2007年4月8日日曜日
わたしを愛しているか
ヨハネによる福音書21・1~19
今日わたしたちは、二人の新しい長老を生み出すことができました。本当にうれしいことです。お二人とも昨年、大きな出来事を体験され、強い信仰と祈りをもって見事に乗り切られました。神さまがこの教会の長老になるための厳しい訓練をしてくださったに違いありません。かなり荒っぽい神さまだと思います。お二人は、とても強くなられました。これからどうかよろしくお願いいたします。
そして、わたしたちは、このイースターの礼拝を、召天者記念礼拝としてささげております。信仰をもって立派に生き抜かれた、天の父なる神のみもとに生きておられる方々の在りし日を思い起こしつつ、ご遺族のために慰めを祈るひとときを、過ごしております。
そのようなご遺族の方々にとっての大切な時をこのイースターの礼拝のなかで過ごしていただいていることには、もちろん大きな意味があります。そのように、わたしたち教会の者たちは、確信しております。
イースターとは何のことか、イースター礼拝とは何をする礼拝なのか、初めての方々や教会に不慣れな方々にとっては、あまりご存じないことかもしれません。
イースターとは、わたしたちの救い主イエス・キリストが死者の中から復活されたことを記念するときです。イエス・キリストというお方は、死者の中から復活されたのです。
聖書には、イエス・キリストが復活されたのは、息を引き取られてから三日目の出来事であったということが、記されています。二日の間は、全く動かれもしなかったし、立ち上がられもしなかったのです。
皆さんは覚えておられるでしょうか。ひょっとしたら皆さんよりもわたし牧師のほうがよく覚えているかもしれないことがあるような気がします。それは皆さんの大切なご家族が、いずれにせよ突然、息を引き取られてからだいたい二日間くらいに起こったことです。
悲しくて仕方がない。それなのに、さあ、これから葬儀の準備をしなければならない。あの人この人に連絡をし、挨拶をし。お客さんが来る。みんなの前でわあわあ泣くわけに行かない。いろいろな後始末もしなければならない。
ばたばたばたばた立ち回りつつ冷静にふるまう。冷静でいられるはずがないのに笑っている。そんな自分が嫌になったりもする。
そのような状態のだいたい二日くらいの間のことを、今となってはあまりよく思い出すことができないという方は、おられませんでしょうか。もしそうだとしても、無理もないことであると思います。
イエスさまの弟子たちも、おそらく、そのような二日間を過ごしたに違いありません。私は今から申し上げることを強調して語るつもりはありませんが、一つの点が気になっています。それは、イエスさまの死と復活の間の二日間に起こったことについては、聖書は何も語っていない、ということです。
弟子たちの記憶が失われている、とまでは言ってはならないと思います。しかし、語るべき言葉、書き残すべき言葉を失うような、まさに暗く落ち込んだ気持ちを、弟子たちも味わったのではないだろうか、と考えることくらいは許されると思います。
しかし、十字架の死から三日目の朝、わたしたちの救い主イエス・キリストは、死者の中から復活されたのです。弟子たちの心の闇は、取り去られました。そして、そのイエス・キリストの復活という大いなる出来事は、弟子たちの喜びとなり、希望となったのです。
なぜイエスさまの復活が、弟子たちの喜びとなり、希望となったのでしょうか。それは、はっきりしています。イエスさまの復活は、弟子たちの信仰によりますと、イエスさまを信じるすべての人々の復活を約束するものだからです。使徒パウロは「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(コリント一15・13)と、はっきり書いています。イエス・キリストの復活は、わたしたちの復活の初穂(first fruit)として起こったことなのです。
イエス・キリストの復活を信じることができる人は、その人自身も、イエスさまと同じように、死者の中から復活するのだ、と信じることが許されているのです!
死がわたしの終わりではない。このわたしは、救い主イエス・キリストと共に、永遠に生きるのだ、と確信することができるのです!
・・・嫌でしょうか。そのように率直におっしゃる方々もおられます。別にわたしは、永遠に生きなくてもいい。救い主と一緒とか、そういうことはどうでもいい。復活など別にしたくもない。そういうことを、わりとはっきりとおっしゃる幾人かの方々に出会ったことがあります。
そのような方々を無理に説き伏せてやろうというような考えは、私には全くありません。そういう方もいらっしゃるなあと思うばかりです。しかしまた、いくらか正直に言いますと、ちょっとくらいは、ちゃんと考えてみてほしいなあとも思います。
先ほどお読みしました、ヨハネによる福音書21・15以下に記されているのは、どういう場面かと言いますと、復活されたイエスさまとイエスさまの弟子の一人である使徒ペトロとが会話をしている、という驚くべき場面です。
何度も申し上げるようですが、イエスさまは、十字架の上で息を引き取られてから二日間は、全く動かれもしませんでしたし、立ち上がられもしませんでした。文字通り死んでおられました。しかし、そのお方が復活されて弟子たちの前に姿を現してくださいました。そして、この個所に記されているような、きわめて具体的な会話さえ、してくださったのです。
それで、皆さんにぜひ関心を持っていただきたいのは、この会話の内容です。とくに、復活されたイエスさまが、ペトロに対して三度も言われた言葉は何であったか、という点に注目していただきたいのです。
「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。二度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」
復活されたイエスさまが弟子のペトロに三度も問いかけたのは、「わたしを愛しているか」という問いでした。
わたしが、このような言葉を語られるイエスさまというお方に、聖書を通して接しますときに感じますことは、とても人懐っこい感じがする、ということです。あるいは、もっとはっきり言いますと、とても人間くさい感じがする、ということです。
それは、わたしたちだって、結局そうなのではないか、と感じるからです。わたしたちにもいつか必ず、この地上の人生をしめくくるときが訪れます。そのときに、わたしたちが、もしかしたら最後の最後の瞬間に考えること、一緒にいる人々に聞いてみたいと思うことは何だろうかと考えてみたときに思い当たるのが、この「わたしを愛していますか」という問いではないだろうかと感じるからです。
しかし、分かりません。もしかしたら、わたしだけなのかもしれません。わたしが死ぬときに、家内や子供たちに聞いてみたいと思っていることは、はっきりしています。教会の皆さんに教えていただきたいと願っていることは、はっきりしています。「わたしのことが好きでしたか。わたしのどこが好きでしたか。どのあたりは、嫌いでしたか」ということです。自己中心的かもしれませんが、やはりそういうことが気になります。
皆さんは、どうでしょうか。復活したくないでしょうか。家族のみんなや教会のみんなに聞いてみたいとは思いませんか。「わたしのことが好きですか。わたしのことを愛していますか」と。
イエスさまとは、そのような方でした。イエスさまは、自信を持っておられたのです。イエスさまは、ペトロの返事がどういうものであるかという点で、自信を持っておられたのです。それはどういう自信かと言いますと、ペトロはわたしのことを「愛しています」と必ず答えてくれるに違いない、という自信です。それ以外の答えはありえない、という自信です。
なぜそのような自信を、イエスさまは、持つことがおできになったのでしょうか。この問いの答えもはっきりしています。イエスさまは、ペトロの口から「あなたが嫌いです」などと言わせてなるものかというほどに、ペトロのことを心から愛し抜かれたからです。
そういう愛の形があるのだと思います。「あなたのことが嫌いです」などとは絶対に言わせないというほどに、徹底的に相手に仕え、役に立ち、意味のある言葉を語り、喜ばせる、そのような愛の形です。
イエスさまは、弟子たちだけでなく、多くの人々のことを心から愛してくださいました。そして、そのイエスさまは、復活されて、今も生きておられ、わたしたちのことを心から愛してくださっています。イエスさまを信じる人々に、真の救いと喜びの人生とを与えてくださるのは、今も生きておられるイエスさまご自身です。
イエスさまは、わたしたちにも質問されています。「わたしを愛しているか」と。
復活とは、難しい理屈ではありません。復活とは、イエス・キリストにおいて示された真の神の愛をもって共に生きてきた人々との愛を確認しあうために設けられる機会です。
皆さんの大切な人も、皆さん自身も、このわたしも、救い主と共に、復活するのです。
共に復活し、お互いの愛を確かめ合おうではありませんか。
(2007年4月8日、松戸小金原教会主日礼拝)