2007年4月29日日曜日

「迫害の中の教会」

使徒言行録5・17~42



今日の個所を読んで感じることは何でしょうか。それはいくらか微妙な気持ちではないでしょうか。そのようなことを、つい思わされます。



克明に描かれていますのは、当時の教会に対して起こった迫害の様子です。



事の発端は、要するに、当時誕生したばかりのキリスト教会が非常にうまく行っていたということです。イエス・キリストを信じる人々が、心を一つにして礼拝を守り、互いに助け合い、また彼らを通してさまざまな不思議なわざが行われていく中で、彼らの教会が神の祝福を豊かに受けて成長していったのです。



その次に起こったのが迫害だったというのです。なぜ教会の成長「の次に」起こったのが教会の迫害なのか、この二つの出来事をつなぐものは何だったのかと言いますと、それが「ねたみ」であったということが、17節にはっきりと書かれています。



「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。」



興味深いと感じることは、当時の教会に対してねたみを抱いたのは「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々」であったという点です。彼らは宗教家たちです。ユダヤ教団の幹部たちです。彼らは彼らなりの熱心をもって神に仕えていたのです。



そのような人々がキリスト教会をねたんだ。ねたんだ結果、教会を迫害した。そういうことが起こったのです。少し微妙な気持ちが起こると最初に申し上げたのは、まずこの点です。



大祭司たちの側に「ねたみ」という動機があったことを、キリスト教会側がどのようにして知ることができたかについては、容易に説明できそうなことです。たとえば、使徒となったパウロ(この迫害事件の当時は「サウロ」)は、このときはまだ完全にユダヤ教団側の人であったわけです(使徒言行録8・1)。パウロがそれをキリスト教会に伝えたかどうかは明言できることではありません。しかし、ユダヤ教団のキリスト教会に対する迫害の真意を使徒言行録の著者が知っていたとしても、何の不思議も矛盾も飛躍もないと言ってよいでしょう。



ここでこそ、わたしは微妙な気持ちを持たざるをえません。なぜなら、当時のユダヤ教団の幹部たちが神に祝福されて成長していくキリスト教会の姿を見て、ねたみを起こし、迫害した、というこのあたりで私が痛烈に感じることは、当時の宗教家たちのあまりにも幼すぎる様子であり、要するに幼児性ということだからです。あまりにも子供じみていて、恥ずかしい。



他人の成長や幸せを、喜ぶことができない。喜ぶどころか、ねたむ。そのような思いがねたみの正体でしょう。あまりにも子供じみているではありませんか。これは「子供」をおとしめる意図から申し上げていることではありません。



なぜ、このわたしが「恥ずかしい」と感じるのか。それは、わたしたち自身も、間違いなく「宗教」だからです。そしてこのわたしも、間違いなく「宗教家」だからです。他人事のように考えることはできないのです。同じく宗教を営む者として恥ずかしい、という言い方が適切かどうかは微妙です。微妙ですけれども、そのような思いに近いことを感ぜざるをえません。わたしたちも気をつけなければならないことがある、と思わされます。



なぜなら、教会もこの種の幼児性に陥ることがあるからです。



それは同じキリスト教会同士の間にも起こります。あの教会は、うちの教会よりも成長している。あの教会の人々は、とても幸せそうに生きている。みんなで協力して、大きく立派な建物ができた。そのことを喜ぶことができない。悔しい。ねたましい。他の教会が成長している姿を見て、「わたしたちもがんばろう」と発奮するのではなく、むしろ逆に、ねたむ。足をひっぱってやろうとまで思うかどうかは分かりません。そこまで行かなくても、ねたみを抱いている時点で、すでに、十分に子供じみているではありませんか。



そのような、わたしたち自身にもなんとなく、あるいははっきりと身に覚えのある幼児性を、当時の宗教家たちが持っていて、その幼児性の結果として、キリスト教会に対する大きな迫害が起こった、ということが、今日の聖書の個所に記されているのです。



教会の役員だからこそ陥る幼児性というものも、あるのではないか。こういうことを、つい考えさせられるのです。もちろん、これは、私自身の大きな反省や自戒をこめて申し上げていることです。



さて、もう少し話を先に進めていきます。迫害の次に起こったことは、不思議な出来事だったという点です。使徒たちが逮捕され、公の牢に投げ込まれたあと、「夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出した」という出来事が起こった、というのです。そこで何が起こったのかは、書いてあるとおりのことしか分かりません。



そして、それに続く出来事は、教会の宣教活動の継続でした。主の天使が、使徒たちに次のように述べました。



「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」



この天使の言葉を聞いた使徒たちは、夜明けごろエルサレム神殿の境内に立って、説教を始めたというのです。そしてその次に起こったことは、ある意味で当然というべき成り行きでした。使徒たちは再び捕らえられ、前よりも厳しい尋問を受けて、前よりも苦しい思いを味わわされた、ということです。なぜ「ある意味で当然」なのか。それは使徒たちの態度はと言うと、彼らを迫害している側の人々の目から見ると、明らかに挑戦的ものであり、あるいは挑発的なものであり、さらに言えば反抗的なものだからです。



「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」



見た感じとしては、けんか腰のように見えたかもしれません。逮捕・監禁・尋問され、キリスト教の教えは絶対に広めてはならないと厳しく言い渡された人々が、黙るどころか、引き下がるどころか、よりによってエルサレム神殿の境内という、大祭司たちにとってはいわば彼らの家の庭のようなところで、声を大にして、キリスト教の教えを再び宣べ伝えはじめたのですから。



「人間に従うよりも」と彼らが言っている場合の「人間」の意味は、あなたがたユダヤ教団の幹部の皆様に従うよりも、ということです。あなたがたには従いません、と言っているのです。



しかし、私自身は「ある意味で当然」と言わざるをえないものを感じはしますが、「ある意味で」という点に、ものすごく大きな強調を置きたい気持ちで申し上げています。話は大きく飛躍しますが、ここで私は、いじめの問題を思い浮かべます。



つい最近まではいじめに関しては、いじめられる側にも問題がある、と言われることが多かったです。しかし、今は違います。いじめられる側には何一つ問題がない、と言われます。私もそれが正しいと信じています。



いじめる側に、いじめる権利などありません。いじめられる側に、いじめられなければならない理由も根拠もありません。いじめる側がひたすら一方的に悪いのです。このことは、ものすごく大きな強調を置かなければならない点です。



いわばそれと同じように、と語ることが可能です。今から二千年前の教会にも、彼らが実際にひどい迫害を受けたことについて、それは教会の側にも問題があったからである、というような言い方を、わたしはすることができないし、してはならないと考えています。



二千年前のキリスト教会は、明らかに、当時のユダヤ教団に対して、挑戦的・挑発的・反抗的な態度をとりました。その結果、怒りを買い、ますますひどい迫害を受けることになりました。しかし、です。教会の側に問題があったわけではありません。教会の側に、迫害を受けなければならない理由も根拠もありません。あいつらはいじめられて当然だ、と言われる筋合いにはありません。



もちろん、当時の教会は、ユダヤ教団の幹部たちがイエス・キリストを殺したのだ、という点を徹底的に追求するという仕方で、彼らを批判しました。そのことを、ユダヤ教団の人々が、忌々しく思い、なんとかしてあの連中の口を封じなければならないと考えた、という話の流れは、ある意味でよく分かるものですし、理解できるものであるという意味で、「当然」と言えるものです。



しかし、です。理解できる話である、ということと、納得できる話である、ということとは違います。ユダヤ教団はキリスト教会に対して子供じみた嫉妬心を抱き、子供じみた迫害を仕掛けてきました。本当に恥ずかしい、みっともないことが行われたのです。
それでも、です。34節以下に登場するファリサイ派のガマリエルという「民衆全体から尊敬されている」律法の教師は、これも「ある意味で」と断っておきますが、少しはましな判断ができる人であったと見ることが可能です。



このガマリエルは、使徒パウロの恩師でもあったと言われます。エルサレム神殿の律法学校の教授職にあった人であると考えられます。宗教的影響力において最高点に立っていた人と言ってよいでしょう。そのような人が登場して、最高法院の議場を説得した結果、使徒たちは釈放されたのです。



ただし、です。このガマリエルの発言はいろいろと考えさせられるものです。私自身は、理解はできますが、決して納得はできません。



「テウダ」とか「ガリラヤのユダ」というのは政治的なクーデターを図った人々の名前です。その人々は見ているうちに、ほら、勝手に自滅してしまったではないか、というわけです。そしてガマリエルは言います。



「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ。」



このガマリエルの論理は、「神」の名を持ち出していますので信仰深いようにも見えますが、どこか冷たいものです。



放っておけ。なるようになる。水は低いところに流れつく。ケセラセラ。



これは一種の運命決定論であり、宿命論です。われわれの信じる予定論とは、根本的に異なるものです。



(2007年4月29日、松戸小金原教会主日礼拝)