2007年1月7日日曜日

「生きておられるキリスト」

ルカによる福音書23・56b~24・12



約2年前から昨年11月末まで、80回にわたり、ルカによる福音書に基づいて、イエス・キリストの生涯を学んできました。しかし、ルカによる福音書は、まだ終わっていません。もう少しだけ続きがあります。



ただし、ここから先に書かれていることを「イエス・キリストの生涯」と呼んでよいかどうかは、難しい問題です。間違いなく言えることは、イエス・キリストはあのゴルゴタの十字架の上で死なれたのだ、ということです。聖書にはそのようにはっきりと書かれています。死んでいなかったとか、眠っておられただけだ、と考えることはできません。



そして、もう一つ言わなければならないことは、死に二つ以上の意味はないということです。死とは、命の終わり、人生の終わりです。そして、終わりは終わりです。終わっていないとか、まだ続いていると考えることはできません。終わりは一回限りです。終わりが二回以上あるとしたら、それは終わりではないのです。



イエスさまは、十字架の上で間違いなく死なれました。死なれました、ということは、イエスさまの生涯は終わりました、ということです。イエスさまの生涯は終わったのです。この点でわたしたちは、ルカによる福音書の続きの部分をなお「イエス・キリストの生涯」と呼び続けるのは間違いであると言わなければならないように思うのです。



続きの部分に書かれていることは、言うまでもなく、イエスさまはよみがえられた、ということです。イエスさまの生涯は終わりましたが、イエスさまはよみがえられたのです!



今「イエスさまの生涯は終わりましたが」と申しました。が、この「が」は正しい表現ではありません。正しくは(日本語としては正しくありませんが!)「イエスさまの生涯は終わったので」というべきです。イエスさまの生涯は、終わった「ので」、よみがえったのです。終わっていないものは、「よみがえり」もしません。よみがえりとは、終わったものが戻ってくることです。死んだものが、再び生きることなのです。



「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」



ここに記されているのは、お墓に葬られたイエスさまの世話をしようとする婦人たちの動きです。婦人会の活動、と呼んでおきます。どの時代にも、婦人会の活動が教会全体を支えてきた、と言ってよいでしょう。男性だけで教会がうまく行った試しはありません。



「準備しておいた香料を持って墓に行った」とありますが、23・56には「香料と香油を準備した」とあります。彼女たちが準備したのは、いわゆる「没薬」であると思われます。



「没薬」とは、イエスさまがユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東の国の博士(新共同訳「占星術の学者」)が、宝の箱に詰めて持ってきたもの(黄金、乳香、没薬)の一つです。それが宝となり、贈り物になったということは、たいへん高価なものであり、簡単に手に入るものではなかった、ということを意味しています。



しかし、です。婦人たちが香料をもってお墓に行ったのは、イエスさまの場合だけ特別にそうした、というわけでもないのだと思われます。多少の特別扱いはあったかもしれません。しかし、イエスさま以外の人々の中にも遺体に香油が塗られるケースはあったようです。一種の防腐剤の役割を果たしたと言われます。



ドライアイスがあるわけでない。火葬されるわけでもない。そのまま置いてあるだけです。すぐにでも腐敗臭がしはじめます。わたしたち人間は臭いのです。わたしも、人間ですから臭い。臭いに対処するための香油です。日本の葬儀で線香を焚くのも、本来の目的は臭い消しです。



このようなことは、葬儀専門の業者などない時代には、いつも教会の仕事であり、なかでも婦人の活躍に負うところ多かった、と考えることができるでしょう。そのような大変な仕事を、いつも女性たちが引き受けてくださったということに、感謝しなければなりません。



「見ると、石がわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」



お墓に行った彼女たちが目撃したのは、驚くべきことでした。墓が開けられた。イエスさまの遺体が盗まれた。少なくとも彼女たちが最初に考えたのは、そのようなことだったはずです。なぜなら、目の前にある動かぬ事実は、お墓の穴が開いていたことと、イエスさまの遺体が無かったことだけだったからです。



そのことを、他にどのように解釈することができるでしょうか。たとえば、そこに警察官や検察官がいたとしたら、どうでしょうか。壊された、盗まれた、と考えないでしょうか。



「そのため途方に暮れていると」



彼女たちが「途方に暮れて」いたのは、目の前で起こっている事件そのものがそもそも信じがたいもの、受け入れがたいものであったために困惑、当惑していたであろうことに加えて、この事件の意味を、いろいろと考えていたからではないかとも思われます。



少しこだわってみたいのは、先ほどから申し上げている、壊された、盗まれた、と彼女たちも考えた可能性があるのではないかという点です。この関連で注目していただきたいのは、11節の記述です。



「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」



婦人たちが、イエスさまのお墓の前で起こった出来事を使徒たちに話しましたところ、使徒たちは、その話が「たわ言」のように思われたというのです。「たわ言」とは、意味のない話、ばかげた話、ナンセンスな話ということです。



このように書かれていることから見えてくることは、イエスさまの弟子たちには、現代の人間が持っているような意味での批判的な物の見方や考え方がちゃんとあった、ということです。昔の人間は、迷信的なことでも何でも、簡単に受け入れてしまうのだ、というようなことは、言えない、ということです。



同じように、最初に婦人たちが開いた墓穴、遺体の喪失の事実を見たときに、壊された、盗まれた、というふうにきっと考えたであろうことも、当然であると言ってよいでしょう。それくらいの客観的な物の見方は、彼女たちにも、きちんと備わっていたのです。



しかし、もしそうであるとして、次に考えてみたいことは、彼女たちは、そのとき何を考えただろうか、ということです。



イエスさまの墓が壊され、遺体が盗まれた。それを見た彼女たちが、おそらく真っ先に感じたことは恐怖でしょう。ユダヤ人たちは、イエスさまを十字架にかけて殺すだけでは満足しない。墓を壊し、遺体を痛めつける。まさに、めちゃくちゃにする。そこまでやらなければ気が済まないほどに、イエスさまを憎み、呪い、さげすんでいるのではないか。



そして、このやり方はきっとイエスさまに対してだけではなく、イエスさまを信じる人々に対してもなされるに違いない。そのような恐怖、また絶望を、彼女たちは感じたのではないでしょうか。



「彼女たちは途方に暮れていた」。彼女たちが感じていたのは、本当の恐怖であり、また本当の絶望ではないかと思われます。



イエスさまを信じ続けると、わたしもいつか、このような目に遭う。信じるのをやめようか。そこまで考えたかどうか。それは分かりません。



「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」



この二人の人がだれであったかは、ルカによる福音書には書かれていません。マタイとマルコは「天使」と書き、マルコは「若者」と書いています。とにかく彼女たちは、この二人の人の声を聞きました。



「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」



彼女たちが聞いたのは、喜びの知らせであった、と言ってよいでしょう。



墓は壊されたわけではない、イエスさまの遺体は盗まれたわけではない。目の前の現実はイエスさまを憎む人々が作り出したものではない。そのような人や事件に恐れを抱くことはないことが分かったのです。目の前の現実は、イエスさま御自身が作り出したものであった、ということが分かったのです。



イエスさまが、よみがえられたのだ!



イエスさまが、生きておられるのだ!



そのことを、彼女たちは、イエスさまのお墓の前で、信じることができたのです。このイエスさまの復活を信じる信仰から、キリスト教会の歩みが真に始まったのです。



そして、その後、彼女たちは、よみがえられたイエスさま御自身に直接お会いすることができました。しかし、それは、今日の説教の範囲を超えることです。



ただ、一つの点だけ、最後に申し上げておきたいことがあります。



それは、彼女たちがよみがえられたイエスさまにお会いしたのは、この日のすぐあとのことだった、ということです。死んだら会えるとか、死ぬまで会えない、というわけではなかった、ということです。すぐにお会いできたし、自分の人生の中で、地上の生活の中でお会いできたのです。



この点は、わたしたちとは違うところかもしれません。



わたしたちは、生きている間にこの地上でイエスさまにお会いすることは、できないかもしれません。死んだら会える、死ぬまで会えない、というのは、わたしたちには当てはまることかもしれません。



しかし、です。キリスト教的復活信仰において重要なことは、向こうの世界に行けば会える、ということではありません。



大切なことは、このわたしもイエスさまと同じようによみがえらせていただける、ということです。お会いする場所は、向こうではなく、こちらなのです。



わたしたちの人生が死の中に飲み込まれることが、希望であるはずがありません。



よみがえること、帰ってくることが、希望です。



死は打ち負かされたのです!



(2007年1月7日、松戸小金原教会主日礼拝)