2006年1月22日日曜日

「キリスト教の哲学」

ルカによる福音書14・1~14



今日の説教には、かなり大げさなタイトルを付けました。しかし、難しい話をする意図は、全くありません。だれにでも分かっていただける話をいたします。ここで「哲学」とは、わたしたちがよりよく生きるための知恵、というほどの意味です。それ以上でもそれ以下でもありません。



今日開いていただきましたルカ福音書14章は、よく読みますと、たいへん興味深いことが書かれていることに気づきます。それは1節から24節までイエスさまはずっと同じ場所におられるということです。その場所は1節に記されています。「ファリサイ派のある議員の家」です。「イエスは食事のために・・・お入りになった」と書かれています。



考えられるのは、次のような状況です。ある日・あるとき、ファリサイ派のある議員が、自分の家で宴会を開いた。「議員」とは、最高法院の議員です。国会議員であり、その意味での政治家です。「食事」とは、政治家が開くパーティーです。そのパーティーに大勢の人々が招待されていた。その大勢の招待客の中にイエスさまもおられた、ということです。



ですから、気づくべき第一の点は、今日の個所のイエスさまの御言葉は、パーティーの席での“テーブルトーク”であるということです。“テーブルスピーチ”ではありません。テーブルスピーチは、いくらかかしこまった「挨拶」や「演説」のことでしょう。しかし、テーブルトークは「雑談」です。これは、宴席での自由な歓談であり、おしゃべりである、ということです。



また、わたしたちが気づくべき第二の点は、次のことです。イエスさまがおられるこの場所は「ファリサイ派のある議員の家」でした。そこで宴会が開かれ、大勢の人々が招待されていました。ところが、です。そのような場所にあって間違いなく最も目立っているのは、明らかにイエスさまである、ということです。



これは、よく考えてみたいことです。そこは、イエスさまにとっては、他人の家です。宴会の主催者はその家の主人であるファリサイ派の議員です。この宴会の趣旨ないし目的もイエスさまのためではありません。あくまでもイエスさまは、客人の一人です。しかし、それにもかかわらず、その宴会に集まっていた人々の関心は、明らかにイエスさまに集中していたことが分かります。まさに「人々はイエスの様子をうかがっていた」のです。



ですから、考えられることは、その場に漂っていたものは、なんともいえぬ異様な雰囲気だったのではないだろうかということです。12節以下ではイエスさまは、パーティーの主催者に対してまで、いろいろと注文を付けておられます。



「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。』彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。」



初めの段落でイエスさまがしておられることは、宴会に参加していた一人の病気の人をいやされた、ということです。



「水腫」とは水ぶくれのことです。これを治すために最も手っ取り早い方法は、小さな穴を開けてつぶすことです。そのようなことをイエスさまは、他人の家で、パーティーの席で、なさったのです。



そうなると、わたしたちが気づくべきことは、イエスさまがしておられることの問題は、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」という点でもありますが、それと同時に、「他人の家の食事の席でひとの病気を治すことは許されているか、いないか」という点でもある、ということです。こういうことはテーブルマナーに反するのではないかという疑いが出てきて当然でしょう。



しかし、それをイエスさまはなさったわけです。なさったということは、そうすることは許されている、ということを、イエスさまは確信しておられる、ということです。



「そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』彼らは、これに対して答えることができなかった。」



このイエスさまのお言葉の中で気になるのは「自分の息子か牛が」と、「息子」と「牛」、人間と家畜が同列に並べられているように読めるところです。



しかし、言わんとしておられることは、理解できます。あなたにとって最も大切な存在、かけがえのない存在、価値ある存在、これこそが「自分の息子」であり、「牛」の意味です。そして、もちろん、最も大切な存在が井戸に落ちたら、だれだって、すぐに引き上げるでしょう、そうではないのでしょうか、というのが、イエスさまのお言葉の趣旨です。



そうであるならば、です。イエスさまがここで明らかに問題にしておられるのは、この宴会に客人として招かれている一人一人は、どういう存在なのか、ということです。



来ても・来なくても、どうでもいいような存在なのですか、ということです。大勢いる中の、頭数の一人なのですか、ということです。



しかも、いま、その人が困っている。何かつらい思いでいる。具体的な痛みや苦しみを感じている。そういう人を、あなたがたは、放っておけますか、ということです。律法が、あるいはテーブルマナーが、いま助けを必要としている人を、いま助けることについて、あなたの行く手をさえぎる理由になりますか、ということです。



そこにいた人々は、イエスさまの問いかけに答えることができませんでした。その答えはあまりにもはっきりしすぎていたので答えることができなかったのでしょうか。そうかもしれません。



しかし、少し意地悪な言い方かもしれませんが、もし答えがはっきりしているなら、はっきりと答えるほうがよい。黙っていないほうがよいのです。



「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。『婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、「この方に席を譲ってください」と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、「さあ、もっと上席に進んでください」と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」



このイエスさまの御言葉が非常に辛らつなものであることは明らかです。イエスさまはこのお話を「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて」話し始めておられます。その人々に向かって、そのようなところに座るべきではない、なぜなら、あなたよりも身分の高い人が招かれているかもしれないではありませんか、という話をしておられるのです。ということは、この話の裏側にあるものは、あなたよりも身分の高い人が、事実として存在します、ということについての暗示である、ということです。



しかし、この話には、ユーモラスで痛快な面もあります。わたしたちがこの人生において大きな恥をかかないで生きていくために必要なルールは何か、ということが語られています。それは、あなたは末席に座りなさい、そうすれば、この宴会の主催者が、あなたを上席に連れて行ってくれるでしょう、ということです。



わたしが時々興味をもって読むビジネス雑誌などに書かれていることは、評価とは常に「他人目線」であるということです。自己評価が高くても、他人から評価されないような仕事は意味がない。反対に、自己評価が低くても、他人から評価されればその仕事は完了したと言いうる、というのです。



ここでイエスさまが語っておられることも、ほとんど同じようなことです。自分の価値は、自分で決めるものではなく、他人が決めるものだ、ということです。



教会にも同じことが当てはまるでしょう。わたしたちは、自分がしていることをあまり自画自賛しないほうがよいのです。わたしたちがしていることを教会の外側の人々が見ています。家庭の中でもわたしたちがしていることが見られています。それは厳しい目でもあるでしょう。しかし、冷静な評価も期待できる場合もあるでしょう。



教会は信頼できると思っていただけたら、次のステップが期待できます。教会の存在も、わたしたちの信仰生活も、よい意味での「他人目線」に任せたらよいのです。



「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。』」



これも辛らつな言葉です。「友人も、兄弟も、親戚も、近所の金持ちも呼んではならない」と言われているわけですが、逆に言えば、これは、いまイエスさまの目の前にいる人々がファリサイ派の議員の友人たちであり、兄弟たちであり、親戚たちであり、近所の裕福な人々だったことの何よりの証拠であるということです。こんな人たちを招いてはならないと言っておられるわけです。ずいぶんな言い方だと思います。



また、いまの点に対する、もう一つの点として、イエスさまが障碍を持つ人々のことを引き合いに出しておられるのも、なんとなく引っかかるものがあるといわざるをえません。乱暴な言い方があることは、否定できません。



ただ、しかし、イエスさまがおっしゃろうとしておられる意図は理解できるはずです。要するに、ひとを祝宴に招待したい者は「お返し」という言葉に集約されるようなもの、見返りとか、報いとか、その種の下心を、一切持つべきではないということです。見返りを求めず、下心を持たず、施しなさい、与えなさいということです。



ここでこの人々のためにどれくらい出資したら、あとでこの人々からいくら返って来るだろうとか、そのような計算高い生き方が絶対的に悪いなどと、わたし自身は言うつもりはありません。しかし、いま大切なことは、わたしの意見ではなく、イエスさまの御意見です。



イエスさまの目からご覧になると、そのような生き方は底の浅いものであり、どこかに破れが出てくるし、なんとなくみっともない。そういうものと観られているのです。



今日の個所の内容は、じつに単純で、分かりやすいものです。また、もちろん、とても厳しいものでもあります。



たとえば、いま目の前に実際に困っている人がいるのに、いろんな掟に縛られて身動きがとれないでいる、というような人間の姿は、じつは、他ならぬこのわたし自身である、ということに気づかされるかもしれません。



また、「わたしは常に上席に座るべきである」と思い込んでしまう傲慢からわたしたちを救い出してくれるものが、このイエスさまの御言葉にはあります。



ただ、わたしが感じることは、今日の個所のイエスさまの御言葉は、だれにでも分かる話である、ということです。全く理解できません、と言い張るような人は、そんなに多くないように思うのです。



わたしたち人間には良心というものが与えられています。そして、イエス・キリストは良心の主です。イエスさまは、わたしたちに、無理難題をふっかけてこられるようなお方ではありません。むしろ、当たり前のことを「当たり前である」と、語っていただける、そういう方なのです。



しかし、同時に、イエスさまの御言葉には、わたしたちの罪、傲慢の罪を根本的に打ち砕く力があります。



イエスさまに従って生きるとは、なによりも、傲慢の罪から救われ、謙遜な者につくりかえられていくことなのです。



(2006年1月22日、松戸小金原教会主日礼拝)