から二十数年前のことです。それは私が東京神学大学で学んでいた時期から日本基督教団の教師として働いていた時期にかけての頃ですが、当時繰り返し耳にした言葉の一つが、次のような言葉でした。



「説教者よ、あなたがたは神の邪魔をしてはならない。説教者自身は、神の言葉を取り次ぐ者として、通りよき管(とおりよきくだ)となり、空の器(からのうつわ)にならねばならない。ともかく、説教の中から“人間的なるもの”を徹底的に取り除かなければならない」。



そして、「説教からの“人間的なるもの”の除去」の例として、



・説教の中で説教者は「思います」とか「感じます」などと決して言ってはならない、とか、



・そもそも説教の中で「私は」と言ってもならない、とか、



・自分の証しのような話を一切持ち込んではならない、とか、



・道徳的な話をすべきでない、とか、



・政治や社会の話も、文学の話も一切持ち込むべきではない、など。



私はそういう話を聞くたびに、非常に違和感を覚えたものでした。はっきり言えば馬鹿らしくて聞いていられませんでした。「神学教師たちよ、牧師たちよ、あなたたち自身は『人間』ではないのか」と、問い返したくなるばかりでした。



それ以来、私の問いはますます深まり、今日に至っています。



最近流行のツイッターも140字のコミュニケーションです。ツイッターは私も試してみていますので悪口を言うつもりはありませんが、キャッチーな短いフレーズが蔓延する「独り言ブツブツつぶやき社会」(※)になってきたようです。



(※)ただし、稿を改めて言いたいことですが、私は最近「独り言の積極的意義」(positive significance of monologizing)を強調して語ってみたいと思うようになりました。



その中で、説教は、説教者は、どうあるべきかと考えさせられています。



「聖書はこう言っている。私はこう思う。でも、別の人はこう考えている。結論は、こうかもしれないが、ああかもしれない」と、ああでもない、こうでもないと、いろいろ苦悩し、思索し続ける説教が、あってもよいのではないか。



「結論だけ聞きたい人」は、イマドキ、教会なんか来ませんよ、と思っています。



2010年4月12日月曜日

批判のルール

他人を批判することについては、私なりのルールのようなものを持っています。こういうルールを持っている人間がいるというのは、特に珍しいことではないと思っています。多くの人が考えていそうことを、私も考えているだけです。

第一は、もし私が批判する相手がいるとしたら、それは常に「男性」であるということです。

第二は、必ず「何らかの責任的な職務に就いている人」であるということです。

第三は、(書き直しや言い直しが容易でない)紙媒体の文筆活動によって自分の思想内容を広く公表しており、その面で一定の評価を得ている、いわゆる(広義の)「公人」であるということです。

他方、

私は、「女性」と、「職に就いていない人」と、「私人」と、「(紙媒体に書かない)ブロガー氏たち」のことは、決して批判しません。

これらの人々を差別しているつもりはありませんが、批判はしません。無視しているわけでも読んでいないわけでもありませんが、どれほど違和感を抱いても、黙って読みます。何も言いません。


2010年4月9日金曜日

牧師たちよ、教会はあなたの私物ではありえないことをもっと自覚せよ

牧師が交代するたびに教会の方針がすっかり変わってしまうというのは、本当に躓きに満ちたことであり、教会にとって有害無益であると、私は考えています。それは――途中の議論を省いて言えば――要するに「牧師による教会の私物化」を意味します。



牧師たちよ、教会はあなたの私物ではありえないことをもっと自覚せよ。



このことは私の「信仰告白」に属する事柄であり、自分自身が牧師であることの召命意識に直接かかわる問題でもあり、言葉にするまでもなく当たり前のことに属する内容でもあるのですが、黙っているだけでは理解されない場合がありますので、事あるごとに表明しておきます。



ごく最近のことですが、別の教会(どこの教会かは分かりません)の方から「私の教会では伝統的に、葬式の中で弔辞を行っていました。しかし、現在の牧師に交代して以来、弔辞が禁じられるようになりました。牧師は『葬式は礼拝なので弔辞を行ってはならない』と強引に自分の言い分を通すばかりです。どうしたらよいでしょうか」(大意)というお尋ねをいただきました。



この質問への答えとして、満足していただけるかどうかは分かりませんでしたが、私は次のようにお答えしました。



私は、自分が赴任した教会が伝統的に行ってきたやり方を、基本的に踏襲します。



もしその教会の葬儀で伝統的に弔辞が行われていたとしたら、弔辞を行うことを妨げるように働きかけたりしません。



もしその教会の葬儀で伝統的に弔辞が行われていなかったとしたら、弔辞を行うことを奨励したりはしません。



いずれにせよ、「強引に自分の言い分を通す」というような方法を決して採りません。



葬儀の中で弔辞を行うかどうかについての聖書的根拠があるかどうかについて、私は「無い」と見ています。



聖書の観点から言えば、それは「どちらでもよいこと」に属することです。



根拠がもしあるとしたら、聖書ではなく、むしろ伝統であり、慣習です。



ただ、私にとってけしからんと思うことは、上記のとおり「牧師が(教会の伝統や慣習に著しく反する仕方で)強引に自分の言い分を通すこと」です。



その牧師が主張していることは、おそらくは、その牧師自身の出身教会のやり方であるというだけのことであったり、神学生時代に影響を受けた教師の受け売りだったりするに過ぎません。



つまり、私の申し上げたいことは、その牧師の主張のほうにも、大した根拠など無いということです。



貴方様は教会の役員でいらっしゃるのでしょうか、違うでしょうか。



もし役員でいらっしゃる場合は、「牧師が強引に自分の言い分を通すこと」を阻止なさるべきです。徹底的に話し合って、一致点ないし妥協点を見出されるべきです。



もし役員ではないという場合は、役員会に相談なさってください。その際、私の名前を出してくださっても構いません。



重要なことは、教会は牧師の私物ではないということです。牧師たちは、自分の仕えている教会のことを「自分の思いのままになる」と思った瞬間に、失格者となります。



2010年4月7日水曜日

『超訳 ニーチェの言葉』について

長男の高校の入学式がいよいよ明日に迫りました。この期に及んで親として最後に(?)何かしてやれることはないかと考えた結果、一冊の国語辞典を買ってやることにしました。それで、つい先ほどまで近所の書店まで出かけていたのですが、いろんな種類があって迷ったものの、まずはオーソドックスなもののほうが良いだろうと、『岩波 国語辞典 第七版』(岩波書店)に決めました。辞書の数は多ければ多いだけ言葉の微妙なニュアンスを読み分けられる根拠を得られるに違いないということは私なりに理解しているつもりですが、他の出版社のものは彼自身が苦労して買えばよいわけで、親が何から何までお膳立てすべきではないだろうと、ぐっと我慢した次第です。



辞書が決まったことで当初の目的は果たしたのですが、ついでにもう一冊と(これが誘惑なんだ)何かを買おうと見回したところ、書店入口に近い位置の平積みコーナーに、勝間和代さんたちの自己啓発系の本の隣に、『超訳 ニーチェの言葉』というタイトルの、黒光りする装丁の本が積み上げられていました。「へえ、面白そうだ」と数秒立ち読みした後、あまり迷うことなく、これを買うことにしました。



帰宅後、1時間ほどで全部読みました。何か書きたくなりましたので、Amazonのカスタマーレビューに以下の一文を載せておきました。タイトルは「わが子に読ませます」です。



『超訳 ニーチェの言葉』フリードリヒ・ニーチェ著、白取春彦編訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年



わが子に読ませます



By 関口 康



カバーフラップにも書いてあったが、ニーチェは「牧師の子」である。だからどうしたと、取り立てて何かを言いたいわけではないが、わたし評者が牧師なので、うちの息子はニーチェと立場的に同じということになる。本書を初めて手にとり数ページをめくったとき、「ああ、これを息子に読ませよう」と思った。ヘイセイ生まれの長男とニーチェは150歳も離れているし、日本人とドイツ人の違いもあるが、牧師館(Pastorat)の中で生まれ育った先輩の言葉を、後輩がどう読むかを知りたいと思う。たぶんかなり共感しながら読むだろう。いや何、わたし自身がすっかり魅了されてしまった。白取氏の「超訳」にすっかり幻惑されているだけかもしれないが、とにかく本書(白取超訳)は名著だと思った。聖書の隣に並べて置くのは(いろいろ言われそうで)マズいかもしれないが、せめてルターやカルヴァンの本よりも目立つ所に置いておきたい本ではある。



2010年4月1日木曜日

書評 渡辺信夫著『カルヴァンの教会論』増補改訂版(2010年)

関口 康

「これこそが神学だ。」読了直後そう思った。晒す必要もない恥ではあるが、評者は大した読書家でも蔵書家でもない。渡辺信夫氏については、カルヴァン『キリスト教綱要』とニーゼル『カルヴァンの神学』の各日本語版訳者であられる他、数点の「小さな」著訳書を物してこられた方であると思い込んできた。『カルヴァンの教会論』(改革社、初版1976年)が渡辺氏の「主著」であるということを、このたび「増補改訂版」の帯を見て初めて知った。これほど分厚い書物とは全く知らなかった。初版には触ったこともない(ある古書店ではかなり高額で取り引きされているようだ)。しかし開き直ったことを言わせていただけば、評者とよく似た思いを抱いた方々は少なくないのではないか。非礼をお詫びしつつあえて字にすれば「埋もれた名著」。それが本書だと思う。

翻訳ではなく初めから日本語で考え抜いて書かれたものゆえに読みやすく筋が通っている。評者などが断片的に学んできたような知識が見事なまでに美しく整理されている。硬質の語調には半可通な読者を寄せつけない凄味がないわけではないが、学術的には国際水準を保ちつつ日本の信徒に語りかける努力をしておられるところは絶賛に値する。「『カルヴァンの教会論』と題しているが、これは私の教会論でもある」(325ページ)と明言しておられるように、著者のスタンスには確固たるものがある。この価値ある一書を21世紀の日本の教会と神学の真ん中に復活させてくださった渡辺氏と一麦出版社に感謝する。

ところで、評者はどこに「これこそが神学だ」と感じたかを申し上げたい。この思いは(必要以上の)称賛ではなかったし批判でもなかった。「神学とはかくあるべし」ではなかったし、「神学とは所詮このようなものだ」でもなかった。この微妙なニュアンスには説明が必要である。

言いにくいことであるが、おそらく著者はこの「増補改訂版」をもってしても本書に満足しておられないはずだ。その思いが端々から伝わってくる。本論は全20章で構成されているが、第2章から第6章までと第8章はいずれも梗概のみで終わっている。もっと詳論なさりたかったのではないか。増補改訂版のあとがきに「初版を書き始める際の最も強い動機」として武藤一雄氏や久山康氏から学位論文を書くようにとの懇篤な勧めをお受けになったときの思い出が縷々つづられている。渡辺氏は「自分は牧師のつとめに召された者である。学位はこのつとめにとって無関係と思う」という意味の返事をなさったが、熱心な勧めは已まなかったため、「その勧めに従うことになった」とある。このような経緯で書き始められたのが本書であるというわけだ。ところが本書のどこにも「これは学位論文である」とは記されていない。口幅ったい言い方であるが、要するにこれは「未完成の学位論文」ではないか。そのように明言されてはいないが、「察して頂けると思う」(331ページ)とある。

この場面で「神学の途上性」とか「断片性」とか「旅人性」というような議論を持ち出すのは、かえって失礼だろう。再録された第一版あとがきに正直な思いが吐露されている。「牧師が研究をすることには社会的には何の評価も援助もないから、心ある牧師たちは自己の生活を切り詰めることによって辛うじて研究費を捻出する。私もそのような牧師の一人であった。このことを今では幸いであると思う。なぜなら、教会に密着して生きることによって、教会というものが深く理解できたし、民間の研究者として、権力や時流から自由な立場でものを考えることができたからである」(324ページ)。

「これこそが神学だ」と私は思った。牧師でなくても神学はできる。牧師でないほうが完成できそうな作品も確かにある。しかし「教会に密着して生きること」なしに「教会を神学的に論じること」が可能だろうか。答えは否である。「神学すること」自体が不可能である。この事実を教えていただける本書を多くの人々に推薦したい。渡辺氏が据えた土台の上にレンガを積み上げて巨大なゴシック建築を完成させるのは誰なのか。それを知りたくて、うずうずしている。

(一麦出版社)

(書評、『本のひろば』2010年4月号、財団法人キリスト教文書センター、28-29頁)