2005年11月27日日曜日

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ


イザヤ書40・1~8、ヨハネによる福音書1・1~5

今日から教会の暦で言いますところのアドベントに入ります。イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスの準備をはじめる季節になりました。

そのために、今日、聖書を二個所開いていただきました。旧約聖書のイザヤ書40章と、新約聖書のヨハネによる福音書1章です。このところを、アドベントの期間に学んでいきたいと願っております。

イザヤ書40章のほうを、まずご覧いただきたいと思います。とても印象的な言葉をもって始められています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」

イザヤ書というこの書物には、いろいろな非常に異なる解釈の立場があります。その中で、わたしたちはどの立場かを選ぶべきか、という問いを避けて通ることは、できません。

しかしそのようなことについて詳しく述べる時間は、今日はありません。一つのことだけを述べておきたいと思います。わたしが選んでいる解釈の立場は何か、ということだけを申し上げておきます。

わたしが選んでいる立場は、イザヤ書の40章以下は、紀元前6世紀の時代に生きた預言者が書いたと理解する立場です。それ以上のことは、今日は申し上げません。

そのように考える場合に語りうることは、紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚という出来事が、この個所の記述の歴史的背景である、ということです。

それではバビロン捕囚とは何かということについても、お話ししなければなりませんが、詳しく説明している時間はありません。

ごく簡単に言うならば、神の民イスラエルが南北の二つの国に分裂した後、エルサレムを首都とする南ユダ王国が隣国バビロンとの戦争に負け、エルサレム神殿は焼き払われ、城壁は破壊され、国民の多くが捕虜としてバビロンに連れて行かれ、七十年もの間、強制労働の苦役を強いられたという出来事です。

ただし、誤解がありませぬように。わたしたちが旧約聖書を読んでいくうちに分かってくることは、そのような出来事は、彼らを不意に襲った不幸、予期せぬ災難というようなことではなかった、ということです。

そうではなく、聖書が証ししていることは、明らかに、この出来事は、彼ら自身が神の前で犯した罪に対する神御自身の裁きであり、刑罰として起こったことである、ということです。そのように、聖書には、はっきりと書かれています。

しかも、それは、いわゆる彼らの自業自得であるとか因果応報であるというような意味ではありません。それはむしろ、彼ら自身が、明確に、自覚的に犯した罪に対する正当な裁きです。

それでは彼らはどういう罪を犯したのか、という点も重要です。しかし、そのことも、今日は触れないでおきます。

そのことではなく、今日、皆さんに考えてみていただきたいと願っております第一のことは、次のようなことです。

七十年という時間の長さは、どれくらいのものだろうか、ということです。

皆さんの中には、その長さがどれくらいのものであるか、そこで何が起こるのかということについては、体験的にご存じの方がたくさんおられます。みなさんは、七十年待ちました、ということを、何か持っておられるでしょうか。七十年忍耐しましたと。わたしには無理だろうなあと感じます。それほどの長さです。

神の民イスラエルは、七十年間のバビロン捕囚を忍耐することができたのでしょうか。苦しくなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。途中で嫌になり、やけくそにならなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。

しかし、その捕囚期間が終わりました。あなたの苦役の期間は終わりました。あなたの罪は許されました。あなたは故郷に帰ることができます。

そのことをわたしの民に伝えてください。そして、そのことによってわたしの民を十分に慰めてくださいと、主なる神が、紀元前6世紀に生きたこの預言者に命じたのだということです。それが、まず最初の段落に書かれていることです。

第二に考えてみていただきたいことは、この預言者の言葉を聞いた人々の心は、どのように動いただろうか、ということです。

うれしかったのではないでしょうか。しかしまた、反面、いろいろと複雑な心境ということもあったのではないでしょうか。七十年の間に体験したこと、これもまたこのわたしの人生そのものであって、今さら否定することができない、それはそれで受け入れるほかはないものであるという意味で、いま以上に新しいものを求める気が起こらない、今さら故郷に帰る理由が分からない、という人々もいたのではないでしょうか。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

「呼びかける声がある」と訳されています。もちろん、これでも構いません。しかし、もう少し身近に感じられる訳はないものかと思わされます。わたしが参考にした聖書翻訳では、「ねえちょっと聞いて。だれかが叫んでいますよ!」というふうなニュアンスで訳されていました。

想像しうるのは、王のもとから伝令役を命ぜられた人物が走ってきた場面です。その人が大勢集まっている人々に大声で何かを伝えようとした。その声にその大勢の中のある人が気づいた。そして他の人々に「しっ、ちょっと静かにして。何か声が聞こえます。騒いでいると、何を言っているか聞こえないじゃない」と注意している様子が思い浮かびます。

その声の主である伝令役が伝えようとしていることは、わたしたちの主なる神のために砂漠の真ん中に道を作りましょう、ということです。彼らの故郷にもとあったエルサレム神殿に通じる道を作りましょう、という意味かもしれません。そのような解釈が可能です。

ただし、「荒れ野」と訳されている砂漠という言葉には、字義通りの地理的な砂漠のことだけではなく、多分に象徴的な意味も含まれている、と考えられます。つまり、この言葉には「人生の荒れ野」、「人生の砂漠」という意味も含まれていると思われます。

そのような、人生と心の問題、すなわち、わたしたちのまさに“砂漠のように荒れ果てた人生と心”の問題を、この御言葉の中に読み取ることは許されているでしょう。

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」とありますが、この訳はかなり疑問です。谷や山や丘が、自分自身で身を起こしたり、身を低くしたりできるかのようです。

しかし、ここはおそらくそういう意味ではなく、人間のなすべき仕事を指しています。つまりこれは、谷の部分に土を入れて高くしたり、山や丘を削って低くしたり、でこぼこ道はなめらかに、狭い道は広くする。そのような、わたしたち人間が汗水流して取り組むべき土木作業のことです。

そのようにして、一つのまっすぐな道を作りましょう。そういう道をわたしたち自身が作りましょう、という意味ではないかと思われるのです。

それは何のための道か。主のための、わたしたちの神のための道です。主なる神の栄光を「肉なる者」、すなわち全人類が、またわたしたち一人一人が、仰ぎ見るための道です。つまり、それは、主なる神がそこをお通りになり、わたしたち一人一人のところまで来てくださるための道です。そのようにしてわたしたちと主なる神とが出会うための道です。

そういう道を、ある意味で、わたしたち自身が作らなければならない、ということは、本当のことです。すべて備えられている。道はだれかが勝手に作ってくれる。その道を、わたしたちは、ただ勝手に通るだけだ、というようなことでは、決して済ますことができない何かがある、ということは、本当のことです。

この「荒れ野に道を作ろう」と呼びかける“声”を、新約聖書は、イエス・キリストの道備えをした洗礼者ヨハネのことを指していると解釈しています。大切なことは、ヨハネは人間である、ということです。人間の働きが、何らかの仕方で、評価されるべきです。

わたしの人生は荒れ野であり、砂漠であると、今まさに自覚している人が、そこにただ座り込んでしまってよいでしょうか。道を作ろう、一緒に作ろうという声が聴こえてきたときには、耳を傾けなければならないのではないでしょうか。そして立ち上がって、その事業に参加することが求められているのではないでしょうか。

「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

この段落に書かれていることは一つの会話であると考えられます。「呼びかけよ、と声は言う」とありますが、これもまた別の聖書翻訳には「ねえちょっと聞いて。だれかが何か話しているよ」というようなニュアンスで訳されています。だいぶ違う感じがします。

その聖書翻訳によりますと、その会話の内容は、こんな感じです。

「みなさんにお話ししておきたいことがあります。」
「それは何ですか。」

そして、この人の話が始まります。

「人は草だ、ということです。人間を信じることは、野の花を信頼するようなものです。しかし、草は枯れ、花はしぼむではありませんか。」

そのようなものを信頼することができるでしょうか、できないのではないでしょうか、という意味です。「肉なる者」とは人間のことです。人間は、草に等しいものである。草は枯れる。花はしぼむ。人間も枯れる、人間もしぼむ、と言っているのです。

ですから、これは、やや皮肉っぽく見るならば、ある意味で、人間というものに対する不信感を煽るような言葉である、というような読み方が、可能かもしれません。

わたしたちも人間です。わたしも人間です。わたしは草でしょうか。「あなたは草にすぎない」などと言われると、だんだん嫌な気持ちがしてきます。腹が立ってきます。

しかし、腹を立てる前に考えてみたいことがあります。それは最初から申し上げていることです。この個所の歴史的背景として想定することができる、バビロン捕囚の現実とはどのようなものであったか、という点です。

過酷な労働を強いられること、七十年。自由の利かない、何ものかに束縛された生活が延々と続く。そのような中で、人間を信じることができなくなるのは、無理もないことでしょう。人間を信じなさいということのほうが、無理な話です。

人は草である。草は枯れる、花はしぼむ。このことは、長年にわたって、他の人間からひどい目に遭わされてきた人にとっては、ある意味で、慰めの言葉になりうるものかもしれません。人間を信じるということを強制されることには、もはや堪えられないと感じるであろう人は、じつは、たくさんいるのです。

しかし、それにもかかわらず、です。最も恐ろしいことは、だれのことも、何のことも信じられなくなることです。この世の中にあるもの、生きている人間すべてに絶望することです。それは、現実にはしばしば起こることであるだけに、恐ろしいことです。

だからこそ、でしょう。だれのことも、何のことも「信じられない」と告白せざるをえない状況に置かれ続けた人々に向かってこそ、預言者は、神の御言葉に信頼を置くことの確かさ、大切さ、力強さ、そしてその永続性を語っているのです。

「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。すべての人があなたを裏切っても、です。だれも信用できない、人間を信じることができない、という思いの中に沈み込んでしまったときにこそ、です。神さまの言葉は、それだけは、信用できます、あなたを決して裏切ることはありません、ということです。

そのように、わたしたちも、信じてよいのです。

今日、もう一つの個所として読みました、ヨハネによる福音書に、次のように書かれていました。
 
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

なんとなく難解で、謎めいた言葉です。しかし、これは、よく知られていますように、神の御子イエス・キリストのご降誕の奥義を表現しているものである、ということです。

ここに出てくる「言(コトバ)」が、神の永遠の御子イエス・キリストを表わしています。イエス・キリストは、“初めにあった言”であり、“父なる神と共にあった言”であり、“神”御自身であられる言である、ということです。

人間を見限ったり、みくびったり、見下げたりすることは、もちろん、できるならば、しないほうがよいことです。すべきではないことです。

しかし、そうは言っても、です。長年にわたってだれかに裏切られてきた人、だれかに踏みにじられてきた人にとって、だれのことも、何のことも信じられない、という不信感のとりこになってしまうことは、ありうることです。無理もないことです。

だからこそ、そのときに、です。信頼できるものが“一つでも残っている”ということが、ありがたいではありませんか!

神の言葉は、それだけは、信頼できるのです。わたしたちがそういうものにすがりたいという気持ちを持つことは、よいことではないでしょうか。

イエス・キリストは、わたしたちが永遠に信頼し続けてもよい、永遠の神の言葉です。わたしたちが人間不信の泥沼の中で、世界に絶望してしまうときにも、わたしたちの命と心を、しっかりと支え続けてくださいます。

イエス・キリストは、そのために、来てくださったのです。

(2005年11月27日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年11月20日日曜日

「神の国は一粒の芥種(からしだね)のごとし」

ルカによる福音書13・10~21



今日の個所は、わたしたちにとって本当に興味深いものです。イエスさまというお方は、この地上の世界に、何のために来られたのか、あるいは、何をするために来られたのかということが、よく分かる個所です。



「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」



いつものとおり、と言いますか、イエスさまの通常業務として、と言いますか、それをどう表現するかはともかくとして、です。イエスさまは、ユダヤ教の安息日である土曜日ごとに、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)で行われる礼拝で、聖書に基づく説教を担当されていました。



その様子は、今まさにわたしたちがここでささげている礼拝と本質的に同じものであると考えていただいて構いません。



いわば、説教者が違うだけです。その日の説教を、イエスさまが担当されていたのです。



「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」



注目していただきたいのは、ここでルカが「十八年間も病の霊に取りつかれている女」という言葉でこの女性を紹介していることです。



「十八年間も病気に苦しんできた女」とは、書かれていません。「病の霊に取りつかれている女」と書かれています。とても意味深長な感じがします。



とくに気になる言葉は「病の霊」です。これは、どういう霊でしょうか。霊(プネウマ)は「精神」とも訳すことができます。ひとを病気にする霊であるということは間違いないでしょう。しかし、それは、いわゆる“精神の病気”でしょうか。そのような解釈もあるようです。



しかし、よりよい解釈は、13・11に書かれている二つの事柄を、一つのこととして読むことです。



つまり、「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた」という第一の事柄と、「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」という第二の事柄は、じつは一つのことである、と理解する、そのような読み方です。



これは、おそらく、わたしたちにも、身に覚えのある事柄です。



すでにお話ししておりますとおり、わたしも、慢性の腰痛もちです。ですから、腰痛のことは、よく分かります。この病気の正体が分かります。その苦しみも分かります。



はっきりしていることがあります。それは、この病気は、決して小さなものではなく、わたしたちの人生を左右するほどのものになりうるものだ、ということです。



しかしまた、もう一つ、この病気は、かなりの部分において、わたしたちの生活習慣と深く関連しているものである、ということです。



たとえば、わたしが「腰が痛い」と言いますと、皆さんは「先生、運動不足ですよ」と必ず言われるでしょう。その関連性は、あまりにも明白だからです。



そういうことと、今日の個所に出てくる女性の問題とは、どうやら、深く関わっているように思われてなりません。



わたしの腰は、痛いのだと。曲がったまま、伸ばすことができないのだと。もちろん、本当に、そうだったに違いありません。そのことに、わたしは何かケチをつけようとしているわけではありません。



しかし、です。この個所を読むかぎり、彼女の腰痛は、生まれつきのもの、先天的なものではなさそうです。むしろ、後天的なものではないか、また、そこにおそらく生活習慣的な要素がかなりの部分含まれているのではないかと思われます。



その場合に、です。自分の腰は治らない、もう絶対に治らないのだと、この女性が確信を持ってしまっていた。悪く言えば、そのようにすっかり“思い込んでしまっていた”という面があったのではないかと、考えざるをえないのです。



そのように考えることができる根拠として挙げることができるのが、先ほど触れました、ここでルカが書いている「病の霊に取りつかれていた」という言葉であるというわけです。



わたしは病気なのだ、もうこの病気は治らない、絶対に治らないのだ、と思い込むこと。そのような確信を持つこと、またその確信自体に心の中がすっかり束縛されてしまうこと。その確信の奴隷状態になり、心の悪循環に陥ってしまうこと。



そのことを、ルカは「病の霊に取りつかれる」という言葉で表現しているのではないかと、思われてならないのです。



18年間も、です。一つのことを、思い込む。わたしの病気は治らない。わたしの人生は変わらない。わたしの不幸は変わらない。



でも、そんなことを、わたしたちが信じる必要は、ないはずです。信じるべき対象は、神さまだけです。病気を信じるのでしょうか。あるいは、わたしたちを不幸に導く悪魔を信じるのでしょうか。そんなものは、信じなくてもよいはずです。



「霊に取りつかれる」とは、心の中で、わたしたち自身が、何らかの精神的・心理的な悪循環に陥っている状態が、少なくとも含まれている、と考えてよいでしょう。



わたしたちは、そういう状態から、救い出される必要があるのです。



「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」



ここに書かれていることを、わたしたちは、もちろん、イエスさまが行われた、特別で奇蹟的ないやしのみわざとして理解すべきです。イエスさまが手を置いてくださったことによって、この女性の腰が、ぴんと伸びたのです。



しかしまた、いわばもう一つの点として、ぜひ注目していただきたいのは、イエスさまが語られた御言葉の内容です。「婦人よ、病気は治った」。



わたしがとくに問題にしたいことは、この御言葉をわたしたちがどのように理解すべきか、という点です。



この点で、わたしはこのたび自分で調べてみて分かったことですが、イエスさまがここで語っておられる「病気は治った」という中の「治った」には、ギリシア語の文法で言うところの“受動態過去完了”という時制が用いられている、ということです。



そして、その時制が用いられているときには「○○されてしまっている」というふうに訳さなければならない、ということです。



ですから、イエスさまの御言葉を正確に訳すと、「あなたの腰は治ってしまっている」とか、「あなたの病気は、とっくにいやされてしまっていますよ」というふうになる、ということです。



そうであるならば、です。ここに次の問題が生じます。この女性の腰がいやされたのは、“どの時点”か、という問題です。



彼女がいやされたのは、イエスさまがその手で触れてくださったそのとき、その瞬間であると読むことも、当然できます。



しかし、もう少し別のニュアンスもあるのではないだろうかと思われます。「あなたの腰は、もうとっくに治っていましたよ」と。もう大丈夫ですからね、伸ばしてみてくださいよ、と。



イエスさまは、そのようにして、この女性の“心”を、悪循環から救い出されたのです。



「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」



この場面でこのようなことを言い出す人のことを、(できるだけ口にすべきでない言葉ではあると思いますが!)“バカ”と呼んでおきます。やめてくれ、という感じです。イエスさまは「偽善者」と呼んでおられます。どちらがひどい言い方かは、分かりません。



わたしが最も不思議でたまらないのは、なぜこの会堂長は、「安息日に病人がいやされたこと」に、腹を立てなければならなかったのでしょうか、という点です。



逆ではないでしょうか。喜ぶべきでしょう。病人が、いやされたのですから。



その安息日が、十八年間の苦しみから解放された、その記念日になったのですから。



それに、よく考えてみれば、ここは、この会堂長が責任をもって管理している“会堂”です。宗教施設です。神を礼拝する場所です。



また、その日は、安息日でした。神さまの御言葉が語られ、聞かれる日です。



そういう日、そういう場所で、一人の人が、長年の痛みから解放され、やっと安らぎを得たわけです。とてもよいことではありませんか。それなのに、この会堂長は、なぜ腹を立てなければならなかったのか。全く理解に苦しみます。



「安息日はいけない」という掟が、いかに彼らを束縛していたかが分かります。



そしてまた、その日に一人の人がいやされたことに腹を立てるこの人のことを、イエスさまが「偽善者」という厳しい言葉で非難されたことも、分かります。



「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群集はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」



この個所において、そして今日の個所全体を通して、「束縛からの解放」というテーマがはっきりと示されていることに、きっとお気づきいただけるでしょう。



救いとは、「束縛から解放されること」を意味しているのだ、ということです。心も、体も、全く自由にされること。それが救いです。



ですから、「安息日はいけない」というこの会堂長の言葉も、ある意味で、まさに何かに束縛されている人の言葉である、ということです。戒律のとりこになっているのです。



イエスさまの場合は、むしろ、安息日だからこそ、です。この日にこそ、救いが起こり、いやしが起こるのです。



そうでなければ、どういうことになるのでしょうか。この会堂長に逆に聞いてみたいことは、安息日ごとに、あなたの会堂で行われている礼拝の中では、本当に何も起こらないのですか、ということです。いやしも起こらない。救いも起こらない。何も起こらない。そんなことで本当によいのですか、と聞いてみたいです。



イエスさまの場合は、会堂の中で、です。安息日にこそ、です。礼拝において、です。いやしと救いが起こるのです。いやしと救いを求めて、ひとがイエスさまのもとに集まるのです。



「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」



ここには、二つのたとえ話が語られています。「からし種」とは、文字どおり辛い、あのからし(マスタード)の種です。「パン種」とは、パン生地に入れる酵母のことです。



からし種も、パン種も、たいへん小さいものです。それがどこにあるかが分からない。パン種に至っては、パン生地に混ぜてしまうものです。



二つのたとえ話に共通しているテーマは明らかです。「小さなものが大きくなる」ということです。あるいは「小さなものの影響で全体が大きくなる」ということです。



また、からし種にせよ、パン種にせよ、両方に共通している「種」という言葉が持っているイメージから、語りうることがあります。



それは、要するに、“埋めるもの、埋め込むもの”であり、“中に入れるもの”であり、“浸透する、浸透させるもの”です。



思い当たるのは、神の救いであり、神の御言です。それらのものは、わたしたちの外側にあるべきものではありません。外側にあるうちは、神の御言葉は、まだ全く聞かれていないのと同じです。



そのとき、わたしたちは、じつは、まだ、救われてもいないのです。わたしの心まで、救いが届いていないのです。



大切なことは、中に入ってくること、です。わたしたちの存在の内側へと入ってくること、内部に浸透してくること、これが「種」という言葉が持っているニュアンスであると語ることができるでしょう。



小さな種が蒔かれ、土の中に入り込む。その種が「成長して木になる」のです。また、小さなパン種によって「全体が膨れる」のです。



神さまの救い、神の御言葉が、わたしたちの現実の世界、日常生活の中に、入ってくる。わたしたちの体験的現実の中に、入ってくる。深く浸透してくる。そして、それによって全体が成長する。



もしそうだとすれば、「神の国」とは何でしょうか。それは要するに、わたしたちの日常生活である、ということです。



わたしたちは「神の国」と聞くとどうしても、“向こうの世界”とか“あの世に行くこと”をイメージしてしまいます。しかし、それは、イエスさまがお語りになる「神の国」とは、異なるものです。



イエスさまの「神の国」は、わたしたちの日常生活です。



わたしたちの心の中に、神の御言葉が浸透する。それと共に、救いが浸透する。それによって、わたしたち自身が成長する。わたしたちの生活が「神の国」へと造りかえられていく。



こういうことが起こるのです。



ですから、ここで大切なものは“言葉”であるということが、おそらくかなり分かっていただけるでしょう。



イエスさまが救いの御言葉を語られ、その手で触れられる。それによって、十八年間も「わたしは絶対に治らない。この病気は絶対に治らない」と、そう確信していたこの女性が、いやされました。



イエスさまの御言葉を聴いて信じる。言葉が種のように心の中に蒔かれ、埋め込まれて、浸透する。わたしのものとなる。そのときに、その人に“救い”が起こるのです。



言葉がひとを変え、現実を変え、世界を変えるのです。



わたしたちが教会でしていること、また牧師がしていることは、ごく小さなことです。外から見ると、またわたしたち自身の率直な感覚としても、教会で行われていることは、ごく小さなことです。なんでもないことです。



しかし、です。このごく小さな営みが、一回一回の礼拝とか、わたしたち一人一人が心で神を信じるといったこのごく小さな営みが、大きなものになっていきます。わたしたち自身の人生を変え、また世界を変えていきます。



わたしたちは、そのように、信じてよいのです。



(2005年11月20日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年11月13日日曜日

「悔改めずば亡ぶべし」

ルカによる福音書13・1~9



この個所で、イエスさまは、全く同じ言葉を二度繰り返しておられます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。



これは聖書に限らず、一般的にも同じように言いうることですが、繰り返されている言葉には強調がある、と考えてください。そこに主題(テーマ)があります。今日の個所の主題は、悔い改めなければ滅びる。みんな滅びる、ということです。



ただし、です。わたしは、ここに但し書きを置いておきます。今日の個所は、表面的にさらっと読むだけでは理解できないところである、と思います。注意深く読まなければ、読み間違えてしまうでしょう。



とくに注意深くありたいことは、この御言葉を、イエスさまご自身はどのような意味で語っておられるか、ということです。悔い改めるべきことの具体的な内容は何か、です。いったい、わたしたちは“何について”悔い改めなければならないのでしょうか。



「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」



「ちょうどそのとき」とは、どういうときでしょうか。これと全く同じ言葉(ちょうどそのとき)が13・31にも出てきます。同じ言葉が繰り返されています。繰り返されている言葉には、強調があるのです。



それは、イエスさまが、弟子たちや群集に向かって、一連の説教をしておられたときである、と理解することができるでしょう。



ここで思い起こしていただきたいのは、先週学んだ御言葉です。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(12・56)。ここに出てくる「今の時」、これが「ちょうどそのとき」という言葉の具体的な意味であると考えられます。



イエスさまは、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とお語りになることにおいて、あなたがたは「今の時」を見分けることができるようになりなさいと強く願っておられることは明らかです。



「今の時」とは、どういうときでしょうか。神の子、救い主イエス・キリストが地上に来られているときです。イエス・キリストを通して救いの恵みが地上にもたらされているとき、救いが実現しはじめているときです。神の国が近づいているときです。



しかしまた、そのときは人々が救いを求めているときでもあります。救いを必要としている人々があふれている時代です。



ヨハネによる福音書1・5に「光は暗闇の中で輝いている」と記されています。この「光」とは、イエス・キリストのことです。光としてのイエス・キリストは、暗闇の時代に来てくださったのです。



イエス・キリストは、弟子たちに、「今の時」を見分けることができるようになることをお求めになりました。そのときは、暗闇のときでもあります。



「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とあります。このピラトこそ、イエス・キリストが十字架にかけられる前に行われた裁判(不当な裁判!)の審き主です。ローマの提督ポンティオ・ピラトです。このピラトが、いったい何をしたのでしょうか。



ここに出てくる「ガリラヤ人」とは、ガリラヤ地方出身のユダヤ人、しかもエルサレムに移住していた人々のことであろうと考えられています。



この人々が殺されたようです。なぜ殺されたのかまでは分かりません。しかし、当時のガリラヤ人たちは、ユダヤ教の主流派から虐げられていた、と伝えられています。反主流派である彼らが、ローマ帝国とその支配下にあるユダヤ王国の支配者に対する政治的暴動を起こしたのではないか、というようなことが考えられています。



この事件のことを指していると言われているのが、使徒言行録5・37に紹介されている出来事です。「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。」



それで彼らは処刑された。そしてピラトは、ガリラヤ人たちの血をいけにえに混ぜた。この「いけにえ」とは、過越祭のときエルサレム神殿に犠牲として供えられた動物のことであろうと考えられています。屠殺された、血まみれの動物です。



ですから、ピラトがしたことは、要するに、人間の血を動物の血に混ぜた、ということです。これが、なんとひどい、なんとむごいことか、ということは、誰もが感じることでしょう。人間として、断じて許されないことです。



これで分かることは、ピラトという人は、こういうことを平気で行うことができる人間であった、ということです。全くひどい、文字どおり“人を人とも思わない”、残酷な人間であった、ということです。このポンティオ・ピラトによって、イエスさまは、十字架につけられたのです。



「今の時」とは、どういうときでしょうか。これで少し分かりました。“人を人とも思わない”人が、人を裁く人の座に着いているときです。人の道の正義がねじ曲げられている時代です。恐るべき圧政の時代です。



「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。』」



ここに「イエスはお答えになった」とあります。ここで言いうることは、イエスさまが語っておられるのは、お答えではなく、むしろ、問いかけである、ということです。



そして、もう一つ言いうることは、イエスさまが彼らに問うておられるのは何かと言いますと、それは要するに、「思うのか」という点である、ということです。



あなたがたは、その血をいけにえの中に混ぜられるというひどい目に遭った一部のガリラヤ人たちが、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったから、そのような目にあったのだ、というふうに「思うのか」。



つまり、要するに、そのような目にあったガリラヤ人たちは、いわゆる“自業自得”とか“因果応報”の死を遂げたのだと「思うのか」。



イエスさまが問うておられるのは、その点です。あなたがたは、そういうふうに思うのか。そういう考え方は正しいのか、と問うておられるのです。



そして、イエスさまは「決してそうではない」と、お答えになりました。イエスさまのところに、殺されたガリラヤ人たちについての情報を知らせてきた人々自身が持っていたと思われる、まさにこの“自業自得”だの“因果応報”だのという考え方それ自体を否定されたのです。



よく考えてみれば、そのとおりです。ガリラヤ人が殺されたこと、彼らの血が動物の血の中に混ぜられたことが“自業自得”であるわけがありません。



当時の裁判に、問題があったのです。“人を人とも思わない”ローマの提督ポンティオ・ピラトにこそ問題があり、ユダヤ人の指導者たちにこそ問題があったのです。



「『また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」



これも同じです。シロアムの塔が倒れて死んだ。その人々が死んだのは“自業自得”であったと、あなたがたは「思うのか」と、イエスさまは、問うておられるのです。



「『言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」



イエスさまが警告しておられることは、その“自業自得”とか“因果応報”という考え方そのものに罪がある、ということです。そういう考え方はやめなさい、ということです。その考え方そのものを“悔い改める”必要があるのです。



このことを、わたしたち自身の問題として考えてみると、分かるはずです。なるほど、わたしたちがそのような考え方を持ち続けているかぎり、本当に見抜かなければならない問題を、見抜くことができません。



本当の問題は、どこにあるのか。本当に悪いのは誰であり、本当に裁かれなければならないのは、誰なのか。そういうことが分からなくなってしまいます。事の真相が見えなくなってしまいます。



何か事が起きたとき、それを“自業自得”と考えて、自分や個人の小さな問題にしてしまうことによって、本当の問題が見えなくなる。それによって、社会の巨悪を生き延びさせる結果を招いているかもしれません。



わたしたち日本キリスト改革派教会が重んじるウェストミンスター大教理問答を見ていただきますと、一言で「罪」と言っても、「上の人」(社会的に地位が高い人)が犯す罪は、「下の人」(地位が低い人)が犯す罪よりも「重い」と言われています(大教理問答第151問の答えを参照してください)。全く同じ、というわけではないのです。



「悔改めずば亡ぶべし」。このイエスさまの御言葉を、もしわたしたちが、ただ単にわたしたち自身の個人的な心の中の問題にしてしまうときには、おそらく、イエスさまの意図を、読み間違えているのです。



むしろ、もっと大きな問題です。社会の問題です。“自業自得”という思想によって、真の問題が隠蔽されると、社会全体が道を間違います。それによって、「皆が滅びる」。“全滅”の危機に陥るのです。



イエスさまは、“自業自得”とか“因果応報”という考えに対して、真っ向から反対されました。最も有名な個所は、ヨハネによる福音書9・1〜3でしょう。



イエスさまは、生まれつき目の見えない人の前で、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と質問する弟子に対して、次のようにお答えになりました。



「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。



本人の“自業自得”ではない。両親の“因果応報”でもない、という意味です。これらの思想を、イエスさまは、はっきりと否定されたのです。



だからこそ、です。わたしたちが悔い改めなければならないことは何でしょうか。このように考えることをやめる、ということです。この思想の呪縛から、救い出されなければならないのです。



「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」』」。



このイエスさまのたとえ話の中で興味深く感じるのは、ここに登場するぶどう園の主人が園丁に言った言葉の中に出てくる「もう三年もの間」という点です。



と言いますのは、イエスさまが伝道活動をなさった期間について、(それにはさまざまな計算方法や考え方があるのですが)、一般的には約三年間であったと言われているからです。



三年もの間、せっかく植えたいちじくの木に、実ができない。そのような木など、早く切り倒してしまいなさいと、ぶどう園の主人が園丁に命じた、というのです。



ところが、園丁は、いちじくをかばいました。今年もこのままにしておいてくださいと。肥やしをやってみます、そうすれば、来年は実がなるかもしれませんと。



このたとえ話の意図は明らかです。ぶどう園の主人は父なる神さま、園丁はイエスさまです。



イエスさまは、三年間待っても実をつけないダメないちじくの木を、かばってくださいます。



イエスさまにかばっていただいている「いちじくの木」とは“だれ”のことでしょうか。それは、イエスさまが何度説教しても、どんなに言葉を尽くして神の御言葉を語っても、罪を悔い改めない人のことです。イエスさまを信じようとしない人々のことです。



イエスさまは、そのような人々を、かばってくださいます。そして、忍耐強く、待っていてくださいます。



イエスさまの御心は、人が滅びることではなく、人が生きることなのです。



(2005年11月13日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年11月6日日曜日

「何故正しき事を定めぬか」

ルカによる福音書12・49~59



今日の個所も、わたしたちの救い主、イエス・キリスト御自身がお語りになった説教の続きです。



三つの段落を続けて読みました。三つの段落に三つのことが書かれています。三つのことを、無理にこじつけるつもりはありません。しかし、深いところでは、互いに関係しあっているように思われます。



まず、最初の段落に記されていますのは、イエスさまが地上に来られた目的は何か、ということです。



「『わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。』」



非常に驚くべきことが書かれています。はっきりと記されている、イエスさまが地上に来られた目的は、二つです。



第一は、地上に「火」を投ずるためです。



第二は、地上に「分裂」をもたらすためです。



最初に言われていることのほうから考えてみたいと思います。ここで言われている「火」の意味は何か、ということです。二つほどの可能性が考えられます。



第一の可能性は、神の審きを意味する「火」です。その例は、旧約聖書の中にいくつかあります(詩編66・12、イザヤ43・2、ゼカリヤ13・9、マラキ3・2など)。



第二の可能性は、預言者の口から語られる神の言葉を意味する「火」です。この例は、エレミヤ書の以下の二個所(5・14、23・29)にあります。



「見よ、わたしはわたしの言葉をあなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす」(エレミヤ書5・14)。



「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」(エレミヤ書23・29)。



イエスさまが語っておられる「火」とは、火のような“神の審き”のことか、それとも、火のような“神の言葉”のことか。いずれの可能性も否定しきれません。



むしろ、これは一つのことではないかとも考えることができそうです。イエスさまが地上に来られた目的は、火のような神の審きを伝えるために、火のような神の言葉を語ることである。これでどうでしょうか。



どちらにしても、同様に言いうることがあります。



それは、今日の個所でイエスさまが「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と語られていることによって、まさに明らかにされているのは、火を投ずるために来られたこの方こそが、あのバプテスマのヨハネが語った「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3・16)という預言の成就として来られたお方である、ということです。



ということは、ヨハネが語った「火」、つまり、来るべきキリストは「聖霊と火で、洗礼をお授けになる」という場合の「火」とは「神の御言」を指していると語ることもできるようになるでしょう。



さて、第二の件に移ります。第二番目に、イエスさまが来られた目的として語られていますのは、地上に「分裂」をもたらすためである、ということです。



これは、どういう意味でしょうか。かなり物騒な言葉です。要らぬ誤解を招きかねない言葉であると思われてなりません。イエスさまの意図は何かを、よく考える必要があるでしょう。



52節以下のところでイエスさまが引き合いに出しておられるのは、明らかに、いわゆる家庭内戦争のことです。父と子、母と娘、嫁としゅうとめ。ここに夫婦のことが語られていないのは不思議です。しかし、安心することはできないかもしれません。



といいますのは、ここでイエスさまが語っておられることは明らかに、旧約聖書のミカ書7章に、次のように記されていることに基づいている、と考えられるからです。



「お前の見張りの者が告げる日、お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ書7・4〜6)。



預言者ミカが描き出しているのは、間違いなく、近親憎悪というべき何かです。「安らう女」とは、妻のことでしょう。このように距離的・物理的に、あるいは心理的・精神的・生理的に最も近いところに生きている者たちが、現実の場面では、最も激しくいがみ合うのです。



しかし、このミカの預言には、続きがあります。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」(ミカ7・7)。



これで分かることは、預言者ミカが描き出している近親憎悪的な家庭内戦争の解決の道は、ただ一つ、主なる神を信じる信仰のみによる、ということです。



そしてまた、このことを別の角度から言えば、主なる神を信じる信仰が、家庭内戦争の原因になることもありうる、ということです。



イエスさまが語っておられることも全く同じであると思われます。マタイによる福音書には、「こうして、自分の家族の者が敵となる」(10・36)という、これもまた、たいへん厳しいイエスさまの御言葉が記されています。



イエス・キリストに従って信仰の道を歩むか、それとも、家族の一致を重んじて信仰を棄てるか。わたしたちは、このようなできれば避けて通りたいと誰もが願うであろう嫌な選択肢を突きつけられる場面に、遭遇します。



家族の中で自分一人だけが信仰を与えられ、教会に通っているという方々の苦しみや葛藤は、理解できないものではありません。



しかし、イエスさまは、わたしたちに、その二者択一の前にあっては、どっちつかずの中立的な立場などありえない、ということを、はっきりと示されています。これこそが、イエスさまがもたらされる「分裂」の意味なのです。



「イエスはまた群集にも言われた。『あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。』」



この段落でイエスさまが語っておられる御言葉の対象は、54節に記されているとおり、「群集」です。イエスさまは、弟子たち以外の人々(「群集」も当然含まれる)に対しては、たとえを用いてお語りになる、ということが、すでに記されていました(8・10)。ここでイエスさまが語っておられるのも、たとえ話です。



しかしまた、このたとえ話は、ユダヤ人たちにとっては、ごく常識的で当たり前のことです。きわめて現実的なたとえ話です。パレスチナ地方の地形を考えると、すぐに分かることです。



パレスチナ地方の西側には、地中海があります。ですから、雲が西に出ると、海の上でたくわえた雨が、彼らの上に降ってくるのです。



また、南風は、サウジアラビアやアフリカなどの砂漠地帯、また赤道の方面から吹いてくる熱風です。イスラエルが暑くなるのは、当然です。



ところが、です。「偽善者よ」とは明らかに、イエスさまの説教を聴いている群集のことです。偽善者よ、あなたがたは、そのような天候についての知識を持っているではないか、ということです。



それなのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか、と語っておられます。この話のつながりを、よく理解する必要があると思います。



このたとえ話においてイエスさまが語ろうとしておられることのポイントは、要するに、原因と結果の関係という問題である、と理解することができます。



雲が西に出ると、雨が降る。南風が吹くと、暑くなる。そうであるならば、です。



今や、あなたがたの目の前には、このわたしがいる。まことの救い主、神の御子イエス・キリストが立っている。このわたしが神の御言葉を語り、さまざまな奇蹟を行い、救いのみわざを行い、現実に救われている人々がいる。



この因果関係を、あなたがたは、どうして見分けることができないのかということを、イエスさまは、彼らに問いかけておられるのです。それは、「今の時」はどういう「時」なのかという問いかけでもあります。



「今の時」に起こっていることは何かと。このわたし、救い主イエス・キリストが来ている「時」であり、イエス・キリストの周りに“神の国”が実現しはじめている「時」である、ということを、どうして分からないのかと。



それは同時に、このわたしが来た、というこのことと、このわたしのもとで現実に起こっている救いの出来事との関係を、あなたがたは、どうして理解できないのか、という問いでもあります。その因果関係は「西に雲が出れば雨になる」というほどに、明らかなことではないか、ということです。



これは、わたしたちにも当てはまることでしょう。



わたしたちが教会に通うようになるよりも前と今、あるいは、イエス・キリストを信じるようになるよりも前と今とは、全く同じでしょうか。何も変わらないでしょうか。



もし、ほんの少しでも何かが変わってきているのだとしたら、その“原因”は何か。あるいは何の“力”が、わたしたちに働いているのでしょうか。このことを正しく見分けることが、わたしたちにも求められているのです。



「『あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。』」



今日の説教のタイトルは、この第三段落の最初の御言葉から採りました。ただし、文語訳です。正確には、「何故みづから正しき事を定めぬか」です。



この最初の御言葉においてイエスさまが語っておられることは、明快です。わたしたち人間は、何が正しいことであり、何が間違っていることであるかという判断を、自分自身でしなければならない、ということです。



ただし、そのことをイエスさまは、問いかけという仕方で語っておられます。どうして自分で判断しないのか。どうして、そのような基本的なことさえできないのか、と。



そしてまた、イエスさまは、そのことを、わたしたち人間がしなければならないのは、わたしたちの犯した罪によって心や肉体に傷を受けた人によって告訴され、現実の裁判が始まる“前”である、ということを、明らかにしておられます。



「役人のところ」とは、現実の裁判が行われる場所のことです。そのような場所に行く前に「途中でその人と仲直りするように努めなさい」とは、訴えている原告側がなすべきことではなく、訴えられている被告側の人、つまり、罪を犯した人のほうがなすべきことです。



イエスさまが語っておられるのは、そのような意味のことです。傷を受けた側の人に、「告訴を取り下げてあげなさい」と言われているわけではありません。黒いものを「白」と言ってあげなさい、という話ではありません。



求められていることは、罪を犯した人自身が、自分で何が正しいかを判断し、反省し、悔い改めることです。



死んでお詫びするというのはダメです。お詫びしなければならないのは、生きている間です。自分の罪を悔い改めることも、神さまに赦していただくことも、生きている間になされなければならないことなのです。



ここに至って、最初の段落でイエスさまが語っておられたことをもう一度持ち出すことが、意味を持つでしょう。



イエスさまが来られたのは、地上に火を投ずるためであり、また、分裂をもたらすためである、とありました。それは、何の秩序も脈絡も無い暴動を起こすこととは、全く違います。



イエスさまの目的は、ただ一つ、イエスさまの御言葉に従って、主なる神を信じる信仰によって生きる人々を、罪の中から救い出すことです。そのようにして、信仰と不信仰を厳格に区別することです。



神の国とは、イエス・キリストを通して語られた神の御言葉が支配する、現実の国です。そこには、真の正義があり、自由があり、慰めがあり、喜びがあります。



だからこそ、わたしたちが神の国に入るためには、罪の問題が解決されなくてはなりません。



イエス・キリストによる罪の赦しと救いが必要なのです。



(2005年11月6日、松戸小金原教会主日礼拝)