日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 412番 昔 主イエスの
「悩みも多いが楽しく生きる」
ローマの信徒への手紙8章18~30節
関口 康
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)とあります。「現在の苦しみ」の「現在」は、時間的な「今」を指しているだけではありません。神が天地万物を創造された日から、真の救い主イエス・キリストが再臨されて、世界が完成する終末までのすべての時間を指して「現在」とパウロは記しています。
しかし、今のわたしたちも、いまだイエス・キリストの再臨の日を迎えていませんので、二千年前のパウロの「現在」と同じ意味の「現在」の「苦しみ」を、わたしたちも味わっていると言えます。その「現在の苦しみ」が「取るに足りない」すなわち「大したことはない」と思える日が来るというのが、今日の箇所の趣旨です。しかし、「現在の苦しみ」が「取るに足りない」と言われると、将来は苦しくなくなるという意味なのか、それとも、もっと苦しくなるという意味なのかと考えてしまいます。
結論を言えば、両方の意味です。今より負担が大きくなり、もっと苦しくなります。しかし、それに耐えられるだけの意味や楽しみがあることを理解させていただけるので、「苦しいけれども苦しくない」という境地に達しうるという線で理解して大丈夫です。「悩みも多いが楽しく生きられるようになる」という線です。
「被造物は虚無に服しています」(20節)は、旧約聖書のコヘレトの言葉に通じます。口語訳聖書で「空の空、空の空、一切は空である」、新共同訳聖書で「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と記されているあの書物です。私が愛用するローマ書の註解書(著者レカーカーカー)に「ローマ8章20節はコヘレトの言葉の註解である」と記されていました。
「被造物」は「被選挙権」などで用いるのと同じ「被」を用いて「神によって造られたもの(物・者)」を表現しますので、当然「人間」を含みます。神が造られた被造物が、なぜ「虚無」に服しているのかは、常に大きな謎です。なぜなら、そうなるとまるで、神は人間を含む被造物を造りっぱなしで、管理責任も監督責任も負わず、放置しておられるかのようだからです。
神の支配力が弱い、とも言えます。旧約聖書の創世記によれば、神が最初に造られた人間アダムに「善悪の知識の木からは決して食べてはならない」と、神はただ言葉で禁じただけで、それは抑止力にならず、アダムは木の実を食べました。本当に食べてはいけないなら最初から神がその木を造らなければよかったし、近づけないように柵を設けておけばよかったのに、と言いたくなる出来事です。
しかしそれは、神が人間の主体性と自由を尊重してくださったことの証拠です。神は人間を奴隷にしたくないのです。被造物に干渉し、根掘り葉掘り情報を聞き出して、心配しているのか監視しているだけか分からない接触を取り続ける、かまってくれる、支配という名の過干渉の神ではありません。
それを「温かい」と感じるか「冷たい」と感じるかは、各自の感覚の問題です。しかし、「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志による」(19節)は“神が被造物を虚無に服させた”という意味なので、神は本気で被造物を突き放されたと考えるほうがよさそうです。いつまでも依存して甘えないでいるように。自分で判断することを怠らないように。
“神が被造物を虚無に服させた”からこそ「同時に希望も持っています」(28節)という命題が成立します。「虚無」は数字で言えばゼロです。数学だとゼロ以下はマイナスですが、会計帳簿ならば赤字なので、どこかから借りられなければ終わりなのが「虚無」です。それが「同時に希望も持っている」というのは愉快です。虚無(ゼロ)より下は無いので、上を見上げて生きるしかないということです。
「被造物がすべて、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(22節)の「うめき」や「産みの苦しみ」の直接の意味は、母親が子どもを出産するときに上げる声や、そのとき味わう陣痛です。女性にしか体験できないことだとも言えますが、もう少し広い意味で比喩的にとらえることも可能です。
はっきりしているのは「うめき」も「苦しみ」も否定的な意味であるということです。自分の側から買って出るのは自虐です。なるべく避けたいのがうめきや苦しみです。パウロが記している「うめき」という言葉にも否定的な意味の「ためいき」や「嘆き」というニュアンスが含まれます。
しかし、どのような意味やニュアンスで理解するにせよ、共通していなくてはならない要素は、その陣痛のうめきや苦しみを経た後に、それまで見たことも触ったこともなかった新しい存在が生まれ、そこから新しい何かが始まるという希望につながるので、その希望ゆえに苦しみに耐えられるということです。目標が大きいほど苦しみは大きいのですが、その苦しみを経て産まれる存在への期待ゆえに苦しみに堪えることができるということです。
新しい存在とは何かといえば、パウロの確信によれば、真の救い主イエス・キリストの贖いのみわざを通して生み出された「わたしたち」すなわちキリスト教会の存在です。加えて、イエス・キリストが再び来られる終末的完成をめざして歩む新しい信仰告白が与えられた世界の存在です。
その新しい存在の誕生を、希望をもって待ち望んでいる存在が今日の箇所に3つ示されています。第1が「被造物」(19節)。第2は「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」(23節)。キリスト者のことだと言ってよいでしょう。そして第3は「“霊”」(26節)です。
「“霊”」(26節)については「待ち望んでいる」ではなく「助けてくださる」と記されていますが、意味は同じです。そして新共同訳聖書で二重引用符が付いている「“霊”」は「聖霊」です。聖霊なる神です。
被造物とキリスト者と聖霊なる神が、陣痛とうめき声をあげて何を待ち望んでいるのかは、先ほど言いました。キリスト教会の存在であり、かつ終末的完成を目指す世界の存在です。しかし、いずれにせよ、それらは将来に属することを少なくとも含みます。それは、今ここにいるわたしたちも見ることができない将来の教会と世界です。そのためにわたしたちは苦労しているのです。教会も、幼稚園も、キリスト教主義学校も、何十年後、何百年後の教会と世界の将来を待ち望みながら働くのです。
これも私の愛用註解書(著者レカーカーカー)のことですが、8章26節「私たちはどう祈るべきかを知らない」の解説にルターの言葉が引用されていました。愉快な内容でしたので紹介します。わたしたちの祈りが必ずしも聞かれず、願い通りにならないことの理由をルターが述べている言葉です。
「ルターが次のように述べています。『私たちが祈っているとき、明らかに反対のことが起こるのは最良のしるしです。それは私たちが祈った後、すべて計画通りに進むのが良い兆候ではないのと同様です。まるで神は私たちのすべての考えに反対し、私たちが祈る前よりも後のほうが、さらに私たちに対して怒っておられるように感じます。神は私たちに贈り物を与える前に、まず私たちの内にあるものをお壊しになる性分をお持ちなのです』」(Vgl. A. F. N. Lekkerkerker, Romeinen 1, 1962, p.350)
神の怒りを買いながら、神の御心がどこにあるかを探り求めながら祈ることの大切さを、ルターが教えてくれています。“自分の願い通りにならないことのほうが良い”ことだってあるのです。
(2023年11月19日 聖日礼拝)