2009年6月28日日曜日
イエス・キリストと共に生きる豊かさ
ヨハネによる福音書6・1~15
「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」
今日の個所に紹介されている出来事は、新約聖書においては、このヨハネによる福音書以外の三つの福音書のすべてに出てくるものです。すなわち、それは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、御自身のもとに集まった大勢の群衆が満足することができた豊かな食べ物をふるまわれたという、とてもありがたい出来事です。
イエスさまは弟子たちの前ですでに、次のようにお語りになっていました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(4・32)。それを聞いた弟子たちが「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言ったところ、イエスさまは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とお話しになりました(4・33~34)。
これで分かる一つのことは、イエスさまにとっての「食べ物」とは何を意味するのかということです。神の御子なるイエス・キリストをこの地上の世界へとお遣わしになった方とは、イエス・キリストの父なる神のことです。「神の御心」とは、神がこの地上の世界に生きている人々を何とかして罪と悪と死の支配のもとから救い出してくださろうとする、強いご意志です。短く言い直せば、神の御心とはわたしたち人間を救うことです。その神の救いのみわざがこの地上で行われること、すなわち、その救いのみわざを神の御子なるイエス・キリストが父なる神の御心に従って成し遂げることこそが、イエス・キリストの食べ物であると言われたのです。
ここで考えさせられますことは、イエスさまという方はどんなものを食べて生きておられたのだろうかということです。わたしたちのキリスト教信仰に基づいて言いますならば、イエス・キリストという方は、まことの神であられると共に、まことの人間でもあられる方です。そうだとすれば、イエスさまがわたしたち(普通の)人間と同じものをお食べになっていたとわたしたちが語るとしても、それが間違っているというわけではありません。パンも魚も、もちろん野菜や肉も、きっとお食べになったでしょう。そのようなものを、イエスさまは全くお食べにならなかったというふうに考える必要はありませんし、また、わたしたちがそのようなものを食べながら生きていることは間違っていると考える理由も全くありません。
しかし、先ほど触れました「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(4・31)というイエスさまの御言葉を読みながら、またわたしたちが今日開いている聖書の個所を読みながら私が考えさせられることは、わたしたち自身もまた、パンや魚、野菜や肉だけを食べて生きているのかといえば、それだけであると語ることはできないだろうということに他なりません。
繰り返し申せば、イエスさまの食べ物とはこの地上の世界に生きている人々が救われることです。ここで地上の人々とは、わたしたちのことです。わたしたち人間のことです。わたしたち人間が救われるということが、なぜイエスさまの「食べ物」なのでしょうか。その意味は、おそらく、それがイエスさまの生きる喜びや楽しみという点と結びつく何かであると思われます。
あるいは、もっと突っ込んでいえば、生きる目的や目標という次元に触れることであるとも言えるでしょう。食べることが生きる目的であると私が申し上げますと、皆さんの中には抵抗を感じる方がおられるかもしれません。「わたしは食べるために生きているわけではない」と強く反論なさる方がおられるかもしれません。しかし、現実のわたしたちの姿は、人生のうちのかなりの時間、あるいはかなりの力を食べることのために注いでいると言わざるをえません。違うでしょうか。
もちろん、自分一人のことだけを考えれば、食べることなど人生の中で大した問題ではないと言いたくなる面もあることは、私にも理解できます。しかし、家族のこと、あるいはもう少し視野を広げて社会のことや世界全体のことを考え、その人々を食べさせること、すなわち、命を支え、育み、養うことを真剣に考えはじめるならば、食べることなどどうでもいいことであるというような突き放した考え方はできなくなるはずです。
少し厳しい言い方をお許しいただくならば、食べることなどどうでもいいことだと言いだす人々は、自分のことにしか関心がないのです。自分と共に生きているすべての人々のことに少しでも関心を持つ人々は、食べること、いえ、食べさせることは、わたしたちが生きているこの地上の世界において最も重要な事柄に属しているのだということに気づくのです。
しかしまた、ここでこそ問題になることは、わたしたちは何を食べるのか、あるいは何を食べさせるのかという点です。イエスさまが「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃったその食べ物とは何なのかです。問い方を換えるなら、人を救うこと、助けること、すなわち、苦しみや悲しみの只中にいる人々に喜びや楽しみを与えるという目的のために必要なものは何なのかです。それはパンや魚、野菜や肉だけでしょうか。もちろんそれもものすごく大切な要素です。しかし、おそらくそれだけではないでしょうということをわたしたちは真剣に考える必要があるということを、私は今日の個所を読みながら深く思わされるのです。
イエスさまは大勢の群衆が御自身の方へ来るのをご覧になったとき、弟子の一人であるフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか」と言われましたが、この質問は「フィリポを試みるため」(6節)であったと、記されています。ここで注意しなければならないことは、聖書の中で「試みる」という字が用いられているとき、ほとんどの場合は悪い意味であるということです。有名なのは、サタンと呼ばれる悪魔がイエスさまを「試みた」というこの言葉の使い方です。その意味はもちろん「試す」ということです。テストすることです。しかしそこから派生して、罠にはめるとか、窮地に追い込むとか、落とし穴に陥れるというような意味を持ちはじめます。
イエスさまは御自分の弟子に罠を仕掛けて窮地に追い込む悪魔のような方なのでしょうか。もちろんそういう話ではありません。しかし重要なことは、イエスさまはフィリポにとっての教師であり、フィリポはイエスさまの生徒であるということです。教師が生徒に試験を課すこと、それはどこでも行われていることであり、しなければならないことです。それが教師の義務であり、責任です。わたしが教えてきたことをあなたがたが正しく理解しているかどうかを調べること、そしてわたしが教えたことをもしあなたがたが間違って理解していることが分かったときには正しく教え直すこと、それが教師の務めなのです。
このときフィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金に相当します。二百デナリオンはその二百倍です。これをわたしたちの「二百円」と換算する人もいますし、「二百万円」と換算する人もいます。どちらが正しいかを判断するのは難しいことですが、フィリポの意図は明らかに少し多めに言っているはずです。そこにいた群衆は(大人の)男性だけで五千人もいたというのです。女性と子どもを合わせれば一万人はいたでしょう。こんなに人がいるのだから二百デナリオン分のパンでも足りないでしょうとフィリポは言っているのですから、いくらなんでも「二百円」ということはありえない。「たとえここに二百万円あっても、一万人の人々で分けると一人たったの二百円ですよね」と言っていると考えるほうが近いでしょう。
しかし、このフィリポの答えは、イエスさまの出されたテストには不合格のものでした。そのように言って間違いありません。なぜならイエスさまは、フィリポの提案に対しては何もお答えにならない仕方で、事実上無視される仕方で、もう一人の弟子であるアンデレが探してきた「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」のほうをご覧になり、その少年が持っていたものだけで、五千人とも一万人とも考えられる群衆を満足させるほどの食べ物をお与えになるという奇跡的なみわざを行われたからです。
このような話を読んだり聞いたりしますと、わたしたちは、必ず、このようなみわざをイエスさまはどのような方法でなさったのかということに関心を抱きます。そしてその次に考えることは、このようなことは現実には無理である、ということでしょう。しかし、ここでこそ気づく必要があることは、わたしたちがそのような考えを抱きながらこの個所を読んでいるときには、フィリポと同じように、イエスさまのテストに合格していないということです。すなわち、イエスさまがおっしゃる「食べ物」とは何のことなのかという点を正しく理解できていないということです。
イエスさまがどのような方法をお用いになったのかは、わたしたちには分かりません。わたしたちに分かることは、そこにいたすべての人々がイエスさまから確かにいただいた「食べ物」によって満足したという、その事実だけです。そのときイエスさまがなさったことは、イエスさま御自身の言葉を用いて言いますと、「わたし(イエス・キリスト!)をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」というイエスさま御自身の食べ物をそこにいた多くの人々に分け与えられるというみわざであったということです。つまり、そこにいた人々は、イエスさまによって、たしかに「救われた」のです!
もしそのとき弟子たちの手に二百デナリオンあり、一人二百円ほどのパンを群衆に配ることができたとしても、その食事会は一瞬のうちに終わります。二時間か三時間の後には忘れられてしまうような、まさに一瞬の楽しみです。
しかし、イエス・キリストが与えてくださる「食べ物」には、永遠の価値があります。イエスさまと共に生きる人生には、神の恵みが豊かにあふれているのです!
(2009年6月28日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年6月21日日曜日
聖書はイエス・キリストを指差している
ヨハネによる福音書5・41~47
「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
先週学びましたことは、イエス・キリストが救い主であることの証拠を示すものは四つあるということでした。そのように、イエス・キリスト御自身が説明しておられました。第一は父なる神による証し、第二は人間による証し、第三はイエスさま御自身が行われたみわざによる証し、第四は聖書による証しでした。
そして私は、これら四つの証拠がすべて揃っているのは教会だけであるとも申しました。この地上に教会が存在し続けるかぎり、まさに教会自身が「イエス・キリストは救い主である」ということを証言し続けるのです。
ただし、第二に挙げられている人間による証しという点については、いくらか消極的に取り上げられているとも申しました。そのことが今日の個所の冒頭に繰り返されています。「わたしは人からの誉れは受けない」。
ここで言われている「人」ないし「人間」とは、直接的にはイエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことを指しています。しかし、これをヨハネ一人だけのことにしてしまう必要はありません。わたしたち自身も含まれていると考えるべきです。その場合の「わたしたち」とは、イエス・キリストを真の救い主と信じて生きているわたしたちです。それはわたしたちキリスト者のことです。あるいは、キリスト者の集まりである教会のことです。
しかし、間違ってはなりません。人間による証しの意味そのものは否定することができません。わたしたち人間がイエス・キリストを証しするとは、わたしたちが「イエスさまは救い主である」ということを理論的または科学的に証明するという意味ではありません。イエス・キリストというお方は、わたしたちが証明しなくても救い主であられるのです。イエス・キリストは人間の誉れを受けられません。すなわち、イエスさまは、わたしたち人間によってほめたたえられなくても、真の救い主キリストなのです。
しかし、このことには別の見方がありえます。イエスさまが救い主であるということは、なるほどたしかに、人間が理論的に証明してみせることではありません。イエスさまは、誰が何と言おうと救い主なのです。しかし、それではわたしたち人間には果たすべき役割は何も無いのかと言えば、決してそうではありません。
わたしたちにも果たすべき役割があります。それはイエス・キリストの救いにあずかることです。すなわち、救い主であるイエス・キリストによって救われることです。そして救われた者としての人生を送ることです。感謝して、喜んで、イエスさまと共に生きることです。
そしてまた、同時にそれは、イエスさまの教えに従って生きることをも意味しています。イエスさまの教えに従うとは、神を愛し、隣人を愛することです。
そして、神への愛と隣人への愛とが同時に教えられているのは、旧約聖書の律法です。なかでもモーセの十戒です。ご承知のとおり、モーセの十戒の前半部分である第一戒から第四戒までに教えられているのが、神への愛です。また後半部分である第五戒から第十戒までに教えられているのが、隣人への愛です。イエスさまの教えに従うことと旧約聖書の律法、とくにモーセの十戒に従うことは、同じことなのです。
それはわたしたちにもできることです。しかし、今申し上げたその「できる」の意味は、完璧にできるということではありません。わたしたちは、神を愛することと隣人を愛することとを完璧に行うことができるわけではありません。けれども、とにかく愛し始めることはできます。あるいは、「愛します」と決心することはできます。愛そうと努力することもできます。
愛することの反対は、憎むことです。「憎みません」と決心することもできます。現実のわたしたちの心には繰り返し憎しみがよみがえって来ることばかりです。「ああ、また私の心に憎しみが湧いてきている」と気づくことができます。その憎しみの心を毎日のように打ち消しながら、あるいは打ち消そうと努力しながら生きることが、わたしたちにできるのです。
ですから、大切なことは、わたしたちがそういう人間になることです。神を愛することも、隣人を愛することも、全く考えたこともない。心の中に湧きあがってくる憎悪の念を燃えあがるままに放置し、自分の火に自分で油を注ぐ。そのような人間であることを意識的にやめること、やめようとすることが重要なのです。
わたしたちがそういう人間になること、あるいはそういう人間であろうとすることは、救い主イエス・キリストの教えに従って生きることと同じことです。すなわち、救い主によって救われた者として生きることと同じなのです。そして、それこそが、わたしたちが救い主を救い主として認めることであり、まさに証しすることです。イエス・キリストが救い主であるかどうかは理論的に証明されるべきことではなく、わたしたちの日々の実践によって示すべきことなのです。
ところが、今日の個所でイエスさまが鋭く指摘しておられることは、あなたたちはそれができていないということです。ここで「あなたたち」とは、直接的には当時のユダヤ人たちのことです。しかしまた、わたしたちはこの話を、ただ単に歴史的な視点に立って、当時のユダヤ人たちのことだけに当てはまるものであるというふうに限定してしまうべきではないでしょう。わたしたち自身、このわたし自身にも当てはめて考えるべきでしょう。それがこの個所の正しい読み方であると思われるのです。
「あなたたちの内には神への愛がない」。これは、モーセの十戒の前半部分の第一戒から第四戒までの教えをあなたがたは守っていないという意味になります。そしてそのことの証拠は、この続きに言われている点です。「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない」。
このわたしイエス・キリストは、父なる神の御子として、父なる神の名によって地上に遣わされてきた救い主であるにもかかわらず、あなたたちはこのわたしを受け入れない。わたしの教えを実践することもない。あなたたちはモーセの十戒を正しく守ろうともしていない。十戒の核心部分である「神への愛」を、あなたたちは実践していないではないか。それは、わたしの父である神と、この方の御心を受け入れていないのと同じことなのだと、イエスさまは鋭く指摘しておられるのです。
それではイエスさまの願いは何なのでしょうか。それは、すでに先ほどから何度も繰り返し申し上げていることです。イエスさまの願いは、わたしたちが神と隣人を愛する者になることです。モーセの十戒を実践する者になることです。それがキリスト教なのです。キリスト教的に生きること、あるいはキリスト者として生きることなのです。
しかし、この点は、必ずしもすべてのキリスト教会が一致して告白していることであるとは言えない部分であることも否定できません。わたしたち改革派教会は、この点を重んじてきました。キリスト教的に生きること、キリスト者として生きることとモーセの十戒を実践することとは、矛盾しないばかりか一致していることであり、あるいは事実上同じことであると、わたしたち改革派教会は、16世紀のカルヴァン以来、告白してきました。わたしたちは、そのように告白しつつ、まさにそのように実践することを重んじてきたのです。
たとえば、わたしたちは、神さまから愛されているということ、あるいは神さまに罪を赦していただいているということだけで満足しません。それは受け身の信仰です。神さまから貰うことばかりです。しかし、それは聖書の教えではありません。聖書が教えていることは、わたしたちもまた神を愛さなければならないということであり、隣人を愛さなければならないということです。恵みを受けた者は、それを与える者にもならねばならないということです。そして「受けるより与えるほうが幸いである」というイエスさまの教えを喜んで受け入れ、それを実践すること、それが重要なのです。
そして、そのように生きる人の姿、その存在がイエス・キリストを証ししていることになるのです。なぜならイエス・キリストは愛に満ちたお方だからです。
イエス・キリストの弟子たちは、イエス・キリストの愛の模範に習う必要があります。わたしたちに求められていることは、イエスさまが実践なさったように愛することです。イエスさまのお考えを聞いて記憶することだけではなく、イエスさまの生きざまを真似ることこそが求められているのです。重要なことは頭の中の思想ではなく、体を用いた行為です。目に見えない空想次元の事柄だけではなく、目に見える現実の姿が重要なのです。
ところが、このように教えるイエスさまのことをユダヤ人たちは迫害しました。ユダヤ人たちにとって、イエスさまは彼らの立場に反する存在であると感じられたからでしょう。しかし、それは何を意味することになるでしょうか。神を愛し、隣人を愛することを教えられたそのイエスさまの姿が、彼らの立場に反する。ということは、彼らは神を愛することも隣人を愛することもしていなかったし、する必要がないと考えていたし、そのように教えていたのではないかと考えざるをえないのです。
しかし、ここで単純な言い方をお許しいただきたいのですが、「神も隣人も愛さない宗教」とは一体何なのでしょうかと問わざるをえません。あまりにも悲しすぎます。宗教の風上にも置けない!存在の意義すらないものです。
わたしたちが知っていることは、愛されている人は喜んでいるということです。まともに愛されたことがない人は、必ずどこか憂鬱な顔をしています。「神さまに愛されれ
それでよい。人間などに愛してもらわなくても結構」と思っている人もいるかもしれません。そのようにおっしゃる方の立場は最大限に尊重しなければなりませんし、余計なお世話であると言われてしまうかもしれません。しかし、あえて言わせていただきますと、どこか寂しそうでもあります。「人からも愛されたい」。それがわたしたちの素朴で率直な思いではないでしょうか。
キリスト者になることと、愛する人になることとは、同じことなのです。それが聖書の教えであり、イエスさまの教えであり、わたしたち改革派教会が信じてきたことでもあるのです。
愛されたいのなら愛しましょう。「わたしは寂しい」と嘆く前に、愛を実践しましょう。それは大事なことなのです。
(2009年6月21日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年6月14日日曜日
教会はイエス・キリストを指差している
ヨハネによる福音書5・31~40
「『もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。』」
今日の個所に何度も繰り返されている言葉があります。それは「証し」という言葉です。「証し」とは何のことでしょうか。この問いをまず最初に取り上げておきたいと思います。
それは要するに、わたしたちの救い主イエス・キリストがまさに「救い主」であることを示す証拠です。あるいは、そのことを証明するために持ち出されるものです。そのように説明することができるでしょう。
今申し上げました私の説明の前提にありますことは、イエスさまが果たして本当に救い主であるかどうかということは、少なくとも当時の人々の間では、必ずしも明らかなことではなかったということです。もっとはっきり言えば、そのことを信じる人々は少なく、むしろ疑う人々のほうが多かったということです。
ですから、証拠を示すこと、あるいは証明されることが、どうしても必要だったのです。信じることができない人々、疑うことしか知らないような人々を前にして、このイエス・キリストというお方は本当に救い主であるということを信じてもらうために何らかの証拠を示す必要がありました。その証拠ないし証明こそが「証し」なのです。
しかも、このようなことをここでイエスさま御自身が語っておられるという点がとても重要です。批判的な見方をする人々が感じることは、「わたしは救い主である」などとあのイエスという人がただ自分自身で言い張っているだけだというようなことでしょう。そのような自分自身で言い張っているだけのようなことを誰が信じることができようかと見るのだと思います。
そしてそのような批判的な見方があるということをイエスさまはご存じでした。だからこそ、そのことを次のように言っておられるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。
もしかしたらわたしたちも、今申し上げた批判的な見方の持ち主とほとんど同じような感覚を持っているかもしれません。たとえば、わたしたちの目の前にいる誰かが突然手を挙げて、「あのー、実は私が救い主です」と言いだしはじめたとしたら、どうでしょうか。おいそれと信じることはできず、反発ばかりを感じるのではないでしょうか。
しかし、ここでいちおう理屈の上で言っておきたいことがあります。それは、もしその人が本当に救い主である場合には、たとえその人自身がそのように言い張ったとしても、それは必ず間違いであるというふうには、だれも言えないはずだということです。
私は今、ややこしいことを言っているでしょうか。たとえば、私は日本人です。その私が皆さんの前で「私は日本人です」と自己紹介をすることが間違っているわけではありません。それと同じことを申し上げているだけです。
イエスさまは、わたしたちの救い主です。そのイエスさまが「私はあなたがたの救い主です」と御自分でおっしゃることが間違いであるということは、理屈としてはありえないことです。何一つ間違っていません。むしろ、全く正しいことです。
ところがイエスさまは、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」とおっしゃっているわけです。つまり、何一つ間違っておられないことを「真実ではない」とおっしゃっているわけです。ですから、そのようにおっしゃるイエスさまの意図を考えなければなりません。
考えられることは、イエスさまは、批判的な見方をする人々の見方を強く意識しておられるのだということです。イエスさまは、わたしがそれを自分で言ったとしても、あなたがたは、それを真実として受け入れることはないだろうと言っておられるのです。そして、あなたがたがそれを真実として受け入れることができないようなことは真実ではないのだと、イエスさまは、言っておられるのです。
この点は私にとってはたいへん興味深いものです。私の仕事は、聖書の御言葉を説教という手段を通して皆さんにお伝えすることです。説教者の務めは、「聖書に書かれていることは真実である」ということを、ただ一方的に言い張ることだけで終わってよいものではありません。説教の目標は、聖書に書かれていることは真実であるということを、皆さん自身が受け入れ、信じるところまでです。「客観的か主観的か」という概念を持ち込むことをお許しいただくなら、聖書に記されている客観的な言葉が、皆さんの心の中の主観的な言葉になるまでが、説教者の仕事なのです。
イエスさまがおっしゃっていることは、いわばそれと同じことです。イエスさま御自身の関心は、「このわたしが救い主である」といういわば客観的な事実が、どうしたらあなたがた自身の主観的な真実になるのか、という点にあります。つまり、イエスさま御自身の関心ないし目標は、「イエス・キリストはこのわたしの救い主である」とわたしたち自身が告白することができるようになるためにはどうしたらよいのか、という点にある。そして、そのために、このわたしはあなたがたに対して、どのような「証拠」(これが「証し」)を挙げれば、そのことをあなたがたに信じてもらえるのだろうかという話を、イエスさまはなさっているのです。
少しはお分かりいただけたでしょうか。ますますややこしくなったでしょうか。かなり心配しながらではありますが、ともかく話を先に進めていくことにします。
今日の個所に出てくる「証し」には、大きく分けると四種類の証しがあるということを申し上げなければなりません。
第一は、今まで申し上げてきた点に関連して言われていることです。「わたしについて証しをなさる方は別におられる」(32節a)というこの点です。イエス・キリストが救い主であるということの証明を、イエス・キリスト御自身ではなく別の方、すなわち、イエス・キリストの父なる神が示してくださるのだということです。つまり、第一の証しとは父なる神の証しです。「その方がわたしについてなさる証しは真実であるということを、わたしは知っている」(32節b)とイエスさまはおっしゃっています。
第二の証しは、ヨハネの証しです。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした」(33節)と言われているとおりです。
この「ヨハネ」とは、イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネのことです。そして、ここで重要なことはヨハネは人間であるという点です。つまり、ヨハネの証しとは人間の証しであるということです。そして人間の証しとは、誰か人間がイエス・キリストを指差して「この方は救い主である」と証明することです。ところが、イエスさまはこの意味での人間の証し、または新共同訳聖書の訳語を借りると「人間による証し」(34節)は「受けない」とおっしゃっています。イエスさまは御自分が救い主であるということを、誰か人間に証明してもらう必要はないとおっしゃっているのです。
この点も、わたしたちにとって、とても重要です。誤解を恐れず言えば、わたしたちもイエスさまが救い主であるかどうかを証明する必要は全くありません。そのような証明はイエスさまにとっては要らぬお世話なのです。
加えて言えば、たとえばイエスさまがそれをなさったと聖書に記されている奇跡的なみわざのすべて、あるいは、イエスさまが処女マリアからお生まれになったとか死者の中から復活なさったということのすべては歴史的で客観的な事実として本当に起こったことなのだというようなことを、わたしたちが現代の科学的な知識を用いて証明してみせるというようなことも不必要です。そのような証明を行うことができるのは人間ではなく、神だけであるというこの点が重要なのです。
しかしまた、それではヨハネの証しは全く意味がなかったのかと言うとそうでもなく、ある一定の役割を果たすものであったということを、イエスさまが評価しておられる言葉も加えられてはいます(34節b~35節)。しかし、そのヨハネの証しにまさる証しがわたしにはあると、明言しておられます(36節a)。
第三の証しとは、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのもの」(36節b)です。これが「父がわたしをお遣わしになったこと」、すなわち、イエス・キリストは父なる神のもとから地上に遣わされた真の救い主であるということを証ししていると言われています。つまり、第三の証しとはイエスさまの地上におけるお働きのすべてです。
「実を見て木を知る」というイエスさまの有名な御言葉を思い起こすことができるでしょう。「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(マタイ15・18)。イエスさまとしては、このわたしが多くの人々の前でその人々のために行っているわざを見てほしい、それを見ればこのわたしが救い主であるかどうかが分かるはずだ、それこそが「証明」であると、おっしゃっているのです。
最後となる第四の証しとは、聖書の証しです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(39節)と言われているとおりです。ここでイエスさまがおっしゃっていることは、要するに、とにかく聖書を読んでくださいということです。そのことに尽きるのです。
ただし、先ほど申しましたとおり、聖書に書かれていることは真実かどうかということを、わたしたち人間が、たとえば科学的に証明してみせるというような必要はありません。そのようなやり方は聖書に対する要らぬお世話です。聖書の中に科学的な矛盾点や疑問点を見つけて一喜一憂する必要もありません。はっきり言えば、聖書に記されていることが真実であるかどうかは、科学的に矛盾がないかどうかという点とは全く関係ないのです。むしろ、聖書というこの書物は、イエス・キリストは救い主であるということを証明するものであるかどうかというその一点だけにかかっていると言っても過言ではないのです。
以上、四つの証しの内容を見てきました。第二に挙げられた「人間の証し」については消極的に扱われていました。しかし完全に否定されるべきものでもありません。ヨハネもまた一定の役割を果たしたのです。ですから、イエスさまが挙げておられるのは三つの証しではなく四つです。父なる神、人間、イエスさまのみわざ、そして聖書。この四つが「イエス・キリストは救い主である」ということを証明しているのだと言われているのです。
そして私が最後に申し上げたいことは、この四つすべてが揃っている場があるとしたら、それは「教会」だけである、ということです。「教会」の存在こそが、イエス・キリストが救い主であることを証明しているのです!
(2009年6月14日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年6月10日水曜日
贅沢な孤独
今週は、どうしてでしょうか、四分休符か八分休符くらいの小さな安堵感を得ています(かろうじて息継ぎができる程度です。ここしばらくは無酸素運動のような状態が続いていました)。
「カルヴァン生誕500年記念集会」(2009年7月6日、会場・東京神学大学)の開催まで残り一ヶ月を切りました。参加希望を申し込んでくださる方々からのメールの着信音と電話とファックスは今日も朝から鳴りっぱなしです。その対応に追われてはいます。もちろんこのことだけではなく、やらなければならないことが他にもたくさんあります。
しかしそれでも、心が穏やかです。ドーパミンがきちんと分泌されているようだとでも評すべきでしょうか、脳機能が比較的正常であると感じられます。「やる気」が新たに発生しています。ありがたいことだと感謝しています。
電話とファックスの音はともかく、メールの着信音は鳴らないように設定できます。そうしている時も多いのですが、まるで馬鹿みたいですが、着信音を聞きたくなることが時々あります。もしかしたら年齢のせいもあるのでしょうか、むしょうに「寂しい」と感じることがあるのです。
このところ、子どもたち(中3男、小6女)は学校と塾と習い事とに忙しくしていますし、妻はPTAの活動と県の民生委員(児童委員)の仕事、また保育園と児童福祉施設での保育士としての勤務で忙しくしていますので、私は昼も夜も一人でいることが多くなりました。妻子が必死で頑張っている最中に「寂しい」とか口走ることは不謹慎極まりないことですので、そういうことはなるべく考えないようにしていますが、家庭内の状況が大きく変わってきたことを実感しています。しかし、わたしたち家族はいつも励まし合って明るく生きています。
ついでに言えば、2006年7月に我々が日本キリスト改革派教会の第六の中会として「東関東中会」を設立した動機の中の最も大きな要素の一つが、牧師たちには各個教会での働きにもっと集中してもらおうではないかということでした。その意図は、「中会の仕事が忙しすぎる」というような(けしからん?)ことを理由にして牧師たちが自ら仕える各個教会での働きを疎かにすることがないように、中会の規模と機能を小さくしようではないかというものでした。
これが見事に実現しました。以前と比べれば、私は明らかにヒマになりました。中会のナントカ委員会でバタついていたかつての喧噪の日々が、遠い過去の記憶になりました。今年度は、中会の伝道委員長の仕事を一つ任されているだけです。
この面では「寂しい」と感じることが、実は時々あります。東関東中会設立に反対していた人々がおっしゃっていた「どんな組織にもスケールメリット(規模効果)というものが必要である。小さい中会など作ったところで、それにどんなメリットがあるのかが理解できない」という言葉を思い起こし、「たしかにそういうことも言えるなあ。あの人たちが言っていたことを、もっときちんと聞いておくべきだったかなあ」と自嘲の笑みを浮かべる日もあります。
しかし、決して忘れてはならないと思うことは、今の私が時々感じる「寂しさ」は、我々東関東中会の者たちが強く望んで獲得したものであるということです。もっとはっきり言えば、大げさでも何でもなく、我々が命がけで獲得した「価値ある寂しさ」であり、「贅沢な孤独」であるということです。
もちろん人には(牧師にも)いろんな生き方があるし、あってよいし、あるべきです。時間の用い方についても然り。問題は「贅沢な孤独」を得て、それを何のために用いるかです。
私が願ったことはひとえに、それを「神学する自由」(Freedom for doing Theology)のために用いることでした。神の言葉の説教を委ねられている者たちに求められていることは、昨年末に出版されたファン・ルーラーの小さな論文集のタイトルを借りて言えば「天地創造から神の国まで」(Van Schepping tot Koningrijk)、すなわち、創造論から終末論までの神の歴史における全事業を神学的に、とりわけ教義学的に考え抜くことです。これなしにどうして聖書の意図を正しく釈義し、噛み砕いた言葉で語ることができるでしょうか。私には不可能です。
「本を書くこと」自体は何ら目的ではなく単なる一手段にすぎません。目的は、ある人々からすれば他愛のないことと思われるでしょうけれど、キリスト者にとっての日曜日がハッピーなものでありうるために、少なくとも日曜日に教会に集まった人々がそこに来たことを後悔することがないように、「分かった」と思ってもらえる説教ができるようになること、それだけです。
そのような説教を語れるようになるために、人は多くの時間を費やさなければならないのではないでしょうか。
しかし、私は、「釈義」の次に「黙想」を置く、あのよく知られた説教理論に対しては少し距離をおいてきました。問題を感じ、批判的な思いさえ抱いてきました。
問題は「黙想」の内実です。それは純然たる教義学的な思索でなければならないというのが私の考えです。教義学とは代々の教会の歴史の中で引き渡されてきた(tra-ditio)言葉を扱う学です。その中にはすでに十分な仕方で、教会の中で、教会と共に生を営んできた人間のあらゆる声が絡み合っています。「釈義」の次は「教義学」であってよい。「教義学」が「黙想」のすべてを含んでいる。説教の準備としてはそれで十分であると、私には思われるのです。
そして、「教義学」にこそ時間がかかるのです。一人の人間の一生をささげても足りません。
「黙想」のどこに問題を感じるのか。この問いは今書いている「贅沢な孤独」というタイトルの範囲を大きく超えるものではあります。しかし、続けて考えておくべきこともあるように思われます。
私が考えていることは、まさに「黙想」というこの漢字二文字が示すものはあまりにも誤解されやすいということに尽きます。「黙って想うこと」が説教の準備でしょうか。ハア、まあ、それはそうですけど、と言いたくなります。そんなこと誰だって常にやっていることです。
「いやいや、黙想というのは、そこで何より教会員一人一人の姿を思い起こしながら祈ることが含まれているのだ」とか、「現代社会の諸問題を思いめぐらすことも含まれている」とか、「説教のテキストが言わんとしていることを一週間心にとめて、まずは説教者自身が生きてみることだ」など、黙想についてこれまでいろんな説明がなされてきたことも知っています。
しかし、そのようなこと一つ一つも、とくに何か取り立てて言わなければならないほどのことではなく、どんな人でもいつでもやっていることです。そのようなことを「黙って想うこと」ならば。
もちろん実際には、その説教理論においても、「黙想」が日本語の文字どおりの「黙って想うこと」を必ずしも意味していないことが明らかにされていることも知っています。少なくとも「黙想」という名の文章を書くことが求められています。「黙って想うこと」の結果を、文字として、文章として、アウトプットする必要がある。
「だが、それはまだ説教ではない」とも言われます。「釈義(の文章)も黙想(の文章)も、それ自体は説教(の文章)ではない」と。厳密ですねえとは思います。しかし、やりすぎですねえとも思います。「釈義」と「黙想」と「説教」を厳密に区分すること、それぞれの文章を毎週の説教のたびごとに書きおろし続けることは、ご立派なことであり、ある意味で賞賛に値します。ところが実際にはその区分はそれほど明瞭なものではなく、むしろ互いに混ざり合っているものであるし、混ざり合っていて困るようなものでもありません。
そして、私がいちばん言いたいのは、次のことです。「黙想」もまた、実際には文章化することが求められているかぎり、つまり、「黙って想うこと」だけで済まされるものではないことが暗黙のうちに(「知る人ぞ知る」という仕方で)了解されているものであるかぎり、その作業をいつまでも「黙想」という曖昧で誤解を生みやすい名称で呼び続けることは、自己欺瞞に通じます。私にはそのように思われてならないのです。
牧師の一週間の仕事は「黙想」(黙って考えごとをすること?)です、だなんて、うそくさい話です。ありえない。冗談も休み休みに言えと、腹が立ってきます。
2009年6月7日日曜日
イエス・キリストの声を聞く
ヨハネによる福音書5・19~30
「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。』」
先週の個所に記されていましたのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、エルサレム神殿の羊の門の傍らにある「ベトザタ」と呼ばれる池のそばに横たわっていた三十八年も病気で苦しんでいた人をいやしてくださったという出来事でした。
それはもちろん、わたしたちからすれば、喜ぶべき、素晴らしい奇跡的なみわざでした。ところが、そこにイエスさまが行ってくださったそのみわざを喜ばなかった人々がいました。ユダヤ人たちでした。彼らはその人がいやされたことを喜ぶどころか、その出来事を理由にイエスさまのことを迫害しはじめたのです。
彼らがイエスさまを迫害することを決意した理由は、二つありました。
第一の理由は、イエスさまがそのいやしのみわざを安息日に行われたことです。安息日にはいかなる仕事もしてはならないと律法に定められている。それにもかかわらず、この男は仕事をした。それがけしからんというわけです。また、イエスさまは、三十八年も病気で苦しんでいた人をいやされたとき、その人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ、その人はそのとおりにしました。しかし、安息日に床を担いで歩くことは律法で許されていないというわけです。そのようなことをしているその人もけしからんことをしているし、それをその人にしなさいと言ったイエスさまもけしからんことをしている。これは大問題であると、彼らは騒ぎ始めたのです。
しかし、第二の理由がありました。その点が今日の個所に直接関係しています。それはイエスさまがユダヤ人たちの前で「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5・17)とおっしゃったことが理由です。このときイエスさまが神さまのことを御自分の「父」と呼ばれたことがけしからんというわけです。なぜこれがユダヤ人たちの気に障ったのかといえば、父なる神の子どもは神であるということを彼らは知っていたからです。つまり、神を「父」と呼ぶその人は、自分を神と等しい者であると言っているのだと、彼らは受け取ったのです。
イエスさまが「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とおっしゃったことは、なるほどたしかに、ユダヤ人たちにとっては刺激的で挑戦的な言葉として響いたことでしょう。なぜなら、その日は安息日だったからです。
安息日は休みの日であって仕事をする日ではないとユダヤ人たちは理解していました。この理解そのものが間違っているわけではありません。ところがイエスさまは、安息日はわたしの父が仕事をなさる日である、だからわたしも仕事をするのだとおっしゃったわけです。イエスさまのおっしゃっていることも間違っていません。
安息日の意義はただ布団をかぶって休むというようなことだけにあるのではありません。もちろん旧約聖書には、父なる神は六日間で天地万物の創造を成し遂げられ、七日目に「神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記2・3)と記されています。しかし問題は、その場合の「安息」の意味です。神は布団をかぶって休まれたのでしょうか。どうやらそういう意味ではないのです。
七日目に神がおとりになった「安息」の意味は、御自身が創造された天地万物をお喜びになり、楽しまれたということです。あるいは、お祝いなさったということです。つまり、神は七日目に天地万物の完成祝賀パーティーをなさったのだと考えることができるのです。
喜び楽しむこと、あるいは祝うことが仕事かどうかは微妙です。仕事というよりは遊びかもしれません。しかし、それは、何もしないで布団をかぶってただ休むということとは違います。喜び楽しむという働き、祝うという働きに就くことです。
イエスさまがこの安息日に三十八年も病気で苦しんでいた人をいやされたことは、仕事でしょうか、それとも遊びでしょうか。これについてはいろんな問い方ができるでしょう。人助けは仕事でしょうか、遊びでしょうか。福祉のわざは仕事でしょうか、遊びでしょうか。
このような問い方自体が間違っているかもしれません。「遊びである」と言いますと、ますますけしからんという話になるかもしれません。しかし長年の苦しみから解放されたその人にとっては、病気をいやしていただいたその方が行ってくださったことは、遊びではないと言われるかもしれませんが、喜びではあったでしょう。この点が重要なのです。
安息日に苦しんでいる人を助けること、苦しんでいる人を喜ばせること、一緒に楽しむことは、父なる神の御心にかなったことなのです。そのことをイエスさまは、この出来事を通して多くの人々の前でお示しになったのです。
今申し上げた話が今日の個所の内容につながっています。イエスさまが「彼ら」(ユダヤ人たち?)におっしゃったことは「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(19~20節)ということでした。
ここで言われていることは、神の御子イエス・キリストが地上に来てくださった理由であり、また地上で行われるみわざの目的です。イエスさまは父なる神の御心を行うために来てくださったのです。そして、その場合の父なる神の御心とは、短く言えば人助けです。世のため・人のために意味のあること、役に立つこと、助けになることを行うことです。苦しんでいる人をその苦しみから解放すること、その人を喜び楽しませること、またその人と共に喜び楽しむことです。
イエスさまは次のようにも言われました。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(20~21節)。
神の御子の地上におけるお働きの目的は「死者に命を与えること」であると言われています。この「死者」の意味の中には、肉体的・生物学的に死んでいる人のことも含まれていると言うべきですが、それだけではありません。神の御前で罪を犯している人のこと、つまり、すべての命の創造者なる神との関係が崩れ壊れている人のことも含まれています。その人々が神の御前に立ち返り、新しい命を与えられて生きること、新しい人生を始めることも、言葉の正しい意味での「復活」なのです。
イエスさまが安息日ごとに会堂で聖書の御言葉を説き明かす説教をなさっていたということは、今学んでいるヨハネによる福音書のこれまでの個所にはそのような表現ではまだ記されていませんが、他の福音書にはそのようにはっきりと記されていたことを思い起こしていただけるでしょう。
安息日は大昔から今日に至るまで聖書のみことばを聞く日です。牧師が毎週日曜日に行う説教は仕事でしょうか、それとも遊びでしょうか。「遊びである」と言われると、牧師たちにとってはちょっと困る面もあります。しかしもしこれが皆さんにとって面白くもおかしくもないものになってしまっているとか、何の助けにもならないとか、聞いているだけで不愉快になるというようなものになってしまっているとしたら、牧師たちは相当反省しなければなりません。
牧師たちの説教とイエスさま御自身の説教は根本的に違うものであると言われるなら、そのとおりです。牧師の説教は仕事であると、わたしたち牧師たちがただ言い張るばかりであるとしたら、牧師たちこそが安息日についての戒めの最大の違反者であるということになるでしょう。
説教、そして礼拝は喜び、楽しみ、命を与えるものでなくてはなりません。その意味での遊びでなければなりません。月曜日から土曜日までのあいだに会社や社会や家庭でくたくたに疲れてきた人々が日曜日に教会に来るとますます疲れるということになっているとしたら、それこそが安息日の戒めを破ることであり、それこそが端的に罪です。
疲れは取り去られなければなりません。病気はいやされなければなりません。安息日に病気をいやすだなんてけしからんとか、いやされた人が床を担いで歩くだなんてけしからんとか言いだした人々は、何を考えていたのでしょうか。そのような言い方は、神さまの御心の正反対です。安息日に人の喜びや楽しみを奪うこと、せっかく元気になった人からその元気を再び取り去ること、笑顔を奪い、ますます悲しみと絶望に追いやること。そのようなことは、宗教の風上にも置けない!悪魔的であるとさえ言えます。
イエスさまは続けておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(24~26節)。
ここで言われていることも先ほどから申し上げていることの繰り返しです。イエスさまが安息日になさったことは、人々に命の言葉を語ることでした。その言葉には死者を生き返らせる力がありました。
私も時々、ぞっとするほど疲れていることがあります。生ける屍とはまさにこのことかと感じるほどに。まるでぼろ雑巾のように横たわるしかない時があります。ぐっすり休めばまた立ちあがることができるという時ももちろんありますが、心が疲れているというときには眠ることができない場合もあります。けしからん牧師ですが、本当は家族の前で見せてはならないようなしかめ面をしていることも、ままあります。
そのようなときに、です。私が再び立ち上がることができるのは、聖書の御言葉があるからです。私には命の創造者なる神の御言葉があります。父なる神の御心を地上において忠実に果たされたし、今も忠実に果たし続けておられる永遠の神の御子イエス・キリストの御言葉があります。これがあるから私は立つことができる。生きることができるのです。心に喜びが取り戻される。笑顔が回復されるのです。
そのことを牧師と教会は繰り返し体験しています。そのことを多くの人々に知っていただくために、私は今日もここに立っているのです。
(2009年6月7日、松戸小金原教会主日礼拝)
2009年6月6日土曜日
著書なきカキビト
昨日の遅い時刻に、私の部分はごく短いものですが私にとっては初めてのハードカバー付きの本(共著)の原稿の校正ゲラを、やっと出版社に送り返すことができました。珍しく締め切りを守りました。一昨日は別の原稿を書き、掲載誌の編集者に送りました。
私のブログの更新が止まっているときは、惰眠をむさぼっているわけではなく(そういうときもある)、たいていの場合、この種の原稿書きやゲラ校正に没頭しているときです。
お恥ずかしいことに、原稿にとらわれはじめると他の何も手につかなくなります。三度の食事はとりますが、他のことはほぼ抜け落ちていく。日常生活がおろそかになる。「このままでは人間として失格者だ」と危機感を抱き、「早く脱稿せねば」と自分を追い立てる。その繰り返しです。
ところで、共著の出版社から「執筆者略歴を書いてください」と求められたとき、私にはそこに記すべき「著書」も「訳書」もないということに、今さらながら気づかされました。
ナーバスになっているわけではありません。ただ、インターネットをアウトプット先にする書き物の量は多いほうだと自覚しております。この面ではかなり苦労も味わいました。自分で言うのも何ですが、これだけ書くことに苦労してきた人間に未だに一冊の「著書」も「訳書」もないだなんて、なんだか変な話だなあと自嘲気味に笑ったまでです。
でも、別に構わないんです。私の目標は「本を書くこと」自体ではないからです。「本を書くこと」は、目標のための有力な手段であり通過点ではあります。しかし、何が何でも必ずそこを通らねばその先に進んでいけないというほどではありません。
私の書き物は、急行列車の窓から一瞬見えた女性に一目ぼれするようなものです。まばたきしている間に視認できない距離に至る。次の瞬間にはどんな人だったか忘れてしまうほどの微妙なデータです。こんなものはなかなか「本」の形にはなりません。
あるいは、それは引き出しにしまいこんでいる大量のスナップショットです。整理すれば何かの価値が生じるかもしれないと感じつつ、整理のために費やす時間が勿体ないと思えて、未整理のまま次の仕事に没頭しはじめてしまうのです。