2007年1月21日日曜日

「復活の希望に生きよう」

ルカによる福音書の最後の段落には、イエス・キリストはよみがえられた、ということが、はっきり分かるように記されています。



「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」



読み返してみて面白いことに気づきました。それは、よみがえられたイエスさまがお姿を現わしてくださったタイミングに関することです。四つの福音書で、それぞれ違います。今ここでいちいち比較することは割愛します。申し上げたいことは、ルカの記述には非常に興味深い一つの意図を感じる、ということです。



ルカは、主イエスの復活に関して、大きく分けて三つの出来事を記しています。



第一は、イエスさまのお墓の前で、婦人たちが、二人の人(天使)から、イエスさまはよみがえられたという言葉を聞いた、という出来事です。ただし、このとき婦人たちは、イエスさまのお姿を、まだ見ていません。天使の言葉を聞いた、そして信じただけです。



第二は、先週学びました、エルサレムからエマオまで二人の弟子が歩いている途中に、復活されたイエスさまから聖書の御言葉についての解説をしていただき、共に食事をした、という出来事です。ただし、重要なことは、弟子たちが「この方はイエスさまである」と気づいたときに、イエスさまのお姿が見えなくなった、という点です。



そして、第三の出来事を、これから学ぼうとしているわけですが、イエスさま御自身が弟子たちの真ん中に立ってくださり、弟子たちと直接会話(コミュニケーション)を交わしてくださった、という出来事です。



わたしがこのたび今さらながら気づかされたことは、この第三の出来事が、第一と第二の出来事と大きく異なる点があるということです。それは、順を追って読めば、はっきり分かることですが、第三の出来事に至って、ここに来て初めて、イエスさまが弟子たちの前に、完全にお姿を現わしてくださったのだ、ということです。



第一の出来事のように、天使のようないわば第三者から、話として伝え聞いた、というだけではない。また第二の出来事のように、「この方がイエスさまである」と気づいたときには姿が見えなくなるという、いくらか不完全な感じが残る、断片的なお姿でもない。



ここに来て初めて、全く目に見える、手で触れることができる、直接会話を交わすことができる、全くリアルな存在として、イエスさまが弟子たちの前に現われてくださったのです。それが、ルカによる福音書が描いている順序です。



そして、私が興味深いと感じたことは、第三の出来事が起こったこのタイミングです。それは、ルカが書いているとおりであるとすれば、「こういうことを話して」いたその最中、その瞬間です。つまり、彼らは、婦人たちが天使から聞いて使徒たちへと伝えた言葉を、また、エマオまでの途上で二人の弟子たちが体験したことを「話していた」のです。まさにその最中、その瞬間に、イエスさまが現われてくださったのです。



彼らの言葉がイエスさまを呼び出した、と言いたいわけではありません。人間の言葉が死者の霊を呼び出す、というようなのは別の宗教の話です。



私が申し上げたいことは、お墓の前で天使の声を聞いた婦人たちも、また、エマオまでの旅の途上でイエスさまの聖書解説を聞いた弟子たちも、本当にイエスさまはよみがえられたのだと心から確信して、一生懸命に話していたはずである、ということです。



そのように、まさに一生懸命に話していた彼らの前に、復活されたイエスさまが、お姿を現わしてくださったのです。イエスさま御自身が、「彼らの言っていることは本当ですよ」とサポート(支持)してくださるように、あるいはガード(防御)してくださるように、御自身の完全なお姿を現わしてくださったのです。



このタイミングに、イエスさまの弟子たちに対する深い愛情を、読み取ることができるように思います。それが、私がこのたび感じとった、ルカが描こうとした意図です。



「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」



彼らは、なぜ「恐れおののいた」のでしょうか。「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と書かれていますが、彼らが恐れおののいた理由は、イエスさまのお姿が「亡霊」のように見えたからでしょうか。そうかもしれません。しかし、必ずしもそうではないと考えることもできるように思います。



なぜ「恐れおののいた」のかというと、おそらく、彼らは死んだ人がよみがえるはずがない、という絶対的な確信をもっていたからです。「亡霊」の存在なども、おそらく彼らは信じていません。「亡霊」を見たから恐れた、ということになりますと、論理的に言えば、彼らは「亡霊」の存在を信じている、という話になってしまいます。しかし、実際はそうではないのだと思います。



余談ですが、私もそうです。41年生きてきましたが、私は、今まで一度として「亡霊」なるものを見たことがありません。感じたことも全くありません。だからどんなところでも入っていけるし、何も怖くありません。基本的な大前提として、そういうものは存在しない、と思っているからです。私は無神論者ではありませんが、亡霊信仰のようなものを持っているわけではないのです。



しかし、私にとって最も恐ろしいことは、自分の確信を揺り動かされてしまうときです。亡霊など怖くありません。自分の前提が崩されることが、最も怖いのです。イエスさまの弟子たちもそうだったのではないかと思うのです。



だからこそ、ではないでしょうか、彼らは、ここに来て初めて、「亡霊」の存在を持ち出そうとした。絶対的な確信をもって受け入れている、死んだ人がよみがえるはずがない、というこの点が、イエスさまのリアルなお姿を見てしまったときに激しく揺り動かされた。しかし、自分の確信をなんとか維持するために、「亡霊」という新たなる説明の言葉を持ち込んだ。そうとでも言わないかぎり、この事態を説明することは不可能である、と思ったに違いないのです。



しかし、逆に言えば、それほどまでに、復活されたイエスさまのお姿はリアルであった、ということでもある、と言えるでしょう。



「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」



ここから分かることは、よみがえられたイエスさまには、手や足がある。肉も骨もある、ということです。そして何より、ここに書かれているような仕方でイエスさまと弟子たちとが会話されている。コミュニケーションが成り立っている。このことが、何よりも驚きです。焼いた魚を一切れペロリとお食べになったというのも面白い。コミカルな場面です。



私たちの大切な家族や友人たちに先立たれて、何がいちばん悲しいかというと、やはり何と言っても、もう会話を交わすことができないと感じる、この点です。人生の終わりは、コミュニケーションの終わりである。もはや何も語ることができない。何も聞いてもらえない。とくに夫婦や親子の場合には、もう二度と一緒に食事をすることができない。そのように感じるときに、さびしくつらいものを覚えるのです。そうではないでしょうか。



しかし、イエスさまの場合は、そうではなかった、というのです。コミュニケーションをとることができる。食事もできる。そのことが、うれしかったのです。つまり、これは、イエスさまが、わたしたち信仰者たちの日常的な生活とその交わりの中に戻ってきてくださった、ということです。



また同時に、このことは、イエスさまだけの話ではなく、わたしたち自身の話にもなる、というのが、聖書が教えていることです。使徒パウロが次のように語っているとおりです。



「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。・・・しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリント一15・12~20)。



ここでパウロが書いていることは、要するに、イエスさまの身に起こった復活の出来事は、わたしたちの身にも起こります、ということです。キリストが「眠りについた人たちの初穂」である、ということの意味は、死に行くすべての人間の中でイエスさまが最初によみがえってくださった、ということです。イエスさまは、わたしたちすべての人類の中で、最初によみがえってくださった方なのです。



これがキリスト教信仰の真髄です。イエスさまがよみがえられたように、わたしたちもよみがえるのだということです。わたしたちのよみがえった体は、親しい家族や友人たちと共に、会話(コミュニケーション)もできるし、食事をすることもできる。わたしたちは、今味わっているこの楽しい人生を、もう一度取り戻すことができるのです。



そのことを信じなければ、キリスト教を信じる意味は、ほとんどありません。それは、パウロが書いているとおりです。そして、キリストの復活を信じることは、わたしたちの復活を信じることです。それもパウロが書いていることです。わたしたちの復活を信じること、そして復活の希望に生きることが、キリスト教信仰の究極目的です。



「天国でまた会いましょう」という呼びかけ方が間違っているわけではありません。しかし問題は、その天国がどこに実現するかです。天国は地上に打ち立てられるのです!わたしたちは「地上でまた会える」のです!



今の会話も、毎日の食事も、わたしたちの復活の日に、すべて取り戻されます。



今していることの何一つも無駄なことはなく、すべてに意味があり、価値があります。



イエスさまを信じ、教会につながって、安心して、人生を楽しもうではありませんか!



(2007年1月20日、松戸小金原教会主日礼拝)