2008年5月15日木曜日

来るべき「地上の生」への瞑想

昨夜は、というか今朝未明は、久しぶりに夜なべ仕事でした。昨日の昼過ぎから今朝4時まで、ぶっ通しで頼まれ原稿を書いていました。自由気ままに書いてよいものではなく、型にはまったようなことを書く仕事だったので、疲れました。風呂に入って3時間ほど眠り、7時から二人の子どもたち(中二男、小五女)を学校へと送り出しました。生ゴミを出そうと集積所に向かったところ、第三木曜は「生ゴミの日」ではなく「陶磁器・ガラス類の日」であることが分かり(そういう知識に疎いのだ)、人目を避けながらスゴスゴ引き下がってきました。そしてその後は食器洗いと洗濯物干しをしました。・・・と、家事に協力する夫をアピールしてみせていますが、つい最近まではすべてを妻に任せきりでした。今は後悔と反省の日々です。妻は、自分の夫が最近やっと協力的になったことを喜んでくれていますが、その分自分が楽になったと考える人間ではなく、その分自分がもっと世のため人のために働くことができると新しい仕事を見つけてきます。二人ともまだ若いので(?)無理が利くうちはやれるだけやったらいいと思っています。私がファン・ルーラーから学んでいる終末論は、その構造において(形而上学的・心霊主義的な)「上」をめざすものではなく、(時間的・歴史的・地上的な)「前」をめざすものです。似たようなことをモルトマンが「水平的終末論」の名で発表しましたが、モルトマンの終末論が少なくともその着想と構造をファン・ルーラーから得ていることは明らかです。しかし、ファン・ルーラーとモルトマンには決定的な違いがあります。それを詳しく書きはじめると長くなるのでやめますが(いま寝不足で頭がぼんやりしているので)、ファン・ルーラーが「前」を強調することの最も根本的な動機は、聖書(特にパウロ書簡)と使徒信条において鮮明に告白されている「からだのよみがえり」(この肉体の復活!)という点を真剣に受けとめることにあります。話を強引に結びつけたいわけではありませんが、わたしたちが少し無理するくらいがんばって仕事して、それで何人かの人に喜んでいただけるなら、疲れも痛みもある意味で心地良いと感じられます。しかし、私は「上」のミクニに早く入れてもらいたいとは思わない!そういうことを考えないのは私が「まだ若い」からではない!「上に逃げる」つもりは全くないという意味です。カルヴァンは《来るべき生への瞑想》(meditatio futurae vitae)を「上」のことを思いめぐらすという意味で語ったかもしれませんが(現にカルヴァンはその文脈で「地上の生を軽んじよ」と勧めています)、私はこの点だけはカルヴァンに(そしてアウグスティヌスにも)従うことができません。私の人生が(一度)終わった後の行き先は「上」ではなくて「前」です。私の《来るべき生への瞑想》にはマテリアルなイメージが必ず伴います。この私がもう一度「地上に」復活するのです!終末的世界には「新しい天」だけではなく「新しい地」があるのです(もし「地」がマテリアルなものでないとしたら、それは一体何なのでしょうか)。この点を信じないならば、キリスト教信仰にはほとんど価値がありません。