2006年7月30日日曜日
値千金のささげもの
今日お読みしましたところには、きわめて深刻な問題が扱われています。その深刻さの程度はどれほどかと言いますと、この問題でつまずくとわたしたちが実際に信仰を失ってしまう可能性がある、と言わねばならないほどです。
それは献金の問題です。このような聖書の個所を開き、この種の問題を扱うときにわれわれに求められることは、デリカシーです。
この場合のデリカシーとは、微妙で複雑な問題を乱暴に単純化したり切り捨てたりせず、どこまでも丁寧かつ慎重に扱うことができる心配りのことであると理解していただきたく願います。
「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」
イエスさまは、まだエルサレム神殿の境内におられます。
イエスさまは20章の最初から説教を続けてこられました。説教、と言いましても、実際の内容は、かなりの部分が論争です。それは律法学者、祭司長、長老たちとの論争であり、ファリサイ派やサドカイ派との論争でした。
しかし、その一連の説教は、だいたい一段落ついたところと見てよいようです。そして、あたりをきょろきょろ見回しておられたのでしょうか、イエスさまは、ある一つのことに目をおとめになります。それは、神殿の境内に置かれている賽銭箱に献金を入れる人々の姿です。
最初に目をおとめになるのは、金持ちの人々が献金をしている姿です。ただし、ここで一点、注意すべきことがあります。それは、この個所には「金持ちたちは、賽銭箱にたくさん献金を入れた」とは書かれていない、ということです。
実際「たくさん」ではなかったのかもしれません。お金持ちの人だからといって、必ずたくさん献金しなければならないというわけではありません。自分の財産を豊かに蓄えることと、自分の財産を神と教会のために積極的にささげようとする熱心を持つこととは、必ずしも一致しません。
イエスさまは、そういう点も含めて、金持ちの人々の行動をじっと見つめておられたのかもしれません。
今日の個所で大切なことは、これは献金である、という点です。献金はだれから強いられてするものでもなく、あくまでも自発的な意志と信仰によって行うものです。
「あの人はお金持ちだから、当然これくらいの献金はすべきである」というような無言の強制や圧力は、厳に慎むべきです。それぞれの家庭には、それぞれに複雑な事情があるものです。勝手な詮索は、やめなければなりません。
そして、次にイエスさまが目におとめになるのは、一人の貧しい女の人が、献金をしている姿でした。この女性は「やもめ」と呼ばれています。年齢や家族構成などは分かりませんが、何らかの理由で御主人を失った女性であることは、間違いないようです。
「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」
「レプトン銅貨」が、非常に小額のコインであることは否定できません。われわれの10円玉よりは少し価値があるが、50円玉には届かない、というくらいです。二枚ならば百円足らずということです。
それだけが、その女性がそのとき持っていた「生活費すべて」であったというのです。一日百円生活です。つまり、それを失ったら、少なくともその日の生活に支障をきたすということです。はっきり言えば、それがないと食べるにも飲むにも困るであろう、ということです。パン一個、牛乳一本も買えません。
ところが、その「生活費全部」をこの女性は献金してしまった。「してしまった」わけではなく「した」。
「全部である」ということは、部分ではなく全体である。学校の試験でも100点をとれば1番です。100%は1番です。
そうであるならば、彼女がささげた献金は“小額”ではあるが“少額”ではない。つまり額面は“高額”ではなく“小額”ではあるが、この人にとっては“多額”である。客観的には小さいが、主観的・主体的には多い。
このように、イエスさまが、この女性の行為を解釈してくださったのです。
“小額”の献金しかささげることができないからといって、引け目を感じたり卑屈になったりする必要はない、ということです。あなたは堂々と神の前に立つことができる、ということです。それが、今日の個所に記されている重要な点です。
今、わたしは「解釈」という言葉をあえて用いました。違和感を覚える向きがあるかもしれません。しかし、「解釈」はじつに重要です。解釈次第によって実際にその人の生きるか死ぬかが決まる場面がある、と言ってよいほどです。
この女性の場合も、そうだったかもしれません。ひとが生活費すべてを神にささげようと決心するとき、その人の心の中にあるものは、しばしば、何か非常に重大な決意です。問題はお金そのものではなく、その気持ちです。そこにあるのは、決死の覚悟です。背水の陣が敷かれているのです。
また、生活費全部を差し出すこと、そこには「自分の命をささげる」という意味が込められている可能性があります。ひょっとしたら、ヤケクソの要素もいくらか含まれているかもしれません。一つの賭けがあります。しかし、賭けには失敗の可能性もあるのです。
しかし、だからこそ、です。この女性が「レプトン銅貨」二枚をささげているときに、いちばん願っていることは、少し奇妙な言い方かもしれませんが、このわたしの思いや今の生活のありのままの現実を、理解してもらいたい、ということではないかと思われます。
理解してもらいたいというと、誤解を招くかもしれません。多くの人に自分の置かれた境遇を知らしめたい、というような意味ではありません。その点では「知られたくない」と考えることのほうが自然でしょう。また、「かわいそうだ」と他の人から思われたいわけでもありません。それは逆でしょう。
それでは、何なのか。わたしはそれをうまく表現できないのですが、強いて言うならば、「正当に解釈してもらいたい」ということです。あるいは、「まっすぐな目で見てほしい」ということです。穿った見方ではなく、曲がった見方でもなく、です。
よく分からない話になってしまったかもしれません。しかし、これがいわばデリカシーです。献金のこと、お金のこと、このような微妙な話をするときは、少し口ごもっているくらいで、ちょうどよいのです。理路整然と白黒はっきりつけるような話は、できないのです。
しかし、少なくともここではっきりと語ることができるのは、このイエスさまの「解釈」によって、この女性は、ものすごく大きな慰めを得ることができたであろう、ということです。
そして、もう一つ言えることがあるとすれば、それは、わたしたち自身がしていることも、まさにこのイエスさまがしてくださったように「解釈」してもらえるならば、きっと、とても大きな慰めを得るであろう、ということです
ところで、「貧しいやもめ」と呼ばれているこの女性は、御主人を何らかの理由で失ったと考えられますが、その後の人生をどのように過ごして来たかは、想像するほかはありません。
彼女自身にできる仕事は、あったでしょうか。御主人の実家との関係は切れてしまったのでしょうか。子どもはいたのでしょうか。もしいたとして、子どもたちは今どこで何をしているのでしょうか。経済的に助けてくれる人は、いないのでしょうか。いろいろ考えさせられます。
加えて、大いに気になるのは、先週学んだ個所に書かれていることです。律法学者たちが「やもめ」の家を食い物にしているとイエスさまが指摘しておられたところです。先週の個所と今週の個所は、「やもめ」というキーワードを介して連結している、と理解することができます。
しかも、わたしは、先週、ルカ20・47において指摘されている律法学者の悪行は、二つではなく一つであるという解釈もある、ということをご紹介しました。つまり、律法学者たちは、見せかけの長い祈りをするたびに高額の料金(ご祈祷料)を取ることによって、やもめの家を食い物にしている、と理解することもできる、ということです。
先週の時点でわたしは、この解釈を無理に採用する必要はありませんと申し上げました。今も、その考えは基本的には変わっておりません。
しかし、ぐらつく思いもあります。なぜなら、律法学者がやもめの家を食い物にしたと言われる場合、彼らは具体的には何をしたのかという問題をいろいろと考えてみたとき、それは「見せかけの長い祈り」である、ということくらいしか、思い当たることがないからです。
最近しばしば指摘されるようになったことは、当時のユダヤ教団の指導者たちがもし今の時代にいるとしたら、この人々は、かつてそのように考えられていたように「とんでもなく悪いヤツ」というような人々では全くなく、むしろ非常に真面目であり、敬虔であり、尊敬すべき人々であると考えるべきである、ということです。
その点から考えても、彼らがやもめの家を食い物にしていた、というのは、たとえば、彼らは、表の顔と裏の顔を使い分け、陰でコソコソと悪さをしていたのだ、というふうに理解することは難しいのではないかと思われます。
むしろ、われわれが真剣に考えなければならないことは、彼らの宗教的な活動そのもの(見せかけの長い祈り!)のために支払うべき“料金”が、人々の生活を圧迫するものになっていたのではないかという、この点ではないのか、ということです。
つまり、それが意味することは、教会の存在そのものが信徒の家庭生活に負担を強いているという問題を、ここでわたしたちは考えざるをえない、ということです。
しかし、これは、本当にわたしたちにとっては、悩み多き問題であることは、事実です。教会は通常“料金”をとりません。
しかし、だからこそ「献金」で成り立っている団体である、ということです。もっとはっきり言えば、教会は、多くの人々の祈りとささげものによって成り立っているのであり、その意味で、教会のみんなに負担を強いる存在でもある、ということです。
それは、今日お話しすることができない次の段落の問題にも若干触れてくる点です。
「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』」
エルサレム神殿の建物の見事さをほめたたえる人々の言葉をお聞きになったイエスさまが指摘されているのは、この神殿はいつか壊れるということです。どんなに堅い石で作られていても、地上のものは必ず壊れるということです。自然の風化の問題ではありません。人間の心が世界を壊し、あらゆるものを壊す。戦争が起きる、ということです。
しかし、いつか壊れるものであっても、それを維持することが、教会には求められます。「教会の建物など要らない。わたしたちの国籍は天にある!地上では、聖書一冊あれば、机も椅子もないところでも、礼拝はできる」と言われることがありますが、わたしたちは、そのように語らないできました。実際には、礼拝堂は必要なのです。
また、教会の中で最もお金がかかるのは、人件費でしょう。「牧師なんか要らない。万人祭司なのだから。自分一人で本を読んでいるほうが、説教を聴くよりもよっぽど養われる」と言われることがありますが、これもわたしたち自身は言わないできました。実際には、牧師は必要なのです。
しかし、わたしは、急ブレーキを踏んでおきます。教会が教会らしくあるためには、イエスさまを真にみならうことが重要です。イエスさまがお喜びになるのは、大きな金額の献金や、見せかけの行為ではありません。
教会の活動にはたくさんのお金が必要である、ということは事実です。しかし、だからといって「これが教会の現実です。牧師さん、しっかり稼いできてください」というようなことは言わないほうがよいのです。
教会は、お金集めのためだけに存在するわけではないのです。
イエスさまの前では、どんなに演技をしても無駄です。すべて見抜かれてしまいます。
そこに「信仰」があるか。問われているのは、そのことです。
(2006年7月30日、松戸小金原教会主日礼拝)
2006年7月23日日曜日
「律法学者に気をつけよ」
ルカによる福音書20・41~47
今日は、二つの段落を読みました。どちらもイエスさま御自身の説教です。二つの話を無理やり関連づける必要はありませんが、両者は一続きの説教の中で語られたものとして理解することは可能であると思われます。
「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで』と。」このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」
ここでイエスさまが扱っておられるのは、「なぜ人々は『メシアはダビデの子である』と言うのか」という問題です。
「メシア」とは、神の民イスラエルを救う者のことです。救い主のことです。ユダヤ人たちは、メシアが自分たちを助けに来てくださることを待ち望んでいました。
しかも、彼らは、メシアが「ダビデの子」、すなわち、いにしえのイスラエルの偉大なる王ダビデの子孫として生まれる、ということを信じていました。
彼らのこの確信の根拠は聖書そのものでした。「メシアがダビデの子である」ことを論証するための旧約聖書の記事はたくさんあります(サムエル記下7・8~29、詩編89・20~38、イザヤ書9・1~6、イザヤ書11・1~10、エレミヤ書23・5~8、エレミヤ書33・14~18、エゼキエル書34・23、アモス書9・11、ゼカリヤ書12・7~13など)。
しかも、イエスさまの口ぶりから分かることは、「メシアがダビデの子である」と信じているのは一人や二人ではなく、非常に大勢の人々であるということです。要するに、この教えは、当時の世間の常識のようなものであった、と考えられるのです。
ところが、です。イエスさまは、このことを事実上、否定しておられます。イエスさまは、事実上、「メシアはダビデの子ではない」と語っておられるのです。
そのためにイエスさまが引き合いに出しておられるのが、詩編110・1です。イエスさまがおっしゃりたいことは、こうではないでしょうか。
詩編110・1には、「主は、わたしの主にお告げになった」と書かれている。この詩は、ダビデ自身がメシアについてうたったものである。
この詩の中で、ダビデ自身がメシアのことを「主」と呼んでいる。自分の子どもや子孫のことを「主」と呼ぶ人は、通常いない。「主」は神のことだからである。
ダビデがメシアを「主」と呼んでいるとしたら、自分の子どもないし子孫は神であると考えていることになる。神の親は神だからである。つまり、自分の子どもを「主」と呼ぶダビデは、自分のことを神であると考えていることになる。
しかし、そんなことはありえない。ダビデが自分を神であると考えた形跡は、どこにもない。従って、メシアは「ダビデの子」ではない。
これは三段論法です。しかし、わたしたちの関心はここで終わらないと思います。次の関心は、なぜイエスさまは、当時の常識であった「メシアはダビデの子である」という点を公然と否定なさったのか、みんなの前ではっきりと「メシアはダビデの子ではない」とお語りにならねばならなかった理由は何なのか、ということでしょう。
第一に、わたしにとって最も気になることは、「メシアはダビデの子である」と語る人々は、だれに教えられてそのように信じているのか、という点です。
当時の状況と今の状況はかなり違います。最も大きな違いは、当時の一般市民は自分で聖書を読むことができなかった点です。聖書の大きな巻物を個人で持っている人は極めて稀で、持っている人でさえ簡単に手に入るものではありませんでした。
これだけで事情は明白になりました。「メシアはダビデの子である」と語る人々の多く、いやほとんどは自分で聖書を研究してその結論に至ったわけではなく、ある極めて特殊な立場にいる人々による聖書解釈の結果として、そのように教えられ、信じていたのです。
その、ある極めて特殊な立場にいる人々の正体は、はっきりしています。その人々の名は「律法学者」である、ということです。
ですから、ここで申し上げておきたい一つの点は、この場面でイエスさまが言っておられることは、これ自体がすでに「律法学者」に対する批判である、ということです。
つまり、「メシアはダビデの子である」と聖書を解釈し、ユダヤ人一般に教えていた責任は、律法学者たちにあるということです。イエスさまは、律法学者たちの聖書解釈は根本的に間違っている、ということを、はっきりと指摘しておられるのです。
第二に、気になることは、しかし、それでは、先ほどわたしがご紹介しました旧約聖書の個所に書いてあることを、わたしたちはどのように理解すべきなのか、という点です。
単純に読めば、それらの個所にはメシアがダビデの子孫として生まれることが預言されている、という解釈は、それほど無理なもの、強引なものでもないように思われるのです。
問題解決の道は、先ほどすでに示しておきました。それは、ダビデがメシアをそのように呼んでおられる「主」とは、すなわち“神”のことである、という点です。
イエスさまが「メシアはダビデの子である」という教えを否定なさる意図は、メシアはダビデ以外の他の人の子孫であるということではありません。イエスさまの意図は、メシアは「ダビデの子」ではなく、「ダビデの主」、つまり「ダビデの神」である、ということです。
つまり、イエスさまが問題にしておられることは、メシアは誰の子孫かと問われる限りにおいては、どこまで行ってもメシアは誰か人間の子孫である、つまり、メシアは人間である、ということを意味し続けるわけですが、実際はそうではない、ということです。
イエスさまは、メシアは、人間ではなく、神である、と語っておられるのです。
まことのメシアであられるイエス・キリスト御自身が、「わたしはまことの神である」ということを、ここではっきりとお示しになっておられるのです。
「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」
イエスさまは、弟子たちに「律法学者に気をつけなさい」と言われました。律法学者の仕事は、先ほど申し上げましたように、聖書の研究を行い、聖書の中のさまざまな個所を引用しながら、たとえば「メシアはダビデの子である」という結論を出し、それを人々に教えることである、と説明することができるでしょう。
彼らの聖書解釈は間違うこともあります。そのことをイエスさまが指摘されたのです。律法学者たちは神ではなく人間です。だから間違うことがある。この点は語ってよいことでしょう。
しかし、そういうことだけを言っておればよいというわけにも行かない、もっと深刻な事情があることも事実です。なぜなら、当時の律法学者たちは、事実上、聖書を独占していたからです。一般市民は、自分自身の頭と心で聖書の御言葉を味わうことも研究することもできなかったからです。
そのため、もし律法学者たちが聖書の解釈を間違ってしまうならば、聖書を自分の手に取って読むことができず、ただ彼らの聖書解釈の結論を聞いて学ぶことができるだけの人々は、みんな間違ってしまう、ということです。
親亀コケタラ皆コケル。彼らが間違うと、社会全体が間違う。彼らはそれだけの責任と影響力を与えられていたのです。
ですから、こんなふうに表現することができると思います。
彼らはたしかに神ではありません。しかし、神と同じ判断をしなければならない立場にあった。彼らが右と言うと、全体が右を向かねばならない。彼らに与えられていた責任と影響力は、それほどのものであった、という事実を申し上げているのです。
しかし、結果としてそれは良くないことであった、と言わざるをえないようです。彼らに与えられた責任と影響力、あるいは地位やそれに伴う名誉は、彼ら自身にとってなんら良い結果をもたらさなかった。むしろ、彼らをただ傲慢な人間にしてしまっただけである、と言わなければならないようです。
イエスさまによりますと、律法学者たちは、「長い衣をまとって歩き回り」たがったようです。
わたしたち日本キリスト改革派教会の中は、礼拝の中でガウンを着ている牧師たちは、わたしの知るかぎりほとんどいません。ですから、少し安心して大胆に言いますが、宗教服を着たがる教師たちを見かけたら、やや要注意です。服の長さや色によって自分の力や地位を示そうとするのは、イエスさまがお嫌いになった律法学者の道です。
また律法学者たちは「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」ようです。これは、少し言い訳がましいことを申し上げなければなりません。彼らが上席、上座に座っていたのは「座らされる」という面もあるのではないかという点です。どこが上席、上座かというのは、それぞれの社会で異なる面があるとは思いますが。
これは、先ほどの、宗教服を着るかどうかという点にも、当てはまることです。つまり、「着せられる」という面がある、ということです。
たとえば、その教団・教派のルールとして定められている場合は、それを着なければならないのであって、それを着なければ罰せられるのであって、部外者がとやかく言うことは慎まなければなりません。
しかし、です。そこには誘惑があり、落とし穴があります。およそ権力というものを手にすることには、大きな誘惑と、また必ず大きな落とし穴が待ち受けているのです。宗教的権力の場合も、決して例外ではありません。
彼らだって、最初の頃、若い頃は、いくらか純粋な思いを持っていたかもしれません。最初は「着せられている」「座らされている」と感じ、居心地の悪さを覚えながら、そこにいた。
しかし、ひとは、そういうものに、だんだん慣れてくるのです。図々しくなり、要求がましくなる。それを着なければ、そこに座らなければ、落ち着かなくなる。これはじつに深い落とし穴であると思います。
また、イエスさまによりますと、律法学者たちは「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と言います。
これには興味深い解釈があります。「やもめの家を食い物にする」ことと「見せかけの長い祈りをする」こととは、二つのことではなく、一続きのことである、という解釈です。
その解釈によると、「見せかけの長い祈り」は高いお布施を取る。その高額なお布施によって、やもめの家を食い物にする、というのです。
面白い解釈ではあると思いますが、無理に採用する必要はありません。
「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスさま、おっしゃるとおりです、と申し上げたいところです。イエスさまは、律法学者を毛嫌いされているわけではないし、律法学者は不要であると主張しておられるわけでもありません。イエスさまが求めておられることは、彼らが自分の責任を自覚し、罪を悔い改め、正しい道を歩むことです。
今日では聖書をみんなが持っています。どこでも買うことができます。牧師が間違った聖書解釈などしようものなら、たちまち皆さんから批判を受けます。
それでよいと思いますし、そうでなければ困ります。わたしたちには、自分で聖書を読むことができる特権が与えられているのです。聖書を自分で読まないことは、特権を行使しないこと、損することなのです。
しかしそれは、聖書を解釈する者たちが負うべき責任を免れる理由にはなりません。教師に与えられた責任は重大です。
ひとが牧師・教師になる目的は、まさか、宗教服を着ることではないし、上席・上座に座る特権を得ることでもありません。
神と人に仕えること、教会と社会に仕えること。
それだけが、ただそれだけが、教会と牧師の務めです。
(2006年7月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
がな
2006年7月16日日曜日
「生きている者の神」
ルカによる福音書20・27~40
「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」
ここに登場するのは、ユダヤ教のサドカイ派と呼ばれる人々です。ルカはサドカイ派の人々の思想的特徴が「復活があることを否定する」点にあったことを明らかにしています。
サドカイ派と対照的な存在は、ファリサイ派です。ファリサイ派の人々は、サドカイ派とは反対に、復活を肯定していたのです。
使徒言行録23・6~7には、パウロが最高法院で死者の復活について語ったときサドカイ派とファリサイ派との間に論争が生じ、最高法院が分裂した、という出来事が記されています。
両派間の分裂の原因は、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである」(使徒言行録23・8)とあるとおりです。
しかし、今日はこの問題に深く立ち入っている時間がありません。今日注目していただきたいのは、サドカイ派は「復活も天使も霊もない」と考える人々であったという点です。
復活がない。ということは、われわれの人生は死と共に終わる、ということでしょう。天使も霊もない。ということは、いわば目に見えるものがすべて。そのような価値観なり人生観・世界観なりを持っていたということでしょう。現代人的感覚に近い、と言えるかもしれません。いわば全くの唯物論です。
そのような人々がイエスさまのもとに近寄り、質問して来たというのです。それが何を意味するのかは、明らかです。
はっきりしていることは、イエスさまというお方は、「復活があることを否定する」どころか、むしろ、復活を全く肯定し、さらにそのことを多くの人々の前で宣べ伝えておられた方である、ということです。
そのイエスさまのもとに「復活はない」と考えている人々が近づいてくる。そして質問してくる。
彼らの目的は、明らかに、初めからイエスさまに論争を仕掛けることであった、ということです。もっとはっきり言えば、けんかが目的である、ということです。
ですから、彼らがイエスさまに問いかけていることは、本質的にいえば、何ら質問ではありません。彼らがイエスさまに求めているのは、答えではありません。求めているのは、イエスさまの教えの矛盾を突いてみせること、イエスさまを言い負かすこと、論争に勝つことです。
論争を仕掛けてきた動機は、ひょっとしたら、彼らなりに必死なものだったかもしれません。先ほど触れましたとおり、「復活」に限ってはサドカイ派とファリサイ派が激突する関係にあったわけですから。
サドカイ派としては、早いうちにイエスさまを言い負かしておかないと、ファリサイ派とイエスさまのグループが手を組んで、われわれサドカイ派を滅ぼしに来るとでも考えたのではないでしょうか。“政治的に”発想する人々は、往々そういうことを考えるものです。
「『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』」
サドカイ派が持ち出してきたのは、申命記25・5以下の言葉です。その個所には、新共同訳聖書の小見出しに「家名の存続」とあるとおり、ある家の家名というものを存続させるためにどうするか、という問題が扱われています。
そのために、七人の男性の妻になったが、一人の子どもをもうけることもなかった女性、という話は、旧約聖書続編のトビト記3・8などに出てきますので、ユダヤ教の中ではよく引き合いに出される話だったのかもしれません。
そういうことがかつてなされていたという点は、聖書に記されているとおりですので、否定できません。しかし、わたしたちは、旧約聖書の律法については、すべてをそのまま何もかも字義通りに現代社会に適用しなければならないわけではない、という聖書解釈の原則を信じています。
この原則は、ウェストミンスター信仰告白19・4において、(やや難しい表現ですが)「一政治体としての彼らに対してもまた、神は多くの司法的律法を与えられた。これは、その民の国家と共に終わり、その一般的原則適用が求める以上には、今はどのような事をも義務付けていない」と表現されているものです。今日の個所でサドカイ派が持ち出してきた申命記25・5以下などは、この点が最も当てはまるものの一つです。
ですから、ぜひご理解いただきたいことは、聖書にこう書いてあるのを読んで、「わたしたちもそうしなければならない」というふうに考える必要はない、ということです。
ただし、です。「家名の存続」という問題は、古いといえば古い、しかし、全く死に絶えてしまった問題であるかといえば、決してそうは言い切れない、ある人々にとってはいまだに非常に深刻で、悩み多き問題であり続けているものであることは、明らかです。
わたしのように受け継ぐべき財産など持ち合わせていない部類の者にとっては「家名の存続」などは、ほとんど意味がありませんし、どうでもよいことです。しかし、このような問題が“どうでもよくない”人々がいることは、否定できないし、ある面で尊重しなければならないことでしょう。
ところで、「すると、復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」と、サドカイ派の人々は問いかけてきました。この問いには、じつにいろんなことを考えさせられる内容がある、と感じます。
わたしが感じる第一の点は、この質問は、全く同じではないが、どこかで聞いたことがあるような気がするものではある、ということです。
ただし、わたしたちが聞くとしたら、こういう質問だと思います。「その女の人は、どのご主人のお墓に入れられることになるのでしょうか」。このように問われる場合には、必ずや深刻な面持ちが伴っています。
第二の点は、これはわたしの全くの想像にすぎませんが、この質問をしながらサドカイ派の人々は、ニヤニヤ笑っていたのではないか、ということです。
しかし、そうだとしたら、全く許しがたいことです。家庭の問題、結婚の問題、夫婦の問題、親子の問題などは、実際に体験した人にはすぐに分かっていただけることですが、非常に重く複雑で、頭が痛いことばかりです。
わたしが感じることは、そのような問題に巻き込まれた経験があり、また心や体の痛みを実際に感じたことがある人にとっては、サドカイ派の人々が言っているようなこと、「すると、復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか」というようなことは、もし仮にたとえ話としてであれ、あるいは冗談としてであれ、簡単に口にすることができないほどのことである、ということです。
ところが、彼らはそういうことを平気で口にする。そういうことをイエスさまとの論争の材料にする。この無神経さが、わたしには理解できません。
第三の点は、このサドカイ派の質問は、いろんな意味で巧みに人間の心理の落とし穴を突いて来るものではあるということです。
ただし、これは人によって全く違う面があります。わたしが出会って来た人々の中でも、全く正反対の反応がありました。
ある女性は、先立たれた主人に「もう一度会いたい」ということを切望していました。しかし、全く正反対の反応は――これを言うとショックを受ける男性がおられるかもしれませんが――「二度と会いたくない」というものでした。
サドカイ派は、復活などそもそも信じていないわけですから、彼らが発した「復活の時、だれの妻になるか」という問い自体は、彼ら自身にとっては意味がないものです。
ところが、この問いは、むしろ、復活を信じる人々のほうにこそ、落とし穴になるかもしれない。そこが、わたしには、とても気になる点です。
はっきりしたことを言うことは、慎まなければなりません。しかし、たとえば、複数の結婚を経験してきた方々にとっては、「復活の時、だれの妻(または夫)に“なりたい”か」という問いは、ものすごく深刻なものでありうるはずです。
「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。』」
イエスさまのお答えは、わたしたちにとって必ずしも分かりやすいものではないように思われます。きちんと腹に納まる、というよりは、聞くと余計にあれこれ考えさせられる要素が増える、と言うほうが近い感じがします。
しかし、です。イエスさまのお答えは全体として慰めに満ちている、と申し上げておきます。とくに注目していただきたいのは、復活させていただける者たちは、「めとることも嫁ぐこともない」し、「死ぬことがない」という点です。
ぜひ御理解いただきたいのは、イエスさまが教えてくださっているこれらの点は、わたしが先ほどから持ち出しているいくつかの問題に対して、非常に深い慰めに満ちた答えを与えていただけるものである、ということです。
先ほどからの問題とは、「わたしは、だれの墓に入るのだろうか」とか、「復活の時、わたしは、だれの妻(または夫)になるのだろうか」とか、「女性として生まれてきた意味は子どもを産むことなのか」とか、「家名を受け継ぐことがわたしの人生の目的なのか」というようなことです。
イエスさまは、これらの問いに対して、直接的な答えを教えてくださってはいません。しかし、答えを出すための方向性は、はっきりと見えていると言ってよいのではないでしょうか。
イエスさまが教えてくださっているのは、復活の時、わたしたちは、「めとることも嫁ぐこともない」し、「死ぬこともない」ということです。
つまり、復活の時には、結婚の問題、夫婦の問題、お墓の問題、それらを含む家庭や家督の問題、そのようなものは、もはや全く無いし、すべて解決しているし、悩むことも苦しむこともない、ということです。
そして、わたしたちが復活を信じるとは、すなわち、そのように信じてよいということです。まさに今、わたしたちの頭と心を悩ませている、さまざまな悩みや問題から全く解放される日が来ることを信じてよい。それが復活への信仰である、ということです。
ただし、誤解がありませぬように。これは現実から逃避したいがための理屈ではありません。そんなはずがありません。そうではなく、むしろこれは、さんざん苦労してきた(させられてきた)人々に、安息の日が与えられる、という約束です。
夫婦や親子が必ずいつも憎しみ合っていたり、角を突き合わせていたりするわけではありません。しかし、問題はあります。悩みがあり、苦しみがあります。
そのようなわたしたちが、いつか必ず永遠の安息を味わうことができる、ということです。
苦しみはいつまでも続くわけではない、ということです。
自由の喜びを楽しむことができるのです。
復活の時まで、お子さんやご主人やおくさんの面倒を見る必要はありません。
もう十分なのです!
「『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」
この御言葉の意味を説明するのは、少し難しいと感じます。神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であられることとの関連で語られています。
ということは、イエスさまの意図は、われわれの神は、アブラハム、イサク、ヤコブというあの旧約聖書の信仰の偉人たちのように神の前で信仰をもって生きている、そのような人々の神である、ということでしょうか。
たしかにそのように考えるならば、いくらか理解できるようになるところがあります。つまり、「生きている者の神」とは、要するに「信仰者の神」である、ということです。
そもそも、復活ということそれ自体、また復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、死ぬこともないというのは、いずれもわたしたちにとっては「信じるべきこと」であり、信仰の次元の事柄です。
信仰は持ちたくないが、復活だけはしたいというのは、やや虫が良い話です。
神を信じる人だけが、復活を信じることができるのであり、復活の希望に生きることができるのです。
(2006年7月16日、松戸小金原教会主日礼拝)
2006年7月9日日曜日
「教会と社会の関係」
ルカによる福音書20・20~26
今日の個所にも、イエスさまの命をつけ狙う者たちが登場いたします。そういう文脈を全く無視して、今日の個所を理解することはできません。
「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」
最初に問題すべきことは、「正しい人を装う回し者」とある「正しい人」(ディカイオス)とはどういう意味かという点です。
それは、一言でいいますと、「神の律法に忠実な人」という意味です。それは、当時の文脈では「熱心かつ敬虔なユダヤ教徒」という意味になります。
ここでまず、やや余談として申し上げておきたいことは、わたしたちが気をつけたいことです。それは、「正しい人を装う回し者」とは、少なくとも外見上は「正しい人」そのものである、ということです。
いかにも怪しげであり、その正体をすぐに見破られてしまうような“脇の甘い人”は、「回し者」(スパイ)にはなれません。これ以上申し上げることは控えます。
回し者たちが「イエスさまの言葉じりをとらえ」ようとしました。そして「総督の支配と権力にイエスを渡そうと」しました。
彼らがこのような謀略を企てた理由として考えられることは、当時ローマ帝国の支配下にあったユダヤの国の中で、逮捕権を持っていたのはローマ軍であった、ということです。
彼らが考えたのは単純なことです。イエスさまの口からローマ帝国に逆らうような言質(げんち)をとることです。その言質をとることができさえすれば、ただちに、彼らからローマ軍の総督に訴え、あのイエスを逮捕してもらうことができる、と考えたのです。
「回し者らはイエスに尋ねた。『先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』」
彼らが言っていることの前半は、読まなくてよい、または聞かなくてよいような話です。ただのおべっかであり、続く話の枕詞(まくらことば)にすぎません。早く終わらせてほしいものです。
きちんと対応すべき内容があるのは後半です。「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
ここで「わたしたちが」とあるのは、文脈上、「わたしたちユダヤ人が」と読んで間違いありません。ローマ帝国に支配されているこのわたしたちユダヤ人が、です。
ただし、少なくとも当時の文脈において「ユダヤ人」とは「真の神を信じる人々」のことを指すことになります。単なる民族的な意味だけに押し込んでしまうと、かえって理解が難しくなるでしょう。ここでは、むしろ「わたしたち、真の神を信じる者たちが」とか、「わたしたち信仰者が」と言い換えておくほうがよいと思われます。
「皇帝に」とありますが、これはもちろん“ローマ皇帝に”、です。しかしまた、この点も、字義的には今申し上げたとおりではありますが、重要なことは、ローマ帝国がユダヤの国を支配していたという点です。
当時のユダヤの国はローマ帝国の属国です。そしてここで最も大きな問題は、とくに「正しい人」と呼ばれる正統的ユダヤ教徒にとってローマ帝国は、根本的に“異教社会”であった、ということです。
しかも当時のローマ皇帝は、非常に強大な権力をもち、傍若無人にふるまう人でした。ですから、当時の文脈において、「ユダヤ人がローマ皇帝に税金を納めること」の意味は、正しい神信仰をもっている人々が異教社会の権力者に対し、その権力者が傍若無人にふるまうための活動資金を提供してよいか、ということになります。
そして「律法に適っているかどうか」とは、当時の文脈から言っても、またわたしたちの信仰的立場から言っても、「聖書の教え全体に適っているか」ということであり、そしてまた「神の御心に適っているか」という意味です。
したがって、この文全体を噛み砕いてもう一度言い直しますと、「わたしたち神を信じる者たちが、異教社会の権力者に対し、その権力者がその国と世界を支配するために用いる税金を納めることは、神の御心であるか」というふうになると思われます。
おそらく、皆さんの中には、わたしがわざわざこのように言い換えてみなくても、この文章の意味などは、すぐに理解できる、という方も多いだろうと思います。
しかし、このように言い換えてみて、改めて、はっと気づかされることが、わたしにはありました。それは、彼らが発した問いには、深刻な内容がある、ということです。
といいますのは、「わたしたち神を信じる者たち」という点を、わたしたちの場合ならば、たとえば、「わたしたち教会の者たち」と言い換えても構わないはずです。
そして「異教社会の権力者」という部分は、たとえば「わたしたち日本の社会の権力者」と言い換えてもよいでしょう。
とはいえ、もちろん、今の税金制度と二千年前のユダヤの税金制度とを一緒くたにして考えたり語ったりすることはできませんし、それはメチャクチャです。わたしは、そういうことを申し上げたいわけではありません。
しかし、このことを、いわばもっと根本的で原理的な問題として考えてみる。そのとき、たとえば、わたしたちキリスト者が、日常生活の中で、ふと次のような願望を持つことがありうるのではないか。
それは、次のような願望です。
すなわち、もしわたしたちが生きている家庭や社会や国が、わたしたちと同じ信仰ないし宗教を持つ仲間たちだけで満たされるようになってくれればよいのに、という願望です。
そうなりさえすれば、わたしたちが、日々それを抱えて生きているいくつかの重い悩みが解決するのにと、つい考えてしまうことです。
そのような願望が頭をもたげる理由は、はっきりしています。わたしたちの日常をとりまく問題の多くが、いろんな種類の宗教問題であることは、否定できないことだからです。
その種の宗教問題を政治的に全く解決させてしまう道があるとしたら、それはおそらく「一宗教に基づく一国家を形成する」ということだけです。もしそれが可能であるならば、少なくともその国の中では宗教にまつわる対立や紛争は、起こらなくなるのではないか。
「正しい人」と呼ばれていたユダヤ教の正統派の人々の“国”についての考えは、どうやら、今わたしが申し上げたような道筋で思い描かれるあり方に近かった、と思われます。だからこそ、わたしたちが皇帝に税金を納めることは律法に適っているか、という問いが出てきます。
すなわち、それは、異教社会の親玉に信仰者が税金を納めることは、事実上、その社会や権力者の存在を肯定しているのと同じではないのか。それは、正しい信仰とは言えないのではないか、という問いである、ということです。
しかし、この問いの立て方は、やはり、わたしたちにとっては、非常に危険な「誘惑」であると言わざるをえません。
そもそもこれは、イエスさまの言葉じりをとらえるための罠です。そして、なおかつ、わたしたちのある種の願望、はっきり言いますと、一種の逃避願望をくすぐる内容をもった罠である、と言わざるをえません。
その道を、わたしたちは、選択することができません。教会は社会に対して無批判であってはなりませんが、だからといって、教会は社会から逃避してはならないのです。
税金の不払い運動などには、ある種の英雄的な要素があります。イエスさまの活動を支持していた側のユダヤ人たちの中には、イエスさまに対し、そのような英雄性を期待していた人々もいたと思われます。
考えられることは、ユダヤ人たちの中に、ローマ帝国への税金を払いたくないと思っている人々がいた、ということです。
彼らの究極的な願いは、ユダヤの国のローマ帝国からの独立です。その運動を勝利へと導いてくれるメシアを、彼らは待ち望んでいた。イエスさまに期待していた人々は、この人こそ真のメシアであると信じていた。その期待にあなたは応えるつもりがあるのですかという問いかけが、この問いには含まれています。そのように考えることができるのです。
しかし、です。この問いに対して、もしイエスさまが、「ローマ皇帝にユダヤ人が税金を納めることは神の律法に反することなので、やめるほうがよい」とイエスさまがお答えになったとしたら、はい、そこでただちにローマ軍が攻め寄せて、イエスさまを逮捕してもらうことができる。
これが、回し者たちを送り込んできた人々の真の目的であった、ということです。
「イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。」
このイエスさまのお答えには、以下のような代表的な解釈があります。
第一の解釈は、デナリオン銀貨に肖像と銘とが刻まれているローマ皇帝は、国家権力のシンボルではあるが、宗教的シンボルではない。したがって、皇帝に税金を納めることは宗教的礼拝行為には当たらないので何ら構わないと、イエスさまがおっしゃった、という解釈です(E. シュタウファーら)。
第二の解釈は、要するに、ここでイエスさまは、皇帝と神の両方に税金を支払いなさいと言われたのだ、というものです。もっとも、神さまに税金を支払うことはできませんので、神さまから日々いただいている恩義をお返しすること、より具体的には、教会に献金する、というようなことです。
これら二つの解釈に共通していることは、イエスさまはローマ皇帝の存在や権力を肯定し、評価しておられたという結論を必然的に導き出すものである、ということです。
また、この理解に基づいて、イエス・キリストの教会は、教会と国家の分離(この意味での“政教分離”)を肯定し、評価すべきであるという結論を必然的に導き出すものです。
しかし、わたしたちのとるべき解釈は、これらとは違います。イエスさまは、ここで何も、そのようなことをおっしゃっているわけではありません。
そもそも、天地万物の創造者なる神とローマ皇帝とが、肩を並べて登場してよいはずがありません。神さまは神さまです。皇帝は神に創造された一人の人間にすぎません。
ローマ皇帝個人も、またローマ帝国という国家も、絶対視されたり、神格化されたりしてはなりません。イエスさまが神と人間を同格のものとして認めるようなことを、おっしゃるはずがないのです。
わたしたちのとるべき解釈は、このイエスさまのお答えは、あくまでも、回し者たちに対する批判である、ということです。
強調はどこまでも「神のものは神に返しなさい」という点にあります。これは使徒言行録5・29の使徒ペトロの言葉に表わされている確信と共通するものです。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5・29)。
イエスさまのメッセージは、こうです。
あなたがた回し者は、巧みな問いかけによって、わたしをはめて、逮捕させようとしている。ローマ皇帝の権威を肯定し、軍隊にわたしを引き渡そうとすることによって神に背いているのは、あなたがたである。
「神のものを神に返さなければならない」のは、あなたがたである!
(2006年7月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
2006年7月2日日曜日
「ぶどう園と農夫のたとえ」
ルカによる福音書20・9~19
今日の個所に記されているのも、イエス・キリストのたとえ話です。このたとえ話は、先週の個所(20・1~8)との関連で読んでいくと、よりよく理解できます。
「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。」
この中で注目すべき表現は「民衆に」です。今日の個所と同じ話は、マタイ福音書(21・33~46)にもマルコ福音書(12・1~12)にも、記されています。しかし、マタイとマルコには、イエスさまが「だれに向かって」この話をなさったかという点は、記されていません。
ところが、ルカ福音書には、イエスさまがお語りになった相手は「民衆」(ラオス)である、ということが記されています。この点は注目に値します。
そして、ここで気づくべきことは、この「民衆」とは、先週の個所に登場する「イエスが神殿の境内で…教えておられた」“民衆”である(20・1)、ということです。
ここでわたしたちは、もう一歩踏み込んで考えてみるべきです。「民衆」と呼ばれている人々は、だれのことでしょうか。
ほとんど明らかなことは、この「民衆」は、「祭司長、律法学者、長老」など“特殊な”人々から区別されている、その意味での“一般的な”人々のことである、ということです。
そして、思い起こしていただきたいのは、先週学んだことです。イエスさまがエルサレム神殿で福音を告げ知らせておられるとき、「祭司長、律法学者、長老」など“特殊な”人々が邪魔しに来た、という話です。
この人々は、イエスさまのお話に聞く耳を持っていません。それどころか、邪魔し、かつイエスさまを殺したいと考えているのです。
それに対して、一般的な人々(民衆)は、どうであったか。イエスさまのお話を喜んで聞いたのです。この人々は、聞く耳を持っていたのです。
考えてみていただきたいことは、皆さんならばどうでしょうか、という点です。
たとえば、誰かに向かって話をする。そのとき、聞く耳を持っている相手と、聞く耳を持っていない相手との両方がいる。
その場合、皆さんならば、どちらのほうに、“一生懸命に語ろうとする”でしょうか。あるいは、どちらのほうに、“語りたい”と感じるでしょうか。
人によって異なることかもしれません。わたしは、やはり、聞く耳を持っている相手に向かって、一生懸命に語ろうとするし、語りたいと感じます。これは当たり前のことではないでしょうか。
この点ではイエスさまも同じだったのではないでしょうか。そのように思われてなりません。イエスさまは“聞く耳を持たない”「祭司長、律法学者、長老」に対してではなく、“聞く耳を持っている”「民衆」に対して、御自身の御言葉をお語りになっているからです。
そして、じつは、この点こそが、今日の個所のたとえ話全体のテーマでもある。そのように理解することができると思います。
「『ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産相続は我々のものになる。」そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。』」
結論のほうから先に言わせていただけば、このたとえ話の内容は、19節に記されているとおり、まさに「律法学者たちや祭司長たち」にとって「イエスが自分たちに当てつけて」話したものであると、気づくようなものである、ということです。
これはたとえ話ですから、一つ一つの言葉が何を指しているのかを、考えてみる必要があります。考えられることを申し上げておきます。
「ぶどう園」とは、神の民イスラエルです。「主人」は神さまです。そして、「農夫たち」とは、神の民イスラエルの霊的・宗教的な指導者たちのことです。ここまでは、はっきりしていると思います。
解釈が難しいのは、主人がぶどう園に遣わした「僕」とは、だれのことか、です。
途中のややこしい議論をすべて省いて結論だけ申し上げるならば、この「僕」とは、イスラエルの預言者たちのことであると思われます。
あのイザヤであり、エレミヤであり、また多くの預言者であり、また最後の預言者であるバプテスマのヨハネである。そのように考えることができるでしょう。
預言者たちは、神の御言葉を携えて、神殿や民衆の間で語りました。しかし、彼らの言葉は、イスラエルの民にも、また神殿で働く者たちにも、必ずしも喜んで受け入れられたわけではありませんでした。むしろ、反発され、嫌われ、責められ、疎外されました。袋叩きにされたり、傷を負わされたりする「僕」の姿は、まさにイスラエルの預言者の姿そのものです。
そして、最後に出てくる「愛する息子」とは、誰のことでしょうか。農夫たちは、この息子を殺してしまいます。農夫たちに殺されるのは、イエスさま御自身です!そのことを、イエスさまは、はっきりと自覚なさっているのです。
農夫たちが主人の息子を殺した動機は「財産相続は我々のものになる」という点です。
それは、あらゆる意味での「財産相続」です。知的・霊的な財産だけではなく、そこには量的・物理的な財産も含まれます。すなわち、エルサレム神殿の財産、神の民イスラエルの財産、ユダヤの国の財産です。
それら一切を、彼らが独占する。そのために邪魔になるすべての存在を抹殺してきたのです。イエスさまはその人々の狡猾さと謀略を熟知しておられたのです。
もちろん、はたして本当に、彼らが感じたとおり、イエスさま御自身がこのたとえ話を意図的ないし計画的に“当てこすり”のためにお語りになったのか、という点については、必ずしもそうではないと考えてみる余地があるように思われます。なぜなら、“当てこすり”うんぬんという点は、彼らがそのように感じたというだけであって、イエスさま御自身の意図かどうかが明記されているわけではないからです。
ただし、今日の個所に紹介されている場面でのイエスさま御自身が置かれている状況を考えると、そのような語り方をせざるをえなかった面があることを、否定できません。
忘れてはならないことは、その場所はエルサレム神殿の境内である、ということです。イエスさまの説教を聞いている人々の中に祭司長、律法学者、長老たちがいました。その人々は、最高法院の議員でした。最高法院の議員とは、まさにまもなくそのことが実際に起こるように、人を死刑にさえ定める“権威”を持っていた、そういう人々であった、ということです。
ですから、イエスさまが「当てこすり」をお語りになった理由として考えられることは、その人々に対する積極的な挑発であったというよりも、むしろ、その人々の前で逮捕容疑の言質(げんち)となるような“直接的な”言葉をお語りになることをできるだけお避けになった、ということです。
イエスさまが弟子たち以外の前では「たとえ話」をお用いになったという、あの有名なエピソードも、結局今申し上げた点にかかわっていると説明することができるでしょう。
ただし、どうか誤解がありませぬように。
わたしが申し上げていることは、イエスさまがエルサレム神殿の権威者たちの存在を、そして、彼らに逮捕され、死刑にされることを、“恐れておられた”という意味ではありません。恐れなど全くありません。
しかし、強いて言うならば、イエスさまとしては、無駄な論争などに巻き込まれることについては、それをできるかぎりお避けになった、ということは、事実であると思われます。なぜでしょうか。
わたし自身は、この問いにお答えするために、ごく単純な点に集中してみたいと願っています。それが、今日の最初に申し上げた点です。
すなわち、それは、イエスさまが御自身の御言葉を、聞く耳を持っている人々(民衆!)に向かってこそ、全力を尽くしてお語りになる、という点です。
エルサレム神殿に来られる前、ガリラヤ地方で伝道活動をされていたイエスさまのお姿は、本当に楽しそうです。民衆に近くあり、笑顔で牧会される、生き生きとした、また“若々しい”とさえ言いうるイエスさまのお姿を、容易に想像できます。
ところが、エルサレム神殿に到着されてからのイエスさまはお暗い感じです。なぜなら、イエスさまの周りには、命をつけ狙う多くの人々が、とりまいていたからです。御言葉をお語りになる場合でも、その人々の存在を常に意識しなければなりませんでした。
しかし、どうでしょうか。そんなのは、うんざりです。だって、そうではありませんか。イエスさまの前には、聞く耳を持っている多くの人々がいました。「民衆」(ラオス)がいました。その人々は、イエスさまの存在とお語りになる御言葉に、関心を寄せています。イエスさまに助けを求め、救いを待ち望んでいるのです!
その人々を、イエスさまは、ただ助けたいだけです。ただ、それだけなのです。初めから聞く耳を持っていない人々との、どうでもよい、無意味な論争などに巻き込まれているヒマはないのです。はっきり言って、そんなのは、時間と体力の無駄です。
そんな人々にかかわっているヒマがあったら、一言でも多く、一秒でも長く、御言葉を語っていたい。それがイエスさまのお気持ちではないか。そのように考えられるのです。
「『さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』彼らはこれを聞いて、『そんなことがあってはなりません』と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。』」
この個所で問題になるのは、ぶどう園の主人が農夫たちを殺す、という言葉が、あまりにも衝撃的すぎる、という点です。
主人が神さまのことであり、農夫たちがイスラエルの指導者のことだとすれば、なおさらです。神さまは、彼らを抹殺なさるのでしょうか。神の御子イエスさまは、エルサレム神殿でテロ行為を働くのでしょうか。「そんなことがあってはなりません」と反応した人々がいたことは、無理もありません。
しかし、イエスさまは「彼らを見つめて」言われました。わたしは、ここでイエスさまがニヤッとお笑いになったのではないかと、想像いたします。
そしてイエスさまが引き合いに出されたのは、旧約聖書の御言葉です。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」(詩編118・22、新共同訳)です。
問題は、この御言葉の意味は何かということです。イエスさまはその答えを、はっきりとは語っておられません。しかし、イエスさまの意図は明白です。
「家を建てる者の捨てた(または「退けた」)石」とは、イエス・キリスト御自身のことです。イエスさまは、エルサレム神殿の指導者たちから、嫌われ、捨てられ、退けられる。しかし、そのイエス・キリストが「隅の親石」となる、ということです。
「隅の親石」とは、建物の土台のことです。もちろん、その場合の建物とは比喩的な意味です。救い主イエス・キリストという堅固な土台の上にイエス・キリストの“教会”(建物の意味にあらず!)が建つのだ、ということです。
ですから、主人が農夫たちを殺す、という点の意味は、物理的・身体的に抹殺することではなく、“新しい教会”(キリスト教)が建つことによって“古い教会”(エルサレム神殿の宗教)は克服される、ということであると理解すべきでしょう。
そして、先ほど申し上げました、イエスさまはニヤッとお笑いになったのではないかとわたしが考える理由は、詩編118・22の御言葉は、ある意味での“不屈の闘志”のようなものを物語るものであると言いうるからです。
つまり、この御言葉を引き合いに出されることによって、イエスさまは、神殿の指導者たちから、どんなに退けられても、捨てられても、「負けないよ!」というお気持ちを表われているように思われるからです。
そして、その“新しい教会”とは、とりもなおさず、イエス・キリストのお語りになる御言葉への「聞く耳を持っている人々」の教会である、ということです。
わたしが申し上げたいことは、要するに、こうです。
イエスさまの伝道を、だれも邪魔することができない、ということです。
イエスさまに救いを求めて集まる人々を、だれも邪魔することができない、ということです。
どうでもよい論争など、まっぴらです。(権力闘争なども無意味。)
そんなのは、がっかり、うんざり、げんなり、です。
現実に救いを求めている人々が、現実に救われること!
それだけが、ただそれだけが、イエス・キリストの教会の関心であるべきです。
(2006年7月2日、松戸小金原教会主日礼拝)
西川重則著『わたしたちの憲法 前文から第103条まで』(いのちのことば社、2005年)
西川氏は、衆議院及び参議院の憲法調査会と自民党との憲法「改正」の根本的類似点が戦力の保持にあることは疑う余地がないと指摘する。その上で西川氏はチャールズ・オーバービー博士の「第九条の会」創設の意味を考え、元米軍海兵隊員チャルマーズ・ジョンソン氏の「日本人は自国の憲法にもっと誇りを持つべきである」という訴えに耳を傾けるべきであると述べ、そしてまず、日本国憲法をわたしたちの憲法とすることが確かな第一歩であると述べておられる。この点は、わたしも全く異存がない。
そして本書の内容は、現行日本国憲法の前文から第103条までの西川氏独自の視点からの分析と解説である。日本国憲法を学ぶことの必要性を痛感しながらも、日常の多忙やらいろんな理由から、その学びになかなか手をつけられないでいる者(わたしもその一人)にとっては、手頃で平易ゆえに、とてもありがたい一書となっている。
ただし、それは、本書の程度が低いとか内容が稚拙という意味では決してない。わたしが願うことは、多くの人々がとにかく本書を読んでくださること、またできれば買い求めてくださり、さらにいつも手元に置いて日本国憲法の何たるかを日々確認してほしいということである。多くの人々がそういうことをしたくなるであろう非常に優れた一書であることは、間違いない。
ただし、である。以下に書くことは、本書に対する批判ではない。ほんのちょっとだけそう感じた、という程度のことにすぎない。しかし、書かずにはおれない気持ちである。
わたしが何を感じたかというと、本書の中には、あとがきの最後に「平和をつくる者は幸いです」というマタイの福音書5・9(新改訳)の言葉が引用されている以外に、聖書の言葉やキリスト教の信仰の言葉がほとんど全く出てこないのは、やはりちょっとさびしい、ということである。いのちのことば社の出版物の中で、聖書やキリスト教の言葉がこれほどまでに出てこないのはきわめて珍しい例ではないかと愚考する。
おそらくこのことは「私は、憲法の問題は憲法によって解決すべきであるとの思いで多くの事例にかかわってきました」と書いておられる西川氏自身の意図的な表現方法なのだと思う。著者の意図していない点をねだってみてもあまり意味がないので、この点は本書への批判ではない。
しかし、強いて言わせていただけば、本書はたとえば教会の諸会(男子会、婦人会、青年会など)の学びのテキストとしては、やや使いにくい。わたし個人が現在願っていることは、現行の日本国憲法を護持したいという思いを支えうる“神学的根拠”を手にしたいということである。そこが不明瞭であるなら、なかなか元気が出てこないからである。
(『季刊 教会』、日本基督教団改革長老教会協議会、第63号、2006年夏季号、76ページ掲載)