2009年7月31日金曜日

FacebookとTwitterを始めました


友人に勧められて、Facebook(フェイスブック)とTwitter(ツィッター)を始めました。こればかりは全くもって時流に乗せられた格好です。「もうね、どうぞどこでも連れてってくださいな」という気持ちです。でも、しばらくは面白く使えそうだと予感しています。昨日だったか「ビル・ゲイツ氏がFacebook(フェイスブック)を退会した」というニュースが流れていましたので、ある人々にとってはすでに用済みのツールなのかもしれません。

Facebook(フェイスブック)
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Twitter(ツィッター)
http://twitter.com/ysekiguchi


2009年7月26日日曜日

わたしが命のパンである


ヨハネによる福音書6・30~40

「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです。』すると、イエスは言われた。『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。』そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」

今読みましたのは、ヨハネによる福音書に記された、イエス・キリストの御言葉です。これは弟子たちとの会話の中で語られたものです。弟子たちが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とイエスさまに願いました。「そのパン」とは、この直前に語られている「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)を指しています。つまり、弟子たちがイエスさまに願ったのは、天から降って来て世に命を与える神のパンです。しかも、ここで「パン」とは人間の食べ物の総称です。それは日々の糧であり、生活必需品です。またそれは、人間の命そのものと呼んでもよいものです。わたしたちの命を支える力と言い直しても構いません。

ここで考えさせられることは、わたしたちは毎日何を食べて生きているのだろうかということです。かつてイエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語られたことがあります(マタイ4・4)。しかもそれは旧約聖書の申命記8・3からの引用でした。つまり、旧約聖書と新約聖書とに共通している教えは、人間はパンだけを食べて生きているのではないということです。言い方を換えれば、わたしたちの命を支える力としての食べ物は八百屋で材料を買ってきて台所で調理して食卓に並べられる、あの品々だけではないということです。

それならば、わたしたちに必要なものは何でしょうか。イエスさまは「神の口から出る一つ一つの言葉」の必要性を強調されました。そしてまた、今日の個所で語られていることは、さらに一歩踏み込まれています。それは「神の口から出る一つ一つの言葉」の具体的な内容であると言ってもよい。それこそがまさに「わたしが命のパンである」というイエスさまの御言葉に集約されている内容です。つまり、「神の口から出る一つ一つの言葉」とは「命のパン」そのものとしてのイエス・キリスト自身であるということです。

ここで少し整理しておく必要がありそうです。イエスさまが弟子たちに教えていることをまとめて言えば、要するに、あなたがたの食べ物はこのわたし自身であるということであることが分かります。「このわたしがあなたがたの食べ物である」と言っておられるのです。もっとはっきり言えば「このわたしを食べなさい」と言っておられるのです。

この件に関してイエスさまが明言しておられる最もはっきりした言葉が、6・55以下に出てきます。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。

これは少し冷静に考えれば、そんなことができるはずはないと、誰もが思うようなことです。弟子たちの目の前に立っておられたイエスさまの姿は、どこから見ても、一人の生きた人間でした。人間の姿をしたイエスさまが弟子たちに向かって「わたしの肉を食べなさい」とか「わたしの血を飲みなさい」などと言われている様子は、奇妙で不気味なものです。心の底からぞっとするという気持ちを持つ人がいてもおかしくないようなことを、イエスさまはおっしゃっています。

事実、この話をイエスさまがなさった直後に弟子の多くが感じたことは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」ということでした(6・60)。このような話をイエスさまがなさったばかりに弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった、と記されています(6・66)。

しかし、ここでわたしたちは、イエスさまがこのことをいわゆるたとえ話としておっしゃったわけではないということも理解しておくべきです。たとえ話という言葉を聞いてわたしたちが通常思い浮かべることは、それは事実でも現実でもない空想であり、作り話(フィクション)であるということでしょう。ところが、イエスさまがおっしゃっていることは、その意味でのたとえ話ではありません。もっとリアルなことです。事実であり、現実です。わたしたち人間は本当にイエスさまを食べることを求められているのです。

しかし、もしそうであるならば、わたしたち人間が次に問題にしなければならないことは、わたしたちはイエスさまをどのような方法で食べればよいのだろうかということです。イエスさまの食べ方は何かと問わねばなりません。しかしこうなりますと、いよいよ不気味な話になっていくでしょう。イエスさまの体のどの部分は美味しいとか、どの部分は苦いとかいうようなことをまともな顔で語り合うことは、ほとんど不可能です。だからこそ、わたしたちはつい、このイエスさまのお話はたとえ話であると考えたくなるのです。

しかし、わたしたちはここでよく考えてみるべきです。たしかに「イエスさまを食べる方法は何か」と言われると、わたしたちはほとんどお手上げ状態です。しかしそれではわたしたちはイエスさまのおっしゃりたいことの結論部分まで全く分からないと感じるでしょうか。いや、そんなことはない、と言える要素も残っているのではないかと私には思われます。

答えを導き出すためのヒントは、先ほど引用した6・56の御言葉です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。ここで教えられていることは、わたしたちがイエスさまを食べる方法ではなく、むしろイエスさまを食べた結果です。イエスさまを食べた人は「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。

つまり、その結果として起こることは要するに、その人がイエスさまの所有物になり、かつイエスさまがその人の所有物になるということです。わたしがイエスさまのものとなり、かつイエスさまをわたしのものにすることです。それは、誤解を恐れずに言えば、イエスさまの私物化とさえ呼ぶことができることでもあります。もちろんそれはほとんど誤訳であるというべきです。しかし、たしかにそれは誤訳なのですが、しかし、限りなく真理に近い誤訳であるというべきです。

別の観点を持ちこんでおきます。私がいま語ろうとしていることは、わたしたち人間とイエスさまとの距離感に関することであると表現し直すことができます。わたしたちが私物化という言葉を使うときは99%悪い意味で使います。しかしそのようにでも言わないかぎり決して縮まらない距離があります。イエスさまを食べて私物化する。腹の中におさめてしまうことによってイエスさまとわたしが一体化する。そのとき初めてイエスさまとわたしたちの距離がゼロになるということが起こるのです。

そのときこのわたしとイエスさまはたしかに全く一体化しています。ここまではわたし、ここからはイエスさま、というふうに区別することができない状態にあるでしょう。食べるとはそういうことです。お腹の中に入ったもの、胃袋の中で消化されはじめたものをこのわたしと区別して考えることはできません。それはわたしです。大根であろうと人参であろうと、牛肉であろうと豚肉であろうと、いったんそれがお腹の中に入った時点でそれはわたし自身なのです。

イエスさまとわたしたちの関係においてもまさにそのような一体的な関係になることが求められています。今「わたしたち」と言いました。それは第一義的にはイエスさまの弟子である者たちです。イエスさまを救い主と信じる信仰を持って生きる者たちです。もし皆さんの中にイエスさまの存在に対していまだに赤の他人のような感覚しか持てないままでいる方々がおられるとしたら、その方々はまだイエスさまのことを食べておられないのです。その方々にとってのイエスさまは、食べる前の、口の中に入れる前の、大根や人参、牛肉や豚肉のままです。調理はすでになされているかもしれない。しかし、まだその料理を味わっておられないのです。

ところが、イエスさまは、わたしの肉を食べなさいと言われ、わたしの血を飲みなさいと言われています。つまり、イエスさまは弟子たちに対して、このわたしをあなたのものにしなさいと言われているのです。わたしがあなたになりますから、あなたはわたしになりなさいと言われているのです。

この個所を読む人々の中に、ここでイエスさまが「わたしが命のパンである」と言われているのは聖餐式のパンを指していると理解したがる人々がいます。しかしその理解に私は反対します。聖餐式は全く関係ないと申し上げたいわけではありません。しかしここで問題になっていることは聖餐式のことだけではありません。それは事柄の矮小化に通じます。聖餐式のあの小さなパンを食べさえすればイエスさまを食べたことになるでしょうか。私はそうは思いません。そのような理解をイエスさま御自身が否定しておられます。イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われているからです。

それでは、日曜日の礼拝に出席することだけで事が済むでしょうか。それもイエスさまが否定しておられます。「パン」とは毎日食べるものの総称だからです。その意味では「命のパン」と訳すことは誤訳とは言えないとしても、やはり事柄の矮小化に通じる要素を提供してしまっていると言わざるをえません。

「命」とはライフ、すなわち「生活」です。そして「パン」は食べ物全体、すなわち「糧」です。イエス・キリストは日常生活を支える糧です。わたしたちは毎日イエスさまを自分のものとする必要があり、日々一体化すべきです。そのようにしなさいと、イエスさま御自身がわたしたちイエスさまを信じて生きる弟子である者たちに命じておられるのです。

そのためにわたしたちにできることは何でしょうか。ここから先は月並みな言い方しかできません。聖書をとにかく毎日読むことです。あるいは毎日の祈りの中でイエスさまと交わり続けることです。そのときイエスさまとの距離がゼロになります。それこそが「イエスさまを食べること」なのです。

(2009年7月26日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年7月19日日曜日

神のみわざとしての信仰


ヨハネによる福音書6・22~29

「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。』そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」

今日の個所に記されていますことは、イエス・キリストと「群衆」との間で交わされた対話の前後の様子と、その対話の内容です。対話は25節から始まります。最初に見ておきたいのは、その対話の前後の様子です。

「その翌日」(22節)とあります。何の翌日であるかははっきりしています。その日はイエスさまが大人の男性だけで五千人、また女性と子どもたちを含めれば一万人とも思われる人々のお腹を満たすために、大麦のパン五つと魚二匹を取り分けてくださり、それによってすべての人が満腹したというあの奇跡的なみわざが行われた日の翌日でした。

しかし、それだけではありません。湖の上に浮かぶ舟の中で激しい嵐に苦しんでいた弟子たちのもとにイエスさまが湖の上を歩いて助けに来てくださるというあの奇跡的なみわざが行われた日の翌日でもありました。

これら二つの出来事は間違いなく非常に驚くべきものでした。また「ほとんど信じがたい」と多くの人が感じたであろう出来事であったということも否定できません。しかし、そのことは多くの人々の前で、目に見える事実としてなされたのです。だからこそ、このように聖書に記されているのです。

しかしまた、イエスさまがなさったことは確かに驚くべき出来事であり、かつほとんど信じがたい出来事でもありました。それは明らかに、当時の人々に非常に強いショックを与えたのです。我々の目の前で何かとんでもないことが起こった。人類はこれからどうなっていくのだろうかと思うほどの衝撃を感じ、事実上のパニックの状態が始まったのです。今申し上げたようなことが「湖の向こう岸に残っていた群衆」(22節)の状況であったと考えることができるでしょう。

わたしたちなら、どうなるでしょう。私でしたら、かなりびっくりすることは間違いありません。私はパン五つと二匹の魚だけで群衆を満足させた人を見たことがありません。また水の上を歩いたという人も一度も見たことがありません。皆さんは、そういう人を見たことがあるでしょうか。ご覧になった方は教えてください。私もそのような人にお会いしてみたい。できれば一緒に写真を撮らせてもらいたいです。

おそらくこのようなものではないかと思われるのです、二つの奇跡が行われた翌日の群衆が抱いていた気持ちは。彼らはイエスさまが行われた奇跡的なみわざを目の当たりにして驚き、パニック状態にあったのです。そして彼らは、イエスさまに何とかして近づきたいと考えました。できればお知り合いになりたいと願って。握手でもしてもらいたい。人気のある人を一目見たいと思う気持ちは昔も今も変わりません。イエスさまもそのような対象として見られたのです。

ところが、イエスさまは群衆の前から立ち去られました。なぜでしょうか。逃げられたのですというと語弊が出てきますが、おそらくそういう面もあったはずです。だってそこには五千人ないし一万人もいたのですから。かたや、イエスさまはおひとりだけ。イエスさまが「群衆から離れてひとりになりたい」とお感じになったとしても、おかしくはないでしょう。

しかし、イエスさまが群衆の前から立ち去られたことには、ただお逃げになったということだけではなく、もう一つの面があったと思われます。イエスさまはそのときの群衆が抱いた気持ちの中身に対する批判的な意図というべきものをお持ちであった。そのように説明できるでしょう。

イエスさまは御自分の意思や願いで人気者になろうとなさったことは一度もなく、むしろそのようなことを非常にお嫌いになったのです。イエスさまに「先生は何が苦手でしょうか」と質問したときに返ってきそうな答えは「人からチヤホヤされることです」ということです。「あなたは偉い人だ」と言われたり、誰かから褒めそやされたりすることをとにかく苦手とされていたのではないでしょうか。そのようなことを言われれば言われるほど苦痛を感じる。そのようなことを言われるたびに「わたしが偉いのではない。わたしの父なる神が偉いのである」と反論なさっていたであろうイエスさまの姿を思い起こすことができます。

ところが、イエスさまがひとりになることを群衆は許そうとしなかったのだということが、今日の個所から分かってきます。

彼らはイエスさまを捜し回っているうちに、小舟が一そうしかないこと、しかも、その舟にイエスさまは乗っておられなかったということに気づきました。ところがイエスさまは舟にお乗りになっていなかったにもかかわらず、彼らの村にも見当たらない。それではイエスさまはどこにおられるのかということが大きな騒ぎになったようです。イエスさまは、舟にお乗りにならなかった代わりに湖の上を歩いて行ってしまわれたのです。

ですから、「湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った」(25節)とありますのは、これを書いているルカの気持ちを察すれば、人々の驚きの様子を描いたものでもあるように見えます。しかし、それと同時に、何となく呆れるというか、開いた口がふさがらないというか、そのとき何が起こったのかを理解できないというか、非常に疑わしいものと感じている人々の様子を描いたものでもあるように見えます。彼らがイエスさまに問うていることは「おやおや、今ここにおられるはずのない先生が、どうしておられるのですか。どのようにして来られたのですか。舟に乗ること以外の方法はありえないと思うのですが」ということです。驚いているというよりは、怪しんでいるのです。

しかし、イエスさまは彼らのこの問いには一言もお答えになりませんでした。そのときイエスさまがお語りになったのは、この人々に対する厳しい言葉でした。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。要するに、あなたがたはわたしに興味があるのではなく、食い意地が張っているだけだと言っておられるのです。与えられたパンと魚を食べてから時間が経ち、お腹がすいたので、新しい何かを欲しがっているだけであると。しかし「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」とイエスさまはお続けになりました。

ここではっきりと示されていることは、わたしたちの救い主イエス・キリストがこの地上の世界に来てくださった目的です。それはあなたがたに朽ちる食べ物を与えるためではなく、朽ちない食べ物、すなわち永遠の命に至る食べ物を与えるためである。そのようにおっしゃっています。

しかし「永遠の命に至る食べ物」とは具体的に言えば何のことでしょうか。またそのために「働きなさい」と言われているその「働き」とは何をすることなのでしょうか。これについてイエスさまが教えてくださったことは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)ということでした。「神がお遣わしになった者」とはイエスさまのことです。イエスさまを信じること、すなわち、信仰というわざ(神のみわざ!)を行う人々に、父なる神が永遠の命というものを与えてくださるのだと、イエスさまはお語りになったのです。

ここで注目すべき点は、イエスさまが信仰を「神の業」と呼んでおられることです。しかし、信仰とは「わざ」でしょうか。つまり、それは「働き」でしょうか。「行い」でしょうか。わたしたちは、おそらくそのように考えてこなかったと思います。わたしたちが長く聞いてきたのは、人が救われるのは、わたしたち人間の側で行うわざによるのではなく、ただ神の恵みによるのであるというふうな言葉です。信仰を「わざ」とか「行い」というような言葉で説明することには、いろんな意味で躊躇を感じてきたはずです。

しかし、ここでイエスさまが語っておられるのは紛れもなく「行い」ないし「わざ」としての信仰です。信仰とは名詞ではなく動詞であると、説明することができるでしょう。つまり、ここでイエスさまが問題にしておられるのは、「信じる」という人間の行為であるということです。あるいは「信仰者として生きること」、すなわち「信仰生活を送ること」という意味での人間の生きざまや生活態度を問うておられるのです。

このイエスさまの問いかけは、ここにいるわたしたち一人一人に対しても投げかけられています。わたしたちそれぞれに与えられている信仰というものは、絵に描いた餅のようなものにしてしまってはならず、わたしたちの生き方そのものでなければならないということです。信仰とは、その意味での行いなのです。しかも、信仰とは、神が与えてくださる恵みの賜物であるという意味での「神のみわざ」なのです。神の賜物としての信仰は、わたしたちの中で永遠に失われることはありません。わたしたちは、生涯、神を信じ続けることができるのです。

(2009年7月19日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年7月5日日曜日

湖の上を歩く


ヨハネによる福音書6・16~21

「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したところ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」

今日の個所には、先週の個所に描かれている出来事に優るとも劣らない驚くべき出来事が紹介されています。ここに描かれていますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが行ってくださった奇跡的なみわざです。嵐の中の湖に浮かぶ舟に乗っていた弟子たちのもとに、イエスさまはその体をもって赴かれたのです。その方法は何と驚くべきことに、湖の上を歩いていくというものでした。そのようなことは人間には不可能です。しかし、神の御子なる救い主イエス・キリストにはそうすることが可能だったのです。そうであるということがはっきりと分かるように、今日の個所はその出来事を紹介しています。

しかし、ある意味で当然ともいえる疑問をこの個所を読む人々の多くが感じるであろうことも否定できません。先ほども申し上げましたとおり、水の上を歩くというようなことはわたしたち人間には不可能です。わたしたちの多くが持っていると思われる少し悪い癖は、自分にとって不可能なことは他の人にも不可能であると考えたくなることです。そのようなことは絶対にありえないと言いたくなります。

しかし、人間の可能性という点だけを考えてみても、少し前までは全く不可能であると思われていたことを可能にしていく人々がいるということをわたしたちは体験的に知っています。野球のピッチャーの投げる球の速さ、陸上競技のランナーの走る速さ、自動車や新幹線や飛行機やロケットの速度、その他いろいろな例を挙げることができるでしょう。この記録、この限界を超えることは人類にはもはや不可能であると思われていたようなことが可能になる。古い記録は塗り替えられ、新しい記録がうち立てられる。そういうことはありえないかといえば、あると言わなければなりません。

ところが、今日の個所に紹介されているイエス・キリストの奇跡的なみわざを、今申し上げたような意味での人間の可能性という観点から理解しようとすることは間違いです。イエスさまという方は他の人間とは異なり、水の上を歩くことができるという特殊な能力を持っておられた人間だったのです、というようなことで、今日の個所を説明することは私にはできません。なぜなら、この個所の話はどう見てもそのような話ではないからです。イエスさまは、水の上を歩くことができなかったかつての人類の限界を超えて新しい記録を打ち立てることができた記念すべき記録保持者であるというようなことではありません。今日の個所が明らかにしていることは、そのようなことではなく全く別のこと、すなわちわたしたちの救い主イエス・キリストは、人間の肉体をまとった真の神であるということです!

神についてわたしたちが考えなければならないことは、その方は人間の可能性の延長線上におられる方ではないということです。わたしたち人間が一生懸命に努力して、他の人にはできないことができるようになって、そのような特別な能力を身に付けた人間が「神」と呼ばれるようになる。それと同じような道筋で人間と神との関係を考えていくことは、聖書を読むかぎり、不可能です。神になれない人間は努力が足りないのであって、努力しさえすれば誰でも神になりうる、というような考え方は、聖書から出てくるものではありません。

イエス・キリストが神であるという場合も、わたしたち人間にできないことがおできになるから神であるというふうに考えると、間違いを犯します。また、湖の上を歩くというような人間にはできないことをイエスさまがなさったと聖書に書かれているのを読んで、これは作り話であるとか人間の思い込みであると言いだすことももっと間違いです。神と人間は全く別の存在であるとか、全く別次元の存在であると考えるほうが、事柄に対してはるかに忠実です。このような言い方で果たして納得していただけるかどうかは分かりませんが、何はともあれ、イエスさまとわたしたちを一緒くたにすることはできないのだということを、よくよく考える必要があるのだということを申し上げておきたいと思います。

しかしまた、これから申し上げることは、これまで申し上げたことを否定するつもりで言うことでは決してありませんが、何と言ったらよいのか、もしかしたらほんの少しだけ皆さんに安心していただけるようなことかもしれません。それは次のようなことです。

あらかじめ、念のため、声を大にして言っておきたいことは、この個所に書かれていることは、イエスさまが現実に行われた奇跡的なみわざであるということなのです。しかし、この個所の中でやや強調されているとも思われることは、イエスさまが行ってくださったみわざは、弟子たちの目に見える範囲内で起こったことであるということ、別の言い方をすれば、ある意味でこれは弟子たちにとっての主観的な出来事であったということです。私が何を言いたいのかをテキストからご説明いたします。

この個所でやや強調されているとも思われること、と申し上げましたのは、このみわざが行われた場面の薄暗さ、あるいは視界の不透明さです。「夕方になったので」(16節)とありますとおり、それは夕方の出来事でした。「既に暗くなっていた」(17節)とはっきり書かれてもいます。そして「強い風」が吹き、湖は荒れていました。そのような中で弟子たちは舟に乗っていました。当然、舟は大揺れに揺れていました。雨や水しぶきが顔や体にバサバサかかってくる。目をゴシゴシ吹いても、また風や水が吹き付けてくる。つまり、わたしたちが想像してもよさそうなことは、このときの弟子たちの視界は限りなくゼロに近かったであろうということです。

しかし、その続きに書かれていることは、そのような視界ゼロ状況の中で弟子たちの目に見えたのがイエスさまのお姿だったということです。「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て」(19節)とあります中の「見て」という言葉が、とても重要な意味を持っています。この「見る」(テオレオー)には肉眼で見る、観察するなどの字義どおりの意味に加えて、心で感じるとか気づくという意味があります。このような説明をすることにおいて私が言いたいことは、このときイエスさまは実際には水の上を歩いてなどおられなかったのだが、弟子たちの目にはそう見えたのだとか、歩いてこられているような気がしたのだ、というようなことではありません。そういうふうに誤解されますと、本当に困ります。それは全くの誤解です。

しかし、それは誤解であるということをご理解いただいた上でなお申し上げたいことは、この個所で強調されていることは、イエスさまが実際に水の上を歩いておられたかどうかということ、すなわち、それが客観的な事実であったかどうかという側面よりも、むしろそのとき弟子たちの目にイエスさまのお姿が「見えた」という彼ら自身の内面的な感覚、すなわち、この出来事の主観的な側面のほうであるということです。

私は今、なんだかややこしいことを言っているという自覚があります。ですから分かりにくい点はお詫びしなければなりません。しかし、このようなことを丁寧に考えていくことが今日の個所を理解するために重要であると思うゆえに、申し上げているつもりです。どのような例を挙げれば、すっきり理解していただけるでしょうか。私に思いつくのは、親子の関係です。

私が二人の子どもの父親であるということは客観的な事実です。しかし、そのことと、二人の子どもたちが私を「父親である」と認めること、別の言い方をすれば、私が子どもたちにとって「父親らしくある」ということを子どもたちが受け入れてくれるということとは別問題であると言わねばならないはずです。

あるいは、牧師と教会の皆さんとの関係にも、それと似ている面があるでしょう。私が松戸小金原教会の牧師であるということは現時点での客観的な事実です。しかしそのことと、皆さんが私を「牧師である」と認めてくださること、すなわち皆さんにとって「牧師らしくある」かどうかは別問題であると、私は強い反省をこめて自覚しております。

それと同じように、と言うことをお許しいただけるでしょうか。イエスさまが水の上を歩かれたことは客観的な事実であるということをわたしたちが信じることは、重要です。しかし、ある意味でそれよりももっと重要なことがある、それは、その客観的事実を弟子たちが「見た」ということ、すなわち、わたしたちのためにイエスさまは嵐の中を歩いて来てくださっていると“信じることができた”ということなのだ、ということです!

つまり、私が申し上げたいことは、この個所で話題になっていることは、イエスさまが持っておられる特殊能力ということではなく、むしろイエスさまと弟子たちの“信頼関係”であるということです。

逆のことを考えてみると、ぴんと来るものを感じていただけるかもしれません。わたしたちはこんなに苦労しているのに、もしかしたら今にも死ぬかもしれないと感じるほどの危険にさらされているのに、イエスさまは、陸からわたしたちの姿を傍観しているだけ。かろうじて大きな声で「大丈夫か~」と呼びかけてくれているようではあるが、薄暗がりの中、暴風雨の中、揺れる舟の中で、その声は届かない。そのうち姿も見えなくなった。結局イエスさまは、わたしたちに何もしてくださらない。そのように感じるような状況に弟子たちが置かれていたならば、いくらイエスさまを救い主として信じなさいと言われても、信じようがないということになりはしないでしょうか。

しかし、イエスさまは、そのようなお方ではなかったというのが今日の個所の主張です。暗闇であろうと、底深い湖であろうと、嵐であろうと、そのようなものは、イエスさまと弟子たちの信頼関係を妨げるものではありえない。そんなものはイエスさまが乗り越えてくださる。水の上を踏みしめて、このわたし、わたしたちのもとまで一直線に助けに来てくださる。弟子たちの目にそのようなイエスさまの姿が「見えた」こと、それが何よりも彼らの救いだったのです。

そして、彼らはイエスさまの声を聞きました。「わたしだ。恐れることはない」(20節)。嵐の中で、人の声も鳥の鳴き声も聞こえないようなぐしゃぐしゃの雑音の中で、彼らの耳に、救い主の声がはっきりと聞こえたのです。

これと同じ出来事は、ヨハネによる福音書以外に、マタイによる福音書(14・22~27)やマルコによる福音書(6・45~52)にも紹介されています。しかし、ヨハネによる福音書に“書かれていないこと”が一つあります。それは、湖の上を歩いてこられたイエスさまが弟子たちの舟の上にお乗りになったかどうか、です。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」(21節)。彼らがイエスさまを舟に迎え入れる前に、陸に着いたかのように書かれています。つまり、ヨハネに従えば、イエスさまは、最初から最後まで、湖の上を歩きっぱなしだったのです!

これが何を意味するのかを私は答えることができませんが、非常に意味深長であることだけは間違いありません。

(2009年7月5日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年7月3日金曜日

『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』が発売されました

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『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』(アジア・カルヴァン学会日本支部編・久米あつみ監修、キリスト新聞社、2009年)が7月3日(金)に発売されました。



本書の英語タイトルは以下のとおりです。
Taking a New Step - Calvin Studies in the Quincentenary of his Birth.
 Japanese Association of Asian Congress on Calvin Research (Kirisuto Shimbun, 2009)



ここ(↓)から注文できます。
http://www.kirishin.com/2009/07/500-1.html



『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』目次



*アジア・カルヴァン学会の始まったころ (渡辺信夫)
*聖書解釈と説教-カルヴァンの聖書解釈論の考察 (野村 信)
*カルヴァンの聖餐論 (ヴィム・ヤンセ)
*カルヴァンのレクイエム(吉田 隆)
*カルヴァンにおける人間的なるものの評価 (関口 康)
*カルヴァンとロヨラ-二つの教育改革 (久米あつみ)
*16世紀後期のルター派、ツヴィングリ派、カルヴァン派における「獣」の解釈 (イレーナ・バッキュース)
*研究ノート/16世紀宗教論争の言語的脈絡 (竹下和亮)
*セバスティアン・カステリョによる異端迫害批判の神学的論拠について (鈴木昇司)



【A5判/ハードカバー/250頁/定価2625円】です。



また、今年は以下のようなカルヴァン関係の新刊が予定されています。「カルヴァン年」にふさわしい、怒涛の出版ラッシュです。自信をもってお勧めできる本ばかりです。



カルヴァン生誕500年記念出版物一覧



1月○『キリスト教綱要 改訳版』第4篇 カルヴァン著(渡辺信夫訳 新教出版社)
3月○『カルヴァン論争文書集』カルヴァン著(久米あつみ編訳 教文館)
4月○『リフォームド神学事典』ドナルド・K. マッキム編
     (石丸 新、村瀬俊夫、望月 明監修 いのちのことば社)
5月○『牧会者カルヴァン 教えと祈りと慰めの言葉』エルシー・A・マッキー著
      (出村 彰訳 新教出版社)
    ○『祈りについて 神との対話』カルヴァン著、I. J. ヘッセリンク編・解説
      (秋山 徹、渡辺信夫訳 新教出版社)
    ○『信じるということ 上 ハイデルベルク信仰問答を手がかりに』
     A. ラウハウス 著(菊地純子訳 教文館)
6月○『ジュネーブの議会と人びとに宛てたヤコポ・サドレート枢機卿の手紙×
      ジャン・カルヴァンの返答』ヤコポ・サドレート、ジャン・カルヴァン著
      (シリーズ「宗教改革の焦点」01 石引正志訳 一麦出版社)
    ○『出村彰宗教改革論集』全3巻(新教出版社)
    第1巻『カルヴァン 霊も魂も体も』 第2巻『改革派教会とその遺産』
     第3巻 未定
7月○『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』
      (アジア・カルヴァン学会日本支部編、久米あつみ監修、キリスト新聞社)
   ○『カルヴァンの生涯 上 西洋文化はいかにして作られたか』
      アリスター・E. マクグラス著(芳賀 力訳 キリスト新聞社)
   ○「カルヴァン特集」『礼拝と音楽』日本基督教団出版局
   ○『カルヴァンの教会論』増補改訂版 渡辺信夫著(一麦出版社)
   ○『「キリスト教鋼要」を読む人のために 7行で読むカルヴァン』フォード・ルイス・バトルズ著
      (金田幸男・高崎毅志訳 一麦出版社)
秋頃○『エフェソ書説教集(仮題)』カルヴァン著
          (アジア・カルヴァン学会編訳 キリスト新聞社)
      ○『改革派教会信仰告白集』全6巻 別巻1(大崎節郎編 一麦出版社)
11月○『カルヴァンの生涯 下』アリスター・E. マクグラス著
         (芳賀 力訳 キリスト新聞社)
12月○『カルヴァン書簡集』カルヴァン著(久米あつみ編訳 新教出版社)
冬頃○『カタリーナ・シュッツ・ツェル ある16世紀宗教改革者の生涯と思想』
      エルシー・アン・マッキー著(芳賀繁浩訳 一麦出版社)
    ○『信じるということ 下 ハイデルベルク信仰問答を手がかりに』
           A. ラウハウス 著(菊地純子訳 教文館)



(※タイトル・出版時期等は変更される可能性があります。)