2007年1月28日日曜日

「約束の聖霊」

使徒言行録1・1~5



本日から、新約聖書の使徒言行録の学びを始めます。



使徒言行録は28章あります。先週まで学んできたルカによる福音書は24章ありました。そのルカによる福音書の学びに約2年かかりました。これから学ぶ使徒言行録も、終わるまでに2年くらいかかるかもしれません。



2年は短いようで長い。いろんな意味で辛抱していただかなければなりません。しかしどうか、使徒言行録の学びが終わるまで、皆さん元気でいてください。もちろん、これが終わったら、まだ次もあります。とにかく聖書を学び続けましょう。それが私の願いです。



「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」



使徒言行録を学ぼうと願った理由は、単純です。使徒言行録の著者がルカによる福音書の著者ルカと同一人物であると考えることができるからです。そして著者であるルカ自身が、この二つの書物を内容的に連続しているものとして提示しているからです。



そのように教会は伝統的に信じてきましたし、この伝統的理解は傾聴と信頼に値します。実際に確認してみれば分かることです。ルカによる福音書の冒頭部分に、次のように記されています。



「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」(ルカ1・1~3)。



読み比べると分かるのは、ルカによる福音書と使徒言行録とは、どちらも「テオフィロさま」に献呈されたものである、ということです。「テオフィロ」(神を愛する者の意味)がだれなのかは分かりません。ローマの政府高官ではないかとか、ニックネームではないかなど、諸説あります。この名前は、ユダヤ人の名前である場合も、異邦人の名前の場合もあります。真相は定かではありません。



そして、使徒言行録の冒頭に書かれていることは「わたしは先に第一巻を著して」です。これがやはり決定的です。この「第一巻」がルカによる福音書であると考えられるのです。「第一巻」の内容については「イエスが行い、また教え始めてから・・・天に上げられた日まで」とありますが、これすなわちイエス・キリストの生涯のことですから、福音書の内容と合致します。つまり、使徒言行録はルカによる福音書の「第二巻」である、ということです。



証拠はこの点だけではありませんが、もちろんそのすべてを紹介しつくすことは、到底できません。1920年代に提起された、かなり古い説ではありますが有名な研究は、ルカが書いた文書である福音書と使徒言行録の中には、たくさんの医学用語が使われている、というものです。



つまり、ルカは医者であった、ということです。使徒パウロのコロサイの信徒への手紙の4・14に出てくる「愛する医者ルカ」が、ルカによる福音書と使徒言行録を書いた、と伝統的に考えられてきた。それを支持しうる根拠もある、ということです。



この説が絶対的に正しいと語ることはできないかもしれません。しかし絶対に間違っている、と否定する理由はありません。そういう場合には、面白い話として受けとめる、というくらいでよいと思います。



さらに、いくらか余談ですが、本を書く仕事ということを考えてみると、やはりそこにはどうしても、ある程度まとまった時間や体力、お金や頭脳が必要であると思われます。とくに長編の文書を書くとなると、なおさらです。第二巻まで書く。そのためには、ものすごいエネルギーが必要です。



また、福音書にせよ、使徒言行録にせよ、手紙とは違います。学術論文でもありません。歴史の教科書でもありません。それは純粋に「物語」です。読者の心をひきつける仕掛けがある。そういうものを書けるのは、相当な能力を与えられている人です。



「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」



復活なさった主イエス・キリストが弟子たちの前に「四十日にわたって」現われてくださった、というこの点は、ルカによる福音書のほうには出てきません。使徒言行録のほうで初めて紹介される事柄です。



この意味は、イエスさまが弟子たちの前に、目に見えるお姿を現わしてくださったのは、ずっとのことではなく、一時的なことであった、ということです。イエスさまのお姿は、四十日後には、目に見えなくなってしまった、ということです。



つまり、二千年前に一度起こった、あのイエスさまの復活は、人類の歴史全体の中では、まばたきほどの時間もない、ほんのごく一瞬の出来事であった、ということです。それを見て信じたのは、まさに一握りの、きわめて少数の人々にすぎなかった、ということです。



それはまた、まさに今、このわたしたち自身がイエスさまのお姿を見ることができない理由も、ここにあります。主イエスさまの復活のお姿を見ることができたのは、たったの四十日間だけだったのです。それ以上は見ることができなかったのです。



その意味で(その意味でだけ!)二千年前のイエスさまの復活を「完全な復活」と呼ぶことができないものがある、と言わざるをえません。ただし、こういうことは乱暴に言うと誤解されてしまいますので、丁寧かつ慎重に言わなければなりません。ぜひご理解いただきたいことは、完全ではないと申し上げたことの意味は、それが四十日間という期間の中だけに限定されていたという一点に一切かかっているということです。



イエスさまの復活の体には、手も足もありました。肉も骨もありました。その意味では「完全な復活」です。しかし問題は、時間が限られていたところです。“期限付き”の復活であった点です。二千年前のそれは、強いて言えば、一時的・暫定的・断片的・不完全な復活です。「完全な復活」は、世界と人類の終末において起こるのです!



この問題は、わたしたちにとって、今地上のどこを探しても、イエスさまの生きておられる姿を見ることはできないことの理由を説明するために重要です。イエスさまの不在の事実をわたしたちは厳粛に受けとめるべきです。参考になるのはハイデルベルク信仰問答です。問47の答えです。



「問47 それでは、キリストは、約束なさったとおり、世の終わりまでわたしたちと共におられる、というわけではないのですか。



 答  キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時もわたしたちから離れてはおられないのです。」



ハイデルベルク信仰問答に書かれていることは、神さまとしてのイエスさまはわたしたちと共にいてくださいますが、地上の人間としてのイエスさまは、今は不在であるということです。



この意味での不在は、やはり、厳粛な事実です。目に見えない霊のお姿としては、片時もわたしたちから離れておられない。そのことももちろん重要なことですが、問題になっていることが復活であり、しかも「肉体の復活」(からだのよみがえり)なのですから、目に見えない姿でしかない状態は、存在か不在かと問われるならば、限りなく不在に近い、と答えざるをえないのです。



キリスト教信仰の真髄としての「肉体の復活」の最も重要な点は、イエス・キリストとわたしたちが地上に戻ってくる、ということです。



もちろん地上の世界にも終末があるのです。しかし、終末において世界は消滅するとか破壊されるというのではなく、永遠性を帯びた世界として、永遠の栄光に包まれた神の国として完成するのですから、地上の世界はそのようなものとして、まさに存続すると信じてよいのです。



そこに、キリストとわたしたちが戻ってくる。それが復活です。それこそまさに、終末における「完全な復活」の様子です。



しかし、その反面の真理として、救い主イエス・キリストは、今から二千年前にたった一度だけ、そしてたった四十日だけ、弟子たちの前に、その復活のお姿を現された。それはいわば「不完全な復活」であった。その一回きりの出来事を、わたしたちは、二千年間、ひたすら信じ続けてきたのです。



それは、「肉体の復活」が起こるというこの点がものすごく大事なことであると、わたしたちは固く信じているからです。使徒信条において告白されている「からだのよみがえり」とは、肉体の復活です。



そして、もう一つの反面の真理が、続くところに明言されています。イエス・キリストの目に見えるお姿が、わずか四十日間の後には、見えなくなる。その意味での不在期間が始まる。しかしそのとき、リリーフが登場する。今は不在であられるイエス・キリストのいわば代わりに、この地上の世界へと来てくださるお方がいる。そのお方こそ「聖霊なる神」である、という真理です。



「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」



「聖霊による洗礼」を「水による洗礼」とはまったく別のものである、と考えることはできません。「聖霊による洗礼」は、一つの比喩であるというべきです。聖霊がきよい水のようにわたしたちの存在の内側へと注がれる。人の体と心が、聖霊によって、まるで水で洗い清められるように、きよくなる。聖霊なる神のお働きによってすべてが新しく美しく造りかえられる。そのことを言いたいのです。



イエス・キリストの不在の間は、聖霊なる神が、地上にいるわたしたちの助け主として共にいてくださるのです。



(2007年1月28日、松戸小金原教会主日礼拝)