2007年4月22日日曜日

「共に生きる」

使徒言行録4・32~5・16



今日の個所に描かれていますのは西暦一世紀のエルサレム教会の様子です。かなり詳細で具体的な様子です。歴史的資料として価値の高い記述です。



話題の中心にあるのは、要するに、お金の問題です。あるいは、物品の問題です。教会の中でお金や物品のやりとりがあるということについて、そしてまた、そのお金や物品のやりとりの中には、時々、不正な行為が実際に起こることもあった、ということについて、全くあっけらかんと、何一つ隠し事をしないで、書いています。



実際問題としては、聖書の中にこのような個所があることは、正直に言って、大変ありがたいと感じるところでもあります。なぜ「ありがたい」か。日本だけではないかもしれません。しかし、われわれ日本人の中には、特にそのような思想が根強くあると言えるのではないかと感じてきたことがあります。それは、われわれ日本人は、とくに宗教(団体)が、お金や物品のやりとりという問題を大っぴらに扱うことを忌み嫌ってきたのではないだろうか、ということです。



皆さんの中にも、おそらく小さい頃から「お金は汚いものである」と教えられてきたとおっしゃる方々が必ずおられるはずです。お金は汚いものである。そのようなものを教会が扱う姿を見ると、何かおかしなことをしているようだ、と思われてしまうことが実際にありました。「武士は食わねど高楊枝。牧師も食わねど高楊枝だよ」と実際に言われたことがあります。「われわれの国籍は天にあり。地上の教会の建物など要らないよ」という趣旨の発言を聞いたことがあります。牧師が人前でお札を一枚一枚めくりながら数えていたりすると、「そういうのは、みっともないから、やめなさい」と言われたこともあります。



しかし、そのような考えは、はっきり言っておきますが、キリスト教とは無関係なものです。キリスト教の本来の教えの中に、お金や物を忌み嫌う思想はありません。それは、明らかに異教的な要素です。異端(いたん)的である、とさえ言っておきます。



お金はお金です。お金そのものが汚いとか、けがらわしいということは、ありえません。皆さんの中にも、銀行はじめ金融機関で働いておられる方々がおられます。「お金は汚い」などと言うのは、そういう仕事をしている人々に対して、たいへん失礼な言い草ではありませんか。



わたしたちが今いるこの教会は、地上の教会です。具体的で現実的で実際的で物理的な存在としての地上の教会が、さまざまな活動を行うためにお金という手段を用いることは、何も不思議なことではないし、実際やってきたことでもあるし、必要なことでもあります。そのことを、わたしたちは決して疑ってはならないし、そのあたりで迷ったり、ぐらぐら揺れ動いたりすべきではないのです。お金や物は決して汚いものではない、ということを、はっきりと明言する必要があるのです。



「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――『慰めの子』という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」



ここから分かることは、当時のエルサレム教会が、とくに経済的な面についてどのような考えを持ち、どのような具体的な対応をしていたか、というあたりです。



それは、ある意味でいちばん単純で、いちばん分かりやすい方法であったと言えます。つまり、全員の財産を一つに集めて、それを全員が共有する、という方法でした。分配の方法は「必要に応じて」と言われています。おそらくそれは、頭数で等分するというようなやり方ではなく、まさに「必要に応じて」、なんらかの基準を定めて、分配していたのではないかと思われます。



ただし、です。ここに書かれていることを読むだけではよく分からないこともあります。たとえば、当時のキリスト者たちは、どこかにある一つの家に住んで、まさに寝食を共にするというような、文字どおりの「共同生活」を送っていた、と考えてよいのでしょうか。そのように考えることは、ちょっと難しいように思われます。



当時のキリスト者は、どれくらいの人数だったのでしょうか。これまでの流れの最後に記されているのは、使徒言行録4・4の「男の数が五千人ほどになった」です。女性や子供たちの数を合わせると、一万人くらいはいたであろうと考えるべきです。一万人が一緒に「共同生活」を営むことができる家屋が、ありえたでしょうか。あまり現実的ではないと思われます。



そういうことではなく、むしろ、彼らは、やはり、おそらく今のわたしたちと同じように、それぞれ別の家に住んでいたし、それぞれの家庭での生活もあったのです。ただし、財産については、お互いに自分のものを持ち寄って、それを共有財産にして、とくに生活に困っている人々を助けていたのです。



それは、わたしたちが今やまさに、この教会の中で、いつもしているようなことです。ただし、今のわたしたちほどには公と私の区別がなく、私有財産の私物化を避け、むしろ多くのものをできるだけ共有化していたのではないでしょうか。



キリスト者たちは、迫害の中にあったのです。みんなが殉教の決意をしていたわけではありません。また、殉教は決して「しなければならないこと」ではありません。聖書の中に殉教の勧めはありません。逃げられるなら逃げるべきです。隠れられるなら隠れるべきです。そういう面があるのです。



迫害の中にあるキリスト者たちが、強い権力をもって教会を取り潰そうとする人々から逃げ隠れする必要があったときに、みんなの財産を一つに集めつつ、同じ信仰をもって共に生きるための蓄えとするということが、彼らの知恵であったと見ることが可能でしょう。



また、何のための換金なのか、という点で、やはりどうしても考えざるをえないことは、“教会の経済”を支えるためであった、ということです。教会と家庭との区別を無視し、それぞれの家庭の境界線を全く(強制的に、ないし半強制的に)取り去ることによって、教会が全く一つの家庭になってしまうというような仕方で、(共産主義のようなものに近い形で)財産の共有化を図ったのだと考えることができるでしょうか。これも、かなり無理がある見方です。



なぜなら、後ほど確認しますが、アナニアという人に向かって使徒ペトロがはっきりと述べていることの中に「売らないでおけば、あなたのものだった」という点があり、これは明らかに、私有財産というものを事実上認める発言である、と考えることができるからです。教会が各家庭の財産を没収したり接収したりしたわけではありません。あくまでも献金として、各個人が主体的・自発的に、それをささげたのです。



彼らが自分の家や土地や畑を売って、それを換金し、集めたお金を何に使うのかと言いますと、教会の経済を支えるためであり、そのようにして信仰の共同体の活動を維持し、支えるためであった、と考えることが最も自然です。それは、今実際にわたしたちの教会がしていることから見て、大きくかけ離れていることというわけではないのです。



「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。『アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』その言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。『あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。』彼女は、『はい、その値段です』と言った。ペトロは言った。『二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。』すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」



しかし、お金については、困った問題が教会の中で起こったのだ、ということが明らかにされています。アナニアとサフィラ(サッピラ)の夫婦が、自分の土地を売ったお金をごまかして、一部を使徒たちの足もとに置いた、つまり、教会に献金した、というのです。



なぜ「ごまかし」なのか、というと、そのお金の全部ではなく一部を献げたからである、というわけですが、もう少し正確に、というか、具体的に実際そこで何が行われたのかを考えてみる必要があるでしょう。



彼らの問題は、嘘(うそ)をついたことです。これが自分の土地を売ったお金の全部であると言ったのです。それが、ペトロの質問に対して妻サフィラが答えていることの意味です。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい」という質問に対する「はい、その値段です」という答えの意味です。



彼らはなぜ、そのような嘘をつかねばならなかったのでしょうか。本当に残念なことだと思います。アナニアとサフィラの夫婦の問題はこの嘘でした。実際の事情は、ペトロが言っているとおりです。「売らないでおけば、あなたのものだった」し、「売っても、その代金は自分の思い通りになった」のです。「これが全部です」と嘘をつかないで、「これは一部です」と正直に言えば、何の問題もありませんでした。「全部を差し出さねばならない」と、使徒たちの側が、あるいは教会の側が、彼らに命令したという事実は全くないのです。



この嘘の動機は、おそらく見栄っ張りです。あるいは、教会の中の他の人々との競争心や、やっかみや、嫉妬のようなものではないでしょうか。しかし、です。言うまでもないことですが、教会の中では、そのような見栄っ張りも、競争心も、やっかみも、嫉妬も、できるかぎり捨てるべきです。そのようなものは、百害あって一理無しです。それこそが、今日の個所から学びうる教訓です。



お金とか物のことで嘘をつくことは「心と思いを一つにすること」の反対です。嘘よりも、正直さを神さまは喜んでくださいます。また、献金は金額ではなく、心です。教会は単なる集金団体ではありません。神を礼拝し、賛美し、祈るための団体です。その活動のためにもお金が必要なのです。そうであるという事情を、教会は、多くの人々に分かってもらいたいと願うのです。



しかし、お金や物の問題は、慎重に扱わねばなりません。献金は、教会のみんなの血と汗と涙の結晶でもあるからです。そこに嘘が入り込まないように、みんなで心したいものです。お金や物の扱いにおいて公明正大であるときにこそ、わたしたちの教会は、多くの人々の信頼を得ることができるようになるでしょう!



(2007年4月22日、松戸小金原教会主日礼拝)