2007年3月25日日曜日

「使徒の勇気」

使徒言行録4・1~22



今日の個所に記されていますのは、3章の初めから続いている話の第三幕です。



ペトロとヨハネがエルサレム神殿で出会った一人の人の足をいやすという奇跡のわざを行いました。それを見て驚いた人々が彼らのもとに集まってきましたので、ペトロが説教を行いました。その結果、大勢の人々がイエス・キリストを信じるようになったのです。



ところが、です。その一連の動きを面白く思わない人々が出てきました。祭司長たち、神殿守衛長、サドカイ派です。



「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聴いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」



彼らはいら立った、とあります。いら立った理由も書かれています。イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていたからである、というのです。なぜイエスさまの復活を宣べ伝えることが、彼らをいら立たせる原因になるのでしょうか。



ここで思い出さなければならないことがあります。この場所はエルサレムであるということです。ここはイエスさまが裁判を受けられたエルサレムです。イエスさまが十字架につけられて死なれたエルサレムです。



時間的にも近かったはずです。何年もなど経ってはいません。せいぜい数カ月でしょう。ペトロとヨハネの前にいる人々にとって、イエス・キリストの十字架上の死は、ついこのあいだ起こった出来事です。記憶も鮮明です。何もかも覚えていると言ってよいでしょう。



そのため、この点では、多くの人々の記憶の中に残っていたのは、イエスさまが十字架の上で死んだ、あるいは殺された姿のほうでしょう。イエスさまを罠にかけて殺した人々は、その十字架上の死においてイエス・キリストの福音を宣べ伝える宣教活動は、終わりのときを迎えたものとしていたに違いないのです。



ところが、です。イエス・キリストの弟子たちが、あの十字架の上で死なれたお方は、復活なさり、今も生きておられると語り始めたのです。つまり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える宣教活動は、まだ終わっていないどころか、むしろ、まさにこれから始まるのである、とイエス・キリストの弟子たちが公に宣言したのです。



そもそも、イエス・キリストをユダヤ教の指導者たちが殺したのは、要するに口封じをしようとしたためです。イエスさまの説教は、多くの人々に救いと慰めを与えるものでもありましたが、同時に当時のユダヤ教指導者に対する厳しい批判を含んでいました。これを指導者たちが嫌がりました。このイエスという男を何とかして殺さねばならないと考え始めたのです。



使徒言行録においては、最初の教会の成長の様子が、人数で表現されています。最初は「百二十人ほど」(1・15)でしたが、キリスト教会としての最初の五旬祭(ペンテコステ)に洗礼を受けて教会の仲間に加わったのが「三千人ほど」(2・41)、そしてエルサレム神殿で仲間に加わったのが「男の数が五千人ほど」(4・4)です。爆発的な成長が起こっていると言ってよいでしょう。



このような爆発的な成長が起こるときに、必ずそこで行われているのが使徒の説教です。神の御言葉の説教です。



説教の力ということを申しますと、つい、それは説教者自身の力ないし能力という面が問題にされがちです。しかし、それは間違いを犯します。説教者というこの一人の人間の力が多くの信者を集めた、という話になります。しかし、それは間違いです。



神の御言葉の説教は、神御自身の言葉です。そこで説教者は神の道具として用いられはしますが、説教者の力が教会に人を集めるのではなく、神御自身の力が人を集めるのです。



「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。『民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。』」



ペトロとヨハネの取調べが始まりました。大祭司アンナスとカイアファは、イエスさまを十字架にかけるための裁判にも、深くかかわっていた人々です。イエスさまの口封じをしようとした人です。



その同じ人々が、今度はペトロとヨハネの口を封じようとしている!その人々が目の前にいる!危険信号は最大の音を発している状態である、と言ってよいでしょう。



ところが、です。このときペトロが語り始めたのは、「あなたがたがイエス・キリストを十字架につけて殺したのだ」という言葉でした。イエス・キリストを殺した殺人者たちを前にして、あなたがたは殺人者であると指摘しているのです。



そしてまた、このことと同時にペトロが語っているのは、あなたがたが殺したイエス・キリストというお方は、復活されて、今も生きておられる、ということであり、このお方の名によって、生まれつき足の不自由だった人がいやされたのだ、ということです。



ペトロは、本当のことを言っているだけです。正々堂々と。少しも恐れることなく。



しかし、ペトロのこのような態度がどれほど危険なものであるか、また彼が語っている言葉は、文字どおり命をかけなければ、そして本物の勇気がなければ、決して語ることのできない言葉である、ということは、すぐにお分かりいただけることであろうと思います。



「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。」



ここに出てくるペトロとヨハネについての形容詞としての「無学な普通の人」は、非常に頻繁に引用されますので、使徒言行録の中でも有名な言葉の一つです。



ここでの「普通の人」の意味は、専門家ではない人ということです。アマチュアのことであると言ってよいでしょう。



そして「無学な人」(アグランマトス)の反対概念は「律法学者」(グランマテイス)です。字義としては、読み書きや文法(グラマー)を習ったことがない人、というほどの意味にもなりますが、ここでの意味は、「律法についての専門的な教育を受けたことのない人」ということです。律法とは結局聖書のことですから、「聖書についての専門的な教育を受けたことのない人」ということです。今の言い方では、神学校や神学大学などの正規の教育機関で、御言葉の教師となるための専門的な教育を受けたことのない人、ということになるでしょう。



いずれにせよご理解いただきたいことは、ここでペトロとヨハネについて言われている「無学な普通の人」という言葉は一般的な意味ではなく、宗教的あるいは神学的な意味である、ということです。教会の中で言えば、教師と信徒の区別に該当するでしょう。ただ単に、学校教育を受けたことがない、というだけの意味ではなく、(今の言い方では)神学校に行ったことがない、という意味に相当するでしょう。



ただし、ここで気をつけなければならないと思われることは、ペトロとヨハネを「無学な普通の人」と見て驚いたのは、「議員や他の者たち」、つまりユダヤ最高法院を構成する人々であったという点です。彼らは宗教に関するプロフェッショナルでした。その彼らの目から見て、ペトロとヨハネはアマチュアであるということが分かった、と言われているのです。プロフェッショナルか・アマチュアか、そういうことは、プロの目から見ると、すぐに分かるものなのです。



しかし、彼らは、ペトロたちに何も言い返すことができませんでした。それは、ペトロたちのそばに足をいやしていただいた人がいたからです。奇跡的出来事を現実に体験した人が、生ける確かな証しをもって議員たちの目の前に立っていたからです。みんなの前で起こった公の事実を突きつけられては、それを否定することができなかったのです。



これで分かることは、事実こそが、そして生きた証しこそが、最も力を持っているし、最も輝いて見える、ということです。事実と生きた証しとを前にしては、どんな学問も、どんな美しい文章も、薄ぼけて見えます。



「そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。『あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚しいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。』そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。』議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。」



最高法院の議員たちが出した結論は、「今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう」というものでした。またしても口封じです!



しかし、ペトロとヨハネは、その命令を敢然と拒否しました。そして彼らが語ったことは、「わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられない」ということでした。



なんでもかんでも言いたい放題に言わせてもらいます、という話ではありません。彼らが語ろうとしているのは、イエス・キリストの弟子たちの口を封じようとしている人々への批判です。イエス・キリストを信じることと福音を宣べ伝えること、すなわち、信仰と伝道をなんとかしてやめさせようとする人々への拒否です。



わたしたちは、どんなことがあっても、信じることをやめることができない。



わたしたちは、どんなことがあっても、伝道するのをやめることができない。



「わたしはここに立つ。ほかにどうすることもできない」(マルティン・ルター)。



わたしたちにも信仰の戦いがあります。神が、戦いの中にあるわたしたちを助けてくださるでしょう。



(2007年3月25日、松戸小金原教会主日礼拝)