日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 510番 主よ終わりまで
「葛藤と隘路からの救い」
ローマの信徒への手紙7章7~25節
関口 康
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
今日の礼拝は昭島教会創立71周年記念礼拝です。長い間、献身的に教会を支えて来られた皆さまに心からお祝い申し上げます。
この喜ばしい記念礼拝の日にふさわしい宣教の言葉を述べるのは重い宿題です。私がその任を担うことがふさわしいと思えません。2018年4月から鈴木正三先生の後の副牧師になりました。そして2020年4月から石川献之助先生の後の主任牧師になるように言われました。2020年4月は、日本政府から「緊急事態宣言」が出され、当教会も同年4月から2か月間、各自自宅礼拝としました。また、教会学校と木曜日の聖書に学び祈る会は3か月休会しました。そのときから3年半しか経っていません。
3年間、教会から以前のような交わりが失われました。なんとかしなくてはと、苦肉の策でインターネットを利用することを役員会で決めて実行したら「インターネットに特化した牧師」という異名をいただきました。申し訳ないほど「私」の話が多くなってしまうのは、3年間、家庭訪問すらできず、皆さんに近づくことがきわめて困難で、皆さんのことがいまだにほとんど分からないままだからです。
日本語版がみすず書房から1991年に出版されたアメリカの宗教社会学者ロバート・ベラ―(1927~2013年)の『心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ』で著者ベラーが《記憶の共同体》という言葉を用いたのを受けて、日本のキリスト教界でも特に2000年代にこの言葉を用いて盛んに議論されていたことを思い起こします。この言葉の用い方としては、個人主義、とりわけミーイズム(自己中心主義)に抵抗する仕方で「教会は《記憶の共同体》であるべきだ」というわけです。
なぜ今その話をするのかといえば、昭島教会の現在の主任牧師は、残念なことに《記憶の共同体》としての昭島教会の皆さんとの交わりの記憶を共有していないし、共有することがきわめて困難な状況が続いていると申し上げたいからです。この状態が長く続くことは決して良いことではないと、本人が自覚しています。不健全な状況を早く終わらせる必要があると考え、そのために努力しています。
教会はルールブックで運営されるものではありません。ルール無用の無法地帯ではありませんが、それ以上に大切なのは、教会の皆さんが共有しておられる「記憶」です。「記憶」が大切だからこそ、今日のこの礼拝が「昭島教会創立71周年記念礼拝」であることの意味があります。
今日開いた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙7章7節から25節です。理解するのが難しい箇所だと多くの方がおっしゃいます。私もそのことに同意します。しかし、この箇所を読むときの大前提が、読む人によって違っている場合が多くあります。特に重要な問題点を2つ挙げます。
第1に、この箇所に繰り返し出てくる「わたし」は誰のことかという問題です。7章だけで「わたし」が45回出てきます。シンプルに考えれば、この手紙は使徒パウロが書いたので、その中に「わたし」と単数形で書かれている以上、パウロ自身のことを指しているに違いないと言えなくはありません。しかし、そうなると、わたしたちがこの箇所を読む場合、これはあくまで《パウロの自叙伝》であるととらえて読む必要があることになります。伝統的にはそう読まれてきました。たとえば、オリゲネス、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンがそう読みました。しかし、それで本当に正しいでしょうか。
第2は、いま申し上げた第一の問題と深い関係にあります。それは、この箇所で「わたし」は明らかに自分の心の中に潜む罪の問題で葛藤していますが、この葛藤はイエス・キリストを信じて救われる《以前の「わたし」》つまり《過去の「わたし」》の心の状態を描いたものであり、イエス・キリストを信じて救われた後はこの葛藤から全く解放され、罪の問題について悩むことも苦しむことも無くなる、という理解があるが、その読み方で正しいかという問題です。
第一の問題と第二の問題の関係性を言うなら、パウロが自叙伝として「わたし」が過去に属していたユダヤ教ファリサイ派からイエス・キリストを信じて救われたときに彼の中に内在していた罪の問題が解決し、葛藤が無くなったことを述べることがこの箇所に記されていることの趣旨であるということになるとしたら、先ほど挙げた2つの問題の読み方のどちらも正しいということになります。
しかし、結論だけ言いますと、今日的には、どちらの読み方も支持できません。それは聖書の解釈上の問題でもありますが、わたしたち自身に当てはめて考えてみれば理解できることだと思われます。
「律法は罪だろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければわたしは罪を知らなかったでしょう」(7節)とパウロが記していることの趣旨は、先ほど「教会はルールブックで運営されるものではないが、ルール無用の無法地帯でもない」と申し上げたことと関係します。「律法」は「法律」の字並びを逆さまにしただけで、英語では同じLaw(ロー)です。法律の存在そのものが罪であることはありません。しかし、律法にせよ法律にせよ、「法」の役割は私たち人間に、そのルールに従うことができない自分の罪や弱さや欠けを否応なしに自覚させることにあることは、わたしたちの体験上の事実でしょう。「法」の存在がわたしたち人間にとって究極的な意味の「救い」をもたらすことはなく、むしろ、ダメな自分をさらされ、それを直視することを求められるだけです。
しかも、法律の順序を逆さまにして「律法」という場合、その意味することは「神の言葉」であり、なおかつ「神を信じる者たちが従うべき教え」なので、個人的なものではなく、共同体が共有するときこそ意味を持ちます。「律法」は個人のルールブックではなく教会のルールブックだということです。そもそも誰ともかかわりを持たない完全な個人は存在しませんが、自室でひとりでいるときにルールは不要かもしれません。他の誰かとかかわりを持つときに初めてルールが必要になります。
しかし、それが先ほど第二の問題として挙げた、今日の箇所の「わたし」の葛藤はイエス・キリストを信じて救われるよりも前の、過去の「わたし」であると、もしわたしたちが読んでしまうと、共同体としてのキリスト教会は、ルール無用の無法地帯であるかのようになってしまいます。キリスト教会は律法主義には反対しますが、律法そのものを除外することはありませんし、あってはなりません。
そして、もうひとつ、今日の箇所の葛藤する「わたし」、なかでも特に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(24節)という悲痛な叫びは、あくまでも未信者だった頃の、あるいは他の教えに従っていた頃の過去のわたしであって、今は違うということになるとしたら、キリスト者にはこの葛藤は無いのかと問われたときにどのように答えるかの問題になります。キリスト者は「惨めな人間」ではなくなるのでしょうか。それはわたしたち自身がよく知っていることだと思います。
今日の宣教題を「葛藤と隘路からの救い」としましたが、救いはイエス・キリストへの信仰によってすべて成就され、今はもはや悩みも苦しみも無いと申し上げるためではありません。隘路(あいろ)は「狭くて通るのが難しい道」のことです。今のわたしたち自身が、昭島教会が「葛藤と隘路」の只中にいると申し上げたいのです。その中からの「救い」のために必要なのは、コロナ禍の3年間で失われた教会の交わりの回復と、《記憶の共同体》としての教会が再興されることだと、私は信じます。
教会の交わりの回復の第一歩として今日はこれから聖餐式を行います。今後の課題として、愛餐会、シメオン・ドルカス会、読書会や勉強会を取り戻すことを役員会で検討しています。
(2023年11月5日 昭島教会創立71周年記念礼拝)