2007年4月15日日曜日

「祈りの力」

使徒言行録4・23~31



今日の個所に記されていますのは、西暦一世紀の教会の中で実際にささげられた祈りの言葉です。祈っている人の名前は記されていません。書いてあることによりますと、この祈りをささげているのは、複数の人々です。心を一つにして、一つの祈りを共にささげているのです。



この祈りがささげられるに至るまでの一連の出来事については、すでに学んだことですので、あまりしつこく繰り返さないでおきます。要するに、使徒ペトロとヨハネが、当時の多くの人々にキリスト教信仰を宣べ伝えたことが理由で、逮捕され、ユダヤ最高法院に引き出される、という出来事が起こったのです。



しかし、彼らは、そのような迫害が起こっても、全く動じることがありませんでした。



彼らを逮捕し、尋問した人々の前は、救い主イエス・キリストを十字架にかけたのと同じ人々です。その人々の前で、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と、彼らは明言しました。



これは、殉教の覚悟なしには、決して語ることができない言葉です。彼らは、この言葉を語っているまさにこのとき、殉教の覚悟をしているのです。



ところが、彼らは結果的に釈放されました。釈放された理由が、次のように記されています。「議員や他の者たちは・・・民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである」(4・21)。



とくに重要な点は、彼らが「民衆を恐れた」ことです。この言葉の裏側を考える必要があります。裏側にあるのは、彼らは「神を恐れていない」という点です。彼らの多くは宗教家です。そうであるにもかかわらず、彼らは、本来恐れるべき「神」ではなく「人間」を恐れているのです。ここに、彼らの決定的な問題点があるのです。



聖書に「民衆を恐れる」とか「人間を恐れる」というようなことが書かれている場合はほとんど悪い意味です。「人間を尊重する」とか「人間に配慮する」というような良い意味で書かれている個所を、私は知りません。



この個所の場合も全く同じです。彼らが「民衆を恐れた」のは、人間を尊重したからではないし、人間に配慮したからでもありません。自分たちが批判されるのが怖いだけです。キリスト教を迫害することについて、国民を説得できるだけの根拠も、理由も、まだ何も見つかっていないのです。



ところが、使徒たちは違いました。彼らは神を恐れましたが、人間を恐れませんでした。この場合の「人間を恐れない」という意味は、人を人とも思わないとか、他人を見下げるとか、馬鹿にする、軽んじるというようなことでは、決してありません。時々そのように誤解している人々に出会いますので、この点は強調しておきます。



使徒たちが屈しなかったのは、悪人たちの企てる策略に、です。権力をもって弱い人々を押さえつけ、支配しようとする人々の暴力的な言葉や行為に、です。



そのような目に遭うのが怖いから、という理由で、このわたしの心の中に与えられた、救い主イエス・キリストを信じる信仰を捨てます、教会に通うのをやめます、という選択肢を選びとることは、彼らにとっては、ありえないことだった、ということです。



「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。」



釈放された使徒たちが真っ先に行った場所は「仲間のところ」でした。それは、間違いなく教会を指しています。教会は「仲間」なのです!



ここを読みながら、ふと思ったことは、もしかしたら彼らは、自分の家に帰るよりも前に、教会に行ったかもしれない、ということです。



ペトロには妻(コリント一9・5)やしゅうとめ(マルコ1・30)がいました。子供たちもいたと考えるのが、自然でしょう。逮捕・監禁・暴行というひどい仕打ちを受けた後に釈放された彼らが、真っ先に家に帰って、妻子に会うのではなく、真っ先に教会に行き、そこにいる信仰の仲間たちに会いに行ったとしたら、どうでしょうか。



ひどい話、と思われるでしょうか。なるほど納得、と思われるでしょうか。ここは意見が分かれるところかもしれません。



もちろん、天秤にかけられることではありません。家庭も教会も両方大切です。どちらか一方が大切で、他方は大切ではないと語ることは、わたしたちには許されていません。どちらか一方を選ぶ、という発想そのものが間違っている、とさえ言わなければならないほどです。



しかし、です。一つの点だけ、きちんと言っておかなければならないと感じることが、残っています。それは、かなり言いにくいことですが、どうしても言わざるをえません。



それは何かといいますと、迫害というのは家庭内でも起こりうる、というこの一点です。それは、わたしたち自身が、よく知っている事実です。心から愛してやまない家庭の中で「あなたの信仰を捨てなさい」と迫る存在と出会うことが、わたしたちには、ありうるのです。



究極的な言い方を許していただくならば、信仰の問題においては、家庭は、最終的には頼りになりません。信仰の問題で最終的に頼りになるのは、教会だけです。「信仰の仲間」のいるところです。



これもどうか誤解されませぬように!わたしは今、教会を重んじさえすれば、家庭などは軽んじてもよいと語っているわけではありません。使徒たちも、釈放された後、真っ先に教会に来たように読めますが、そのあとは必ず彼らの家庭に帰ったはずです。この点が重要なのです。



わたしたちに必要なことは、教会から家庭に帰る、という運動です。牧師が変なことを言っている、と思われるかもしれませんが、わたしたちは教会の中にいつまでも留まっていてはならないのです。家庭に帰らなければならないのです。たとえわたしたちの家庭の中に、信仰については一致できない人がいるとしても、です。そのことを、わたしたちは肝に銘じておかなければならないのです。



しかしまた、だからこそ、わたしたちは、教会に集まるときには、やはり、ある明確な目的を持っているということが大切なことではないか、とも考えさせられます。



家庭と教会の違いがあるとしたら、わたしたちが家庭にいるときには、「そこにいる」ということ自体に関しては、特別な仕方での目的意識を持つ必要はないだろう、ということです。学校に行った子どもたちや、会社に行った夫や妻が、家に帰ってくるというときに、「あなたは、何のために帰ってくるのですか」と、普通は問わないと思います。わたしが帰ってきてはいけないのですか、と反発されること必至です。



しかし、教会はどうでしょうか。「あなたは、何のために教会に通っているのですか」と問われることは、あるいは自問することは、ありうることではないでしょうか。何の目的もなしに、ただ何となく集まる。それで悪いと言いたいわけではありません。まだ目的がはっきりしていないという人を締め出す意図はありません。



しかし、です。最も考えさせられることは、何の目的意識も持たないままでいるときに、果たして本当に、わたしたちの教会生活が長続きするでしょうかという点です。教会生活というものの中に何らかの目的意識があると励みになる、ということは事実です。実際、教会の存在そのものは、明確な目的を持っているのです。



教会とは、神を礼拝し、賛美を歌い、明確な信仰をもって共に生きていく人々同士が、助け合い、励ましあい、祈りあうための集まりなのです。



「『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。』」



西暦一世紀の教会は迫害を受けた使徒たちと共に、熱心に祈りました。迫害者の脅しに対する抵抗の方法が祈りでした。「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と、彼らは祈りました。この祈りという手段が、大きな力を発揮したのです。



暴力に対する抵抗の方法は、暴力ではありません。わたしたちが選ぶべき戦いの方法は、神の御言葉に基づく言論による戦いです。言葉で勝負することです。「ペンは剣よりも強い」という道を、愚直に追求することです。神の御前で開く会議において、正しい議論を行うことです。



その場所は、教会会議だけではありません。どの会議においても、どの場においても、そこに真の神さまが、いつも共にいてくださるのです。



祈りに、特定の場所は不要です。いつでもどこでも、わたしたちは祈ることができます。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈りましょう。



このわたしが、皆さんが、この与えられた信仰を、いつでもどこでも、貫き通すことができますように、と祈りましょう。



(2007年4月15日、松戸小金原教会主日礼拝)