2023年11月19日日曜日

悩みも多いが楽しく生きる(2023年11月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 412番 昔 主イエスの



「悩みも多いが楽しく生きる」

ローマの信徒への手紙8章18~30節

関口 康

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)とあります。「現在の苦しみ」の「現在」は、時間的な「今」を指しているだけではありません。神が天地万物を創造された日から、真の救い主イエス・キリストが再臨されて、世界が完成する終末までのすべての時間を指して「現在」とパウロは記しています。

しかし、今のわたしたちも、いまだイエス・キリストの再臨の日を迎えていませんので、二千年前のパウロの「現在」と同じ意味の「現在」の「苦しみ」を、わたしたちも味わっていると言えます。その「現在の苦しみ」が「取るに足りない」すなわち「大したことはない」と思える日が来るというのが、今日の箇所の趣旨です。しかし、「現在の苦しみ」が「取るに足りない」と言われると、将来は苦しくなくなるという意味なのか、それとも、もっと苦しくなるという意味なのかと考えてしまいます。

結論を言えば、両方の意味です。今より負担が大きくなり、もっと苦しくなります。しかし、それに耐えられるだけの意味や楽しみがあることを理解させていただけるので、「苦しいけれども苦しくない」という境地に達しうるという線で理解して大丈夫です。「悩みも多いが楽しく生きられるようになる」という線です。

「被造物は虚無に服しています」(20節)は、旧約聖書のコヘレトの言葉に通じます。口語訳聖書で「空の空、空の空、一切は空である」、新共同訳聖書で「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と記されているあの書物です。私が愛用するローマ書の註解書(著者レカーカーカー)に「ローマ8章20節はコヘレトの言葉の註解である」と記されていました。

「被造物」は「被選挙権」などで用いるのと同じ「被」を用いて「神によって造られたもの(物・者)」を表現しますので、当然「人間」を含みます。神が造られた被造物が、なぜ「虚無」に服しているのかは、常に大きな謎です。なぜなら、そうなるとまるで、神は人間を含む被造物を造りっぱなしで、管理責任も監督責任も負わず、放置しておられるかのようだからです。

神の支配力が弱い、とも言えます。旧約聖書の創世記によれば、神が最初に造られた人間アダムに「善悪の知識の木からは決して食べてはならない」と、神はただ言葉で禁じただけで、それは抑止力にならず、アダムは木の実を食べました。本当に食べてはいけないなら最初から神がその木を造らなければよかったし、近づけないように柵を設けておけばよかったのに、と言いたくなる出来事です。

しかしそれは、神が人間の主体性と自由を尊重してくださったことの証拠です。神は人間を奴隷にしたくないのです。被造物に干渉し、根掘り葉掘り情報を聞き出して、心配しているのか監視しているだけか分からない接触を取り続ける、かまってくれる、支配という名の過干渉の神ではありません。

それを「温かい」と感じるか「冷たい」と感じるかは、各自の感覚の問題です。しかし、「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志による」(19節)は“神が被造物を虚無に服させた”という意味なので、神は本気で被造物を突き放されたと考えるほうがよさそうです。いつまでも依存して甘えないでいるように。自分で判断することを怠らないように。

“神が被造物を虚無に服させた”からこそ「同時に希望も持っています」(28節)という命題が成立します。「虚無」は数字で言えばゼロです。数学だとゼロ以下はマイナスですが、会計帳簿ならば赤字なので、どこかから借りられなければ終わりなのが「虚無」です。それが「同時に希望も持っている」というのは愉快です。虚無(ゼロ)より下は無いので、上を見上げて生きるしかないということです。

「被造物がすべて、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(22節)の「うめき」や「産みの苦しみ」の直接の意味は、母親が子どもを出産するときに上げる声や、そのとき味わう陣痛です。女性にしか体験できないことだとも言えますが、もう少し広い意味で比喩的にとらえることも可能です。

はっきりしているのは「うめき」も「苦しみ」も否定的な意味であるということです。自分の側から買って出るのは自虐です。なるべく避けたいのがうめきや苦しみです。パウロが記している「うめき」という言葉にも否定的な意味の「ためいき」や「嘆き」というニュアンスが含まれます。

しかし、どのような意味やニュアンスで理解するにせよ、共通していなくてはならない要素は、その陣痛のうめきや苦しみを経た後に、それまで見たことも触ったこともなかった新しい存在が生まれ、そこから新しい何かが始まるという希望につながるので、その希望ゆえに苦しみに耐えられるということです。目標が大きいほど苦しみは大きいのですが、その苦しみを経て産まれる存在への期待ゆえに苦しみに堪えることができるということです。

新しい存在とは何かといえば、パウロの確信によれば、真の救い主イエス・キリストの贖いのみわざを通して生み出された「わたしたち」すなわちキリスト教会の存在です。加えて、イエス・キリストが再び来られる終末的完成をめざして歩む新しい信仰告白が与えられた世界の存在です。

その新しい存在の誕生を、希望をもって待ち望んでいる存在が今日の箇所に3つ示されています。第1が「被造物」(19節)。第2は「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(23節)。キリスト者のことだと言ってよいでしょう。そして第3は「“霊”」(26節)です。

「“霊”」(26節)については「待ち望んでいる」ではなく「助けてくださる」と記されていますが、意味は同じです。そして新共同訳聖書で二重引用符が付いている「“霊”」は「聖霊」です。聖霊なる神です。

被造物とキリスト者と聖霊なる神が、陣痛とうめき声をあげて何を待ち望んでいるのかは、先ほど言いました。キリスト教会の存在であり、かつ終末的完成を目指す世界の存在です。しかし、いずれにせよ、それらは将来に属することを少なくとも含みます。それは、今ここにいるわたしたちも見ることができない将来の教会と世界です。そのためにわたしたちは苦労しているのです。教会も、幼稚園も、キリスト教主義学校も、何十年後、何百年後の教会と世界の将来を待ち望みながら働くのです。

これも私の愛用註解書(著者レカーカーカー)のことですが、8章26節「私たちはどう祈るべきかを知らない」の解説にルターの言葉が引用されていました。愉快な内容でしたので紹介します。わたしたちの祈りが必ずしも聞かれず、願い通りにならないことの理由をルターが述べている言葉です。

「ルターが次のように述べています。『私たちが祈っているとき、明らかに反対のことが起こるのは最良のしるしです。それは私たちが祈った後、すべて計画通りに進むのが良い兆候ではないのと同様です。まるで神は私たちのすべての考えに反対し、私たちが祈る前よりも後のほうが、さらに私たちに対して怒っておられるように感じます。神は私たちに贈り物を与える前に、まず私たちの内にあるものをお壊しになる性分をお持ちなのです』」(Vgl. A. F. N. Lekkerkerker, Romeinen 1, 1962, p.350)

神の怒りを買いながら、神の御心がどこにあるかを探り求めながら祈ることの大切さを、ルターが教えてくれています。“自分の願い通りにならないことのほうが良い”ことだってあるのです。

(2023年11月19日 聖日礼拝)


2023年11月11日土曜日

新しき生(2023年11月12日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)






肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます。

2023年11月5日日曜日

葛藤と隘路からの救い(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 510番 主よ終わりまで

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 「葛藤と隘路からの救い」

ローマの信徒への手紙7章7~25節

関口 康

「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。

この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。

3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。

日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。

なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからです。この状態が長く続くことは決して良いことではないと、本人が自覚しています。不健全な状況を早く終わらせる必要があると考え、そのために努力しています。

教会はルールブックで運営されるものではありません。ルール無用の無法地帯ではありませんが、それ以上に大切なのは、教会の皆さんが共有しておられる「記憶」です。「記憶」が大切だからこそ、今日のこの礼拝が「昭島教会創立71周年記念礼拝」であることの意味があります。

今日開いた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙7章7節から25節です。理解するのが難しい箇所だと多くの方がおっしゃいます。私もそのことに同意します。しかし、この箇所を読むときの大前提が、読む人によって違っている場合が多くあります。特に重要な問題点を2つ挙げます。

第1に、この箇所に繰り返し出てくる「わたし」は誰のことかという問題です。7章だけで「わたし」が45回出てきます。シンプルに考えれば、この手紙は使徒パウロが書いたので、その中に「わたし」と単数形で書かれている以上、パウロ自身のことを指しているに違いないと言えなくはありません。しかし、そうなると、わたしたちがこの箇所を読む場合、これはあくまで《パウロの自叙伝》であるととらえて読む必要があることになります。伝統的にはそう読まれてきました。たとえば、オリゲネス、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンがそう読みました。しかし、それで本当に正しいでしょうか。

第2は、いま申し上げた第一の問題と深い関係にあります。それは、この箇所で「わたし」は明らかに自分の心の中に潜む罪の問題で葛藤していますが、この葛藤はイエス・キリストを信じて救われる《以前の「わたし」》つまり《過去の「わたし」》の心の状態を描いたものであり、イエス・キリストを信じて救われた後はこの葛藤から全く解放され、罪の問題について悩むことも苦しむことも無くなる、という理解があるが、その読み方で正しいかという問題です。

第一の問題と第二の問題の関係性を言うなら、パウロが自叙伝として「わたし」が過去に属していたユダヤ教ファリサイ派からイエス・キリストを信じて救われたときに彼の中に内在していた罪の問題が解決し、葛藤が無くなったことを述べることがこの箇所に記されていることの趣旨であるということになるとしたら、先ほど挙げた2つの問題の読み方のどちらも正しいということになります。

しかし、結論だけ言いますと、今日的には、どちらの読み方も支持できません。それは聖書の解釈上の問題でもありますが、わたしたち自身に当てはめて考えてみれば理解できることだと思われます。

「律法は罪だろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう」(7節)とパウロが記していることの趣旨は、先ほど「教会はルールブックで運営されるものではないが、ルール無用の無法地帯でもない」と申し上げたことと関係します。「律法」は「法律」の字並びを逆さまにしただけで、英語では同じLaw(ロー)です。法律の存在そのものが罪であることはありません。しかし、律法にせよ法律にせよ、「法」の役割は私たち人間に、そのルールに従うことができない自分の罪や弱さや欠けを否応なしに自覚させることにあることは、わたしたちの体験上の事実でしょう。「法」の存在がわたしたち人間にとって究極的な意味の「救い」をもたらすことはなく、むしろ、ダメな自分をさらされ、それを直視することを求められるだけです。

しかも、法律の順序を逆さまにして「律法」という場合、その意味することは「神の言葉」であり、なおかつ「神を信じる者たちが従うべき教え」なので、個人的なものではなく、共同体が共有するときこそ意味を持ちます。「律法」は個人のルールブックではなく教会のルールブックだということです。そもそも誰ともかかわりを持たない完全な個人は存在しませんが、自室でひとりでいるときにルールは不要かもしれません。他の誰かとかかわりを持つときに初めてルールが必要になります。

しかし、それが先ほど第二の問題として挙げた、今日の箇所の「わたし」の葛藤はイエス・キリストを信じて救われるよりも前の、過去の「わたし」であると、もしわたしたちが読んでしまうと、共同体としてのキリスト教会は、ルール無用の無法地帯であるかのようになってしまいます。キリスト教会は律法主義には反対しますが、律法そのものを除外することはありませんし、あってはなりません。

そして、もうひとつ、今日の箇所の葛藤する「わたし」、なかでも特に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)という悲痛な叫びは、あくまでも未信者だった頃の、あるいは他の教えに従っていた頃の過去のわたしであって、今は違うということになるとしたら、キリスト者にはこの葛藤は無いのかと問われたときにどのように答えるかの問題になります。キリスト者は「惨めな人間」ではなくなるのでしょうか。それはわたしたち自身がよく知っていることだと思います。

今日の宣教題を「葛藤と隘路からの救い」としましたが、救いはイエス・キリストへの信仰によってすべて成就され、今はもはや悩みも苦しみも無いと申し上げるためではありません。隘路(あいろ)は「狭くて通るのが難しい道」のことです。今のわたしたち自身が、昭島教会が「葛藤と隘路」の只中にいると申し上げたいのです。その中からの「救い」のために必要なのは、コロナ禍の3年間で失われた教会の交わりの回復と、《記憶の共同体》としての教会が再興されることだと、私は信じます。

教会の交わりの回復の第一歩として今日はこれから聖餐式を行います。今後の課題として、愛餐会、シメオン・ドルカス会、読書会や勉強会を取り戻すことを役員会で検討しています。

(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)

2023年10月29日日曜日

永遠のいのち(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 434番 主よ、みもとに





「永遠のいのち」

ヨハネによる福音書3章1~21節

関口 康

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」

今日の礼拝は永眠者記念礼拝です。「永眠者」というのは日本キリスト教団の教会暦の表現ですが、難しい問題を含んでいます。人の死を「眠りにつく」と表現する聖書箇所はあります。たとえば、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章20節には「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記されています。

しかし、続く15章31節には「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と記されていて、亡くなった方は永遠に眠るのではなく、眠りから覚めて復活すると教えていますので、「永眠者」という表現でよいかどうかを熟考する必要が生じます。しかし、「永眠」を「永遠に眠る」ではなく「永く眠る」という意味でとらえれば、目を覚ますときが必ず訪れることを含みますので、大きな矛盾は無くなります。

「召天」という表現については、使うべきかどうか、先日ある方から相談を受けました。この表現にも問題があります。私の知るかぎり30年以上前から議論があります。「天に召された者」という意味で用いられますが、漢文の知識がある人によると「召天」は「天を召す」としか読めない、というのが「召天」という表現を使うべきでないとする理由のひとつです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現で用いることが多いので、「神を呼びつける者」という意味になってしまうというわけです。

しかし、主にプロテスタント教会が用いてきた「永眠」や「召天」、またカトリック教会では「帰天」という言葉が用いられますが、いずれにせよ意図していることは、人間の死を「一巻の終わり」であるとキリスト教会は考えていないことの意思表明です。わたしたちは、先に召された信仰の先達たちが、神から「永遠の命」を授かり、まさに生きておられることを信じています。そして、あとに続くわたしたちも同じ道を歩んでいると確信しています。

いま私はキリスト教主義学校で聖書科の非常勤講師をしている関係で、週2日の授業の他に月1回、全校生徒1200名が出席する学校礼拝で話す立場にいます。9月の学校礼拝では「永遠の命」について話しました。今はコロナ対策で、学校礼拝で説教者に与えられた時間は3分です。1200人の中高生に3分で「永遠の命」の話をしました。ひとりの生徒が「今日の話よかったです」とほめてくれました。

話した内容まで言わないと消化不良ですが、今日の聖書箇所に触れてからにします。共通する要素があるからです。今日の箇所に登場するのはイエス・キリストと、ニコデモという人です。「ユダヤ人たちの議員であった」(1節)とは、70人の議員と議長・副議長各1名で構成されたユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員であったということです。ニコデモが裕福で、多くの人から尊敬され、地位も名誉もあった人であることは確実です。

そのニコデモが「ある夜」(2節)イエスさまを訪ねて来たというのは、人目につかぬように、夜の暗闇に隠れて来たということです。地上の富に恵まれ、地位や名誉がある人は、かえって逆に、本当の自分をすべての人の前で隠して生きて行かねばならず、寂しさや孤独を感じ、心に飢え渇きを覚えている可能性があります。そのような〝裕福で孤独な人〟の代表として、ニコデモが登場します。

そのニコデモにイエスさまが「神の国に入る」とはどういうことか(3節以下)、また「永遠の命を得る」とはどういうことか(16節以下)をお教えになるのが、今日の箇所の流れです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現として用いられると先ほど言いました。ここでも同じことが言えます。「天国」と「神の国」は同義語です。そして「永遠の命を得ること」とも同義語です。「永遠の命」は「天国で生きていること」以外の何を意味するでしょうか。ですから、イエスさまのみことばの要点は次の3点ですが、どれも同じ意味であると考えることが可能です。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」(3節)。

「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(5節)。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。

「新たに生まれる」の意味が、母の胎内に戻って生まれ直すことではないということは、ニコデモとイエスさまの対話から分かります(4節以下)。「新たに生まれる」とは「水と霊によって生まれること」(5節)であると言われます。その意味は、キリスト教会の伝統においては「洗礼を受けること」です。しかし、そのように教会が説明しますと大きな反発が返ってきます。「要するに『洗礼を受けていない人は天国に行けない』という意味か。それはキリスト教の独善ではないか」と。

先ほど途中までお話ししたことの続きをお話しします。私が学校礼拝で「永遠の命」について3分で話したことの内容です。それは2009年から2010年にかけてアメリカで制作された「人類滅亡 Life after people」という映像作品の話でした。それは、もし突然全世界から全人類が消滅したら、その後世界はどうなっていくかを検証する科学的ドキュメンタリー作品でした。

それによると、現在はピラミッドから博物館へと保管場所が移動している古代エジプト王のミイラも、マイナス196度に保たれた液体窒素で氷漬けにされている人の体も、冷凍保存されている何十万個もの人間の受精卵も、保管施設を管理する人がいなくなれば結局いつかは腐敗して消えてしまう、つまり「永遠の命」を得ることにならないというのです。結局は人の助けが必要で、自分の体やDNAの保存をしてくれる人たちが死のうが生きようが、ミイラや氷漬けの人は知る由もないというわけです。

それで、私は全校生徒に問いかけました。「みなさんは『永遠の命』が欲しいですか。他の人のことなどどうでもいい、自分だけ生き残りたいと願うよりも、目の前にいる人、大切な人、困っている人を助けるほうが先ではないですかと、イエスさまが教えておられるのではないですか」と。

その「人類滅亡 Life after people」という作品で紹介される冷凍人間やクローン技術とその限界の問題は、今日の箇所のニコデモの質問に通じるところがあります。「母の胎から生まれ直す」ことは、生物学的な「延命」以上ではなく、「永遠の命」ではありえないからです。「延命」というのは、結局のところ裕福な人だけにしか実現できないので、ニコデモの願いの中に含まれていた可能性があります。イエスさまはニコデモの心を見抜いて、先回りして言われたのです。

「水と霊とによって生まれること」すなわち「洗礼を受ける」とは、教会の仲間に加わることを意味します。ここは教会なので、そう言わせてください。しかし、「教会」とは「イエス・キリストの体」であり、神が独り子イエス・キリストの命をお与えになったほどに愛された「世」の「一人も滅びない」道を開くために、御子を信じる信仰をもって生きる者たちの場を神が作り出してくださったものです。

教会には「目の前にいる人、大切な人、困っている人」がいます。お互いを大切にする訓練を教会で受けることができます。〝孤独で寂しい〟と感じておられる方は、ぜひ教会の仲間、助け合いの仲間に加わってください。教会でこそ、真の意味の「永遠の命」を得ることができます。

(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

2023年10月15日日曜日

信徒の成長(2023年10月15日 信徒伝道週間)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 504番 主よ、み手もて

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「信徒の成長」

フィリピの信徒への手紙1章1~11節

関口 康

「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。

今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。

パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。

「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。

「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。

12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。

いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。

もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。

パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。

これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。

このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。

教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。

教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。

「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。

「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。

人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。

「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。

「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。

(2023年10月15日 聖日礼拝)

2023年10月8日日曜日

弱さへのいたわり(2023年10月8日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 197番 ああ、主のひとみ


「弱さへのいたわり」

フィレモンへの手紙 8~22節

関口 康

「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる人としても、愛する兄弟であるはずです。」

今日はフィレモンへの手紙を開きました。使徒パウロの手紙です。しかし、他の手紙とは性質が違います。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といった、教会に宛てて書かれ、多くの人が目にすることを前提して書かれたものではありません。きわめて個人的な性格を持ち、厳格に言えばこの手紙が公開されるのは守秘義務違反ではないかと言いたいほど「デリケートな」内容を含んでいます。しかし、2千年前の「事件」は時効です。そして、この手紙こそ、パウロの「人となり」と「熱い思い」がよく表れているものです。

フィレモンはコロサイにいたと考えられます。コロサイは現在のトルコの町です。「アフィア」(2節)はコロサイから出土した墓碑に名が刻まれているそうですが、フィレモンの妻の名前としてよいだろうと言われています(P. シュトゥールマッハー)。

フィレモンは裕福な人で、広い家を持ち、その家が教会(家の教会)となり、その教会の牧師だったと考えられます。そのフィレモンの家に「オネシモ」という名の奴隷がいました。この点は2千年前の話として我慢して読まざるをえません。奴隷制度をパウロは否定もしていません。

しかし、そのオネシモがフィレモンの家で働いているうちに、そこは「家の教会」でもあったのでイエス・キリストの福音に接するようになり、その影響で、自分はもっと自由であるべきだと考え始めたようです。しかも、当時多くのキリスト者から尊敬されていたパウロがコロサイにいるという情報をオネシモが手に入れ、パウロのもとに行きたいという願いを持ちました。

それでオネシモは、主人のフィレモンに黙って家から逃亡したようです。しかし、奴隷である以上、奴隷を購入した主人から逃げること自体が主人の損失ですし、それだけでなく、オネシモはフィレモンの家から逃亡する際に金品の持ち逃げのようなことをしたようです。盗みを働いた、ということです。

いま私は「ようです」とか「考えられます」という言葉を繰り返していますが、私の想像ではなく、この手紙の研究者が書いていることをまとめています。ただし、想像の域は越えません。

この手紙は「デリケート」な問題を扱っていると、先ほど申し上げました。パウロは牧師です。フィレモンも牧師です。つまり、この手紙は牧師同士のやりとりです。教会の中で口にできないトップシークレットの手紙です。しかし、この手紙を読むと分かることは、たとえ極秘の手紙の中であっても、パウロはオネシモがしたことについての描写においてかなり言葉を選んでいるということです。わたしたちとしては言葉の端々に基づいて当時の状況を想像するしかありません。

しかし、それこそパウロの「人となり」だったと言えます。オネシモ本人がいないところでは犯行内容を克明に暴露し、口汚く罵るような使い分けをしていません。ただし、ひとつの可能性として、この手紙をオネシモは読んだかもしれません。そう言える理由を後で言います。

話を戻します。オネシモがフィレモンの家から逃げてパウロのところに来たことで、パウロが喜んだかというと、必ずしもそうでなかったというのがオネシモの誤算でした。2点あります。

ひとつは、オネシモとしては自分が奴隷であることを憎み、自由を求めてフィレモンの家から逃亡してパウロのもとに行ったつもりだったのに、そのパウロ自身が捕らわれの身であることが分かったという点です。当時の囚人は、今ほど世間から隔絶された閉鎖状態に置かれていませんでしたが、パウロがオネシモにできることは、ほとんど何もありませんでした。

もうひとつが、パウロとしては、オネシモがフィレモンの家の奴隷であることを続けるほうがオネシモにとって善いことなので、元いたところに帰るべきだと考えたようです。パウロがなぜそのように考えたのかははっきりとは記されていませんが、奴隷であることには嫌な面やつらい面があるとしても、フィレモンの家は「教会」なので、教会の中でのキリスト者としての奉仕において、神の前での自由と平等を味わうことができる、と言いたかったのではないでしょうか。

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(16節)とパウロがフィレモンに迫っています。

別の言い方をすれば、オネシモとパウロの出会いは、全く無駄だったわけではなかったということです。無駄どころか素晴らしい出会いとなりました。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)とあるのは、信仰上の親子関係の意味であって、血縁関係ではありません。オネシモはパウロのもとでイエス・キリストへの信仰を告白してキリスト者になりました。それがオネシモとしても、パウロとしても、2人の出会いの最大の収穫でした。

それで、パウロはこの手紙をフィレモンに書き送った次第です。この手紙の主旨は、あなたの家から逃げたオネシモを赦してもう一度受け入れてほしいと説得することです。ひとつの可能性は、この手紙はオネシモがフィレモンの家に到着したときに添えられていたもので、フィレモンとオネシモがいる前で読まれたものではないかということです。「あとで申します」と言った点はこれです。この手紙にオネシモの犯行内容が詳細に暴露されていないのは、オネシモ自身が読む可能性があったからかもしれません。パウロはオネシモを傷つけたくないのです。

興味深い解説を読みましたのでご紹介いたします。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」(11節)で「役に立たない(無用な)」(アクレストス)と「役立つ(有用な)」(エウクレストス)が語呂合わせで、要するにダジャレであるというのです。しかも、オネシモという名前が「役立つ者」という意味だそうで、そのオネシモ(役立つ者)が「役立たない者」だったのに「役立つ者」になったというのはパウロが場を和ませるためのジョークを言っている、というのです。

そしてパウロは、オネシモがフィレモンの家から逃げたことで発生した損害ばかりか、盗みを働いた分まで、すべてわたしが肩代わりして弁償しますと言い出します(18~19節)。パウロは「年老いて」いる(老人である)(9節)と自分で書いています。若い人や困っている人を信仰的に励ますだけでなく、物質的・金銭的に支援することは年長者の役目であると考えているようでもあります。今日の宣教題「弱さへのいたわり」に直接つながるのは、この部分です。

しかもパウロは、フィレモンが若い人だったようで、少しばかり威嚇する言い方を混ぜているのも興味深い点です。「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」(19節)の意味は、わたしこそあなたをキリスト教信仰へと導いた恩師なのだから、言うことを聞きなさい、ということです。これもユーモアです。信頼関係があるからこそ言えることです。

しかめ面ではなく、笑顔と安心を保てることが教会の良さだとしたら、ユーモアは大事です。

(2023年10月8日 聖日礼拝)

2023年10月1日日曜日

豊かさと貧しさ(2023年10月1日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 518番 主にありてぞ



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「豊かさと貧しさ」

ルカによる福音書16章19~31節

関口 康

「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」

今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。

ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。

2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。

3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。

「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。

金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)からです。ただし、書いてある通りに理解すべきなのは、ラザロはその家の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと「思っていた」だけで、実際には、食卓から落ちる物すらもラザロの口に入るものはなかった、ということです。

しかも、当時の金持ちは、自分の(汚れた)手を拭くためにパンの切れ端を使い、使用後は食卓の下に投げ落としていたそうですので、「食卓から落ちる物」の中にそれが含まれている、と考えることができます(J. エレミアス)。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(21節)とあるのは、当時のユダヤ人にとって「犬」が不浄な動物と考えられていたことと関係あります。

ラザロの苦痛は肉体的にも精神的にも激しかったに違いありません。しかし、彼の口からの苦情については何も言及されていません。金持ちは自分の家の門前に横たわっている人がいることを知っていましたし、その名が「ラザロ」であることも知っていましたが、何も与えず、何もしませんでした。

そして、2人の人生が終わりました。ラザロは「神が助ける」という名前にふさわしく「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました(22節)。天国です。「アブラハムのすぐそば」(アブラハムの胸)はユダヤ人にとって最高の名誉ある場所です。そこは涼しいそうです。

「金持ちも死んで葬られ」ました(22節)。ラザロは「葬られた」と記されていませんので、葬儀はなかったかもしれません。金持ちのほうは葬儀が行われましたが、行き先は「陰府(よみ)」(ハデス)でした。いわゆる死後の世界です。ただし、このたとえ話において「陰府」は中間状態を指しています。最後の審判の判決が下る前の「未決」(pending)の状態の人々が置かれる場所です。

陰府の金持ちから、アブラハムのすぐそばのラザロの姿が見えたそうです。ただし、「はるかかなたに」(23節)とあるとおり、距離が遠い。それで「大声で」、金持ちがアブラハムに「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と(24節)と言う。

丁寧な言い方をしているようですが、ラザロに対してはもちろんアブラハムに対しても事実上命令しています。金持ちの習性かもしれません。彼が「ラザロ」の名前を知っているのは、ある意味で驚きです。ラザロが自分の家の前にいたのだから名前を知っていて当然かもしれませんが、生前のラザロに対して何もせず、見て見ぬふりしていました。自分が陰府の業火で苦しんでいるときだけ、ラザロの名前を呼び、しかも、自分に仕えさせようとする。そうするようにラザロに言ってほしいとアブラハムに依願するような言い方で、アブラハムに対しても事実上命令する。

この傲慢な金持ちに対するアブラハムの対応はとても冷静で公平でした。天において報いを受けるのはラザロであってあなたではないということを、この金持ちに明確に示しました。そもそもの前提として、この人が金持ちだったのは地上の人生においてだけで、死後は無一文です。死んだ後まで貧富の差は無いし、財産争いもありません。そういうのはすべて地上の事柄です。

金持ちとアブラハムの対話の中で特に大事な点は、金持ちが、自分が陰府(ハデス)の火で焼かれても仕方ないほどひどい仕打ちをラザロにしたことを認め、自分の救いは断念したうえで、まだ生きている5人の兄弟たちには「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)とアブラハムにお願いしたとき、アブラハムが「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えているところです。

「モーセと預言者」とは、わたしたちの呼び方では「旧約聖書」のことです。「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までが、ユダヤ教の聖書の第1部「律法」(トーラー)です。そしてユダヤ教の聖書の第2部が「預言者」(ネビイーム)、第3部が「諸書」(ケトゥビーム)です。ここで「モーセと預言者」はトーラーとネビイームを指しています。

「彼らに耳を傾けるがよい」(29節)とアブラハムが答えたと、イエスさまがおっしゃっている、という点を忘れないようにしましょう。これはイエスさま御自身の教えです。わたしたちは律法主義を避ける勢いで、律法を否定する危険があります。自分は贅沢三昧で、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するような人生を送らないために旧約聖書の律法が役に立つことをイエスさまが教えておられます。

イエスさまはマタイ福音書の「山上の説教」では「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)とおっしゃっていますが、ルカ福音書の「地上の説教」では「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20節)とおっしゃっています。後者は明らかに物質的な貧困を指しています。「貧しさ」自体は「悪いもの」と今日の箇所(ルカ16章25節)で呼ばれています。しかし貧しい人を「神が助ける」(エルアザール=ラザロ)と信じることができるのが、わたしたちの信仰です。

助けを求めている人を助けなかった人々が、自分の救いと報いを求めるのは、虫が良い話です。豊かな人々のためにもイエスさまは死んでくださいました。しかし、それを免罪符にして贅沢三昧を続け、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するのがキリスト教なのかと自問することが求められています。

(2023年10月1日 聖日礼拝)

2023年9月17日日曜日

愛はすべてを完成させるきずな(2023年9月17日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 520番 真実に清く生きたい

礼拝開始チャイム

「愛はすべてを完成させるきずな」

コロサイの信徒への手紙3章12~17節

関口 康

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」

コロサイの信徒への手紙3章12節から17節を開いていただきました。最初に申し上げたいことは、今日の箇所に限らず、コロサイの信徒への手紙の全体に書かれていることはすべて「教会」に関することであり、しかも具体的な現実としての「キリスト者同士の交わりとしての教会」のあり方に関することである、ということです。

16節以下に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と記されています。「キリストの言葉」とは聖書に基づく説教を指していると言いたいところですが、この手紙が書かれた当時は「新約聖書」は存在せず、あったのは「旧約聖書」だけでした。

しかし、イエス・キリストが多くの人々の前で、または12人の使徒たちの前でお語りになった言葉は口づてに、または文書として教会に伝えられていました。それがなければ、その後の教会が「新約聖書」をまとめることはできませんでした。教会は「新約聖書」の成立以前からイエス・キリストの言葉を知っていました。

その言葉が「あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と勧められているのは聖書の知識を増やすべきだということではなく、イエス・キリストにおいて現わされた神の御心があたかも自分自身の心になったかのように自分のからだと心に浸透させ、現実生活を御言葉通りに生きてみる、という意味です。

また、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とあるのは教会の具体的な交わりそのものです。「互いに教え」の「互いに」や、「諭し合い」の「合い」が大切です。一方通行ではなく相互関係です。教会はミーティングであり、コミュニケーションが交わされます。それが大事です。

過去3年、コロナ禍で教会の最も大事な要素であるミーティングとコミュニケーションが破壊された感がありました。全世界の教会が同じ状況でした。インターネットのやりとりでも十分に代用できると私個人は考えたことがありませんし、考えることができません。全く別物です。

そして「詩編と賛歌と霊的な歌によって神をほめたたえる」のが教会です。讃美歌を歌うことは教会の存在にかかわります。祈りを込めて共に歌う人々の具体的な交わりこそ教会の存在そのものであるという理解は、西暦1世紀から今日まで、なんと2千年以上も引き継がれています。

16節と17節についての説明を先にしました。12節以下に記されているのは、教会の中の具体的な人間関係のあり方についてです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と記されています。

これを読むと心配になる方がおられるとしたら、ご心配には及びませんと申し上げたいです。「身に着けなさい」と言われている「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」はすべて、イエス・キリストが持っておられます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されている」は、直前の11節の「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と結びつけて考えるべきです。

その意味は、キリストはすでにわたしたちの中におられるので、わたしたちがこれから無理をしてでも努力して得ようとする以前から、キリストの恵みはわたしたちの中へと注がれ、宿っているのであって、「身に着けなさい」と確かに言われているが、実際にはすでに身に着いているし、少なくとも身に着きはじめているので、「私には憐れみの心も慈愛も謙遜も柔和も寛容もないし、得ようと努力する忍耐もない」と嘆いたり卑下したりする必要は全くない、ということです。

この箇所で私にとって特に興味深く考えさせられたのは「憐れみの心」と訳されている言葉の意味です。カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])が興味深い解説をしていました。

バルトによると、「神の愛と神の恵みは数学的で機械的な関係ではなく、神の心の動きの中にその本来な場所と起源を持っている」のであり、「人格的な神は心を持っておられ、神は感情を持っておられ、心を動かされる」のであり、「他のものに対して、同情し、他のものの苦しみを助け、みずから身代わりとなるべく心を開き、用意し、進んでそのように心がけておられる」のであり、それが「神の憐れみ」の意味であるということです。

しかも、「憐れみの心」というギリシア語の言葉のヘブライ語の原意は「はらわた(内臓)」であるということを、バルトも書いています。聖書の神は、機械仕掛けの神(Deus ex machina)ではなく人格的(パーソナル)な存在であり、神は心を持ち、苦しんだり痛んだりする「はらわた(内臓)」を持ち、人間と世界を愛するために苦しむ方であるというのが「神の憐れみ」の意味だというのがバルトの説明です(Vgl. Karl Barth, Die Kirchliche Dogmatik, II/2, S. 416 f.)。

なるほどたしかに、私たちは人間ですから、どこまで行っても神になることもキリストになることもできません。神とキリストが持っておられる「憐れみの心」や「慈愛、謙遜、柔和、平和、寛容」を「身に着けなさい」とか言われても無理です。それはそのとおりです。しかし、それは「身に着ける」という言葉を自分の努力目標であるかのような意味でとらえるから出てくる反発や不安なのであり、実際の意味はそうではない、ということです。

すべてのもののうちにキリストがすでにおられ、わたしたちの中にもキリストはおられるのだから、意図的に猛然と拒否しないかぎり、「憐れみの心」はわたしたちの心の中に生まれ、育ち、わたしたちはそのようにして内部からつくり変えられているのだ、と信じてよいということです。ですから、「身に着けなさい」とは「すでに身に着きはじめているし、十分に身に着いて来ていることを感謝して受け取りなさい」という意味です。

今日の宣教題と今週の聖句として選んだ「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」も趣旨は同じです。この「愛」はイエス・キリスト自身であり、十字架において現わされた真実の犠牲の愛です。人間が生まれつき持っている情愛とは別物です。

「私には愛がない」と嘆くか、「あの人には愛がない」「あの教会には愛がない」と不満を言うか、どちらにせよその意味で14節をとらえ、完全な愛を身に着ける努力をしたり、「身に着けてください」と他人に要求することに用いてはいけません。むしろヨハネによる福音書13章34節のイエス・キリストの言葉を思い起こすべきです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

わたしたちはイエス・キリストに愛されているから、互いに愛し合うことができるようになるのです。すべてを完成させるきずなは、イエス・キリストの愛と憐れみの心(はらわた(内臓))です。わたしたちのために心を動かし、はらわたを痛め、苦しんでくださるほどにわたしたちを愛してくださったイエス・キリストの愛が、教会の一致と平和をもたらすきずなです。

(2023年9月17日 聖日礼拝)

2023年9月10日日曜日

十字架を背負う教会(2023年9月10日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)



讃美歌21 430番 とびらの外に

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「十字架を背負う教会」

ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

関口 康

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」

先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。

そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。

「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。

今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。

この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。

つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。

パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、それを食い止めなければならないということです。12節の「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのが、教会の分裂の原因です。この問題はガラテヤの信徒への手紙の始めから終わりまで一貫して取り上げられているものです。事件の経緯が比較的詳しく記されているのは2章ですので、ぜひお読みください。

そこに書かれていることを短く言えば、この手紙で「ケファ」と呼ばれている使徒ペトロまでがイエス・キリストの十字架の福音を信じて律法の束縛から全く解放されて自由になったはずのキリスト者にユダヤ教の割礼を受けさせようとする勢力に負けて妥協していることに、パウロが我慢できず、ペトロ本人に面と向かって抗議した、というのです。

教会の洗礼は「水」を用います。水はかけたら流れ落ちるだけで、からだに証拠は残りません。しかし、割礼はからだに傷をつけることですから、動かぬ証拠が残ります。旧約聖書に基づいているので権威が生じますし、いわゆる包茎手術と同じですので、相応の費用がかかったはずです。そういうことで優越感と主導権と実利を得ようとした人々がいました。

私の教会生活は生まれたときからなので、もうすぐ58年になります。24歳で伝道師になってからも33年目です。そのことで悩んだことまではありませんが、キリスト者であることについて、目に見える客観的な「証拠」や「しるし」を求める人々のニードに、何度となく接してきました。

揶揄したいわけではないので、具体例を挙げること自体に躊躇がありますが、何も言わないと分かりにくいので例を挙げます。たとえば、仏教や神道にあるような仏壇や神棚のようなものがキリスト教には無いのか、というようなニードです。あるいは、カトリック教会の人々が用いるロザリオやベールのようなものはあなたがた(日本キリスト教団はプロテスタントです)に無いのか、というようなニードです。「ありません」と答えると、とても残念がられました。

いま申し上げていることは、パウロが直面した問題と本質的に同じです。この手紙の5章6節に「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記されていることの意味は、わたしたちキリスト者には第三者の目に見える客観的な「しるし」や動かぬ「証拠」となる割礼のようなものは何も無いし、要らないし、有害無益なのであって、外側からは決して見えない心の中の信仰だけが必要である、ということです。

なぜそういうものが何も無いし、要らないし、有害無益なのかといえば、そのような「しるし」を持っているかどうかで争いが始まり、教会を分裂させるからです。それを持っている人たちは持っていない人たちを見下げてもよいと思い込んで威張り、押し付けたり売りつけたりしようとするからです。西暦1世紀の生まれたばかりの赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きの小さな教会の中で主導権争いが始まり、コップの中の嵐が起こり、教会が分裂して弱くなり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、教会本来の使命を果たすことができなくなるからです。

パウロは言います、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。

この言葉は正確に理解される必要があります。特に後半の「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」の意味は何かをよく考えることが大切です。

「はりつけにされる」の意味は、死ぬこと、または殺されることです。しかし、「この十字架によって」が「イエス・キリストの十字架」を指していることは明らかですので、イエス・キリストの十字架にわたしまではりつけにされるという意味ではありません。ここに書かれているとおり「世がわたしにはりつけにされている」のであり、「わたしが世にはりつけにされている」という意味です。その意味は、わたしと世とは「死んだ」関係であり、つまり「終わった」関係である、ということです。わたしが「世」のマナーやルールに従う理由はもはやない、ということです。

「世」とは現代の世俗社会(Secular society)よりも広い意味です。しかし、かなり近い意味です。教会の中にまで持ち込まれる「心の中の信仰」だけでは足りないとする、目に見える客観的な動かぬ「証拠」を見せつけてまで主導権争いをしようとする人の動きそのものが「世」です。

「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」とは、そのような争いとは一切手を切って生きる者に自分はされた、というパウロの信仰告白です。

パウロだけでしょうか。わたしたち「教会」もそうでなければならないのではないでしょうか。私が今日の宣教題に「教会」と付け加えたのは、そのことを申し上げたかったからです。

(2023年9月10日 聖日礼拝)

2023年8月27日日曜日

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 280番 馬槽の中に

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「栄光は主にあれ」

ローマの信徒への手紙14章1~10節

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

(2023年8月27日 聖日礼拝)