2007年2月4日日曜日

「キリストの昇天」

使徒言行録1・6~11



「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。」



弟子たちがこのような質問をしたのは、彼らがイエスさまとはどういうお方であるのかを誤解していたからである、と考える人々がいます。



イエスさまは本来、イスラエルという国を建て直すというような政治的な次元の働きをする政治的な指導者ではない。ところが、弟子たちは、ここに至ってもまだ、イエスさまのことを政治家だと思っていたので、このようなとんちんかんな質問をしているのだ、という見方です。



しかし、そのように考える必要は、全くありません。それが、わたしたちの結論です。イエス・キリストの罪の赦しの福音は、必ずや、わたしたちの日常的・文化的・政治的・社会的次元にも及ぶからです。一人一人の人間の魂が罪の中から救われることなしに国家の再建などありえません。



逆はあります。救われた一人一人こそが、国家が立て直すことができる力を与えられているのです。それは昔も今も同じです。わたしたちは政治嫌いになるべきではありません。イエス・キリストは、「イスラエルのために国を建て直してくださる」お方なのです。



私が重要と考えるのは、弟子たちが復活されたイエスさまのお姿を見て非常に驚いたという点です。いまだかつて見たことがないものを見たのです。まさに前代未聞の出来事が起こったのです。彼らの常識は全く根底から覆されてしまったのです。



ですから、考えられることは、イエスさまに対する彼らの質問は、驚きのあまり口から飛び出した言葉ではないかということです。死は人類の最後の敵です。死人の中から復活されたこの方は、死をも滅ぼす物凄い力をもっておられるのです。そのような力の持ち主であるお方が、われらの国イスラエルを建て直してくださるに違いない。そのように彼らが信じたとしても、不思議ではありません。



ただし、です。この後のイエスさまのお答えが、弟子たちの質問の内容を、ある意味で打ち消しておられるということも否定できません。問題は、イエスさまが弟子たちの質問のどの部分を打ち消しておられるのかです。イエスさまのお答えを読んでみましょう。



「イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』」



第一に、イエスさまのお答えには、弟子たちがイスラエルを立て直す“時”(カイロス)や“時期”(クロノス)についての質問に対する応答の側面があります。



弟子たちが「それはこの時(=今)ですか」と質問したのに対してイエスさまは、それが「今」であるかどうかについては肯定も否定もされないままで、「それはあなたがたの知ることではない」と言われることによって、時期についての言及をお避けになったのです。



しかし、イエスさまのお答えの意図は、それだけではありません。明らかにもう一つの側面があると言わなくてはなりません。第二の側面を理解するための鍵は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」というイエスさまの御言葉の中に隠されています。



この御言葉からはっきり言えることは、このイエスさまのお答えは、弟子たちの質問の内容とはかなり食い違ったものである、ということです。



弟子たちの質問の中で、イスラエルを建て直す仕事をする役目の人である、と思われているのは主イエス・キリストであるということは明らかです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」というわけですから。



ところが、イエスさまのお答えの中では、イスラエルを建て直す仕事をするのは、必ずしもイエスさまではありません。そのようなことは、少なくとも今日の個所では、一言も語られていません。それどころか!



注意深く読みますと、イスラエルを建て直す仕事をするのは、イエスさま御自身ではなく、弟子たちです。「あなたがた(=弟子たち)の上に聖霊が降ると、あなたがた(=弟子たち!)は力を受ける」と言われているのです。



そして、イスラエルの中心地、エルサレムだけではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、イスラエルという国家的・社会的枠組みを越えて、広く全世界へと出て行き、また地の果てまでも、イエス・キリストの福音を宣べ伝える証人となることが求められているのは、「あなたがた」、すなわち弟子たちなのです!



(使徒言行録においては、まさにこの「エルサレム」→「ユダヤとサマリア」→「地の果て」という順序で福音が前進していく様子が描かれています!)



先週私が強調してお話ししましたことは、人間としてのイエスさまは、今は「不在」であるというハイデルベルク信仰問答にも告白されている真理です。そして、イエスさまの不在の期間は、イエスさまの代わりに聖霊なる神が来てくださる、という真理です。



しかし、です。この真理は誤解を受けやすいものであると私は考えております。誤解を避けるために、ただちに別の言葉に言い換えなければならないものです。それはどのような誤解かと言いますと、不在のイエスさまの代わりに聖霊なる神が来てくださると信じることによって、わたしたち自身は相変わらず何もしなくてもよいと考えてしまう誤解です。



これまでは、イエスさまにすべてを頼っていた。これからは聖霊なる神にすべてを頼る。「聖霊さま」にすべてお任せ。このように考えるのは誤解であると、申し上げたいのです。



イエスさまが弟子たちと共に地上の生涯を送っておられたときは、弟子たちも彼らなりに一生懸命に働いていたとは思います。しかしまた、同時に、かなりの部分においては、イエスさまのお働きを見ていただけであった、ということも否定できません。



教会でも、同じようなことが言えます。とくに開拓伝道の時期には、しばしば、宣教師とその家族、あるいは牧師とその家族、あるいは一部の役員さんたちだけが、一生懸命に働いていて、あとのみんなは見ているだけ、という場合があると言われます。



しかし、そのようにして「見る」期間は、非常に大切なものであると、私は信じます。いわゆる見習い期間です。



最初から何でもできる人はいません。今日長老になった人に明日から説教してくださいとお願いして、それは無理ですと断られても仕方がありません。今日洗礼を受けたばかりという人に明日から長老さんになってください、とお願いするわけには行きません。それは、引き受ける側の問題ではなくて、依頼する側の問題です。そのような依頼は、してはならないものなのです。



しかし、問題はその先にあります。それは、わたしたちすべての人間が体験するお別れの問題です。



最初の宣教師、最初の牧師、最初の長老たちは、いつまでも地上に留まってくれているわけではありません。イエスさまでさえ、天に上られて、今は地上においては「不在」なのです。



その場合に、それでは、だれが教会を支えるのか、だれがわたしたち自身の信仰を支え、信仰生活を支えるのか、と考えてみていただきたいのです。



イエスさまの代わりに聖霊なる神が来てくださるという真理は、ものすごく重要です。しかしまた、そこで同時に言わなければならないことがあるわけです。



それは、その「聖霊」は「あなたがたの上に降る」方であるという真理です。そして、聖霊なる神によって「力を受ける」のは「あなたがた」であるという真理です。イエスさまの代わりに働くのは、聖霊であると同時に、聖霊を受けた弟子たち自身なのです。



わたしたちも同じです。聖霊なる神は、わたしたちの存在の中に注がれ、宿られます。聖霊を受けたわたしたち自身が力を得、わたしたち自身が働きに就くのです。



「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」



イエスさまとの“お別れ”のとき、彼らは「天を見つめて」いました。ところが、そこにまたしても(!)白い服を着た二人の人(ルカ24・4と同一存在か?)が現われて、非難とも皮肉とも取れるが、実際には励ましとして語られたに違いない言葉を、彼らは、聞くことになりました。



この言葉を非難ないし皮肉と受けとめるか、励ましと受けとめるかは、この言葉を聞くほうの側の人の心の状態によって変わってくるような気がします。



今まさに、天を見つめて立っている人々に向かって「なぜ天を見上げて立っているのか」と問いかけることは「あなたがたは何をやっているのですか。そんなことをしている場合ではないのではないですか」という非難の意図があると、読めなくもないのです。



実際、そうかもしれません。わたしたちには、いつの日か必ず、お別れのときが来ます。しかし、その日がすべての終わりではない、ということが、もっと重要です。



別れのさびしさに傷つき、苦しむことが悪いなどと、そんなひどいことを言うつもりは全くありません。傷ついてよいと思いますし、苦しんでよいと思います。



しかし、です。別れのさびしさを味わった次の日も、陽はまた上るのです。現実の生活が待っているのです。



会社なら、少しくらい休んでも構わないと思います。しかし、わたしたちは人生を休むわけにはいかない。人生をやめるわけには行かないのです。



イエスさまとの“お別れ”の当日、天を見上げて(ぼーっとして)立っていた弟子たちに与えられた言葉は「なぜ天を見上げて立っているのか」というものでした。



あなたがたの見るべき方向は違うのではありませんか、ということです。“上”ではなくて、“前”である。永遠の世界ではなく、時間の世界、地上の世界、現実の世界である。



“上を見上げて”ではなく、“前に向かって”生きていく。そのわたしたちの目に映る地平線上に、まことの救い主イエス・キリストがもう一度、同じ姿で戻ってきてくださるのです。



そのイエス・キリストは、わたしたちの生きるこの世界を、真に新しく造りかえてくださり、究極的な完成へと導いてくださるのです。



それが、わたしたちキリスト者が持ちうる、最大の希望なのです!



(2007年 2月 4日、松戸小金原教会主日礼拝)