2008年10月26日日曜日

人生は礼拝のために、礼拝は人生のために


フィリピの信徒への手紙2・14~18

「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」

今日の礼拝は宗教改革記念礼拝として行っています。1517年10月31日、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが当時のローマ・カトリック教会を批判する九十五カ条の提題をヴィッテンベルクの聖堂の扉に張りつけたその日から、宗教改革運動が始まりました。その故事にちなんで、改革派教会を含むすべてのプロテスタント教会が毎年10月31日を「宗教改革記念日」として重んじてきました。また10月31日に近い日曜日に「宗教改革記念礼拝」を行ってきました。この説教の中で多く触れることはできませんが、とにかく今日は記念すべき大切な礼拝なのだということを覚えていただきたく願っております。

さて、今日もフィリピの信徒への手紙を学んで行きます。今日の個所の最初に「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」とあります。これは直接的にはフィリピの教会の人々に言われていることですが、同時にすべてのキリスト者に言われていることでもあります。確認しておきたいことは「何事も」の内容です。意味は、イエス・キリストを信じる人々が教会の中でまたは教会を通して行うすべてのことです。これは明らかに「教会の奉仕」について語られていることです。重要な点は、これは「教会」を抜きにして言われていることではないということです。

わたしたちは、教会の奉仕をする際に不平や理屈を言ってはなりません。しかし、このように言いますと、日本の戦前・戦中の軍隊調の教育を思い起こす方がおられるかもしれません。上司の前で不平や理屈を言えば暴力をもって制裁される。どんなに理不尽なことであっても、おかみの命令に無条件で従わなくてはならない。パウロはそのような意味で言っているのでしょうか。まさか、決してそういう意味ではありません。

そういう意味ではないことの根拠を示しておきます。それはここでパウロが用いている「不平」という言葉には旧約聖書的背景があるという点です。出エジプト記の出来事です。イスラエルの民が、奴隷状態に置かれていたエジプトの地から指導者モーセと共に脱出し、約束の地カナンを目指して砂漠の旅を始めました。彼らがエジプトから逃げ出すことは、彼ら自身が願っていたことでした。ところが旅の途中、彼らは繰り返し「不平」を言いました。まともな食べ物がない、水がない、こんなにつらい思いをするくらいならエジプトにとどまっていたほうがましだった、など。そのような不平を彼らは直接的にはモーセに向かって言いました。しかし、彼らが不平を吐きだした本当の相手は、神御自身でした。

この意味での「不平」をあなたがたは言うべきではないと、パウロはフィリピの教会の人々に言っていると考えることができます。なぜならパウロが用いている「不平」を意味するギリシア語は、出エジプト記に用いられている「不平」を意味するヘブライ語の翻訳だからです。教会の奉仕において問題になる「不平」は、本質的に言えばこの意味です。つまり、神に対する不平です。

神はわたしたちを罪と悪の支配のもとから救い出してくださいました。神はわたしたちの救い主です。わたしたちは、神に救われた者として教会に集められています。救われた者たちは、その救いの事実を喜ぶべきであり、感謝すべきです。しかし、肯定的な思いを抱くことができるのはおそらく最初だけです。そのうち不平を言いだします。教会もまた人間の集まりであった。ここにも人間の醜さや過ちがあふれている。神に救われたことを喜びたい、感謝したいと願ってはいる。しかし、教会の現実を知れば知るほど、ちっとも喜ぶことができず、感謝することができない。「神さま、私はあなたの救いを求めて教会に来ましたが、教会がわたしを躓かせます。どうして私はこんな嫌な目に遭わねばならないのですか」。これこそが、パウロが言うところの「不平」の内容です。

パウロは、教会の中のそのような問題を知らずに、あるいは知っていても目をふさいで、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と書いているのではありません。彼はそのようなことは百も承知です。すべての事情を知り抜いています。

それどころか!パウロの目から見ると、教会の現実は、不平を言いたくなるようなことばかりでした。あれこれ理屈をつけて教会から逃げ出したがっている人々がいることも、分かっていました。しかし、だからこそ、です。パウロが勧めていることは、そのような教会の現実を、勇気をもって引き受けなさいということです。不平や理屈は、言いだせばきりがありません。その言葉をあなたのその口の中に飲み込んでしまいなさいということです。教会の中の人間に対する不平や理屈ではなく、このわたしを救ってくださった神への感謝と喜びを語りなさいということです。そのようにして教会の奉仕に熱心に取り組みなさいということです。

ここで16世紀の宗教改革者たちのことを考えることができそうです。彼らもまた、教会の現実に苦しんだ人々でした。当時のローマ・カトリック教会の現実が、彼らにとってはあまりにも耐えがたいものでした。しかし、宗教改革者たちは、ルターにせよカルヴァンにせよ、当時の教会の現実を憂い、批判し、攻撃することで終わるものではありませんでした。そもそも彼らは、教会の大掃除をしようとしただけであって、ローマ・カトリック教会にとって代わる新しい教会を作るつもりはありませんでした。それが彼らの偉大さでもあったのです。

不満があるから辞める、飛びだすで物事の決着をつけることは、いとも簡単なことです。しかしそれでは問題は何一つ解決できません。問題はある。だからこそ、その問題状況の中に踏みとどまって改革し続けること。その努力を惜しまない人々だけが、新しい時代を切り開いていくことができるのです。

「そうすれば」と続く次の文章に「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。このことも個人的な事柄としてとらえてしまうとパウロの意図が分からなくなります。「とがめられるところのない清い者」になることが求められているのは教会です。「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりと保つ」ことを求められているのも教会です。

一人一人の心の中に不平や理屈があることは、ある意味で仕方がないことです。しかし、そのような思いが心の中にあることと、それを口に出して言うことは別のことです。何でもかんでも言いたい放題をぶちまけて周りの人々を不愉快にし、教会の中に争いや分裂の原因を作りだすようなことがあってはならない。これこそがパウロの意図です。

もちろんこのようなことは今ここで私が口を酸っぱくして力説しなければならないようなことではないでしょう。わたしたちが体験的によく知っていることです。わたしたちが教会に来ると幸せを感じると言うとき、それが何を意味しているのかを考えてみればすぐに分かることです。それはやはり、教会のみんながいつも変らぬ笑顔で迎えてくれるとか、優しく温かく受け入れてくれると感じることでしょう。しかめっ面をした恐ろしい人々が、このわたしを睨みつける。そのような場所で幸せを感じるという人はいないでしょう。

「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことを求められているのは、教会です。教会の輝きは建物の輝きではありません。建物をぴかぴかに磨くことも大事でしょう。しかし、教会の輝きとはここに集まっている人間の輝きであり、わたしたち一人一人の笑顔の輝きです。罪の暗黒から救い出され、絶望の淵から救い出され、神への感謝と喜びに満たされた、このわたしの輝きです。

パウロの願いは、フィリピの教会がそのような輝きをもつ教会として立ち続け、保たれ続けることに他なりません。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」とあります。フィリピ教会がそのような教会であり続けることができるとき、パウロの人生に「誇り」が与えられるというのです。生きていて良かった、伝道者になって良かった、教会のために苦労して良かったと、感謝と喜びの生活を生涯送り続けることができるということです。

教会には、実に面白い(?)面があります。雰囲気がおかしくなるときがないわけではありません。しかし、良い雰囲気を再び取り戻すこともできます。その秘訣ないし鍵は、礼拝です。教会活動の中心は間違いなく礼拝です。そして礼拝の中心は神の御言葉です。聖書朗読であり、説教であり、神への賛美です。わたしたちが教会の中であるいは教会を通して行うすべての奉仕は礼拝という軸、また礼拝の中心である聖書朗読と説教と神賛美という軸の周りをぐるぐる回っているのです。

それが意味することは明らかです。もし教会の雰囲気がたとえどんなにおかしくなったとしても、すべての教会の奉仕の中心である礼拝へと、また礼拝の中心である神の御言葉へと教会のみんなが集中することができるならば、良い雰囲気を再び取り戻すことができ、明るく輝く教会を取り戻すことができるのだということです。わたしたちは、教会の中で争いや対立が起こるときには、教会のど真ん中に、聖書をどんと開くのです。そして聖書の周りにみんなで集まり、神の御言葉に聞くという仕方で、問題解決の道を探っていくのです。そういうことができるのが教会なのです。

宗教改革者たちが熱心に取り組んだのも「宗教の改革」というような抽象的な何かではなく、実は「礼拝の改革」でした。彼らは説教を改革し、礼拝音楽を改革し、礼拝式順を改革し、教会規程を改革しました。それが世界の歴史を動かす力になったのです。

17節にパウロが書いていることは一つの重大な決意です。ただし、用いられている表現には、明らかに象徴的な意味が込められています。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」とは、どういうことでしょうか。考えられるのは次のことです。

「あなたがた」とは教会です。教会が「信仰に基づいていけにえを献げる」とはユダヤ教的な意味での動物犠牲を献げることではありません。それは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げること」(ローマ12・1)、すなわち、わたしたち一人一人が神を礼拝することです。ユダヤ教の場合は、彼らの安息日である土曜日に、神殿または会堂に動物犠牲を携えていきます。わたしたちの教会の場合は、キリスト教安息日である日曜日に、わたしたち自身が自分の体をたずさえて出席するのです。

その礼拝にパウロの「血」が注がれるとは、どういうことでしょうか。彼は礼拝の中で殺されるのでしょうか。もう少し肯定的に言いなおすことができるでしょう。その意味は、パウロは神を礼拝するために生きているということです。このわたしの命は、またわたしの流す血は、礼拝において神の前に注がれるためにあるということです。それがわたしの人生の目標であり、その目標がまさに達成できるのだから、神の前に自分の命がいけにえとして献げられることを、わたしは喜ぶと、パウロは語っているのです。

パウロの人生は教会と礼拝のために献げられました。しかしまた彼は各地の教会の礼拝が健全かつ活発に行われていることを見聞きするたびに、人生の喜びを感じとりました。彼の人生は礼拝のために、また礼拝は彼の人生のためにありました。

わたしたちもまた、このパウロと同じ思い、同じ信仰を与えられたいものです。

(2008年10月26日、松戸小金原教会主日礼拝)